2013年ローマ人への手紙第2講
                         
神の怒り

御言葉:ローマ人への手紙1:18-32
要 節:ローマ人への手紙 1:18「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」

先週、私たちはローマ人への手紙の序論を学びました。パウロのあいさつのことばに現わされている自己認識について学び、福音の力について学びました。特に16、17節はローマ人への手紙の主題を要約しています。とても重要な個所なのでもう一度ご一緒に読んでみたいと思います。「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」この17節までがローマ人への手紙の全体の序論で、18節から本論に入ります。福音は救いを得させる神の力です。ところが、パウロは17節で神の義の啓示を語った後に、18節で神の怒りの啓示を語ります。つまり、信仰によって救われるという神様の義、救いを語ってから神様のさばきを語っているのです。まず異邦人の罪とそのさばきを語り、次いで、ユダヤ人の罪とそのさばきを取り上げています。そして、最後に、すべての人が罪人として神様のさばきのもとにあることを証しています。
今日の本文は異邦人の罪に対す神様の怒りに関することです。神の怒りを招いたのは人間の不敬虔と不正の罪であって、それを解決するものは信仰による義以外にありません。ここで、私たちは福音の必要性を学ぶことができます。神様の怒り、自分の罪部深さを知らなければイエス様の福音がどんなに必要であるかは分かりません。
私たちの人生において、神様に深い感謝を覚えるのはどんなときでしょうか。苦しみ、悩み、痛みなどの逆境を克服した時です。人生の最大の危機にまで落ち込んで、その後で上って来る経験の中にこそ、真の感謝と喜びがあるのです。同じように、私たちの救いの喜びと感激と言うものを実々に感じるためには、イエス・キリストを信じる以前の自分の姿がどのようなものであったのかを深く悟る必要があります。そういう意味で今日の御言葉は私たちの以前の姿を思い起こしてくれます。私たちは御言葉を通して私たち人間の罪深い姿が知ることができます。それは恥ずかしいことです。でも、救われた喜びと感激を知り、また救われるためには自分の姿を知らなければなりません。病を癒すためにはきちんとお医者さんに受診して、レントゲン等撮り、診てもらわなければなければなりません。そのように、私たちは御言葉を通してチェックしてみなければならないのです。今日の御言葉を通して人間の内面の実態、神の怒りを知り、福音を堅くつかむことができるように祈ります。さらに、神様をあがめ、神様に感謝する生活、隣人を愛する生活をして行きますように祈ります。

