2013年ローマ第6講

その信仰を義とみなされるのです

御言葉:ローマ人への手紙4:1-25
要 節:ローマ人への手紙 4:13“しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。”

今日は、大阪UBFから来られたxxアブラハム、サラ牧者とともに洗礼・聖餐式を行なうようになったことを心から感謝します。神様の豊かな恵みが注がれますように祈ります。
先週、私たちはイエス・キリストをその血による、また信仰による、なだめの供え物として公にお示しになった神様の義と信仰について学びました。私たちは、ただ信仰によって義と認められ、救われます。パウロは本文の御言葉で実例としてアブラハムとダビデを取り上げています。アブラハムは神様がユダヤ人に律法を与える前の人物であってユダヤ人の先祖です。ダビデは律法の時代の人であってユダヤ人の王様なの中で最も偉大な方です。パウロはこの二人が良い行ないによって救われたのではなく、信仰によって救われたという事実を説明しています。そして、アブラハムの信仰を紹介しています。どうか、御言葉を通して信仰義認とアブラハムの信仰を深く学ぶことができるように祈ります。

?.信仰によって義と認められる者の幸せ(1-16)
1、2節をご一緒に読んでみましょう。「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。」
アブラハムは、もともとは異邦人でした。ユーフラテス川のそばに発生した最古の文明、メソポタミヤ文明の大都市、カルデヤのウルで誕生し育てられました。ところが、神様が「「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられたとき、それに従いました。
昔も今も住み慣れている所から離れることはやさしくありません。先週、李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師が韓国に戻ったけれども外国人のようになっていると言われました。それほど難しいということです。17年も東京で生活をしていたリベカ宣教師にとって自分の国でも別世界になっていたでしょう。アブラハムが75年間も住んでいた故郷を離れて行くことも難しかったでしょう。でも、アブラハムは神様の御言葉に従いました。また、アブラハムは善良な人で甥のロトに良い土地を譲りました。アブラハムはすべての物の十分の一をいと高き神の祭司メルキゼデクにささげることもしました。人間的に見ると、彼は本当に素晴らしい行ないをしていたのです。しかし神様の御前ではそうではありません。神様の御前で彼の行ないには失敗も多くありました。飢饉のためにエジプトに下って行った時は自分の妻を妹だと騙して王に与えて自分は多くの財産を受けとりました。奴隷のハガルと寝てアラブ族の先祖イシュマエルを誕生させました。このように、アブラハムは人を騙し、女奴隷と不倫して子どもを産ませました。不法を行ないました。でも聖書は何と言っていますか。
 3-5節をご一緒に読んでみましょう。「聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
この御言葉は創世記15章に基づいています。アブラハムは神様の約束があってから15年近い歳月が流れても子供が生まれる兆しは何も見えなかった時です。ある日の夜、神様はアブラハムを呼び出して夜空に輝く星を見せました。そして、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」と仰せられました。そして、「あなたの子孫はこのようになる。」と約束してくださいました。まだひとりの子どももいない老人のアブラハムに信じがたい約束でした。ところが15章6a節を見ると「彼は主を信じた。」とあります。アブラハムは神様の御言葉に対して「アーメン」と受け取ったのです。これこそ奇跡でしょう。神様を驚かせ、感動させる信仰でした。そこで神様はその信仰を彼の義と認められました。(5b)」アブラハムは行ないによってではなく、ただ神様を信じる信仰によって義と認められ、救われたのです。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。一生懸命に働いて給料をもらうのは当たり前のことです。しかし、何も働かなかったのに、給料をもらうなら、それは恵みです。もしアブラハムが自分の行ないによって義と認められたなら、それは行ないの結果です。働いた人が報酬を受け取るようなことでしょう。しかし、アブラハムは神様の御前で失敗し、罪を犯したにもかかわらず、不敬虔な者を義と認めてくださる神様を信じ、その信仰が義とみなされたのです。ダビデも同じです。
