2013年 ローマ人への手紙第1講 

義人は信仰によって生きる

御言葉:ローマ人への手紙1:1-17
要 節:ローマ人への手紙1:17「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

ローマ人への手紙は大きく三つに分けることができます。1:1-17節は序論、1:18-11章まではキリスト教の教理について書いてあります。そして、12章から16章までクリスチャンが実生活の中でどのように生きるべきかについて書いてあります。今年、私たちは20講に分けで学んで行きたいと思っています。今日は第1講として序論です。パウロはローマの聖徒たちとは一度も会ったことがありませんでした。そこで、パウロが彼らに自己紹介をし、彼らのためにどのような祈りをし、彼らに対してどんな負債を負っているか、ローマに福音を伝えることはいかに重要であるかを伝えています。
私たちはこの御言葉を通して私たちが神様から受けた恵みが何かを学ぶことができます。さらに進んで使徒パウロの福音に対する確信を学ぶことができます。どうか、御言葉を通して主の恵みを心から感謝し、福音に対する確信を新たにしていくことができるように祈ります。

1節をご覧下さい。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」これはパウロの自己紹介です。
パウロは神の福音のために選び分けられました。選び分けとはある特別な仕事のために区別されたことを意味します。パウロは神の福音のために選び分けられました。当時福音はまだ広く伝えておらず、人々は神の福音に対する偏見や誤解を持っていました。パウロはこの福音を伝える使命を受けました。彼はその福音を宣べ伝えるために智恵と力を尽くしました。ではどのように選び分けられましたか。使徒としもべとしてです。パウロは自分についてキリストの使徒であり、キリストのしもべであると紹介しています。彼の地位は、ある意味においてはきわめて高く、ある意味においてはきわめて低い身分です。
まず、彼は使徒として召されました。使徒とはある特別な使命のために遣わされた者という意味です。イエス様からこの世に派遣された全権大使です。神様からある仕事を委託された者です。
次にしもべです。しもべとは奴隷という意味です。当時奴隷は主人が自由に買い売りできる所有物であり、生命の保障もなく、家畜より少しましな程度でした。奴隷には自分の立場や都合は許されず、ただ主人に絶対的に服従しなければなりませんでした。パウロの主人はイエス様です。過去パウロは律法の奴隷であり、罪の奴隷でした。その時、彼には喜びも平安もありませんでした。彼の心は砂漠のように枯れていました。しかし、彼がイエス様に出会い、イエス様を自分の主として受け入れた時、彼の人生は完全に変わりました。イエス様のしもべになりました。そこで、彼は言い尽くせない恵みの世界、真の自由と喜び、心の平安を体験するようになりました。そこで、彼は使徒としてのアイデンティティと誇りを持ち、しもべとして忠実に働きました。ローマの奴隷たちが何の報酬も受けずに、ただ主人のために働いていたようにパウロはキリストのために働いたのです。
ここで、私たちはパウロの自己認識を学ぶことができます。人が「自分をどのように認識しているか」ということはとても大切な事です。ある学校での話を紹介します。1年が始まる時に、校長先生がひとりの担任の先生に言いました。「実は、あなたのクラスには、うちの学校で最もIQの高い生徒を集めてあります。彼らの能力を生かしていい成績を残してください。」校長は別の先生に言いました。あなたのクラスには、うちの学校で最もIQの低い生徒を集めてあります。なんとか頑張っていい成績を残してください。」一年が終わった時、その結果はどうだったでしょうか。IQが高いと言った生徒のクラスは、非常に良い成績を残し、IQが低いと言った生徒のクラスは非常に悪い成績を取りました。自分をどのように認識するかによって結果、実績が変わって来るのです。NLP(ニューロ・ロジカル・レベル―神経論理レベル)というのがりますが、そこで、信念価値観、能力、行動、環境よりも上位レベルになっています。環境や、行動、能力、信念価値観よりも自己認識(アイディティティ)が人の人生にもっと大きい影響を与えるということです。つまり、リーダーの仕事ができるから、リーダーとしての自己認識を持つのではなく、リーダーとしての自己認識を持つから、リーダーの仕事ができるようになったり、足りない能力があれば自ら学ぶようになったりするということです。自己認識の変化が、能力や行動の変化を生み出すのです。
しかし、自分がリーダーだという自己認識だけが強ければ能力を生み出しても高慢な者になってしまいがちです。実際に自己認識が高くて良い結果を出していますが、高慢な人も数多くいます。実際にそういう人たちのために気の弱い人たちが傷つけられています。虐められる場合もあります。
ところが、パウロは使徒としての自己認識だけではなくしもべとしての自己認識があったのです。だから、彼はだれよりも大きな実績を持ち、大きな成果を出しながらも常に謙遜に生きることができました。奴隷としての自己認識があるからこそ、どんなに迫害されても、どんなに無視されても、傷つけられても揺れることなく福音のために働くことができました。ここに謙遜があり、確信がります。召してくださった方に対する信頼があり、覚悟があり、感謝と感激があります。
