2014年創世記第23講  
                             
夢見るヨセフ

御言葉:創世記37−38章
要 節:創世記37:9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。

 皆さんは、何か夢をもっていますか。それともただなんとなく生きていますか。あるいは、考え中ですか。私が職場で生徒たちに聞いてみると「考え中です。」と答えるが人が意外に多くいますね。
今日から学ぶヨセフは夢見る人でした。彼はどんな夢を持っていたでしょうか。その夢はどのようにして実現されて行ったでしょうか。聖書に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言16:9、新共同訳)」とあります。計画するということは夢見ることでもあります。私たちが夢を持っているだけでも、主は私たちの一歩一歩を備えてくださるのです。私たちはヨセフの生涯を通してそのことを学ぶことができます。
この時間はヨセフ生涯の初期段階で彼が夢を見たこと、それによって試練の場に追い出されるようになったことを学びました。またそのころのこととしてイエス・キリストの先祖となるユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを学びます。
ここで、私たちはヨセフの生き方、救いの計画を進められる神様の働きを学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して夢見るヨセフを学び、哀れみ深い神様の救いのご計画を学ぶことができるように祈ります。

37章1,2節をご覧下さい。「ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。」とあります。
先週まで私たちはアブラハム、イサク、ヤコブの神様を学びました。ついに創世記の中心人物の最後の人であるヨセフを学びます。ところが、創世記の著者は「これはヤコブの歴史である。」と書いてあります。なぜでしょうか。それはヤコブの後半部の生涯がヨセフの生涯と不可欠な関係があるからだと思います。つまり、ヨセフはアブラハム、イサク、ヤコブのように神様に選ばれた族長ではありません。族長時代の最後の人物であるヤコブの子どもです。そこでヤコブの歴史の中に中心人物であるヨセフの生涯が紹介されているのです。
 そしてヨセフの生涯も十七歳のときから紹介されています。彼は兄たちとともに羊の群れを飼っていました。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいました。ビルハとジルパは父の妻であっても奴隷だった人たちです。その奴隷から生まれた兄たちの悪いうわさを父に告げました。どんな内容を告げたのかは分かりません。確かなことは良い話ではなく兄弟たちの悪いうわさを告げたことです。それが兄たちに知らされると兄たちの気持ちを良くありませんでした。ヨセフが嫌になったでしょう。結局、ヨセフは兄達から憎まれるようになりました。その上にヨセフはヤコブの年寄り子です。父から最も愛されました。それは父の偏愛でした。ただ父親からヨセフのことを考えてみると彼にはこのような愛が必要でした。ヨセフの母親ラケルは早く死んだからです。でも父の偏愛は子どもたちの不和の火種になりました。腹違いの兄たちには理解できません。兄たちはヨセフを憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。
さらに、兄達がますますヨセフを憎むようになったことが起こりました。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げました。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」この夢はヨセフが兄弟たちを支配するようになることを意味します。ヨセフにとっては嬉しい夢です。しかし、兄達にとっては嫌な夢です。腹が立つ夢でした。ところが、ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話しました。「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」。今度の夢は兄達だけではなく父と母も彼を拝む内容でした。ヨセフがイスラエルのすべてを支配することを意味します。父ヤコブにとってもあまり好ましい夢ではありません。父は彼をしかって「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と言いました。でも、父は兄たちとは違いました。兄弟たちはヨセフをねたみましたが、父はこのことを心に留めていました。自分も石を枕にして横になった時に見た夢を通して神様に出会い、ベテルまで守まれ、導かれ、祝福されことを経験したからでしょう。
以上で私たちは兄たちとヨセフの考え方の違いを発見することができます。兄たちは父の偏愛ぶりを見てヨセフを憎みました。ヨセフの告げ口、ヨセフの高慢な態度を見たので、彼らはますますヨセフを憎みました。しかし、ヨセフは兄たちの心を見ないで夢を見ました。それはある意味では空気を読めない人の態度です。でも青年の時に夢を見ることはとても大切です。特に、自分が心に抱く野望としての夢ではなく、神様が心に示しておられるご計画としての夢を見るのことです。特に若い時に夢を見る、夢を持つということはとても大切です。これまで、この世界は夢を見た青年によって支配されて来ました。
1800年代後半、ライト兄弟は人類が金属の翼で空を飛ぶ姿を夢見ました。十年後の1903年12月17日、ライト兄弟の飛行機がノースキャロライナの砂浜で初飛行しました。1940年、ビリー・グラハムと仲間の数人の大学生が集まって、神様から遠く離れた人々に福音を伝えるために、世界中のスタジアムをいっぱいにすることを夢見ました。資料によると、彼らは2億1千5百万人の人々に福音を直接伝えました。そして十億以上の人々に、テレビやラジオを通して福音を語ったのです。
1960年代、私たちUBF先輩たちは使徒の働き1章8節を通して地の果てにまで行って世界のキャンパスに福音を伝える世界宣教を夢見ました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
その頃、韓国は朝鮮戦争が終わったばかりでとても荒廃していました。一人当たり国民所得(GNI))は80$にすぎませんでした。先進国の援助を受けなければ国の維持ができないほどでした。若者たちはなかなか夢を見ることができずさまよっていました。しかし、故李サムエル宣教師を始め、UBF先輩たちは夢見ていました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、韓国のキャンパスに福音を伝えることは軽いことであって全世界の大学生たちに福音を伝え、救うことができる」という夢を見ていたのです。その夢のためにある先輩は看護師、ある先輩は新聞配達員、ある先輩は留学生、大使館の運転手になって宣教師として世界に出て行きました。事実、まだ後進国であった韓国の青年が、労働のアルバイトをし、勉強しながら宣教をすることは至難のわざでした。でも先輩たちは夢を持っていたから世界の国々に遣わされて福音を宣べ伝えました。今は98か国に宣教師たちが遣わされています。その国々で数多くの大学生たち福音を伝え、救うみわざのために用いられています。ヨセフはエジプトで総理大臣になりますが、世界中の大学で教授として働く宣教師や牧者も多くなって来ました。多くの方が宣教地で弁護士、医者、外交官、事業家としてリーダー的な役割を果たしています。
