2013年ローマ人への手紙第9講 

だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

御言葉:ローマ7:1−25
要 節:ローマ7:24,25「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

先週、私たちは、キリストにあって生きた者として思い、自分自身とその手足を義の器として神様にささげる生活を学びました。私たちは律法の指示があるからではなく、キリストの恵みのゆえに自分自身を義の器として神様にささげることができます。どうか、私たちがいつもキリストの恵み、恵みの力を知り、キリストの恵みによって生きる生活ができるように祈ります。
7章では「律法と私たちとの関係」、「律法の役割と働き」そして、「ただキリストによって」生きることが教えられています。どうか、御言葉を通して自分の状態を知り、キリストによってもたらされる聖霊に従って歩む生活ができるように祈ります。

?.律法から解放された新しい人(1−6)
1節をご覧ください。「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。―私は律法を知っている人々に言っているのです。―」とあります。法律をしている人々はその権限についても知っているはずです。たとえば、私たちは日本に住んでいるので、日本の法律に従わなければなりません。法律だけではなく、交通ルールにも従わなければなりません。しかし、人が死亡すれば、直ちに法律から解放されます。死んだ人を刑務所に入れたり、罰金を払わせたりするようなことはしません。同様に、私たちが律法の下にいる時は律法に束縛された生活から離れません。律法によってさばかれたり、律法を持って人をさばいたりしながら生きるのです。しかし、律法がイエス・キリストを信じる者に対して権限を持っていません。もはやクリスチャンは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです(6:14)。パウロはそれを夫婦関係に例えて説明しています。
2、3節をご覧ください。「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」とあります。
結婚は「人倫大事(一生における大きな行事))であると言われます。それで結婚式の時は宣誓もします。キリスト教式なら「私〇〇〇は、この女/男△△△を妻/夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、妻/夫を想い、妻/夫のみに添うことを神聖なる契約のもとに誓います」と神様と人々の前で誓うのです。最近はもっと具体的な誓約書を書いておく場合もあるそうです。たとえば「家事の分担」について夫は2階の掃除と風呂・トイレ掃除は責任を持って行います。また、週末の買い出しには夫が運転して同行します。「両親の介護」について夫と妻は、どちらかの両親に介護が必要になった場合、お互いに協力しながら献身的な介護をするようにします。「子供への愛情」について夫と妻は、子供に愛情を持って接し、真剣に養育していくことを誓います。と言うようなことです。それで、結婚した夫婦はこういう誓約に拘束されます。それだけではありません。妻は夫に拘束され、夫も妻に拘束されます。聖書によると「妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いの権利を奪い取ってはいけません。(?コリント7:4,5a)。」従って結婚は本当に慎重に考えて決定しなければなりません。二人の生涯を決定する最高の大事であるからです。そして、結婚したら、離婚を考えたらいけません。聖書では離婚を許していません。結婚すると楽しいことばかりではなく、つらいこともいやなこともあるでしょう。それらのことを乗り越えていかなくてはなりません。しかし、配偶者が死んだ場合は違います。夫が死ぬと妻は自由になります。夫が死んでから妻が再婚しても姦淫になりません。あまりにも早く再婚すると、周りから言われるかも知れませんが法律的には自由です。それと同じように、私たちクリスチャンも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。私たちはキリストの十字架の死とともに律法に対して死にました。私たちは律法と死別して「さよなら!」としたのです。つまり、律法は存在し続けますが、私たちに対する権限を持たなくなりました。それでクリスチャンは律法から完全に自由な身になりました。そして、今は死者の中からよみがえられたイエス様と再婚するようになりました。
4bをご覧ください。「それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」とあります。私たちは死者の中からよみがえられたイエス様と結ばれて新しい結婚生活を始めるようになったのです。皆さん、結婚するとどうなりますか。夫婦が真実に愛し合って結ばれる実が子どもです。同様に、私たちがイエス様と結ばれて神様のために実を結ぶようになりました。まことの夫であるイエス様を愛し、愛の実を結ぶようになったのです。イエス・キリストと交わるうちに御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22〜23)」が結ばれていくのです。
6節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」私たちが律法の下にいる時は律法に縛られて律法的な生活をしました。律法によって高ぶり、律法によって人をさばき、自分をさばいて自虐する時もありました。古い文字による生活は厳しく、冷たい者でした。しかし、今は、新しい御霊によって仕えているのです。古い文字に従って義務的に神様に仕えるのではなく、新しい御霊によって仕えています。キリストの恵みを感じ、悟り、その恵みに圧倒されて神様に仕えているのです。
それで、私たちは今までのように死のために実を結ぶのではなく、神様のために御霊の実を結ぶようになりました。つまり、私たちのために死んでくださったイエス・キリストの死のゆえに、私たちは律法に対して死に、律法から自由になりました。私たちは律法の束縛から解放されて聖霊に導かれる生活ができるようになりました。私たちが聖霊に従うと、聖霊は、私たちのうちに愛を持って働いてくださいます。そこに真の自由と平安があり、豊かな恵みがあります。何よりも律法とは別れて真の夫であるイエス・キリストに結ばれていのちの実、聖霊の実を結ぶようになりました。それでは、どういうことになりますか。律法は無視して捨てるべき罪なのでしょうか。律法は悪いものでしょうか。それに対するパウロの答えに耳を傾けましょう。