私はもともと自己認識が低い人間でした。田舎で暮らしていた小中学校の時はそれほど低くなかったのですが、大都市の学校に進学してからは劣等感に陥ってしまいました。半農半漁の田舎出身で親は貧しく、自分には能力ないと思いました。歌も、運動も、勉強もできない人間だと思っていました。そう思うと、何もかもますますできなくなり将来が真っ暗に見えてきました。しかし、大学一年生の時、ペテロの手紙第一の学びを通して神様に選ばれた者、王である祭司であることが分かりました。それで自分のキャンパスの裏山に上って目の前に広がるキャンパスを見ながら「私は王である祭司だ。大学総長を始め2万人の学生は私の羊だ」と叫んだ時もあります。そうこうしているうちに、私は王である祭司としての自己認識をするようになったのです。それから、ヨハネの福音書13章の御言葉を通してじもべとしての自分を発見するようになります。弟子たちの足を洗われたイエス様を通してイエス様の弟子はどんな人の足でも洗うことのできる奴隷であることが分かったのです。その時に、まだ弱かったけれでもキリストのしもべとして生きようとする覚悟ができました。すると、心の平安が与えられました。それから30年間さまざまなことを経験して来ましたが、自分はしもべであると思うと心が楽になりました。私にある二つの自己認識、一つは王である祭司、もう一つはキリストのしもべであることです。これが私をささえ、励まし、慰めてくれたのです。今でもそうです。UBF活動の中でも、職場生活の中でも自分の未熟さから来るものですけれども傷つけられるように話を聞く時があります。しかし、キリストのしもべだからと思うとすべの傷が癒され、心は楽になります。また、この世で一教師にすぎない身分ですが、心の奥底から宣教師として王である祭司としてプライドを持っています。
私たちがもう一度神様がどのような人として自分を召しておられるかを発見し、正しい自己認識を持って生きることができるように祈ります。パウロが選び分けられ、使徒として召されたのは福音のためです。では「福音とは何でしょうか」
2-6節をご一緒に読んでみましょう。「「・・この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、—」このパウロから、」福音の起源は神様です。神様は人間が堕落した時、救い主を約束されました(創3:15)。また、アブラハムの子孫からメシヤを与えてくださると約束され、預言者たちを通して約束されました。神様は預言者たちを通して、イエス様に対して預言されました。イエス様の誕生の場所、飼い葉おけの誕生から十字架の死まで、そして復活と昇天、再臨までも旧約聖書に預言されています。また、旧約聖書は一日のうちに書かれた作文ではありません。聖書は約千五百年の間、四十名の著者達によって書かれました。記録された場所も時代も著者も違います。ところが、驚くほど一つの流れ、すなわち、統一性があります。それはイエス・キリストに関することです。このように福音は明白な歴史的な事実の上に根拠を置いているために信頼できるものです。旧約聖書の中であかしされ、長い間イスラエル人が、神の約束として待ち望んでいた方が、キリスト・イエスです。イエス様は、肉によればダビデの子孫としてお生まれになった王です。神様はダビデの子孫からメシヤを送ってくださると約束されました。その通りに、イエス様はダビデの子孫としてお生まれになり、約束されたメシヤとしてダビデの王位を受け継がれた王であることを明らかにしてくださいました。 
霊的には神の御子です。イエス様が神様の御子であることをどのようにして知ることができますか。イエス様は死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示されました。使徒パウロはこのキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。使徒パウロは恵みとともに使徒の務めを受けたと言います。これは使命です。彼は異邦人に福音を伝える使命を受けました。それは異邦人の中に信仰の従順をもたらすことです。それはやさしいことではありません。異邦人は偶像崇拝をし、淫乱でした。また、霊的に無知でわがままでした。不従順と反抗心が強い人々でした。このような人々の中に信仰の従順をもたらすことは難しいことです。それで福音を伝えてもあまり負担に思わないように救いの恵みや祝福だけを教えることで満足しやすいです。しかし、パウロは御言葉に絶対的に従うように教えました。それはまるで岩地のような心をハンマで打ち砕くような作業のように難しいことです。多くの霊的な戦いが必要です。本当に、御言葉に従うことはやさしくありません。御言葉は敵をも愛するように教えています。適でなくても、愛しにくい時がどんなに多くあるでしょうか。まだ暗いうちに起きて祈られたイエス様に見習うように教えられていますが、まだ暗いうちに起きることがどんなに難しいでしょうか。でも、そういう御言葉への従順によって私たちは成長します。神様は従順を喜ばれます。 ですから、パウロは自分がイエス・キリストのしもべとして絶対的に服従しただけではなく、教える人々にもそのようにするように教えました。
6,7節でパウロはローマの聖徒たちも、イエス・キリストによって召された人々であると言いました。彼らは神様に愛されている人々、召された人々です。今日、ローマ人への手紙を読み、学んでいる私たちも同じです。パウロは彼らと私たちに父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があるように祈りました。それから、神様に感謝しています。
