2014年創世記第16講 

イサクの結婚

御言葉:創世記24:1-67
要 節:創世記24:44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』

 先週、私たちはアブラハムが神様の命令に従って最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげたことを学びました。実際に全焼のいけにえとして捧げたのは神様が備えられた雄羊でしたが、神様はそれをアブラハムが自分のひとり子を惜しまずにささげたことにしてくださいました。アブラハムの信仰の忠実さと神様を恐れ、愛し、第一とする心が認められたのです。さらに、それは「主の山の上には備えがある。」という信仰へつながって行きました。
今日、学ぶ24章でもアブラハムは最愛の息子イサクの結婚において神様が彼の妻も備えておられると信じていたことが分かります。ここで、息子の結婚に関するアブラハムの信仰、アブラハムからイサクの妻を見つける任務を命じられたしもべの祈りと忠実さ、イサクの妻として迎えられるリベカの信仰と内面性を学びたいと思います。

24章1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。先週も学んだようにアブラハムの人生は決して平坦ではありませんでした。生まれ故郷を離れて行くことからチャレンジであり、一つの冒険でした。信仰の危機も、失敗もありました。信仰の体験もありました。そうこうしているうちにアブラハムは年を重ねて老人になっていました。ではさまざまな試練の中でも信仰を守り通したアブラハムの人生はどうなっていましたか。聖書に「主は、あらゆる面でそのアブラハムを祝福しておられた」と記しています。アブラハム人生はあらゆる面で祝福されていたのです。これが私たちクリスチャンの人生ではないでしょうか。
若い時は挑戦と冒険を経験します。神様を信じている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしよう。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。飛行機や船、電車の事故が怒ったら…などいう恐れがあります。実際に失敗もあります。自分の不信仰や怠けが原因であっても失敗は私たちを落胆させます。アブラハムのように結婚して25年間も子どもが生まれないような試練もあり得ることでしょう。ところが、そのような時にも信仰から離れないならどうなりますか。祈り、望みえない時に望みを抱いて信じるなら神様を体験することができます。さまざまな出来事の中で神様の深い哀れみと愛、力と不思議な導きを体験して行くことができるのです。
結局、年を重なっていて見ると、ほんとうにあらゆる面で神様から祝福されていることが分かるようになります。年を重ねているおびただしいクリスチャンは言っています。「私はイエス・キリストを信じてからあらゆる面で祝福された」と。私はUBF教会でも数多くの先輩から聞いています。私自身も告白できます。私は田舎者で人々からも田舎者として卑しく見られていると思い、自分自身も自信感を無くしていました。しかし、年を重ねてきた今は人々から愛され、尊敬されていると感じる時があります。先月は弟子から頼まれて500人位が集まった結婚式の司式もやって来ました。「あらゆる面で祝福されているんだなあ」と感じております。
もし、現在は、何もかもうまく行かないと思っている方がいるかも知れません。毎日が辛い、苦しいと思われる試練の中に置かれている方がいるかも知れません。でもあきらめてはいけません。若い時はアブラハムのように信仰によってチャレンジし、冒険して行くものです。どんな時にもアブラハムのように祈り、感謝し、礼拝する生活をしてください。きっと神様はあらゆる面で祝福してくださいます。
2-4節をご一緒に読んで見ましょう。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。
年を重ねて老人になっているアブラハムにとって息子イサクの結婚のことを考えなければならなりませんでした。アブラハムにとって人生の最後に残された重大な仕事は、信仰の後継者である息子にふさわしい妻を見つけることでした。そこで、アブラハムは息子の結婚を長年忠実に仕えてきた最年長のしもべに命じました。このしもべが誰なのかは分かりませんが聖書学者たちは15章2節に記されているエリエゼルだと言っています。アブラハムはエリエゼルに天の神、地の神である主にかけて誓わせています。何を誓わせましたか。
一つ目は、カナン人の娘の中から息子の妻をめとってはならないということです。アブラハムの生まれ故郷に行き、親族の中からイサクの妻を選ぶことです。つまり、神である主を信じる信者の中から選ばなければならないということです。カナンには神様を信じる娘たちがいませんでした。しかしイサクの妻になるリベカの家族は主を信じる信者でした。リベカの兄と父親は「主に祝福された方、主から出たこと」と言っています(24:31、50)。そして、22章20-23節を見ると、アブラハムにはアブラハムの兄弟ナホルから子どもたちが生まれたことが伝えられていました。ですから、アブラハムは必ず神様を信じる信者の中から息子の妻を見つけなければならないと命じたのです。
