2013年ローマ人への手紙第8講

あなたがたの手足を義の器として神にささげなさい

御言葉:ローマ人への手紙6:1−23
要 節:ローマ人への手紙 6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 先週、私たちは信仰によって救われた人々が得られる神様の恵みと祝福を学びました。私たちは神様との平和、天国への望み、何よりも神様ご自身を喜ぶ恵みをいただいています。そして、これらの恵みは律法にまさるものです。では、律法にまさる恵みを受けた私たちはどのように生きるべきでしょうか。パウロは私たちクリスチャンが罪から避けるだけではなく、積極的に私たちの手足を義の器として神様にささげるように勧めています。ここで、私たちは知っていること、思うべきこと、ささげることについて学ぶことができます。どうか、私たちが知っていることを確認し、自分自身についてどのように思い、どのように行動すべきかを学ぶことができるように祈ります。

?.私たちが知っていること(1−6)
 1節をご覧ください。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とあります。パウロは1章から5章までにおいて、私たちがどのようにして義と認められたか、救われたかを説明して来ました。そして、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いました。すると、もっと多くの恵みに与かるために、ますます罪を犯し続けようではないかと言えるようになります。それに対してパウロは、「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」と問いかけています。それから、「絶対にそんなことはありません。」と言い切っています。「とんでもない。」ということです。その理由は「私たちは罪に対して死んだ」からです。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」と言っています。ではいつ死んだでしょうか。
3、4節をご覧ください。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とあります。イエス・キリストの死が私たちの死となり、キリストの復活が私たちの復活になった根拠は私たちがバプテスマを受けたからです。
5節をご覧ください。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」とあります。バプテスマを通して私たちはキリストにつぎ合わされました。先々週、私たちは洗礼式を行ないましたがバプテスマを授ける時、水をつけました。それはイエス・キリストの十字架の死ともに死んだし、イエス・キリストの復活とともに生き返られたということを表わすことです。
こういう観点から見ると、頭に水をつけるような洗礼式よりは全身を水の中に浸すバプテスマの方がもっと実感できると思われます。私は軍隊にいた時、バプテスト教会に通い、牧師先生の手伝いもしましたが、そこではプールや大きい銭湯で洗礼式を行ないました。牧師先生は聖徒を水の中に浸します。聖徒はひざまずき水の中に溺れますが、その時、彼はイエス様とともに死に、葬られたのです。それから牧師先生はしばらく沈んでいた聖徒を水の中から立たせます。その時に、彼はイエス・キリストとともによみがえられたのです。私たちもどこかのプールを貸切してそのようにバプテスマを行なうならもっと実感できそうでしょう。しかし、水のバプテスマによって私たちがイエス様とつぎ合わされるのではありません。水のバプテスマは信仰によって罪の赦しを受け、キリストとつぎ合わされた事実を公に宣言する儀式にすぎません。
使徒10章を見ると、ペテロの教えによって人々はイエス・キリストを信じ、聖霊を受けました。その時、ペテロは 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか」と言い、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じました(47,48)。つまり、人々はペテロの説教を聞いてイエス・キリストを信じ、同時に聖霊のバプテスマを受けてからから水のバプテスマを受けたのです。
同様に、私たちは水のバプテスマによってではなく、イエス・キリストを心から信じて私の主・キリストとして告白する瞬間にキリストとつぎ合わされた人になりました。それが聖霊のバプテスマです。私たちクリスチャンはみんなが聖霊のバプテスマを通してイエス・キリストと一つになったのです。そういうわけで、私たちは何を知っていますか。
 6節をご一緒に読んでみましょう。「「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」ここで「知る」という単語のギリシャ語の意味は「経験によって知る」ことです。パウロは自分の経験を通して古い人、罪のからだが死んだこと、もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを知っていました。事実、私も知っているし、皆さんも知っているはずです。私の古い人は非常に人間的です。だから、宣教師になる時も、私は長男として知的障害を持つ子どもがいる親のことが心配になりました。ところが、神様は私が親の面倒を見ることよりも神様が守り、助けてくださるということを悟らせてくださいました。それでまだ、罪の欲を持ち、罪を犯したりもしますが意思決定はもはや罪の奴隷ではなく、神様の奴隷として生きて来たのです。なんだか、不思議な力によってここまで導かれて来たことを知っています。
7‐10節をご覧ください。「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」とあります。
十字架を見上げてそれを信じる者は、「罪のからだ」が滅びました。これから、もはや私たちが罪の奴隷になることはないのです。「キリストと一緒に死んで一緒によみがえる」という二つのことをパウロはずっと一緒にしています。キリストと共に生きること、キリストと共によみがえることはとても大切なことです。ここで「よみがえる」という言葉には将来の意味もあるし、キリストが復活したときにキリストと共に「よみがえった」という意味もあります。毎日の生活において新しい歩みをするということは、復活のいのちの歩みなのです。

