2014年創世記第10講

さあ、目を上げて、見渡し、歩き回りなさい。

御言葉:創世記13:1〜14:24
要 節:創世記13:14-17「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。』」

先週、私たちは福岡派遣礼拝を通してアブラムを祝福そのものとして召された神様を学びました。神様が崔ヨセフ宣教師家族も大いに祝福してくださって祝福そのものとして用いてくださるように祈ります。
今日は神様がアブラハムをどのように導いて行かれるかを学ぶことができます。に望んでおられる霊的価値観を学ぶことができます。神様を信じて新しい生活を始めた人々はどのようなことを信じ、どのように行動すべきかを学ぶことができます。それに対するアブラハムの反応を学ぶことができます。具体的に従ったアブラハムを通して愛の実践、感謝の祈りと礼拝を学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して私たちもアブラハムのような価値観を持って生きることができるように祈ります。

先週のメッセージで後半部は具体的に取り上げなかったのですが、主がお告げになったとおりに出かけたアブラムは二つの失敗をしました。一つ目は神様の約束の地を離れてしまったことです。二つ目は自分の妻サライを妹だと偽って自分の身の安全を保とうとしたことです。つまり、アブラムがエジプトに下って行ったとき、自分の妻を妹だと偽ったために、エジプトのパロはサライをめとることにしました。ところが、神様はパロの家に疫病をもたらしました。そのことを通してパロはサライがアブラハムの妻であることが分かり、アブラムとサライがエジプトから立ち去るようにしてくれました。しかも、アブラムに与えたものを取り戻しませんでした。パロは美しいサライのために、アブラムに良くしてやったのでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになっていました。ところがパロはそれらを取り戻さずにアブラムの一行を送り出したのです。それで、アブラハムが、エジプトを出て、ネゲブに上った時は非常に富んでいました。
結局、アブラムはとても裕福になって戻って来ました。サライとおいのロトを連れて以前神様に祭壇を築いて礼拝をしたベテルの近くに来ました。その所でアブラムは、主の御名によって祈りました。アブラハムはどのような心から祈ったでしょうか。それは感謝にあふれた祈りだったでしょう。
彼は二度も失敗しました。自分の身の安全のために妻を妹だったと偽った人間です。ほんとうに大きな失敗をしてしまいました。それにも関わらず、神様は自分と家族の安全を守ってくださいます。それだけではありません。自分が失敗したにも関わらず自分の財産も増やしてくださいました。振り返ってみるとすべてのことを働かせて益としてくださいました。そこで彼は神様に心から感謝して祈ったのです。そして、彼は隣人を愛するようになりました。自分の身の安全のために妻を妹だというのではなく、甥のロトのために財産を分け合う人になりました。それでアブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していました。アブラムの所有物も、パロの所有物も増え続けたので彼らがいっしょに住むのに十分ではなくなりました。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのです。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こりました。金持ちになると喧嘩もしやすくなるものでしょうか。作家の本田健さんがよく取り上げられるテーマがお金と幸せです。彼がこれまでに経験してきたことや、多くの富裕層や大富豪と出会ってきた中で、一般的なお金持ちの不安として次の5つに分類しましたがその一つは家族がケンカしやすくなることです。実際に韓国三星の李健煕会長の家族喧嘩は有名です。25年間も骨肉の争いが続いているのです。アブラハムの家族も財産が増えると争いが起こりました。ところが、アブラハムは一般的な金持ちとは違いました。彼はエジプトでの経験を通して神様の主権的な働きを悟り、信じていたので広い心になっていました。
8、9節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」本当に素晴らしいアブラハムの価値観を読み取ることができます。彼は争いがないことを願い、愛を実践しています。良い地の選択権を甥のロトに譲っているのです。ところが、それに対してロトはどうしましたか。
10‐11節をご覧ください。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。」とあります。ロトは肥沃なヨルダンの定位置を選び取りました。そのためアブラハムは痩せた地域に移動しました。この選択はやがて両者の明暗を分けることになります。当時は知らなかったでしょうが、神様の主権を信じて甥のために良い地を譲ったアブラムが実践した愛は豊かな実をもたらします。しかし、神様の主権的な働きを信頼せず、目先の有益を求めたロトにはやがてすべてを失ってしまいます。19章を見るとソドムとゴモラの滅びの時にすべてを失ってしまうのです。