二つ目は、息子は約束の地カナンにいさせることです。しもべはアブラハムに「もしかして、その女の人が私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と質問しました。それに対してアブラハムは「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」」と言いました。つまり、約束の子イサクが約束の地を離れてはいけないということです。ではどうやってアブラハムはしもべにこのようなことを誓わせることができたでしょうか。
7節をご一緒に読んでみましょう。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分の信仰生活を通して神様を体験し、確信していたことが分かります。彼は神様の御心を第一にして従うなら、必ず神様が働いてくださると信じました。したがって彼はしもべに「天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ることができました。アブラハムは神様の御心を第一にして従うなら、必ず天の神、主は御使いを遣わして助けてくださると確信していたのです。
ここで、私たちは息子の結婚でも自分の心ではなく、神様の御心を第一にしているアブラハムの信仰を学ぶことができます。私たちは大切なことほど神様の御心を求めなければなりません。人生において最も大切な結婚だけではなく、就職や進学など重要な決断をする時も、神様の御心を考え、従うことです。そして結婚、就職、進学などの大事なことを決断する時に神様の御心を第一にするなら必ず神様が助けてくださると確信することです。神様は私たちの前に御使いを遣わしてくださいます。私たちのために道を備えられ、助けてくださるのです。特に、私たちの人生の中で結婚ほど大切なこともないと思います。だからこそ、神様の御心を求めべきですし、自分の恋愛感情や親の心よりも神様の御心を第一にして決断するべきです。神様は私たちの結婚が愛と喜びと幸せが満ちていることを望んでおられます。私たちの結婚生活が潤され、私たちの心も満たされることを望んでおられます。ですから、神様は神様の御心を第一にするアブラハムが息子の妻を見つけるために遣わしたエリエゼルの働きを助けてくださいます。ここで、私たちに自分に与えられた使命を忠実に果たしたアブラハムのしもべから、神様のしもべとしての姿勢を学ぶことができます。
第一に、しもべは重大な使命を果たすことを祈りから始めました。
12-14節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたががしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」とあります。さすがにアブラハムに長年仕えていたしもべですね。信仰の先祖アブラハムの影響を受けています。アブラハムの祈り生活を学んでいたことでしょう。アブラハムが祈ると、神様が彼に恵みを施してくださることを見て来たのです。だからこそ彼は何よりも先に祈りました。また、アブラハムのように具体的に祈っています。以前アブラハムがロトの救いのために祈る時、正しい人50人から10人まで減らして行きました。そのように、しもべも切に祈ったし、具体的なしるしを求めました。普通では起こらないようなことを求めて神様の働きを確かめようとしたのです。
中東地域では旅人に水を飲ませることは、たいていの女性たちが行ないました。けれども旅人のラクダに水を飲ませることはしませんでした。しかも10頭のラクダに女性一人が水を飲ませるようなことは普通ではありません。でも、彼はわざと普通ではないことを求めて神様の働きを目撃し、御心を確認しようとしたのです。また、しもべは女性の外見上の美しさではなく、内面性を求めたことが分かります。彼は背が高い人を求めませんでした。目が美しい人を求めませんでした。心の美しい人を求めました。愛の豊かな女性、思いやりのある人、気配りのある女性を求めたのです。イエス様は山上の説教においてこう言われました。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい(マタイ5:40-42)。この原理は夫婦生活でも同じです。夫か5回頼んだら、妻は10回従います。妻が5回要求したら、夫は10回答えます。このような態度で行なうならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現われるでしょう。ですから、アブラハムの信仰生活を受け継いで行くイサクの妻にもそういう態度、内面性が求められます。そこでしもべは人のために最善を尽くして仕えることだけではなく、動物までも助け、仕えることができる人を祈り求めたのです。では祈りの結果はどうなりましたか。
