2014年創世記第14講                               
約束されたとおりに行われた神様

御言葉:創世記20:1−21:34
要 節:創世記21:1「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」

 先週、私は福岡UBF開拓礼拝に参加させていただきました。そこで、私は神様が九州大学のみわざを備え、導いておられることを感じ、神様のビジョンを見ることができました。それはアブラハムを召され、導かれた神様が崔ヨセフ宣教師家族にも御言葉を与えられ御言葉の通りに導いておられるからです。礼拝にアブラハムのような九大の竹下兄弟も参加しましたが、神様が彼にも約束の御言葉を与えられ、約束された通りに行なってくださるように祈ります。
 今日の本文には、アブラハムの過ち、不信仰、悩みなどの恥ずかしい部分が記されてあります。偉大な信仰の先祖としてのイメージより罪と咎だらけの姿です。それにもかかわらず神様は彼との約束を守られ、約束の通りに行われました。ついに、約束の子イサクが生まれるのです。すると、アブラハムも神様から言われた通りに子どもに割礼を施します。そのアブラハムの家にも問題が発生しますが、それも神様が解決してくださいます。そこで、私たちは神様の約束の真実性、深いあわれみを学ぶことができます。どうか、聖霊が私たちのうちに働いて約束の御言葉を与えられ約束された通りに行われる神様を深く学ばせてくださるように祈ります。そうして私たちも生活の中でアブラハムの神様を自分の神様として体験して行きますように祈ります。

20章1節をご覧ください。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、」とあります。先週、皆さんは金ヨハネ宣教師を通してソドムとゴモラのことを学んだことでしょう。主はソドムとゴモラを滅ぼされたとき、アブラハムを覚えられたのでロトと二人の娘は救われました。それで、ソドムとゴモラは滅ぼされたけれどもアブラハムの粘り強いとりなしの祈りの力を示してくれたところでもあります。アブラハムはそこからネゲブの地方へ移り、ゲラルに滞在していました。そこでどんなことがありましたか。
2-13節を見ると、飢饉の時エジプトに下った時(12:10-20)と同様にサラが自分の妹だと嘘をつくことがありました。アブラハムがそのようにした理由は11節にあります。その地方には、神様を恐れることが全くないので、人々がサラのゆえに、自分を殺すと思ったからです。しかし、それは信仰の人として許される行動ではありませんでした。しかも、今回は前回とは違って何度も神様から御言葉が与えられ、神様の守りと助けを体験してからのことです。彼は何度も神様を体験したにも関わらず、神様より世の権力者を恐れています。偉大な信仰の先祖アブラハムの歩みにも信仰の浮き沈みがあったことが分かります。サラもそうです。どうしてサラはアブラハムが自分の夫であるとはっきり言えなかったでしょうか。もちろん、アブラハムも、サラも言い訳はできたでしょう。「サラは腹違いの妹だ」、「私は夫に従った」、「殺されないためには仕方なかった」とも言えるでしょう。しかし、それはアブラハムの卑劣な策略です。アブラハムもサラも不信仰に陥っていました。自分たちを国々の父、国々のとなると約束してくださった全能の神様を見失ってしまいました。ほんとうに、軟弱なアブラハムの姿に神様も絶望せざるを得なかったでしょう。神様は何度も語りかけて全能の神様を信じるように助けてくださったのに、アブラハムは繰り返して過ちを犯し、信仰から離れて行ったからです。
ところが、それにもかかわらず神様はアブラハムを助けておられます。夢の中で、アビメレクのところに来られ、サラを返すように助けてくださいました。それだけではありません。神様はアブラハムを預言者として立てられました。7節をご覧ください。「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とあります。神様はアブラハムが自分の妻を返してもらうだけではなく、預言者としても働くようにしてくださいました。祈りを通して人を生かすことも死なすこともできる預言者として立てられたのです。そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷達を取って来て、アブラハムに与えました。またアブラハムの妻サラを彼に返しました。結局、アブラハムは自分の命を救い、サラを無事に取り戻すことができました。それだけではなく、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちまで受けました。