一方、神様の主権を信じて愛を実践したアブラハムにはどのような神様の約束が与えられましたか。
14‐17節をご一緒に読んでみましょう。「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
ここで、私たちは三つのことを学ぶことができると思います。
一つ目は「目を上げなさい」と言われたことです。
現実を見ると、愛するロトはアブラムから離れていきます。これまで行動を共にしてきた、愛する甥を手放すことは、本当に辛かったしょう。アブラムはロトを本当に愛していたからこそ辛くて悲しくなったはずです。おそらく、アブラムは目を下げていたと思われます。彼は落ち込んでいたのです。そんなアブラムに対して神様が、「目を上げなさい」と言われたのです。神様は私たちにも辛くて悲しい現実ばかり見ないで目を上げることを望んでおられます。
私たちもアブラムのように落ち込むことがあるでしょう。自分の愛する人が自分から離れてしまった時は寂しいものです。私は昭和63年10月、金ヨハネ宣教師と一緒に日本に来ました。お互いに離れないでいることは幸せです。でも、同労していた方たちの中では意図もしなかった誤解でこの教会から別れて行きました。その時、とても落ち込んでいました。「もしかしたら私のせいで、こうなってしまったのか?」と後悔しました。でも、目を上げると、神様が慰め、励ましてくださいました。もう自分は福音を語るのに失格者だと落ち込んでいたのですが神様が力づけてくださいました。そのような時にこそ主がそばに立って、「宣教はあなたの働きではない、私の働きだ」と励まされたのです。
離れて行く人との人間関係でほっとしていたけれども、目を上げると神様との関係が深くなって行きました。ですから、ですから、私たちは人と別れる時も、人の関係が切れてしまうときも目を上げて神様を考えなければなりません。すると、神様が慰め、力づけてくださいました。アブラハムがロトを愛したように隣人を愛し続けるべきですが、人間関係は永遠に続くのではありません。失望せざるを得ない時もあるでしょう。だからこそ、目を上げて神様の主権と愛を思うことが必要なのです。
今、何かのことで落ち込んでいる方がいるでしょう。神様は言われます。「目を上げなさい。」どうか、私たちひとりひとりがいつもイエス・キリストから目を離さないでいるように祈ります。
二つ目は 「見渡しなさい」と言われたかことです。
神様はアブラハムに「あなたのいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。」と言われています。彼は今、ベテルとアイの間にいます。そこは肥沃な地ではありません。ロトが見て捨てしまったほどに良くない荒地です。けれども、そこからは約束の地の東西南北を眺めることができます。「北」にはガリラヤ地方があります。「南」にはエシュコルの谷があります。モーセによって遣わされたイスラエルの12人のスパイが、巨大なぶどうの房を取ってきた所です。そして「東」にはヨルダン渓谷がありますし、「西」はシャロン平原と地中海が見えます。そういうところまで見渡しなさいと言われたのです。それから主は、「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。」と約束してくださいました。一部ではなく、見渡す全部です。しかも、一年、二年ではなく、永久に与える、ということです。ウマタイ宣教師に与えられた5年ビザでもなく、自分の生涯に限られている永住権でもありません。永遠にアブラムと彼の子孫に与えられるのです。
アブラムはベテルという町を見ていたでしょう。そこで、家畜を飼うには狭く、草の生えていない所を見えないと感じていたでしょう。目の前のことを見ていたのです。しかし、神様は彼に東西南北のすべてを見渡すように命じられました。
しばしば、私たちも目の前にある小さなことばかりを見てしまいます。神様の大きなご計画を見失ってしまうことがあります。xx牧者が福岡に行くと、自分の部屋で礼拝をささげるでしょう。とても狭く感じるかも知れません。でも、神様は私たちが目の前のことばかり見ていることを望みません。目を上げて東西南北を見渡すことを望んでおられるのです。
神様が動かしておられる世界は、まさに全世界です。聖書に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(全世界)を愛された。(ヨハネ3:16)」とあります。神様の愛は全世界の人々に広がっています。すべての人々に向けられているのです。
私たちが目を上げて神様を思い、まずは日本の47都道府県を見渡しましょう。アジア47か国を見渡しましょう。さらに全世界を見渡すことができるように祈ります。
私たちが、目の前にある問題ばかり見ていると、自分の問題だけが大きく見えてきます。しかし、世の中には、苦しんでいる人々が数多くいます。自分の問題が全く問題にならないほどの、はるかに大きな問題を抱えている人々がたくさんいます。実は霊的に私たちの助けを求めている方たちも数多くいます。○○牧者は「なぜ、もっと早く信じなかったか。」ということを言いました。数多くの人が、キリストの福音を受け入れた後に、「なぜもっと早く伝えてくれなかったのだ。」と訴えています。私たちが自分の問題だけを見るのではなく東西南北を見渡して行きましょう。そうして、福音を知らないで苦しんでいる人たちが見えて来るでしょう。すると、その次はどうするべきでしょうか。