  15-20節をご覧ください。エリエゼルがまだ言い終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。彼女はブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘でした。彼女は非常に美しく、処女で男が触れたことがありませんでした。何よりも彼女は心の美しい女性でした。彼女は旅人のしもべに水を飲ませました。彼に水を飲ませ終わると、彼女はラクダのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言いました。井戸から水を汲んでラクダに水を飲ませることは決して簡単ではありません。私は子どもの時、牛に水を飲ませていましたが一度に20リトル以上も飲んでしまいます。ラクダは牛よりもいっぱい飲むでしょう。しかも10頭のラクダに水を飲ませることは大変な仕事です。ところが彼女は急いで水瓶の水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のラクダのために汲んだのです。しかも、隣にいたしもべは水を飲ませてもらうだけで何も手伝ってくれませんでした。彼は主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。一度に20リトルを運んだとしても20回も走りながら水を汲みに行ったり来たりしていたのに、隣の男は、ただ黙って彼女を見つめていたのです。それでもリベカは何も文句を言わず、黙々と働きました。何と素晴らしい娘でしょう。エリエゼルはリベカが祈り求めたとおりの女性であって主が自分の旅を成功させてくださったことが分かりました。彼女に尋ねて彼女がアブラハムの兄弟ナホルの孫であることも確認できました。そこで、エリエゼルはひざまずき、主を礼拝してアブラハムの神、主をほめたたえました。
結局、エリエゼルが自分の仕事を神様に祈ることから初めた時に神様がそれを成功させてくださることを体験することができました。祈りが成功の出発点であり、成功の近道だったのです。イエス様も一日一日の仕事をまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから始められました(マルコ1:35)。私たちも何かをする時、具体的に祈ることから始めるなら神様がそれを成功させてくださることを見ることができます。素晴らしい神様の働きを体験する基礎となるものは祈りです。すべての問題の解決のカギも祈りです。どうか、私たちが日々の生活の中で切に祈り、具体的に祈ることを通して自分の仕事を成功させてくださる神様を体験することができるように祈ります。
第二に、しもべは自分に与えられた任務に忠実でした。しもべは神様が彼の旅を成功させてくださったのでリベカの家の中にはいりました。ラクダの荷は解かれ、ラクダにはわらと飼料が与えられました。しもべの足と、その従者たちの足を洗う水も与えられました。それから、しもべの前に食事が出されました。先ほど水だけを飲ませてもらった彼としてすぐにでも食べたかったでしょうか。しかし、彼はまず何をしましたか。
33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は家に招き入れられ、もてなしを受けましたが、用事が終わるまでは、それを食べようとしませんでした。しもべは食べることよりも使命を大切にしたのです。そして「お話ください」と言われたとき、彼は「私はアブラハムのしもべです。」と自己紹介をし、あらゆる面で祝福されたアブラハムを紹介しました。それから、アブラハムの命令によってアブラハムの息子の妻を迎えるために来たのですが、アブラハムの神、主が自分の旅を成功させてくださったことを丁寧に説明しました。そこでリベカの家族は神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命に忠実な人だったかが分かります。数多くのクリスチャンは彼から管理者の忠実さを学んだことでしょう。パウロもコリント人たちに送った手紙で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(?コリント4:2)」と言いました。
私たちは教会でも職場でも、学校でも何か任されている任務に忠実でなければなりません。この忠実なしもべの働きによってアブラハムは愛する息子の妻を見つけることができました。では、アブラハムのしもべに見つけられたリベカの信仰はどうでしたか。 
58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。」とあります。結婚の最終決定はリベカがするようにしましたが、リベカは『はい。まいります。』と言いました。ほんとうに、すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。リベカは神様の御心、神様の導かが分かった時、顔も知らないイサクとの結婚を自ら決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。ほんとうに信仰のある人は神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

結論的にイサクは神様の御心を第一にする父親アブラハムの信仰、しもべエリエゼルの祈りと忠実な働きが用いられて素晴らしい信仰の女性リベカと結婚することができました。ここで結婚している人は自分の子どもたちの結婚をどのようにするかを学ぶことができました。まだ結婚していない人はどのような信仰、どのような内面性を持っているべきかを学ぶこともできました。職場や学校、あるいは家で自分に任された仕事をどのように成し遂げ行くべきかも学ぶことができました。ここで共通することは私たちの神様の御心を第一にする価値観と神様に対する信仰です。私たちもそういう価値観と信仰を持って生きるなら、私たちの仕事を成功させてくださる神様を、あらゆる面で祝福してくださる神様を体験して行くことができます。アブラハムの神様が私たちの神様であることを信じて感謝します。