ここで、私たちは神様が約束の通りに、アブラハムの盾となり、保護者になってくださったことが分かります。アブラハムの過ち、恥ずかしい行動にもかかわらず、神様は彼を守り、助けてくださいました。今も、神様は私たちの盾となり、保護者になってくださいます。私たちは弱くて過ちを犯し、不信仰に陥ってしまう時もあります。今まで何度も神様の愛と力を体験したにも関わらず、自分の弱さと恐れのために失敗してしまうのです。でも、私たちが根本的に心の中心から神様の御言葉に頼っていると、神様が私たちの味方になってくださいます。私たちの盾となってくださいます。だから、私たちは弱くても圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。
ローマ8章31-37節を開いてみましょう。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。アブラハムの神様が私たちも圧倒的な勝利者の人生へ導いてくださることを感謝します。それでは神様がアブラハムにされた約束を、いつ、どのようにして成就させましたか。
21章1,2節をご覧ください。「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男との子を産んだ。」とあります。ここで、「約束された通り、仰せられたとおり、言われたその時期」と言うのは神様の約束が三度も強調されたことです。つまり、神様はアブラハムに約束の御言葉を与えられてその約束を守られ、その御言葉の通りに行われるということです。このことはとても大切な事です。キリスト教は御言葉中心の宗教です。聖書の権威、御言葉の権威をとても重要視しています。私たちが神様を信じるということは神様の約束の御言葉を信じることです。イエス・キリストを信じるということもイエス・キリストの御言葉を信じることです。この聖書を記録したモーセの関心は神様の御言葉の真実性と権威が人類の歴史と人生の方向を決定し、奇跡が起こることを強調しています。使徒パウロも御言葉の真実性と権威を明らかにしています。?コリント15章3-5節を見ると「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」とあります。「聖書の示すとおりに、聖書に従って」と言っています。新旧約聖書の代表者であるとも言えるモーセもパウロも御言葉の通りになることを強調していることが分かります。モーセは約束された通り、パウロは「聖書の示すとおり」と言っているのです。
 ここで、私たちはアブラハムの神様から御言葉を通して私たちを召され、カウンセリングをし、導いてくださることを学ぶことができます。アブラハムは偶像崇拝の地で生まれ育ちました。サラも不妊の女でした。彼らは身体的にも情緒的にも弱い人たちでした。でも、神様は彼らに御言葉を与えて勇気づけ、希望を与えてくださいました。彼らは子どもを産むことができない状態であることを知っていました。だから、なかなか神様の約束を信じ切ることができませんでした。それでも彼らは信仰の道から離れて行かないで待ち続けました。その歳月が25年も流れました。その間に失敗もありました。人間的な方法で女奴隷から子どもを産んだこともありました。彼らも人間だから信仰の浮き沈みがあったのです。落ち込んだ時もありました。恐れている時もありました。勇気を持って戦う時もありましたが、恐れて過ちを犯し、恥ずかしくてしようがない時もありました。それでも彼らがあの長い年月を耐え忍ぶことができたのは神様の慰めと励ましの御言葉があったからです。
 私たちはどうでしょうか。私たちにも御言葉が与えられていたからこそ今日までの信仰生活ができたことでしょう。それは神様の恵みです。私自身を振り返ってみると罪と咎だらけです。問題の連続でした。辛くて悲しくて苦しいときもありました。何度も失敗し、悩みました。それでもここまで来たのは神様の御言葉があったからです。しばしば深く与えられる御言葉、毎週私たちに与えられる神様の御言葉があったからこそ今の私たちは信仰を守りここまで来られたでしょう。私たちは弱いですが、神様は力強い御言葉によって私たちを引張り、導いてくださいました。私たちが患難の時に私たちに慰めと喜びを与えたのは神様の御言葉でした。エレミヤ15章16節を見ると「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。…」とあります。
 今日のように、不安な時代もないでしょう。自分の足りなさのために委縮され、心が複雑になり、不安な時もあるでしょう。だからこそ御言葉をつかみましょう。父なる神様が私たちにふさわしい御言葉を与えてくださいます。ここにいらっしゃる皆さんにはすでに与えられている御言葉も多くあるでしょう。御言葉を堅くつかんで黙想し、祈りましょう。さらに、個人的に神様から約束の御言葉をいただくために聖書を読み続け、祈りましょう。毎日美味しく食べている食べ物が私たちのエネルギーとなり、力となることのように御言葉が私たちの生活の中で力となります。霊的エネルギーを与えてくださいます。楽しみと喜びを与えてくださいます。今週は受難週ですが、イエス様の受難とともに自分に与えられた約束の御言葉を深く黙想し、確信して行きますように祈ります。すべては約束された御言葉の通りになります。