神様を信じている人が夢を持ち続ける時、神様はその夢が実現するように助けてくださいます。ヨセフは少年の時から夢を持っていたゆえにその後の人生は主が一歩一歩を備えてくださいました。私たちも目先のことだけを見ないで10年、20年後のことを考えながら夢を持つことができるように祈ります。2041年までにこの国の47都道府県のキャンパスに聖書先生、牧者たちが立てられること、アジア47か国に宣教師を派遣する夢を持ち続けて祈りましょう。ヨセフは夢を持っていましたが、この夢が実現するためには神様の訓練も必要でした。そこで神様はヨセフが試練の場に追い出されて行くことを赦されます。
 37章12節〜28節までの御言葉はヨセフが訓練の場、試練の場に追い出される場面です。
ヨセフは父から兄さんたちが羊の群れを飼っているシェケムに行って来ることを頼まれました。ヘブロンからシェケムまでは70キロも離れています。歩いて行くと二日間もかかる距離です。私は子どもの頃、父親から「タバコを買って来なさい」と言われた時、ただ700m位離れた所でも嫌がっていた記憶があります。ヨセフは70キロも離れている所であっても「はい。まいります。」と答えていました。答えただけではありません。ヨセフはヘブロンからシェケムまで行きました。ところがシェケムまで行ってみると、兄達はいませんでした。そこにいる人の聞いてみるとそこからドタンのほうへ行ったことがわかりました。兄たちは良い牧草地を求めながらドタンまで行ってしまったのです。ドタンはそこから24キロも離れた所です。一日も歩いて行かなければならない距離です。こうなると諦めたくなるでしょう。特に穏やかな話もできない兄たちのためにもう一日も歩いて行くことは嫌でしょう。そのまま家に帰ることもできました。しかし、ヨセフはドタンまで行きました。
ここでヨセフの生き方も学ぶことができます。彼には父への従順と尊敬がありました。任されたことに対する責任感と忠実さがありました。ヨセフは父かたら頼まれたことに対して素直に答え、その目的を達成するまで忠実に行ないました。仕事も勉強も焦らずコツコツが大切であると言われます。彼は適当にやってしまうのではなく、小さいことにも忠実な人だったのです。こういう生き方で生活して行ったので彼は後に異国の地エジプトでも総理大臣になって行きます。小さな事に忠実であった時、大きなことにも忠実な人になり、大きなみわざにも用いられるようになったのです。ではドタンまで行ったヨセフを迎える兄たちの態度はどうでしたか。
18節をご覧ください。「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうと企んだ。」とあります。普通の兄だったら、はるかかなたに弟が見えると走って行って迎えることでしょう。そんなに遠くまで探しに来た弟を喜んで迎えてくれたはずです。ところが兄たちは弟を殺そうと企みました。憎しみはついに殺人に発展しました。ただ、長兄のルベンはこれを聞き、彼らの手からヨセフを救い出そうとしました。それでルベンは兄弟たちにヨセフを荒野のこの穴に投げ込みなさいと言いました。結局、ヨセフが兄たちの所に来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込みました。不幸中の幸いに、穴の中に水がなかったのですが、兄たちが食事をイシュマエル人の商人が来ました。そこでユダの提案があってヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚で売りました。結局、ヨセフは兄さんたちに踏みつけられて、エジプトに奴隷に売られました。来週学びますが、エジプトではヨセフが大変な試練に遭い、過酷な訓練を受けるようになります。
でも、ヤコブはそれらのことを知らずにヨセフの兄たちから騙されます。兄たちはヨセフが悪い獣にやられたかのように父を騙したからです。愛する息子を失ったヤコブは幾日もの間、その子のために泣き悲しみました。
ヤコブのヨセフへの偏愛は他の子どもたちに憎しみを呼び起こし、自分にも悲しみをもたらしました。ヨセフの兄たちも一生罪悪感にさいなまれるようになります。ところがここにも見えない神様の摂理がありました。もしヨセフが父の家でいたなら彼の夢は果たされなかったでしょう。神様は彼に指導者となる夢を与え、それを実現させるために温室のような家から荒野に連れ出して訓練されました。この訓練はわしの訓練でした。鷲は自分子を翼に乗せて高いところから落とすそうです。するとわしの子は必死に翼をばたばたします。そうして地面に落ちて死ぬ直前に親のわしは翼で受け取ってくれるそうです。このような訓練を繰り返すと後には翼が強くなり力強く空を飛ぶ鳥の王子になります。霊的な指導者になるためにも多くの訓練が必要です。
以上で私たちはヨセフから二つのことを学ぶことができると思います。
一つ目は人の憎しみを見ないで夢を見て生きていたことです。ヨセフの兄たちは父ヤコブの偏愛を見ました。ヨセフが母親を早く亡くしていたことは考えず、父親から愛されていること、長服を買ってもらっていることを見て彼を憎みました。弟が夢を話しますとそれを可愛がってあげるのではなく、それを妬み、殺そうとしました。その結果、弟を穴に投げ込み、そこから出して売ってしまいました。その後、罪悪感、罪意識に苦しみます。しかし、ヨセフは夢を見ていました。だから兄たちから憎まれても彼らを憎まず、親切に仕えました。兄たちの悪に対して悪を持って仕返しするのではなく、父の言葉に忠実に従い、自分がやるべきことを忠実にやって行く生活をしていました。ヨセフが兄たちと同じように考えていたならいろんな場面で兄たちにつぶやき、仕返しを計画して行ったと思いますが一言も文句を言わず、自分に与えられたことを忠実に行なっていたのです。それは夢を見ていたからだともいます。
二つ目は夢を見ている人に試練も伴われることです。ヨセフに夢がなかったら兄たちからの虐めもあれほどひどくなかったでしょう。ヨセフに夢が持ち、その夢を兄たちに話したからこそもっとひどく虐められました。ついに、売られて奴隷になって行きました。そこでもさまざまな試練に遭います。このように、私たちが夢を持っていてその夢が実現されるまでは自分の十字架を負い、訓練も受けれらることを覚悟しなければなりません。私たちは夢を持っていてその夢の実現のためにどんな苦難も受ける覚悟をしなければならないのです。そして、私たちが夢を持ち、その夢のために自分の十字架を負うこと、苦難を受けることも覚悟するなら神様がそれに耐える力も、試練に打ち勝つ力も与えてくださいます。私たちの一歩一歩を備えてくださいます。その神様の導きによって私たちの夢は実現され、私たちもヨセフのように神様に用いられるようになります。

