2013年ローマ人への手紙第4講 

心の割礼こそ割礼

御言葉:ローマ人への手紙2:17〜3:20
要 節:ローマ2:28、29「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
 
先週、私たちはすべて他人をさばく人の罪、ユダヤ人の罪に対する神様の正しいさばきを学びました。今日もユダヤ人の具体的な罪が指摘され、すべての人が神様のさばきの下にあることを学びます。三週間も続いて罪とさばきに関するメッセージなので今日も罪のことなのかと思われるかも知れません。事実、私の心も軽くありません。しかし、パウロは私たちを罪に定めるために、この手紙を書いたのではありません。私たちが神様に対する心の態度を正しくし、救われるために書きました。今日も御言葉を通して罪人である自分を深く認め、イエス・キリストの十字架の福音を信じて救われますように祈ります。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです(1:17)。

?.本物のユダヤ人、本物のクリスチャン(2:17-29)
2章17-20節をご覧ください。「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」とあります。ここにユダヤ人が誇りに思っていることが記されてあります。
第一に、自分たちは神様に選ばれた選民ユダヤ人であるという誇りを持っていました。実際に、神様は彼らに祭司の王国、聖なる国民としての使命を与えられました。だから、彼らははっきりとした使命意識を持ち、その使命を果たすために励まなければなりませんでした。しかし、神様に選ばれた民としての選民意識が特権意識になっていました。祭司としてへりくだって世界の人々に仕えるべきなのに、いつの間にか、傲慢になってしまったのです。これは私たちクリスチャンにも当てはまることです。神様は私たちを王である祭司、聖なる国民として選んでくださいました。それは私たちが仕えられるためではなくへりくだって人々に仕えるためでした。それが特権意識になっては、本末転倒です。キリストが弟子たちの前で膝まづき、彼らの足を洗われました。その姿を思い浮かべると、弟子たちの幸せそうな顔がイメージされます。私たちクリスチャンキリストのように人々に仕えるためために選ばれているのです。
第二に、自分たちは律法を持っているという誇りを持っていました。ユダヤ人には、出エジプトの後に、十戒を基本とする律法が与えられました。彼らは律法を通して神様の御心を知り、その通りに行うためでした。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛し、隣人を愛するためだったのです。しかし、彼らは律法を持っているということに安住して、それを行なおうとしませんでした。私たちにも聖書の御言葉が与えられていることは誇りです。ただ、それを守り行わず、知識だけを振り回してしまうなら、それは問題です。
第三に、聖書の神様を知っているという誇りを持っていました。虚しい偶像が満ちている世界で目に見えない唯一の神様を知り、信仰を持っていることは素晴らしいことです。ただ、それもユダヤ人が優秀だったからではありません。なのに、信じている神様を大切にして誇るのではなく、神様を信じている自分をもっと考えてしまうことは問題です。それこそ自己中心である高慢です。
第四に教師であるという誇りを持っていました。つまり、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任していたのです。彼らが行く先々で会堂を建てて教えていることも素晴らしいことです。問題は教えることに、とどまり、自分を教えていないことです。特に、自分を教えないために高慢になっていることです。そこで、パウロは何と言いますか。
21-23節を読んでみましょう。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」ここに、自分が人を教えていると自任している人たちの問題が指摘されています。彼らには五つの問題があります。「自分自身を教えない問題」「盗む問題」「姦淫する問題」「偶像崇拝の問題」「律法を違反している問題」です。これらの問題は一般の人々にとっても大きな問題です。しかし、これらの問題について知っていて教えながら自分も同じことを行なっているならそれこそ大きな問題です。それは人をだますことであるだけではなく、自分をだまし、神様をだましてしまう恐ろしい罪だからです。私たちが御言葉を教えることは素晴らしいですが、それによって自分をごまかすようなことをしないように気をつけなければなりません。私たちは教えることによって私たちが救われるのではありません。私たちは、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われます。イエス・キリストは私の罪のために、私の咎のために、あの荒削りの十字架につけられました。私を罪から、永遠のさばきから救うために死んでくださいました。よみに下られ、3日目に死者の中からよみがえられました。その復活の日が主日です。ですから、私たちは主日礼拝に来る時も、ただ礼拝があるから、自分が担当している奉仕があるからではなく、神様の御前でへりくだり、罪人の心で出てくるべきです。