?.律法の役割と働き(7−13)
7,8節をご覧ください。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」とあります。律法は必要不可欠なものであることを教えてくれます。律法がなければ、私たちは自分が罪人であることが分からず、自分の罪深い性質の限界が分かりません。律法は罪を明らかにします。これが律法の役割です。パウロは自分の経験から実例を挙げています。彼はむさぼりの問題を抱えていましたが、律法が与えられるまでは、それに気づきませんでした。
恐らく、ここにいらっしゃる皆さんも善良な市民としてそれほど悪いことはしていないでしょう。実際に、皆さんの顔を見ると、法律がなくてもいいように見えます。でも、教会では自分こそが罪深い者だと告白する方が多くいます。なぜなら聖書勉強を通して、段々自分が罪人であることを知るようになるからです。聖書の御言葉は鏡のように私たちの罪人としての姿を映してくれます。もし早く聖書勉強をしなかったら自分の霊的状態を診察することができなかったでしょう。自分の惨めな状態を知らずに生きていて霊的状態が直せないほどに臭くなって行ったかも知れません。 
この間、私は夜遅く妹から電話で10年前ガン手術を受けた弟のことを聞きましたが、その後「ガン」という病気について考えました。ガンは恐ろしい病気です。私の父も母もガンで亡くなりました。ところがガンが恐ろしい病気であると分かっていても、それが直接自分と関係がなければ、人々はあまりそれを気にしません。たとい自分が相当に重いガン患者であっても、特別の自覚症状がなく、検診を受ける事もなければ、その人はまだ自分の体の中のガンの恐ろしさを真剣に考えないでしょう。ただ、気づかないうちにガンの末期になり、死んでいくのです。しかし、医者の診察でガンの早期発見ができれば、治癒も不可能ではありません。つまり、医者の診察を通して自分の状態が分かるようになるのです。同様に、私たちは律法を通して自分の罪深い状態を知ることができます。そういう意味で聖書勉強を通して自分の罪を悟ることは大切なことです。それはガン患者が治療を受ける前に正確な検査を受けなければならないことと同じです。イエス様に出会って救われるためには、まず自分の罪を知る必要があります。その時、律法は私の罪を悟らせてイエス様に導いてくれる役割を果たすのです。ですから、この律法は信仰生活において必要なものです。恵みの下にあるからといって、律法を無視すると恵みを恵みとして知ることができません。律法の役割は必ず必要なのです。

