2013年 ローマ人への手紙第3講

神の前に正しい人

御言葉:ローマ人への手紙2:1-16
要 節:ローマ人への手紙2:13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。

先週、私たちは「神様の怒り」によるさばきを学びました。それは異邦人に向けられた神様のさばきでした。神様は彼らを良くない思いに引き渡され、放置されました。そのため彼らは、してはならないことをするようになります。不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧み、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わぬ、高ぶる、大言壮語する、悪事をたくらむ、親に逆らう、わきまえがない、約束を破る、情け知らず、慈愛がないことをするのです。では、ローマ人への手紙を通してパウロの指摘を受けたローマの聖徒たちの反応はどうだったでしょうか。同じ教会に異邦人もユダヤ人もいたのでそれぞれ反応も違ったことでしょう。異邦人は自分たちの罪がさらけ出されたので恐れおののいたでしょう。ところが、ユダヤ人は恐れている異邦人を指さしてさばいたことでしょう。「その通り、その通りだ。まったく異邦人はしようがない。あの豚のような異邦人は、本当にひどい奴らだ。」とさばくのです。パウロはそれも想定してユダヤ人たちの罪も指摘しています。パウロは今日の聖書箇所を通して宗教的な人、律法を熱心に行なう人、敬虔なクリスチャンだと言っている人々に向かって彼らの罪を指摘しているのです。
ここで、私たちは御言葉を自分の心、日常生活に当てはまることができます。私たちひとりひとりが本文の御言葉を自分の人生に照らしていただくことができるように祈ります。そうして律法を聞くだけの者ではなく、律法を行なう者、神の前に正しい人として生きて行くように祈ります。