三つ目は 「歩き回りなさい」と言われたことです。
神様、アブラハムに「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」ただ見渡すだけではなく、しっかりと歩き回りなさいと命じられています。彼は、まだそれが自分の所有の地になっていないのに、すでに所有の地であるかのようにみなして動きなさいと言われたのです。実際は、彼は死ぬ時にヘブロンで購入した墓地以外は、私有地はいっさいありませんでした。けれども、彼はその約束をはるかに仰ぎ見て、喜んで受け入れたのです。そして、この約束は徐々に実現していきます。400年後に、2,3百万いたと言われるイスラエルの民が、この地に入ってきて住み着きます。そして約1000年後にダビデとソロモンによってイスラエル王国が確立します。ダビデの子孫からイエス・キリストが生まれます。そして、イエス・キリストによってあらゆる国の人々に福音が宣べ伝えられるようになりました。イエス・キリストを信じて生まれ変わったクリスチャンがアブラハムに約束された祝福を受けるようになりました。それはアブラハムが歩き回る第一歩から始まりました。アブラハムは神様から言われた約束を聞いた時、目を上げて見渡すだけではありませんでした。約束を喜んで受け入れ、その場でその喜びを歩き回ることによって神様への信頼、その信仰を表しました。私たちにもその姿勢が求められています。歩き回ることです。
まずは神様の約束の御言葉を受け入れて信じることです。ロトのように現実的なことばかり計算して有益になることばかり選択することではありません。目を上げて神様の約束を考えます。それから、約束してくださった地を見渡すことです。そして、自分に与えられた約束、ビジョンが実現されることを信じて心の中で喜んでください。そのようにして神様の御言葉を信じて行くことこそ祝福です。そうすれば、アブラハムが得られた祝福を自分のものにすることができます。それが信仰ですし、信仰的な態度です。それから歩き回る行動をすることです。アブラハムの行動はどのように現われましたか。
14章を見ると、エラム王ケダラオメルの連合軍と、ソドムの王たち5人の連合軍との戦争が起きました。ソドム在住のロトたちも戦渦に巻き込まれました。ケダラオメル軍の襲撃を受け、捕虜として連れ去られてしまいした(1-12)。その知らせを受けたアブラムは、どうしましたか。
彼は、たった318人の従者を引き連れてケダラオメル軍を打ち破りました。そして、ロトとその家族はもちろん、ソドム連合軍の失った財産も取り返しました。この勝利は周囲を驚かせました。まさにソドムの王たちからすればアブラムは英雄です。ソドムの王は大いに歓迎しました。サレムの王メルキゼデクもアブラムの帰還を出迎えてくれました。彼は当時の霊的指導者として尊敬を受けていました。人々からは「いと高き神の祭司」と仰がれる崇高な王でした(14:17-18)。そのメルキゼデクがアブラムに向かって「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」と祝福しました。そこでアブラムはすべての物の十分の一を彼に与えました。
アブラムはメルキゼデクと出会うことによって、さらに信仰の目を開くことができました。この出会いがなければ、たった318人で勝利したことで傲慢になり、自分の栄光にしてしまったかも知れません。だから、アブラムは10分の1の献げ物をメルキゼデクに贈り、神様に栄光を返しました。ふたりの王がアブラムを出迎えたわけです。神である主に栄光を向けようとするメルキゼデクと、何やら人間くさいはかりごとがプンプンと匂ってくるソドムの王のふたりです。
ソドムの王はアブラムに提案しました。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」(21)。言いました。人質はソドムに返し、財産はアブラムに褒美として与えるというものでした。なかなか良い条件じゃないですか。しかし、アブラムは受け取りませんでした。「「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。 24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
アブラハムはソドム王の提案に邪悪を感じ取ったのです。メルキゼデクに出会っていなかったなら、ソドム王の提案にひそむ闇を見抜くことができなかったでしょう。本物を見ているからこそ、邪悪なものを見抜けるのです。主に栄光を帰するために10分の1を献げると共に、邪悪な関係からは富を得ないということを通して、アブラムは「所有」について神様の原則を学びました。
ここでアブラハムは神様に選ばれた者らしい価値観を持って生きていたことが分かります。彼の行動は神様に十分の一をささげて礼拝を人には卑屈なものにならないことでした。

結局、アブラハムはほんとうに霊的な価値観を持って生きていたことが分かります。最後までロトを愛しています。それは口先や言葉だけではなく、命をかけて戦うほど行う愛でした。また感謝の祈りをささげ、礼拝する信仰を持っていました。そして、神様から与えられた御言葉を信じて従う生活をしました。私たちがそういう信仰を持って生きるように祈ります。