 6-8節をご一緒に読んでみましょう。「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」
ここに、ダビデの実例が取り上げられています。ダビデはイスラエルの歴史の中で最も輝かしい人物、最高の王でした。しかし、彼の行ないによっては幸いな人になりませんでした。彼が不法を行ない、罪が赦されなかった時は苦しみの連続でした。彼はある日、忠実な部下ウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、その罪を隠すためにウリヤを激戦地に送って死なせた時の苦しみに対して「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。(詩32:3,4)」と告白しています。彼のたましいはいのちと光を失い、暗闇と死の陰に座っていました。不安と恐れのためにうめいていました。
ところが、神様の御前で悔改めたとき、彼は罪の赦しをいただき、その罪の赦しが嬉しくて、詩を書きました。「不法を赦され、罪を覆われた人たちは幸いである。主が罪を認めない人は幸いである」とあります。彼が神様のあわれみを信じて、このいつくしみをいただいた時に至上の幸福を体験したのです。王になったこと、財産を得たことではなく、罪が赦された時に幸いな人になりましたダビデは良い行ないによってではなく、ただ神様の赦しを信じることによって義と認められ、幸いな人になったのです。このように、アブラハムも、ダビデも行ないによってではなく、信仰によって義と認められた時に幸いになったのです。
9、10節をご覧ください。「それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。」とあります。パウロは行ないだけではなく、割礼によってでも救われず、信仰によって義と認められることを証しています。アブラハムは義と認められてから14年後に割礼を受けました(99歳)。割礼を受ける14年前(85歳)にすでに信仰によって救われていたのです。ですから、ユダヤ人が自分たちは割礼を受けたのだから救われているというのは間違っているのです。
今日、私はイエス様の命令に従ってバプテスマを授けます。xx姉妹は数年前から待ち遠しいと思っていたことでしょう。私はその純粋な信仰に感動しています。私自身もこの洗礼式を準備しながら髪の毛を切りました。でも、バプテスマは割礼と同じく一つのしるしと儀式にすぎません。ある人は自分が数十年前にバプテスマを受けたことを誇ります。しかし、それも無意味なことです。受洗した歴史が大切ではなく、今の信仰が大切なのです。
11,12節をご覧ください。「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」とあります。その通りです。従って、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは、新しい創造です(ガラテヤ6:15)」とパウロは言っています。
 次にパウロは律法によってでも救われないことを証しています。
13-16節を読んでみましょう。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信 仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」
もし、アブラハムが律法をよく守ることによって救われたとしたら、彼は律法時代に生きていなければなりませんでした。しかし、律法はアブラハムが信仰によって義と認められてから430年後に与えられたものです。そのアブラハムをユダヤ人は父と呼び、私たちクリスチャンもアブラハムを信仰の父と呼んでいます。それは「信仰による、約束による、恵みによる」からです。つまり、アブラハムとユダヤ人の関係も、私たちクリスチャンとの関係も人の行いによらないで、信仰によるのです。結局、人は行いや割礼によってでも、律法によってでもなく、ただ、イエス・キリストの血による贖いを信じる信仰によって救われます。では信仰とはどういうことでしょうか。パウロは信仰の先祖アブラハムのことを紹介しています。