8節をご覧下さい。「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」当時のローマは富と権力と快楽の都市でした。また、あらゆる宗教が氾濫していました。このような雰囲気の中で信仰の中心を守ることは難しいことです。ところが、ローマの聖徒たちは信仰の中心を守るだけではなく、信仰のよい影響を及ぼしていました。キリスト教が始まってまだ30年余りしか経っていないのに、ローマのクリスチャンたちはローマ世界全域において知られていたのです。彼らがいかに生き生きとして信仰生活を送っていたかが分かります。私たちの東京UBF教会は今日で25周年を迎えました。この25年間で世界中に知らされていることを感謝します。少なくてもUBFがある90か国以上の国に知らされています。世界UBF本部のホームページには去年の日本のUBF,東京UBFのみわざの報告が載せられています。ただ、私たちの信仰のレベルが初代教会、ローマの聖徒たちのようであるからは分かりません。神様だけはご存知です。私自身は非常に足りないことを感じているので今年は一致と成長のために祈っています。
ではパウロがそれほどローマに行こうとした理由は何ですか。
第一に、彼らに御霊の賜物をいくらかでも分けて、彼らを強くしたいからです。御霊の賜物は15節と関連して考えて見ると、福音です。ローマの聖徒達は、信仰はありましたが、まだ福音の世界を深く知ってはいませんでした。彼はローマの聖徒達に福音を宣べ伝えることによって、彼らが福音の上に堅く立つことを願いました。彼らとの互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと思いました。できるだけ大勢の人たちと交わり、そして私達の信仰の足りないところを、その人たちとの交わりによって補っていただくという謙遜さを持つことが必要です。
第二に、いくらかの実を得ようと思いました。実とは福音を伝えることによって得られる実です。弟子養成の実です。宣教の実です。パウロはローマセンターが宣教師を養い、派遣する世界宣教の中心部になることを願いました。しかし、パウロがそれほどローマにいる人々に福音を伝えることを願っていた根本理由は、彼に負債を負った者の心情があったからです。
14、15節をご一緒に読んでみましょう。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」パウロはすべての人々に負債を負っていると言っています。負債を負った者は謙遜です。いつも負債を返さなければならないという考えで心が重いです。それでその負債を返すことができると喜びます。負債を負っている人の心は牧者の心です。私達は神の恵みを思えば思うほど、ほんとうに、誰に対してもそれを支払って行かなければなりません。パウロの伝道の根本にはそれがありました。主が私たちにも使徒パウロのような負債を負っている者の心を与えてくださるように祈ります。
16節をご覧下さい。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」当時ユダヤ人は宗教的な理想を誇り、ギリシヤ人は智恵を誇りました。ローマ人は権力を誇りました。ところが、イエス様は凶悪な犯罪人が処刑される十字架につけられ死なれました。それで十字架につけられたイエス様は、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでした(?コリント1:23)。
今日もクリスチャンが少ないこの国ではクリスチャンを愚かに見る人もいるでしょう。わざと無視しなくても見下げている人もいるでしょう。このような時代の雰囲気の中で福音を恥と思いやすいです。しかし恥と思う必要はありません。むしろ誇りに思うべきです。その理由は第一に、福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです(16)。パウロは福音だけが人々を罪と死の力から救うことができる力があることを信じました。罪と死の問題を解決できる特効薬は福音だけです。パウロはこの福音の力を信じていたので少しも恥と思いませんでした。この福音はどんな罪人も新しく生まれさせる力があります。この力はダイナマイトのような超自然的な神様の力です。福音は十字架につけられた強盗が悔い改めた時、直ちに神様の子供としました。この福音の力によって放蕩息子であったアウグスチヌスがセイントアウグスチヌスに変わりました。私たちもこの福音の力を体験して来ました。初めてセンターに来た時には「あの兄弟も変わるかな」と思った兄弟が福音を学ぶうちに新しく生まれ変わることを見ました。福音はどんな人も新しく変える力があります。ですから、この福音の力を信じている人は、誰にも大胆に福音を紹介することができます。
第二に、福音のうちには神の義が啓示されているからです。17節をご一緒に読んでみましょう。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」神様の義には罪を憎み、不義を受け入れない属性があります。義なる神様は公義によってさばかれる方です。ですから、この神様の御前に立つ人は一人もいません。すべての人々が神様の裁きの対象です。しかし、本文で言っている神様の義はイエス様を信じる人の罪を赦し、信じる人を義と認める義です。この神の義は人間の努力や働きによって得ることができません。ただイエス様を信じる人に値なしに与えられるものです。それは初めから終わりまで信仰による義です。信仰によって生きる時、神様に認められます。信仰によって生きる時、神様に喜ばれます。信仰によって生きる時、この世で勝利の人生を送ることができます。信仰によって生きる時、罪の赦しに対する確信と永遠のいのちへの確信があります。
私たちがどんな場合にも信仰によって生きるように祈ります。