2014年創世記第22講                                            
べテルに上って行こう

御言葉:創世記34:1−36:43
要 節:創世記35:3「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

今日は父の日(一家を支えてくれる父親に感謝する日)です。昨日、ブドウの木フェローシップではお父さんたちのために手巻き寿司を用意していましたが素晴らしいですね。父親である方たちにお祝いを申し上げます。私も父親のひとりですが、それよりも自分の父親が思い出されます。ほんとうに一家を支えてくれる父親でしたが、私はあまり親への感謝の表現がよくできませんでした。皆さん、両親が生きている間によく感謝することをお勧めします。私たちクリスチャンは天国でも会えますが、この地にいる間も父母を敬うことは神様から与えられた戒めです。
今日の御言葉は、神様が娘と息子たちのことで困っている父親を助けてくださった出来事です。ヤコブは一家を支える父親です。でも、まだ子どもたちから尊敬されていなかったようです。子どもたちは自分勝手に行動して父親を悩ませ、困らせました。娘が性的暴行を受け、息子たちが住民の男たちを殺した事件が起こったのです。それはヤコブがベテルまで行かずシェケムに留まっていたから起こった問題でもありました。ところが、憐れみ深い神様はそんなヤコブでも助けてくださいます。では神様は困っているヤコブをどのように助けてくださったでしょうか。ここで、私たちは困っている時はどうするべきか、自分の力では解決できないような問題に対してどうすればいいのかと言うことについて学ぶことができます。

34章1節をご覧ください。「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。」とあります。ディナは、13歳から15歳の少女だったと考えられています。好奇心の旺盛な年頃でしょう。彼女はその土地の娘たちを訪ねようとして出かけました。多分祭りの時であったと思います。カーニバルベイビーという言葉がありますが、クリスチャンはいつも敬虔に生きるために注意しなければなりません。ところがシェケムに留まっていたヤコブの家庭が敬虔さにおいて緊張していなかったようです。箴言4章4,5節を見ると「悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。」とあります。ディナは悪者どもの道にはいってしまいました。結局、少女のふとした好奇心がとんでもない災禍をもたらすことになります。ディナが出かけるとその土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムに見られました。シェケムはディナを見て、これを捕らえ、これと寝てはずかしめました。つまり、ディナは性的暴行を受けたのです。ただシェケムはディナを愛していました。聖書に「心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。」とあります。シェケムはその愛のゆえに、父のハモルに「この女の人を私の妻にもらってください。」とお願いしました。いわゆる、できちゃった結婚を求めたのです。この事態がヤコブとヤコブの息子たちに知らされました。その時にヤコブと息子たちの反応はどうでしたか。
5-7節をご覧ください。ヤコブはシェケムが自分の娘を汚したことを聞きましたが息子たちが帰って来るまで黙っていました。なぜヤコブは黙っていたでしょうか。それはあまりにも大きい悲しみと痛み、あまりにも恥ずかしいことなので人に言えない恥の沈黙だったでしょう。しかし、ヤコブの息子たちはディナのことを聞いた時、心を痛めるだけではなく、ひどく怒りました。シェケムが妹のディナと寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからです。事実、シェケムの人々ができちゃった結婚をしていても神様を信じている人々には許されないことでした。倫理意識が低いシェケムでは許されていたようでハモルはシェケムがディナを恋い慕っているから互いに縁を結びましょうと言いました。しかし、ヤコブの子どもたちには許せるような問題ではありませんでした。ヤコブの息子たちには理解できないことでした。そこで彼らはシェケムとその父ハモルに答えるとき、悪巧みをたくらみました。結婚によって一つの民になりましょうと言って若者たちに割礼を求めました。すると、町の門に出入りする者はみな、割礼を受けました。ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けたのです。割礼を受けることは包茎手術をすることだから傷つけることになります。そして、手術の日だけではなく、傷が直りまで痛みが続けます。ところが、包茎手術する人は三日目になると一番傷が痛むそうです。ヤコブの息子たちは割礼を受けているからそれを知っていて悪巧みをたくらんでいました。しかし、ハモルの息子たちがそれを知りません。割礼を受けてちょうど三日目になるともっと痛くなることを感じるだけです。ところが、ヤコブの息子たちは彼らを攻撃しました。特にヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺しました。その結果、ヤコブはどうなりましたか。