?.ただ、私たちの主イエス・キリストによって(14‐25)
14節をご覧ください。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」とあります。私たちは罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。ですから、自分がしたいと思うことをしないで、自分が憎むことを行なっているのです。
17節をご覧下さい。「ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」パウロはそれを通して自分のうちに善をしたいという願いはありますが、それを実行する力がないことがわかりました。すなわち、自分の力によっては兄弟を愛することができないことを悟ったのです。このような葛藤を通してパウロは一つの原理(principle)を悟りました。
 21節をご覧下さい。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」ここで私たちは人間がどんな存在であるのかを学ぶことができます。これは聖書的な人間観です。人間には善をしたいという本来の自我とそれができないようにする罪の勢力があります。ところが善をしたい力より罪の力がもっと強いのが問題です。23節で言っている律法とは力、勢力を意味することばです。私の中にはいつも善と悪との勢力が戦っています。ところが、この戦いにおいて善が悪の勢力に負けてしまうのです。それが問題です。
ここでパウロは自分の力では何もできないことを悟り、絶望します。
24節をご一緒に読んでみましょう。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」彼は自分が本当にみじめな存在であることを悟りました。パウロだけではなく、アダムの子孫である私たちの肉体や体の器官のうちには本当に惨めな罪の勢力が宿っています。堕落したアダムの家系に生まれた、この現実が、私たちを罪深い性質を持つ惨めな罪人にしているのです。私たちは罪からの解放が必要です。これが自由になる唯一の方法です。パウロは「いったい、だれがこの私を救い出してくれるのだろうか。」と叫んでいます。誰が、私たちのこの死に行く、生まれながらの性質から、解放してくれるのでしょうか。誰が私を支配している罪の勢力から自由にしてくれるのでしょうか。その時、勝利の叫びがもたらされました。
25節をご一緒に読んでみましょう。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」彼は深刻な絶望の中で自分を救ってくれる誰かに助けを求めました。そして、彼はみじめな自分を救ってくれるお方に出会いました。彼は惨めな自分の状態に絶望したのですが、それにとどまらず、問題の解決者となられるイエス様を見上げたのです。暗闇の中から光を見つけることができました。ただ、私たちの主イエス・キリストに答えがあったのです。そうです。イエス様だけが罪と死の勢力から自分を救うことができる唯一の方です。
私たちは罪に対してはすでに死んだ者です。ただ、神様に対してはキリスト・イエスにあって生きた者です。律法を知れば知るほど、分かりますが、律法は私たちを殺すところまで導いて行きます。そして、「私はどうしようもない、救いようのない、みじめな人間だ。」と叫ばせるところまで導きます。律法によって、私たちはキリストに追いやられて行きます。それで、私たちは自分に対して絶望し、死んでいきます。その時に、私たちはただキリストに頼らなければなりません。私たちは神様の一方的な恵みによって私たちの身代わりに死んでくださったイエス様を受け入れ、信じているからです。その信仰によって私たちはキリストの死と共に罪に対して、律法に対しては死んだのです。ですから、律法は悪くありませんが、律法にとどまっていてはいけません。私たちの主イエス・キリストのゆえに、私たちは律法に縛られている必要がありません。律法の支配から救われているからです。今はイエス・キリストによって神様との新しい関係、いのちの関係が形成されました。どうか、このイエス・キリストによって新しい結婚関係、キリストに結ばれた者であることを、確信して生きるように祈ります。

私たちは正しくきよく生きようとしますが、なかなか思いのとおりにならない時が多くあります。自分が憎んでいる悪を行ない、絶望する時もあります。そうなった場合は言い訳を言わないでください。自分の罪を軽く思ったり、甘えたりしないでください。神様の御前に悲しみ、嘆きましょう。それから、私たちの主イエス・キリストを仰ぎ見ましょう。十字架の死によるキリストの贖いと赦しを信じましょう。よみがえられたキリストが聖霊によって私たちとともにおられ、助けてくださることを信じましょう。そしてパウロのように「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と告白して行きますように祈ります。すると、聖霊が、私たちのうちに留まれ、私たちをイエス・キリストの御姿にまで成長させてくださいます。