?.神の怒りの原因である人間の罪(18-23
18節をご覧下さい。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」不義と持って真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とは罪人のことです。不敬虔とは神様との関係における罪、不正とは人間関係において正しさを行なわないことを指しています。神様を愛していないことが不敬虔であり、隣人を愛していないことが不正であるということです。人間は神様の似姿に造られているから道徳的に生きることができます。クリスチャンでなくてもやさしく、まじめに生きている方が多くいます。しかし、神様を愛することなく、礼拝しないなら、それは不敬虔の罪です。また、人間関係において聖書は人を愛するように教えています。子どもは親を敬い、親は子どもをよく教え、隣人を愛するように命じています。親の子どもに対する愛にたたくことも命じられています。子どもの悪を取り扱う時に、お尻をむちや杖で叩くのです。お尻ぺんぺんと言いますが、お尻はいくらぺんぺんしても大丈夫なように作られています。私はうちの子どもたちがまだ小さい時は手でよく叩きました。子どもが悪いことをした場合はしっかりお尻を叩くのです。なぜ叩くのか、どういう意味なのかをちゃんと教えながら叩かなければなりません。その後で一緒に祈ってあげることも必要でしょう。それが愛なのです。
ところが、人間は神様を愛さないだけではなく、自分の子どもさえも愛していない親が増えていると言われています。家族の会話もく、夫婦の会話もなくなっています。恋愛とか不倫の快楽は増えていても真の愛は枯れていく時代になっています。家庭で愛されて愛する経験が少ないから職場でも隣人を愛することが難しくなっています。自分の家族以上にも愛し合うことが難しいでしょう。数年前、同僚の先生が「生徒さえいなければ学校は良い。」とよく言っていました。「人間さえいなければ仕事は素晴らしい」というようなことでしょう。家庭においても、学校においても、会社においても、結局は人間を愛することが難しいということでしょう。それは人間の不正なのです。
では私たちはどうでしょうか。クリスチャンも例外ではありません。神様を愛する心もあるけれども、神様に逆らう心も残っています。日曜日に教会来ることさえ重く感じる時があるでしょう。家族を愛し、隣人を愛しているけれどもなかなか愛することができず憎んでいる時もあります。その不敬虔と不正が神様の怒りを招くのです。
そして、神の怒りが天から啓示されています。パウロは、福音の必要性を説明する最初のところで、「神の怒り」が啓示されていることを明らかにしています。それほど重大な問題であるからです。
私たちにはいろいろな問題があります。身近に健康問題があります。私は最近2週間くらい健康の問題で悩みました。ところが、50歳になると心臓や肝臓などは20代の人の70%くらいしか機能しないそうです。個人差はあるでしょうが、自覚していなければならないと思いました。しかし、それは一番目に解決しなければならない問題ではありません。私が死んでから復活すると、その時は完全な体を持つようになるからです。その時は人間関係の問題も完全に解決されます。しかし、神の怒りはこの世で解決しなければなりません。私たちの不敬虔と不正に対するこの神様の怒りが啓示されているのにもかかわらず、それを無視していれば永遠のさばきを受けて滅びます。
では、神の怒りはどのようにして啓示されていますか。
19、20節をご覧ください。「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」ということです。
人間には宗教性と良心があります。それは人間が動物と違うところです。猫や犬の宗教を聞いたことがあるでしょうか。サルや犬の自殺を聞いたことがあるでしょうか。しかし、人にはあります。また、人がいるところには宗教もあります。人には瞬間の快楽だけに満足できず、永遠を慕い求める心があるからでしょう。
私たちは夜空に輝く星を見ながら、美しい花を見ながら神秘な自然世界に感動し、驚きます。日本人としてノーベル賞受賞第一号の野口英世さんは、「タンポポ一つを見れば、神様の愛と力を知ることができる」と言いました。物理学者アインシュタインは、「この宇宙は神によって造られたというほかない。そう結論させざるを得ないのだ。私の物理学は、神はこれ以外の方法で命を生み出すことはなかった。これは唯一の道であり、いくつかの方法の一つではない。これしかなかったことだということをたどっているのである。」と言いました。もし、私たちが、素直な正直な心を持って、タンポポでも、実のなる木でも、あるいは夜空の星でも研究するなら、神様が知恵と愛を持って、素晴らしい世界を造ったと言わざるを得ないのです。
だから、神様を信じないことは知識の問題ではなく、態度の問題であり、心の問題です。あるいは選択の問題です。どんな宗教でもいいのではありません。まことの神様、天地創造の神様を選択して信じることが大切です。それなのに、信仰によって生きる道を選ばないでいて神様の御怒りが下されると、そのときになってやっと「神様を知らなかった。」ということは出来ません。弁解の余地はないのです。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです(21)。」
もともと、私たち人間は何をするにも神様の栄光を現わすためにしなければなりません。そして、現在の自分に対しては神様に感謝しなければなりません。私たち人間は神様からもらわなければ生きていけない存在です。太陽の光も、空気も、雨も、すべての環境が神様から与えられています。そして、私たちが神様にできることがそれを認めて感謝することだけです。感謝の心を表現するのです。そうすると、それは良い薬のように私たちの体を良くし、生活もよくしてくれます。すべてのことにおいて感謝するならすべてが良くなるのです。
今、上を向いて「神様!感謝します。」と告白しましょう。隣人にも感謝しましょう。「隣に座ってくれてありがとうございます。」
私たちはいのちを与えてくださった神様に感謝し、空気や光や水を与えてくださった神様に感謝し、一人子イエス・キリストを与えてくださった神様に感謝しなければなりません。それが、キリスト・イエスにあって神様が私達に望んでおられることです。