?.すべて他人をさばく人の罪
1節をご一章に読んでみましょう「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」「すべて他人をさばく人」というのは、具体的に言うならユダヤ人ですが、比較的に道徳的な人たちです。彼らは宗教に熱心であったり、律法に熱心であったりします。法律とルールを落ち度なく踏み行なっています。そういう人たちにはどうしても人をさばく傾向があります。私たちクリスチャンも人の弱点や、失敗や、弱さに対して寛容な心からかばってあげるのではなく、それをさばいてしまう時があるでしょう。個人レベルにおいてだけではなく、教会においてもあまりにも熱心である時に他人をさばく傾向が出て来ることがあるのです。恥ずかしく悲しい話ですが、私たちUBF教会も十数年前にさばき合う時がありました。パウロも律法に熱心になるあまり、他人をさばいていた時がありました。だから、彼は宗教熱心であることは、他人をさばきやすいということを自ら体験し、よく知っていました。それで「あなたは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている」と言ったのです。
事実、私たちが人に指を指すなら、三本の指は自分の方に向いています。人をさばくと自分がさばかれているのです。この時間、私たちが自分の心を探ってみて人をさばいていたなら悔い改めましょう。私はこのメッセージを準備しながら何度も悔い改める心になりました。私自身が他人をさばく人だからです。特に、職場生活の中で同僚たちとともに上司をさばいたり、上司とは同僚のことをさばいたりしていました。私が他人をさばいていた罪を悔い改め、自分の方から人をさばく言葉を言わない決断をしました。どうか、私たちは本人がいないところで陰口を言ったり、人をさばいたりしないことを決断しましょう。そうして、私たちの内面、品格がますますイエス様の御姿に成長して行きますように祈ります。では他人をさばく人の特徴はなんでしょうか。
  第一の特徴は人には厳しく自分には甘いということです。
3、4節をご覧ください。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」とあります。他人をさばく人は自分がさばいている人と同じことをしていながらも自分は神のさばきを免れると思っています。
この間、職場であるお母さんからこんな話を聞きました。「自分は朝、挨拶しても返事がない人がいますね。私はそういう常識がない教師は大嫌いです。あの若い先生に言ってください。」と言われたのです。それで、私はお母さんが指摘した先生に「嫌でも挨拶はしましょう。」と言いました。すると、「あのお母さんは自分の気に入らない人には挨拶なしです。何度挨拶しても挨拶がないので私もあのお母さんだけに挨拶していない」と言いました。このように、私たちは自分を省みることなく、他人をさばくのです。ところ、自分には甘く、自分は神様のさばきを免れると思っているのです。しかし、人をさばいたり、見下げたりすることによって自分が偉くなるのではありません。むしろ、彼らは神様の御怒りを自分のために積み上げています(5)。そして、積み上げられている罪が限界を超えるときは、神様にさばかれます。人々の前でも辱められるようになります。
 第二の特徴はかたくなさと悔い改めない心です。
 5節をご覧ください。「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」とあります。かたくなさと言うのは韓国語の聖書に「固執(意見・態度を強固にして、簡単に変えないこと)」と訳されています。つまり、「自分は正しい」と思い、自分を変えようとせず、すべてのことを人のせいにし、人をさばきます。特別な人だけではなく、一般的に私たち人間と言うのは、どうしてもどこかで「自分は正しい」、あるいは「これでいいのだ。」と思ってしまう傾向があるのです。それで自分を省みて悔い改めるより人をさばいてしまうのです。
第三の特徴は偽善です。
13節をご一緒に読んでみましょう。「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」多くの人々は律法を聞いていること、知っていることで敬虔な生活をしていると思います。それで内側は腐っていても自分の知識を持って自分の正しさを主張します。また、人々から自分が正しく生きていると認めてもらいたがっています。福音書を見ると、パリサイ人や律法学者たちは律法を聞いていたし、律法を覚え、教えていました。しかし、彼らは「自分は立派だ。宗教的な儀式を守り、戒めを守っている」と言いながら、実際の「行ない」は、言っていることとかけ離れていました。そこで、イエス様は大変厳しく彼らに言われました。「あなたがたは口では立派なことを言っているけれど、全然実行しないではないか。あなたがたは人の肩に重荷を載せるけれども、自分はその重荷を持とうともしないではないか。忌まわしい者たち、偽善者たち。あなたがたは白く塗った墓だ。外側は美しく見えても、内側は腐っている」(マタイ23章)とあります。今でも人々をバカにして見下したり、自分の知識の自慢をペラペラと語り続けたりしながら他人をさばく人々が多くいます。しかし、それは偉そうなことを言っていますが偉い行ないはない偽善なのです。
創世記の2、3章を見ると、には初めの人間、アダムとエバが出てきますね。アダムとエバは、エデンの園で快適な生活をしていました。アダムはエバに愛の告白をします。「これは私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言いました。しかし、エバは、狡猾な蛇の誘惑を受けて善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そして、夫のアダムにも食べさせました。すると、アダムも、エバも恥ずかしくなり、神様の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そこで、神様が「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけたとき、アダムは何と答えたでしょうか?「神様。こうなったのは、私のせいではありません。あの女が悪いのです。」すると、エバはエバでこう言いました。「神様。私をあまり責めないでくださいよ。私も少しは悪いかも知れませんけれども、本当に悪いのはあの蛇ですよ。蛇が私を惑わしたのですから・・・」人類の歴史に何でも人のせいにする責任転嫁というの入って来ました。自分のことを隠して「私は悪くないですよ。こうなったのはあの人が悪いのです。学校の先生が悪いのです。親が悪いのです。社会が悪いのです。政治が悪いのです。国が悪いのです・・・」というのです。
それが偽善です。イエス様はこう言われました。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。」(マタイ7・3)しかし、しかし、イエス様は自分の罪を認めている取税人や遊女たちに対して厳しく言われませんでした。むしろ、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました(マルコ2・17)。自分の心の状態を素直に認めて、「神様あわれんでください」と正直に心をさらけ出す者に対して、イエス様はいつも近づいていかれるのです。ですから、私たちは神様の御前に正直にならなければなりません。「私は罪人です。私は本当に弱さを持っています。神様あわれんでください」と祈る一人一人が神様の御前に正しい人です。ではすべて他人をさばく人たちに対する神様のさばきはどのように行なわれますか。

