2014年創世記第20講

ヤコブを大いに祝福された神様

御言葉:創世記29,30章
要 節:創世記30:43「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」

 先週、私たちはヤコブがベテルでいつもともにおられる神様に出会ったことを学びました。私たちはヤコブが神様に出会ったような経験をすることはできないかも知れません。でも心から神様と出会いたいという願いを持って生きましょう。日々神様と出会って神様の愛と力を感じ、神様と交わることを心から願うのです。すると、神様の力を見、神様がおられることを悟るようになります。そこから神様と交わり、神様とともに歩む生活が始まります。 
今日はヤコブが長い旅を続けて目的地に辿り着いた時のことを学びます。ここで私たちは愛の力、ヤコブを訓練し、大いに祝福される神様を学ぶことができます。

?.愛に力があります。(29:1〜20)
 29章1節をご覧ください。「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。」とあります。ベテルの野で一夜を過ごしたヤコブは、旅を続けてようやく目的地である東の人々の国へやって来ました。つまりベエル・シェバからハランまで旅を続けて母リベカの親戚が住んでいる国にたどり着いたのです。ふと彼が見ると、野に一つの井戸がありました。井戸は人と人との自然の出会いの場であり、交わりの場です。
私は子どもの時に田舎では村の中にある井戸が情報交換の場所でした。特におばさんたちが水を汲み、洗濯をしながら交わる所でした。だから、小学生の時に隣の村に行って友だちに会うためにまず井戸の所に行って尋ねました。だからヤコブも井戸が見えると、その地域の情報を得ることができると思ったことでしょう。やはり行ってみると、その井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していました。それでヤコブはそこにいる羊飼いたちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか」と尋ねました。すると、彼らはハランの者であることと、ラバンの娘ラケルが羊を連れて来ていることを教えてくれました。そこでヤコブはその娘と二人きりで会いたいと思ったでしょうか。ヤコブは羊飼いたちに「羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」と言いました。しかし、彼らは「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」と言いました。
結局、ヤコブがまだ彼らと話しているとき、父の羊の群れを連れてやって来たラケルと出会いました。ヤコブは、その羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませました。それからヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣きました。ヤコブが行き成りに人の娘に口づけしているようですが、先ほど羊飼いたちからラバンの娘であることを聞いていたからでしょう。ほんとうの自己紹介をしてから口づけするものですが、ヤコブはラケルに口づけしてから自己紹介をしました。すると、ラケルはヤコブのことを父ラバンに告げました。するとラバンはすぐ、走って行って彼を迎え、彼を抱いて、口づけしました。ヤコブは自分がここまで来た事の次第のすべてをラバンに説明しました。ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言いました。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在しました。
その間にラバンはヤコブが非常に有益な人であることが分かったようです。ラバンはヤコブに「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」と言いました。これは単なる好意から出た言葉ではありません。後で彼が何度もヤコブを騙していることから考えてみると、彼はヤコブの有能さと誠実さを見込み、彼を手放したくないと思っていたと思われます。でもヤコブは、まだラバンがそういう人間だとは思っていなかったようです。ただ、一目惚れしているラケルに関心がありました。
ラバンにはレアとラケルと言う二人の娘がいましたが、ヤコブはラケルを愛していたのです。それは姉のレアの目は弱々しかったのですが、ラケルは姿も顔だちも美しかったからです。ヤコブも美人には弱い男でしたね。結局ヤコブは愛するラケルと自分の妻にするためにラバンと雇用契約を結びました。彼は「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言っています。するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言いました。そこでヤコブはラケルのために七年間仕えました。ヤコブはその七年間をどのような思いで過ごしたでしょうか。