30,31節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」」とあります。ヤコブは困ってしまいました。黙っていた娘の恥がみんなに知らされるようになりました。カナン人とペリジ人からは憎まれ者になってしまいました。その上、ヤコブの家族は少人数しかいません。シェケムの住民がヤコブを攻め、打つなら、ヤコブだけではなく、彼の家族も根絶やしにされます。悪巧みを企んで復讐をした息子たちを非難し、責めることもできません。性的暴行は神の民イスラエルにとって汚れた行為であり、恥ずべきことだからです。敬虔なイスラエル人にとって決してしてはならないことです。そのことをした者は神様の裁きを受けて殺されねばならないのです。そういう意味で息子たちの復讐は当然のことなのです。このような状況でヤコブはどうしたらいいでしょうか。あれもこれもできない状態です。全く解決策が見えません。ほんとうに困ったものです。神様はそんな彼をどのように助けてくださいましたか。
35章1節をご一緒に読んでみましょう。「神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたの兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」ヤコブは娘が受けた性的暴行、住民の復讐のことで困っているのにそれに対する具体的な解決策は何も言われませんでした。「乱暴な子どもたちを注意しなさい」と言うことでもなく、シェケムの人たちと戦う秘訣を教えたのでもありません。直面している問題に対しては何も言われませんでした。ただ、霊的方向を与えてくださいました。神様はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」と命じられたのです。「立ち帰れ。」と言うことです。どうしてでしょうか。
それは目に見える現実的なことよりも神様との関係性の回復が最も大切であるからでしょう。特にベテルはヤコブが初めて神様と出会ったところです。夢の中で神様を体験したところです。そこで神様は「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。(28:15)」と約束してくださいました。そこでヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました。ヤコブはベテルで神様と出会い、約束の御言葉をいただいて神様との関係性を結んでいたのです。その約束の御言葉を堅く信じてベテルまで行くべきでした。ところが、彼はシェケムに留まりました。神様の御言葉を思い出すこともなく、シェケムの人々と交わっていました。シェケムの族長から信頼されることを喜び、彼らと調子を合わせていました。34章を読んでみるとシェケムでの生活の中に「神、主」と言う言葉が出て来ません。彼はシェケムの人々と調子を合わせながら熱くも冷たくもない信仰生活をしていました。神様を信じている者としての敬虔さも、父親としての霊的権威も失いつつありました。娘が異邦人と交わることも注意することができなくなっていました。その結果、一人娘のディナが性的暴力を受ける事件が起こってしまいました。それは言葉で言い表せないほどの苦しみであったでしょう。さらに息子たちの復讐によって町の人々を殺すことになりました。自分の力では何もできないことが起こり続けて困っていました。神様はそんな彼にまず霊的な方向を与えてくださったのです。最も優先的に必要なのが神様との関係性を回復であったからです。そこで神様が彼に現れたベテルに立ち帰って自分に現れた神様に祭壇を築くように助けてくださいました。つまり、現実生活に妥協していたことを悔い改めて神様に誓った誓願を果たし、神様に礼拝する方向を与えてくださいました。初めて神様と出会ったベテルに上って行って神様から与えられた約束の御言葉を思いだし、それをつかんで生きるように助けてくださったのです。
28章20-22節を見るとヤコブは誓願を立てて言いました。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る十分の一を必ずささげます。」と誓っていたのです。神様はその誓願の祈りを聞かれ、彼の人生を豊かに祝福してくださいました。彼の旅路を守ってくださいました。彼に食べるパンと着る着物を賜っただけではありません。神様は彼の人生を何百倍も祝福してくださいました。多くの子どもたちを与え、財産を持たせてくださいました。ですから、ヤコブも神様のように、神様との約束を守らなければなりません。つまり、シェケムから離れてベテルに上り、そこに住んで神様との関係を回復して誓願を果たさなければならないのです。それは神様との関係性が良くなると親子関係も、人間関係も良くなるからです。