神様がアブラハムに言われたその時期に、サラが男の子を産みました。これは神様の時に、約束を成就させたことです。神様には神様ご自身の計画があり、その計画は、「神の時」に成就されます。イサクが生まれた時、アブラハムは百歳、サラは九十歳でした。アブラハムが信仰生活を出発してから25年ぶりでした。
それでは神様はなぜアブラハムが願う時に子供を与えてくださらず、それほど長い年月の間待つようにされたのでしょうか。神様がイサクを与えられるまで、アブラハムを訓練されたことは何でしょうか。アブラハムは子供を得ることに関心がありました。しかし、神様はそれを通して彼に信仰を持たせることに関心がありました。アブラハムは目に見える祝福を願いましたが、神様は目に見えないもっと大きな祝福を与えることを願われました。神様は彼の霊的な目が開かれ、神様がどんな方であるかを知り、神様のみわざに用いられる人になることを願われました。神様はイサクの誕生が全く神様の力と摂理によるものをあることを現されました。もしアブラハムが願う時に子供が与えられたならアブラハムは信仰の奥義を悟ることができず、神様の愛と力を体験することができなかったでしょう。
このように神様は時には私たちが願うことを直ちに与えてくださらない時があります。なかなか弟子養成ができない時があります。それはまだ神様の時になってないからです。神様は時になると、必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが神様から一番良いものを受けるためには信仰によって神様の時を待たなければなりません。
3、4節をご覧ください。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。そしてアブラハムは、神様が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施しました。「イサクと名づけた」ことは17:19の主の命令に従ったのです。このことによって彼は、この子が主によって与えられた約束の子であるとの信仰を告白しました。また彼がイサクに割礼を施したことも神様に命じられた通り行ったことです。アブラハムは、イサクこそが主の契約を受け継ぐ者であることを信じ、契約のしるしとしての割礼を施しました。
イサクを産んだサラの喜びはどうですか。6節をご覧ください。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」イサクは笑い、つまり、喜びという意味です。神様はアブラハムの家庭に喜びを与えられました。イサクはアブラハムが信仰によって得た実でした。90歳になったサラが赤ちゃんを抱いて乳を飲ませることは神様の力と恵みによったことです。サラは主の恵みに満足して笑いが止まらなかったでしょう。その喜びを考えながら私たちも笑って見ましょう「ハハハ・・・」。
サラが笑うとき、今まで不妊の女として受けた羞恥、痛み、悩み、苦しみが消え去りました。そして神様が与える喜びに満たされました。信仰によって実を結んだことから来る本当の喜びでした。神様は私たちに喜びを与えてくださる方です。でも、私たちの人生はいつまでも笑うばかりで生きられるのではありません。家庭に問題も生じます。しかし、恐れることはありません。神様が助けてくださる方です。
8節をご覧ください。イサクは育って乳離れしました。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それを見たサラはハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言いました。女奴隷の子とはいえ、アブラムにとってはわが子です。それ故、アブラハムは、非常に悩みました。その時、神様は彼に仰せられました。
12節をご覧ください。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」しかしイシュマエルもアブラハムの子だから一つの国民とすると言われました。それでアブラハムは神様の御言葉に従ってハガルとイシュマエルを送り出しました。すると、神様はハガルとイシュマエルも顧みてくださいました(15-21)。

以上で、アブラハムも過ちを犯していたことが分かります。嘘つきであり、不道徳な人間になってしまう時もありました。彼も不信仰に陥り、悩み、苦しむ平凡な生活人でした。ところが、神様はあの軟弱なアブラムを放置して置きませんでした。超自然的な方法も用いて彼の家族を守り、彼との約束を守ってくださいました。このことを考えると大きな慰めになります。私たちが弱くても心の中心から神様の約束の御言葉をつかんでいるなら、必ず神様の約束の通りに行われます。どうか、神様の御言葉によって日々神様の愛と力を体験し、いつも喜ぶ信仰生活をして行きますように祈ります。