20節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」ヤコブはラケルを愛していたので七年間仕えてもほんの数日のように思われたのです。ヤコブが七年間仕えても楽な仕事ばかりしたのではありません。31章38節によると、ヤコブは「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。」と告白しています。それでもヤコブにはその七年間がほんの数日のように思われたのです。ここで私たちは愛の力を見つけることができます。
この間、勉強会の時に、李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師を愛するようになった時、40ページの所感を書いてもほんの一ページしか書かなかったように思われたことを告白してくださいます。ほんとうに愛には不思議な力があります。
第一に愛には、人に仕え、人のために働く力があります。愛しているなら、気持ちよく仕えることができます。夫婦が愛して子どもが産まれると、夫婦は子どもに仕える生活が始まります。オムツを替え、風呂に入れ、遊んであげます。掃除や洗濯もしてあげます。ありとあらゆることで子どもに仕えます。それは子どもを愛しているからです。愛から始まっているから嫌々しながらではなく喜んで仕えることができるのです。子どもがそこそこ大きくなったからと言って、仕えることが終わるのではありません。立派に成長し、大人になるまで、子どものために働きます。職場では上司の無理な要求にも耐えながら一生懸命に働きます。それは子どもを愛し、家族を愛するからできることです。もし、何もかも嫌になっているなら愛が冷えているからでしょう。愛が燃えているなら何をしても疲れを感じないでしょう。ヤコブはラケルを愛していたので、その愛のゆえに7年間仕えることが苦にならなかったのです。愛から始まっていたので、仕えることができたのです。
イエス様も弟子たちを愛し、私たちを愛しておられるからこそ仕えてくださいました。さまざまな問題を持ってくる人々に仕えることはやさしくありません。でも、イエス様は人々を癒し、慰め、励まし、教える働きを続けられました。弟子たちの足を洗い、十字架の死に至るまで私たちのために仕えてくださいました。ほんとうに何をしても愛から始まるなら、7年間仕えることも数日のように思われるほどになるのです。
第二に愛には、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ力があります。
子どもを育ててみれば分かりますが子どもの成長は時間がかかるものです。オムツを替え、風呂に入れてお世話さえして置けば、後は放っておいても大丈夫なのではありません。確かに、子どもが2,3歳頃より10歳、20歳になると細かく仕えることは少なくなるでしょう。でもそれぞれの年齢に応じて、仕える形が違うだけです。子どもを愛する親はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。その愛の中で子どもはすくすく成長し、立派な大人になって行きます。しかし、愛がなければ忍耐できなくなる場合もあります。子どもと一緒に家にいることさえ嫌がるようになります。実際に自分の子どもを手放してしまう親もいます。しかし、ヤコブはラケルを愛していたので7年間も仕えたのに、ほんの数日のように思えたのです。
イエス様は弟子たちを召してから3年半といわれている期間に忍耐されることもしばしばでした。また、十字架を担っていかれたときも、架かられた時も、途中でやめることをなさらず、最後まで、その死に至るまで忍耐されました。そして、今もまた、人々が罪の中にいますが、一人でも多くの人が救われるために、全ての人が救われてほしいと願い、忍耐しておられるのです。それらは、イエス様の愛のゆえです。愛から始まるとき、愛しているとき、忍耐することができるのです。そしてそのイエス・キリストの愛によって私たちは癒され、生かされています。
私たちが何をしても七年間仕えることもほんの数日のように思ったヤコブのような愛を持ってするなら疲れないでしょう。そして、私たちに仕えるために来られ、十字架にかかって死なれるまでに私たちに仕えてくださったイエス・キリストの愛で愛するなら、どんな人でも愛することができるでしょう。すべての問題は愛があれば大丈夫です。愛は痛みも和らげます。カリフォルニア大学の心理学者アイゼンバーガー助教授が、痛みを感じたときの脳の動きと「愛」という抽象的なものとの関係を探るために行った実験で明らかになったものです。長期にわたって特定の相手と交際中である女性たちに、針で刺したかのような衝撃を与え、そのときの脳の反応をMRIで観察しました。被験者には交際相手、知らない人物、蛇や蜘蛛などの写真を順番に見せ、それぞれの写真を見ているときに一度ずつ同じ痛みを与えていきました。そして、実際に感じた痛みの強弱を被験者に記録してもらったところ、交際相手の写真を見ているときがいちばん痛みが弱いという結果になりました。ほんとうに、愛には不思議な力あるのです。何をしても愛から始まると長く仕えることができるし、忍耐することもできます。家にいる時間が楽になるし、疲れた体も癒されるのは家族を愛しているからです。教会でも、学校でも、職場でもに隣人を愛するなら彼らに仕え、忍耐することができます。自分の愛では無理かも知れません。でもイエス様から愛をいただき、イエス様の愛で愛しようと思って愛するなら不思議な力が発揮されるのです。どうか、ヤコブがラケルを愛したように、自分の家族を愛し、隣人を愛する生活ができるように祈ります。