私たちもヤコブのようにシェケムのようなこの世で生活しながらさまざまな試練に遭います。ヤコブのように子どもたちのことで悩まされる時があるでしょう。子どもたちのわがまま、自分勝手な行動のために悩まされ、苦しむ時もあります。自分の過ちもあるから強く注意することもできず困ってしまう時もあります。子どものことだけではなく、自分の力ではどうしようもない問題のために困ってしまう時があります。そういう時に私たちに求められることは第一にベテル(神の家)に上り、神様と交わることです。初めて神様と出会った時の御言葉を思い出して信じ、それをつかんで行くことです。神様の御前に決断したことを守ることです。そのために時に神様と出会った最初のところに行く必要もあります。地理的には移動ができなくても最初に出会った時の御言葉を思い出して信じることです。つまり、神の家である教会に来て神様と交わる祈りをしなければならないのです。エレミヤ書29書12,13節を見ると「あなたがたが私を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」とあります。私たちがほんとうに困っている時でも神様に祈り求めるなら神様が聞いてくださるし、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちが神様と出会ったその時の心を回復して礼拝して行くうちに、全能の神様の愛と力を体験して行くことができます。
私も生活の中で困っている時があります。職場では中間管理者として校長と先生の間、時には校長とPTA の間でどうすればいいのか分からなくて困る時があります。子ども教育においても叱っていいのか、黙っていた方がいいのかよ分からなくて困る時もあります。でも、毎日夜明けに教会に上り、神様に祈って行くうちにさまざまな問題が解決されて行くことを何度も体験して来ました。
 ういう意味では、私たちが日々心を新たにして神の家に立ち帰ること、神様と交る祈りと礼拝はとても大切です。特に何か問題が生じたならば、自分の感情や知恵に引っ張られるのではなくて、まずは、神様の御前に出て行くことです。そして神様の御声に聞き従っていくことです。神様に真に心を寄せる歩みをして行くのです。ではヤコブは神様の命令に対してどのように反応しましたか。
2、3節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」素晴らしい場面です。ヤコブは、即座に行動に移しました。彼は、家族と自分と一緒にいるすべての者が身につけている異国の神々、つまり、偶像とかお守りの一切を取り去るように命じます。多くの神々の一つとしてイスラエルの神、主を崇めるのではなく、ただ主なる神様だけを神として崇めるためです。そうではなかった時に、ヤコブは自分たちのあり方に、現在の困難があったことを知ったからです。
 そのヤコブの言葉を聴いて、彼の家族と一行は、「異国のすべての神々と、身につけていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木下に埋め」ました。つまり、これまでの多神教的な信仰を完全に捨て去ったのです。自分が神様よりも大切にして拝み、楽しんでいたものを捨てました。その上で、彼らはベテルに向かって出発しました。神様の御言葉に応えて悔い改め、礼拝へと出発したのです。彼らは悔い改め、悔い改めにふさわしい行動をしました。その時、どんなことが起こりましたか。
 5節をご覧ください。「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」とあります。カナンの連合がヤコブの息子たちの殺人に憤って追撃して来ましたが、神様が彼らに恐怖を植え付けました。すると、彼らはそれ以上ヤコブ一行のあとを追うことができなかったのです。ヤコブが自分の頭を回すのではなく悔い改めた時に、神様がすべての問題を解決してくださったのです。
こうしてヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来ました。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・べテルと呼びました。そして、リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木に葬られました。神様はベテルに帰ってきたヤコブを再び祝福してくださいました。ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけました。
結局、神様との関係を回復した時、神様が問題を解決して下ったことが分かります。それだけではありません。神様は再びヤコブを祝福してくださいます。
35章9-12節をご覧ください。「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」」とあります。神様は30年前、ヤコブが石を枕にして横になっていた時にくださった御言葉を再び与えられました。それによって神様が彼に与えられた祝福とビジョンを思い起こしてくださいました。
結局、神様は去る30年間ヤコブとともにおられ、彼を訓練して育てられたことが分かります。ヤコブは利己的であり、自己中心的な人でした。兄を騙し、父親も騙した人間でした。ところが神様が彼とともにおられ、彼を訓練して育てられると、神様中心の人、祈りの人になって行きました。神様は彼がどんな問題でも神様に祈り、神様と交わり、神様に礼拝する人になるように助けてくださいました。ここで、私たちがどのように人として成長して行くべきかを学ぶことができます。どうか、私たちも自己中心から神様を中心に生きる者に変えられて行きますように祈ります。困った時には自分の知恵や人に頼ることよりも神の家に行って神様に祈り、神様に礼拝する者として成長して行きますように祈ります。すると、神様が私たちを大いに祝福してくださいます。創世記を通して学んでいる私たちの神様は祝福の神様です。どうか、祝福された人生、祝福そのものとして生きるように祈ります。