 ?.神様のさばきの基準
6-8節をご覧ください。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」とあります。ここで、神様のさばきがどのように行なわれるかを知ることができます。
 第一に、神様は、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます(6)。神様の裁きは個人的で人格的です。東京UBF教会のメンバーだからさばかれないのではありません。皆と一緒に行なったことも、ひとりで行なったことも、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます。ですから、神様のさばきは公平です。もし、グループに従って報いが与えられるなら、それは不公平になるでしょう。同じ教会のメンバーでもひとり、ひとりの考えや行ないは違うからです。
 それでは行いと信仰とはどんな関係があるでしょうか。行ないは信仰の現われです。ほんとうに、神様の御言葉を信じるなら、どうしても御言葉に聞き従おうとするでしょう。毎週、主日礼拝のメッセージ、日ごとの糧の御言葉を軽んじるようなことはしないはずです。もちろんなかなか実践できない時もあるでしょう。一週間を顧みると自分の弱さにため息をつく時もあるでしょう。しかし、神様は行ないだけではなく、心の動機をご覧になります。
第二に、心の動機に従ってさばかれます(7-11)。もう一度7、8節をご覧下さい。「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」ここで「求める」とはその人の心の動機、価値観を表わします。栄光と誉れと不滅のものとを求める者とは、霊的な価値観を持っているということです。弱い人間だから失敗もあり、罪を犯してしまう時もありますが、その心の動機が良ければ、神様はそれを評価してくださるのです。私たちが完璧に行なうことができなくても霊的な価値観を持ち、栄光と誉れと不滅のものを求める人には永遠のいのちが与えられるのです。しかし、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。派閥をつくるのは自分の利益のためです。そして、派閥に属すると、何が正しいかよりも、自分の党派に有益になるかどうかが判断基準になってしまいます。その人は食べるにも、飲むにも、何をするにも自分の有益のためにします。それでそういう人には神様の怒りと憤りが下されるのです。
ですから、私たちは毎日自分の心が神様に向いているかどうかをチェックして見なければなりません。皆さんは、今、何を求めているでしょうか。何を目的にしているでしょうか。私たちが忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者でありますように祈ります。
9-11節は「悪を行なう者」と「善を行なう者」の内面状態が記されてあります。表面的には悪を行なう者でも金持ちになって幸せに生きているかのように見えます。一方、善を行なっているのに、生活は貧しく苦労ばかりしているように見えます。しかし、実情は違います。人の内側は違います。患難と苦悩とは悪を行なうすべての者の上に下ります。彼らの心は罪意識のために苦しみ、絶えない不安と焦り、苦悩のために眠れぬ夜を過ごすほどです。しかし、善を行なう者の上には栄光と誉れと平和があります。彼らにはまことの満足と喜びがあり、神の国の平安があります。彼らはぐっすり眠ります。この原則はユダヤ人をはじめギリシャ人にも同じです。神様にはえこひいきなどはないからです。
第三に、律法と良心に従ってさばかれます(12-15)。
もう一度12、13節をご覧ください。「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」とあります。律法の下にあって罪を犯した者は律法に従ってさばかれるでしょう。私たちは御言葉を学んでいますが、それを知っているかどうかと言うことよりも、それを行なっているかどうかによってさばかれるのです。では律法なしに罪を犯した者が滅びる基準とは何でしょうか。
14-15節をご覧ください。「 ・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」とあります。パウロは律法を持たない異邦人は自分自身、自分自身の良心という道義的なおきてがさばきの基準となることを言っています。
人間には本来、良心というものがあります。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」-ロバート・古ガム著―という本に「人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか。本当に知っていなくてはならないことをわたしは全部残らず幼稚園で教わった。」とあります。それはすべての人間に善悪を区別する良心、能力があるということでしょう。神様の似姿に造られた人間には良心があるのです。それで、神様はすべての人の心に刻まれたこの良心の基準に基づいてさばかれるのです。私たち人間が良心に従っていなければそれも神様のさばきの対象になります。私たち人間は、他人の心の中にある動機を知ることができません。私たちが人をさばくときは、うわべだけでさばくことになります。

結論的に16節をご一緒に読んでみましょう。「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」とあります。わたしたちの隠れた罪が、神様の最後の審判において明らかにされます。その時にキリストは、父なる神と共に裁き主として立たれます。しかし、同時にわたしたちの弁護者となっていくださるのです。神様の御前にわたしたちは自らの正しさを主張できません。最後の神様のさばきにおいて私たちは、神様の御前に罪人して立つしかありません。私たちは、それをアーメンと認める以外に何もありません。しかし、その日は、私たちにとって福音なのです。なぜならば、イエス・キリストのさばきの日だからです。キリストは、その日に「生きる者と死ぬる者とにさばかれます」。その裁きが私たちに福音となります。キリストの十字架のゆえであります。その時は、私たちの贖い主として十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが私たちの弁護者となります。御自身の贖いゆえに私たちの罪を弁護してくださるのです。だから、最後に頼るべきお方は、イエス・キリストなのです。そして、それが、パウロ同様に私たちが告げる福音です。このわたしの福音を、パウロと同じように、自分の家族に、この町の人々に伝えつつ、キリストの裁きの日に向けて歩んで行きますように祈ります。その日は、私たちには希望の日だからです。どうか、その日まで神様の御前に正しい人として人をさばかないで謙遜に常に信仰によって生きるように祈ります。