?.神様の訓練と祝福(29:21〜30:43)
29章21節をご覧ください。「ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻をください。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」とあります。いよいよ雇用期間も満了しましたので、ヤコブはラバンにラケルを妻として与えてくれることを求めました。ところが、ラバンはヤコブをだましてラケルの代わりに娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせました。騙す者が騙される者となりました。でもラバンはヤコブに騙したと言いません。彼は「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」と言ってラケルをあげる代わり、もう七年間、仕えなければならない」と言いました。結局ラケルひとりを得るためにヤコブは14年間ラバンに仕えました。彼がそのように14年間仕えたことは無駄にはなりませんでした。ラバンは、ヤコブを酷使し搾取しようとしました。しかし、実は、ヤコブがこの地に滞在することで、彼に与えられた子孫の約束、多くの子どもが生まれるという神様の約束は実現していくのです。イスラエル十二部族の先祖は、この地で、このようにして誕生しました。そして、二十年という歳月の後に、彼をカナンの地に「連れ帰る」という約束も実現するのです。
 ヤコブだってラケルから子供が生まれることをなによりも望んだでしょう。しかし、ラケルが初めての子ヨセフを産んだのは、結婚後何年かは分かりません。ただ、ヤコブとレア、そしてその召使、ラケルの召使との間に一〇人の子供が生まれた後のことですから、少なくとも一〇年以上は子供が生まれなかったはずです。彼女はもう一人の子ベニヤミンを産むと同時に、旅の途上で死んでしまうのです。恐らく高齢出産であったことが、その一つの原因でしょう。結局、四人の妻と12人の息子と一人の娘を得るようになりました。29:31-30:24節まではレアとラケルが夫に愛されるために子供を産む競争をする内容です。ヤコブの家庭には静かな日々がなかったでしょう。二人の女性が激しい競争をしていたのでまるで戦争をするところのようだったと思います。レアは息子をよく産みましたが、夫に愛されないコンプレックスを持っていました。ラケルには夫に愛されましたが、息子を産めないコンプレックスがありました。彼女達はヤコブを間にして互いに自分たちのコンプレックスを解決するために競争する間、12人の息子たちが産まれました。このような中で神様は二つのことをなされました。
第一に、ヤコブの強い自我を訓練されました。ヤコブは四人の妻の間で絶えず訓練を受けました。息子が産まれても自分が名前を付けることさえできなかったことを見ると、彼の強い自尊心が砕かれる訓練を受けたでしょう。神様は人の杖、人の子のむちを持って彼を懲らしめ、彼の強い人間性を砕かれ、多くの国々の父としての内面性を持つようにされました。
第二に、イスラエルの12部族の基礎を置かれました。神様は二人の女性のねたみと競争心を用いられ、ヤコブが知らないうちに天の星のような子孫を与えるという約束を成し遂げておられました。
このように四人の妻と多くの子供を得た後、ヤコブは財産に関心を持ち始めました。ヤコブは財産を儲けるためにラバンと契約を結びました。それはラバンの羊とやぎの中でぶち毛とまだら毛のもの、黒毛のものを自分の報酬とすることです。ラバンはその日、そのようなものを全部取り出して、自分の息子たちの手に渡し、ヤコブとの間に三日の道のりの距離をおきました。ヤコブは非常に不利な立場に立たされました。しかしヤコブはいつものように落胆せず、頭を使って不可能に挑戦し始めました。神様はこのような彼を助けてくださり、彼は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました(30:43)。神様は約束のとおりにヤコブとともにおられ、彼を祝福してくださいました。ヤコブはラバンのところでラケルを得るために14年、財産を得るために6年、あわせて20年間仕えました。それでは20年間どんな姿勢で仕えましたか。31:38-42節を見ると、彼は仕事に怠けたり、適当に働いたりしませんでした。ラバンが幾度も報酬を変えたのにもかかわらず、彼は力を尽くしてラバンに仕えました。彼は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできないほどでした。彼は神様のしもべらしく心と力を尽くして働きました。その時、神様はヤコブを祝福してくださいました。
30章43節をご一緒に読んでみましょう。「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」ここでは「祝福」が物質的な意味で用いられているようです。もちろん祝福は物質だけではなく、心身の健康の意味が含まれます。しかし、これはアブラハム以来、イサク、ヤコブが受け継いでいる「祝福」です。ですから、単に物質的な富を意味するだけの言葉ではありません。罪に堕ちた世界を祝福に変える。死の闇の中にある世界を命の光に変える。そのための祝福です。ヤコブがこの言葉を使っている文脈では、ラバンに合わせる形で、家畜の数が増えたことを表面的には言っている訳ですが、それと共に、もっと内的な、しかし、具体的な神の「祝福」、「恵み」とも「愛」とも言える祝福を語っていることは明らかだと思います。
以上で、愛の力と神様がヤコブを家族の人間関係において訓練し、祝福されたことを学ぶことができました。家族の人間関係の中に試練があることほど苦しいことはないでしょう。家族は逃れることのできません。生涯付きまとう関係です。ヤコブは、妻たちとの関係に悩み、義父ラバンとの関係に悩んで行きました。ヤコブを騙し、ヤコブを利用しつくそうとするのがラバンでした。そんなラバンに対してヤコブが考え出した脱出の道は、「自分自身のために自分だけの群れをつくることであった」大切なのは、ヤコブは知恵を働かせたが、その知恵自体、あまり根拠のないことです。選択授精によっていくらかは成功したとはしても、なによりも神様がこれを祝福されたからできたことです。 多くの人は、苦労すること、訓練は悪いことだし、不幸なことだと考えます。けれども、苦労があることと幸せであることは別次元のことです。だから苦労があっても本当は幸せであることができます。神様を信じるということは、常識を超えています。もちろん、それは非常識になることではなく超常識になることです。常識的に行動する中で、常識を超えた神様のみ業があることを期待して行くことが信仰です。

結論的に愛には人を疲れさせない力があります。愛は奉仕の原動力です。神様はご自分の約束のゆえに私たちを祝福してくださいます。どうか、愛と神様の祝福を信じる信仰を持って人々に仕え、神様に祝福された生活ができるように祈ります。