?.アブラハムの信仰(17-25)
17−22節を読んでみましょう。「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」
アブラハムはあらゆる面で大いなる祝福を受けました。私はこの日本において寺崎アブラハムも、xxアブラハムもそうなることを期待し、信じています。今日アブラハムの子孫たちは、地のチリのように、空の星のように、海辺の砂のように多いです。実に彼は多くの、諸国民の父となったのです。それは、彼が神様を信じたからです。ではアブラハムが信じた神様とは、どういうお方でしょうか。それは死者を生かす神であり、無い世界、無の世界に向かって「あれ」と宣言するならば、無いものから、あるものが存在するようになる、そういう神様を信じたのです。
創世記を読んで見ると、本当にそうです。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。ところが神様が語ることばにって、無いものの世界から、あるものの世界に、あらゆるものが造られたのです。
金サラ宣教師は看護学科を卒業しましたが、肝炎が酷い状態で入院した時に何の希望もありませんでした。しかし、「無いものから、あるものが存在する」というこの御言葉を通してあるものをないものにしてくれると信じたそうです。するとサラ宣教師のからだにあった病菌が無くなりました。それで、看護師になってサウジアラビアの宣教師になりました。その後日本宣教師になりました。
東京UBF教会も26 年前は存在しませんでした。皆さんもいらっしゃらなかったし、建物もありませんでした。どうしてこういう教会が生まれたでしょうか。恐らく神様は、無いものを有るもののように呼びだしてくださったのだろうと思われます。だから、今の東京UBF,日本UBFと言う教会があるのです。アブラハムの信仰の特徴は望みえないときに望みを抱いて信じたことです。彼は望み得ないという状況に追い込まれて、それにも関らず望みを持ったのです。「それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」パウロはこのようにしてアブラハムの信仰についてまとめています。では「信仰によって義と認められる」と言うことはアブラハムだけに当てはまることでしょうか。いいえ。
23−25節を読んでみましょう。しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
神様がアブラハムを義とみなされた目的は、同じ信仰を持つ私たち皆を義とみなされるためでした。同時に、救われることは願うなら必ずアブラハムのような信仰を持つべきことを教える目的もありました。つまり、神様はアブラハムの信仰が彼の子孫、海辺の砂のように多くなる信仰の子孫、私たちにも影響されて行くことを望んでおられたのです。さらに、私たちを通して私たちの子孫にアブラハムの信仰が影響されることを望んでおられました。
新渡戸稲造の「武士道」15章にこう書いてあります。「武士道の道徳は、わが国民生活の一般的な水準よりも、はるかに高い山脈を形成しているが、私はこれまで、その中のさらに高いいくつかの峯を考察したにすぎない。太陽が昇るときは、まず最も高い峯の頂上を紅に染めて、それから次第にその光を谷間に投げかけてくるように、まず武士道階級を照らした道徳の体系は、時間がたつに従って、一般の民衆の間からも、それに追従する者が出て来た。」とあります。つまり、武士道は日本国民の道徳水準よりもはるかに高かったけれども、武士道に追従する人たちがいたからこそ一般の民衆に道徳水準も高くなっているということでしょう。(素晴らしい展開です。新渡戸はこう書いてアメリカの国民に日本人が高い道徳を持っているとアピールしたのです。)同様に、アブラハムの信仰の水準は高いけれども、私たちがそれに従おうとするときに、アブラハムの信仰に感化されて高い水準の信仰に成長して行くのです。そのうちにアブラハムの信仰は私たちを通してもこの日本の世界、私たちの子孫にも影響を及ぼして行くのです。
そういう点でもう一度アブラハムの信仰をまとめますと、第一に望みえないときに望みを抱いて信じる信仰です。つまり、目の前が真っ暗になった時も、信じたということでしょう。その信仰によってユダヤ人だけでも4000年間数えきれないほどの子孫が生まれました。現在でもユダヤ人が世界に2000万人ほど生きているそうです。アブラハムのように信仰によって義と認められた彼の霊的子孫は想像することさえ難しいほどの子孫が生まれました。現在のクリスチャンだけでも15,16億人が世界に住んでいます。
第二に成長する信仰です。彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。アブラハムの生涯を見ると信仰が弱くなるようなことを何度も経験しました。なかなか子どもが生まれなかった時、奴隷のハガルを通して子どもが得られた時はあきらめ、人間的な方法で得られたことだけ満足することもできました。しかし、彼の信仰は弱くならず、ますます強くなり、最後はただひとり子のイサクを全焼のいけにえとしてささげることもできるほどに成長したのです。
第三に神様の恵みによって成長する信仰です。アブラハムの生涯を考えて見ると、神様がアブラハムのところに御使いを遣わし、御言葉を与えています。つまり、神様が彼を助け、導いてくださいました。私の半世紀の人生を顧みてみると、今日まで来たのは神様のあわれみによる助けと導きがあったからです。
私もアブラハムのように、もともとは異邦人であり、何も望みえないような人間でした。実際に、時には厳しく、時には苦しく、辛く、時には悲しいことを経験して来ました。でも神様は私に望みを与え、望みのとおりになることを何度も体験させてくださいました。罪深い者ですが、神様は価なしに、無代価で、イエス・キリストが払ってくださった血の代価によって、その贖いによって、一方的な恵みによって、それを信じる私を赦し、きよめてくださいました。私はただ信仰によって救われ、義と認められているのです。ですから今日もその信仰によって洗礼・聖餐式を導きます。
どうか、私たに落胆があり、失望があり、絶望があっても、信仰が失うことなく、弱くなることもなく、神様を信じ、イエス・キリストの十字架の血による贖いを信じて行きますように祈ります。