38章はユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを言っています。38章を読んでみると、ユダは嫁であるタマルと寝て子供を産んだことが書いてあります。何でこんな汚い話がヤコブの歴史、美しいヨセフの話の中に出て来たでしょうか。それを理解するのは難しいです。ただ、マタイ1:3に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されてあります。ユダはイエス様の系図に出るほど大切な人物であることが分かります。そして、彼も生まれ変わる前には淫らな人であり、約束を守らない不真実な人であったことも分かります。遊女の格好していた嫁と寝て二人の子どもを産んだのです。そんな彼が悔い改めた時にイエス様の系図に出るようになったのです。それは一方的な神様の恵みです。私たちもユダのように生まれながらにしてのろいの子でした。しかし、今や、私達は怒りの子でもなければ、滅びの子でもありません。主イエス・キリストによっていっさいの古きものは葬られ、彼とともによみがえされたのです(コロサイ3:1)。これが恵みの世界です。これが福音の世界です。

そういうわけで、私たちも恵みの世界に生きています。自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストの十字架による赦しと救いを信じることによって救われています。イエス・キリストの系図に載せられる人になっています。「いのちの書」に名前が記されている人間なのです。だから、イエス・キリストは世の終わりまでいつも私たちのともにいてくださいます。どうか、今週も主の一方的な恵みに感謝し、主とともに歩んで行きますように祈ります。