?.私たちが思うべきこと
11節をご一緒に読んでみましょう。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」ここで、私たちがどういう考え方、どんな認識を持って生きるべきかをはっきりと教えています。私たちは古い人ではありません。罪に対しては死んだ者です。ですから、私たちは常に、「古い自分はもう死んでしまった」と思わなければなりません。そして、「私は、もう新しい人になった」と思うのです。私たちはキリスト・イエスにあって生きた者なのです。
古い人は奴隷根性のために感謝もせず、何でも人のせい、環境のせい、時代のせいにしながら不平不満の生活から解放されませんでした。しかし、今は違います。以前より積極的になりました。キリストにあって生きた者になったからです。皆さんのそうでしょう。先週、基礎勉強会の時にウマタイ宣教師が変えられたことが話題になりました。過去、彼の名前の通りに罪とサンシク(常識)にとどまる生活でした。宣教師になってからもなかなか変わりませんでした。いろいろな言い訳を言いながら賛美部長になることも否定的に思いました。しかし、東京UBFの賛美部だけではなく、日本UBFの情報通信部の働きにおいても大きな役割を果たしています。すると、今はいのちにあふれているように見えます。それは主のみわざに仕えながら古い自分を忘れ、新しい自分が「生きた者、宣教師」であると思って生きるようになったからでしょう。何よりも、キリスト・イエスにあって生きた者として思う彼のうちに宿っておられるキリストのいのちが働いておられるからです。
私たちが自分に対してどう思っているかということはとても大切です。この間、テレビで見たのですが、ある幼稚園の子どもたちが綱引きをしていました。A、B、Cの3チームでしたが、私服のまでやって一回目はAチームが一位でB、Cチームの順位でした。ところが、次にはCチームだけは全員に体操着を着させると子どもたちは自分たちが一位になると思うようになりました。指導する先生がそう思うように指導したからです。すると、二回目の綱引にはビリだったCチームが一位になりました。全く同じメンバーだったのにどう思うかによって結果が違って来たのです。私たちも「罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者である」と思う時に、生きた者らしく生きるようになります。「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いましょう。」(みなさん!一緒に言ってみましょう。「私は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思います。」)私たちが、そのように自分認識をすると、私たちの人生は実際に変わります。 正しい自己認識をしてからはどういう生活をするべきでしょうか。