20世紀最大の伝道者であるビリ・グラハム牧師は「私が救われるのは、私が数十万人の人を主に導いたからではありません。私が罪人であるから神様の御前で救われたのです。」と言いました。私たちが神様の御前で誇れるものは何もありません。世界的なUB教会のメンバーだから、まじめな人だから救われるのではありません。ビリ・グラハム牧師ほどではありませんが、多くの人を伝道したと言える人もいるでしょうか、それによって救われるのではないのです。むしろ、自分の行ない、自分の身分、自分の知識などを誇るなら、その高慢のために、悪人より一層悪い大きな罪に陥ってしまいます。自己中心という偽善と高慢の罪です。ある注解者は「善いことの中にこそ、悪魔は最大の毒を注ごうとする」と書きました。本当にその通りです。
24節をご覧ください。「これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」とあります。高慢と偽善が及ぼす悪影響は恐ろしいものです。建前として真面目で謙虚の行動をしますから、隠れて罪を行なうので、それによって自分を騙し、人を騙してしまいます。そのようなクリスチャンのゆえに、聖なる神の御名が汚されているのです。
最近、数年間韓国のキリスト教人口が減っています。その原因はクリスチャンリーダーの言行不一致だそうです。特に、教会の信徒が一万人も超える教会の牧師先生の言行はマスコミも注目しているので言行不一致が報道されると、人々はキリスト教に対して悪口を言うのです。ひとりの不道徳、言行不一致のためにキリスト教の教会全体が辱められます。引いては神様の御名が汚されてしまいます。
人々は聖書のことや、イエス様の教えのためにキリスト教を非難するのではなくクリスチャンの偽善と高慢が見られた時に、キリスト教全体を非難するのです。ですから、私たちは偉そうなことを言わないで、ただイエス・キリストを信じることによって生きなければなりません。イエス・キリストを信じているというのはイエス様との関係を保っているということでもあります。自分が罪人である自覚、その謙虚な心からイエス・キリストの十字架の贖いに感謝することです。その十字架の恵みのゆえにますます神様を愛し、隣人を愛して行くことこそ私たちが大切にしなければならないことです。私たちが本当に謙遜になって自分の罪を悔い改め、神様に感謝する生活をするなら、そこから力も出てきます。そのためには私たちの心の態度が大切です。
25-28節を読んでみましょう。「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。」とあります。
割礼は、アブラハムが神様との契約のしるしとして受けています。創世記17:10-12を見ると「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」とあります。この割礼は、外観上の意味だけではなく、内面的にも神様の民であり、神様のご命令に従うことを確認する大切なものでした。割礼を受けたから神の民なのではなく、神の民になったしるしが割礼なのです。ところが、ユダヤ人は割礼を受けたからこそ、アブラハムの子孫として神様の選ばれた民だと思っていました。しかし、割礼を受けているからアブラハムの子孫ではなく、アブラハムの子孫としてのしるしが割礼なのです。パウロが言っているとおりに「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。では、どんな人が本物のユダヤ人なのでしょうか。
29節をご一緒に読んでみましょう。「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」外見や割礼の儀式が重要なのではなく、内なる敬虔や心の態度が重要なのです。「人目に隠れたユダヤ人」とは、自分がユダヤ人であることを隠して、こそこそしているという意味ではありません。隠れたことでも常に見ておられる神様の御前に真実に歩んでいる本物のユダヤ人という意味です。言い換えると「文字ではなく、御霊による、心の割礼」を受けた人のことです。 心の割礼とはどういうことを意味するでしょうか。
第一に心のかたくなさを捨てることです。申命記10:16節には「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」とあります。心の割礼とは、神の前に柔らかい心をもつことを意味しました。
第二に、肉の思い、悪の心を取り除くことです。エレミヤ4:4節には「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、私の憤りが火のように出て…」とあります。また、パウロは「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです(コロサイ2:11)」。と言いました。
第三に、心を尽くして神様を愛することです。申命記30:6節には「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」とあります。偶像や快楽に傾いている心、汚れた心を取り除き、真心を尽くして神様に仕えることこそが心の割礼なのです。
本物のクリスチャンには水のバプテスマよりも心のバプテスマが大切であると適用することができるでしょう。形式的なことよりも、聖霊による新しい誕生が大切です。「僕はバプテスマを受けた。」という事実よりも聖霊の働きによって偽善と高慢を取り除き、聖霊に満たされた生活をすることが大切なのです。私たちが本物のクリスチャンとして生きるとき、また、本物のクリスチャンホームを造って行く時に神様の御名があがめられます。しかし、クリスチャンであることに安心してしまって偽善と高慢を切り捨てなければノンクリスチャンよりももっと悪くなってしまいます。どうか、私たちが神様の深いあわれみによって日々心の割礼を受け、本物のクリスチャンとして生きることができるように祈ります。