しかし、そのように神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝もしなかった結果人はどうなりましたか。もう一度21節をご覧下さい。第一に、思いがむなしくなります。無駄な考え、無益な考えをするようになります。第二に、無知な心は暗くなります。無知な心は分別力のない心です。人が神様を離れると善悪と真理を見分けることができなくなります。心が暗くなり、顔も、生活も暗くなります。クリスチャンも同じです。積極的に神様をあがめず、感謝もしないと心が暗くなります。信仰生活が無意味に思われます。第三に、自分では知者であると言いながら、愚かな者となります。結局、彼らはどうなりますか。
23節をご覧下さい。「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人が神様に仕えなければその代わりに偶像に仕えるようになります。人間や、獣、はうものに仕えます。動物の中でも牛が一番崇められているでしょう。モーセの時、イスラエルの民がアロンに「私たちに神を造ってください」と言うと、彼が作ったのは金の子牛でした。インドでは牛が歩いていれば、人も、自動車も、電車も道を譲らなければいけません。牛肉を食べるなど、絶対に許されないのです。すなわち、人間は動物以下の者に転落してしまいました。ところが、動物以下に転落することだけではありません。彼らには罪に対する罰があります。
24-32節までは罪に対する神様の罰です。神様は、造り主の代わりに造られた物を拝み、仕えた人々をどのように罰せられましたか。24,26、28節には「神は、彼らを何々に引き渡された」という言葉が繰り返されています。神様が放っておくこと、無関心であることは大きな裁きです。神様は愛する人々を懲らしめられます。それでヘブル12:8節を見ると、「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」と言っています。神様のさばきによって神様の子どもとしての愛を受けなくなるのです。人々は神様を恐れないために心の欲望のままに罪を犯し、それを美化します。それは愛されていないことです。最近はインターネットによる淫乱物が流行っています。親に愛されていない子どもたちは、注意されることも、怒られることもないから、使い放題で中毒されて行きます。たまに、学校で見ると、欠席した生徒がゲームセンターで遊んでいた場合もあります。そのうち、引き渡されたママが自由であると思いがちですが。その人生が滅亡に向かっているのです。
ですから、神様から見捨てられていることは恐ろしい罰です。イスラエルの初代王であるサウルは謙遜だった時、神様は彼を高くあげて王としてくださいました。しかし、彼が高慢になって神様の御言葉に聞き従わなかった時、神様から見捨てられました。彼は悪い霊によって苦しみ、最後には自殺することで人生を終えました。ところが、それだけで人生が終わるのではありません。ヘブル11:27節jを見ると「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。」とあります。死後にさばきがあるのです。そのさばきによっておくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもが受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にあります。これが第二の死です。(黙示録21:8)」
26,27節をご覧下さい。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」神様が私たち人間を愛してすべての自由意志、選択権を与えられました。しかし、その自由意志、選択権が神様をあがめ、神様に感謝するために用いられないと、罪を犯し、罪の結果、恐ろしいさばきを受けるようになるのです。「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」とあるとおりです。良くない思いとは、悪い本性、堕落した本性だけが残った心の状態です。そのまま生きていて滅んでいくのです。
29-31節をご覧下さい。罪のリストと言われるところです。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」32節をご覧下さい。「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」彼らは死罪に当たるという神様の定めを知っていながらも悔い改めず、それを行なう者に心から同意しています。彼らは罪を犯すことを合理化する罪を加えているのです。
結局、すべての異邦人は有罪です。死罪に当たります。しかし、このようにして異邦人の罪を指差し、さばき、異邦人は有罪であり、死に値するという結論をしたパウロですが、その初めに解決の道を言いました。それは福音だと言ったのです。「福音は信じるすべての者を救う神の力だ」と言うことです。だ、その神様の御怒りの問題の解決は福音によってできます。神様の怒りから救われる道は福音の信じる信仰だけです。私たちのために死んでくださったイエス・キリストの十字架のみにあります。イエス様の十字架を信じる信仰によっての義と認められるからです。パウロはローマ人への手紙を通してそれを明らかにしています。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて」と書いてあります。神の義と言うのは、神様の愛も、神様の慈愛も、神様のあわれみも、神様の永遠性も、神様が全知全能であることも含まれています。私たちはその神様を信じる信仰によって生きるのです。

私たちは頑張って生きるのではありません。真面目に生きるのではありません。信仰によって生きるのです。信仰というのは、ただ神様を見上げて神様に頼ること、神様からいただいた力で行うこと、それを信仰といいます。どうか、今週も、御言葉によって知らされた罪を悔い改め、ただ信仰によって生きるように祈ります。神様が深いあわれみを持って私たちを赦し、力と知恵を与え、導いてくださいることを信じます。ただ心に空しいことが入って来ないように、日々、神様をあがめ、感謝し、隣人を愛する生活ができますように祈ります。