?.私たちが持つべき行動
12、13節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」私たちの身分は変わりました。キリスト・イエスにあって生きた者になりました。ですから、どうするべきでしょうか。私たちの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。私たちのからだを罪の支配にゆだねて置くなということです。もし、私たちが罪の支配にゆだねて置くと、邪悪な情欲に従ってしまいます。私たちは罪に対して死んだのですが、罪はまだ生きています。罪は力強く働いています。再び私たちのからだを支配しようとしています。私たちはその罪の支配に自分をゆだねてはいけません。罪にゆだねるかどうかの選択権は私たちにあります。私たちはイエス・キリストの十字架の死とともに罪に対しては死にました。罪の代価を払ったのです。私たちはそれを知っています。もはや罪の奴隷ではないということを知っています。さらに神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思っています。ですから、再び騙されたり誘惑されたりして罪の支配に自分をゆだねて、その情欲に従ってはいけないのです。もし、罪の支配にゆだねるなら、私たちは罪の奴隷になってしまいます。しかし、今は私たちの身分が変わりました。私たちが罪の奴隷に戻ることは不可能です。なぜでしょうか。
17、18節をご覧ください。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」私たちは絶対に罪の奴隷に戻ることはできません。20節を見ると「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」とあります。その時は義を行なう義務も責任もありませんでした。その結果、どういう生活をしていましたか。
21節をご覧ください。「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」とあります。その時に、何も良い実を得ることができず悪い実ばかり結んでいました。しかし、今は私たちの状態が違います。19、21、22節を見ると私たちが今はどんな状態になったのかが記されてあります。「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」「今ではあなたがたが恥じているそのようなものから。」「今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」とあります。今は義の奴隷になりました。神の奴隷になりました。今は聖潔に進む者になりました。過去のようにやっていた恥ずかしいことはできなくなりました。ですから、私たちが自分の手足を罪の支配にゆだねるなら、私たちの大混乱に陥ってしまいます。過去の罪の奴隷であった時よりも苦しくなります。過去と同じ罪を犯してももっと苦しくなり、死の苦しみを味わい、結局は滅んでしまいます。自分を罪の奴隷として罪にささげることになってしまうのです。従って私たちはどうするべきでしょうか。
もう一度13節をご一緒に読んでみましょう。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ここで、パウロは私達の体を器として表現しました。器は使い方によって不義の器にもなれるし、義の器にもなれます。同じ手で人を殴ることもできるし、愛する人を抱きしめることもできます。足で人を蹴ることもできますが、人々のケアーのために走る回るために使うこともできます。ですから、私たちが自分自身と手足を誰に捧げるかは大切なことです。聖書は「義の器として神にささげなさい。」と命じています。このことばは神様のために積極的に行動することを命じています。罪の支配にゆだねることが自然にできるようなことです。決意を新たにするとか、悔い改めて新しい出発しようと強く決断する必要がありません。しかし、自分自身とその手足を義の器として神様にささげることは積極的に行動することです。熱心に活動するのです。ではどうやって私たちが自分のからだを神様にささげるとどうなりますか。
14‐16節をご覧下さい。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」ここも、パウロは律法の下にではなく、恵みの下にあることを教えています。そうです。私たちは恵みの下にあるからこそ義の器として神様にささげることができます。恵みは私たちに感動と感激を与えてくれます。恵みはやる気を思い起こします。恵みは人を強くします。恵みは神様の栄光ならいのちさえもささげるようにします。律法の教えより恵みが人を動かします。私は今回ローマ人への手紙を学びながら「恵み」の世界を悟って理解し、ますます恵みを受けています。
私は中学校卒業式の時、善を行なったことで「善行賞」を受賞したことがあります。その時、母は町中の人々から称賛され、どのようなことを子どもに教えたのかとよく聞かれたと嬉しげに言いました。でも、母は小学校も通ったことがないし、文字を読むこともできませんでした。実際に、母からは何か教えられたことも、叩かれたこともありません。ただ、私の心の中に母の献身的な愛による恵みが支配していました。母の恵みのゆえに、私は規則や礼儀などを良く守る良い子でなければならないと思っていたのです。すると、教育ママからいろいろ教えられた子どもたちよりも多くの善を行ない、善行賞を受賞することができたのです。同様に、神様の恵みを知れば知るほど神様の律法に従おうとする心が生まれてきました。私は平信徒として自分の仕事だけでも精一杯です。先週まで学校は春休みでしたが、学校に行かなかった日は一日だけでした。その上に非常に足りないけれども毎週の主日礼拝のメッセージを伝え、日本とアジアUBFの支部長としての役割も担っています。ところが何一つ嫌なことはありません。自分が足りなくてもすまない心はありますが、もっと積極的に義の器として神様にささげたいと思っています。それは私に注がれた神様の恵みを大きく、それを知っているからです。
もう一度15節をご覧ください。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」そうです。本当に恵みの下にあるなら、罪を犯そうとしません。恵みを知れば知るほど罪を犯さなくなります。しかも、感謝して喜んで律法を守り、罪を犯さなくなるのです。それだけではなく、ますます喜んで自分自身とその手足を義の器として神様にささげるようになります。
どうか、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられる神様の恵みのゆえにますます積極的に自分自身とその手足を義の器として神様にささげる生活ができるように祈ります。