?.すべての人が罪の下にある(3:1-20)
パウロはユダヤ人の具体的な罪を指摘して「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。」と述べたのです。それはユダヤ人の誇りを粉々にしてしまったでしょう。そこで、ユダヤ人なら、当然なこととして言えることがあります。
3章1節をご覧ください。「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。」とあります。それに対してパウロは何と答えていますか。
2-3節をご覧ください。「それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」ここで、パウロは彼らにいろいろな御言葉をゆだねられていることこそ、最大の特権であることを証しています。では、特権づけられたユダヤ人が不真実だからと言って、そのために神様の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。
人々には何でも神様のせいにする癖があります。それで、神様があんなに大きな特権が与えたのに、彼らが罪を犯しているのは、神様の間違いではないかというのです。しかし、彼らだけではなく、すべての人が皆不真実であって信じるに足りないとしても神様だけは真実であられるお方です。
4節をご覧ください。「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。人間は御言葉に従うことによって正しいとされるし、従わなかった時にはさばかれます。それによって神様の正しさ、正義が現われます。神様は人の行ないに関係なく、勝利を得られるのです。
 5節をご覧ください。「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。」とあります。これに対しては「絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。」と断定的な結論を持って答えています。さらに、あり得る質問に対してもパウロは言っています。
7節をご覧ください。「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。」とあります。ほんとうに詭弁的な質問です。ユダの裏切りによってイエス様が十字架につけられました。そして、その十字架の死によって人類が救われたのだからユダが悪くないと言っている人のような詭弁です。人々は自分の罪を素直に認めて悔い改めたくないからいろいろな詭弁的な質問をします。そこで、パウロは言います。「もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。(8b)」 結局、パウロの結論は何ですか。
9、10節をご一緒に読んでみましょう。「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」
ユダヤ人もギリシャ人も、私たちも例外なく、すべての人が罪の下にあります。「義人はいない。ひとりもいない。」と書いてあるとおりです。真面目に生きている人、社会的な地位のある人、人々を教えている人などは自分が罪人であることを認めることが難しいかも知れません。むしろ、自分は比較的に義人であると主張したくなるかも知れません。しかし、義人はいません。ひとりもいません。すべての人が罪の下にあります。11-20節は罪の下にある人間の状態について述べています。

結論的に、ユダヤ人も、異邦人も、私たちも、すべての人が罪の下にあります。私たちはこの事実を認めざるを得ません。それなら、汚れている自分の罪を謙遜に認めてイエス様の十字架の前に出て行かなければなりません。もし、私たちがイエス様の御前に自分の罪を言い表すなら、イエス様が十字架上で流された血によってきれいに洗われます。キリストに血によって私たちはきよめられ、救われて義人となります。その大きな恵みのゆえに、私たちは心を新たにして主からいただいた御言葉を大切にして守り行うために励んでいくことができます。しかも聖霊に頼り、聖霊の導きによって本物のクリスチャンとして生きることができるのです。罪の下にいた私たちのために十字架にかかって貴い御血を流され、死んでくださったイエス様の恵みを心から賛美します。