2013年ローマ人への手紙第17講

隣人を喜ばせる生き方

御言葉:ローマ14:1-15:13
要 節:ローマ15:2「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」

 ある神学者は「この世界で教会ほど異質的な集団はない」と言いました。「なるほど!」と思われます。ほとんどの集団はそれなりの共通的な特徴を持っています。たとえば、同窓会、同好会、研究会、学校のPTAなどは共通点を持っています。しかし、教会はどうでしょうか。なかなか一緒になれないような人々が集まっています。趣味も違うし、国籍も違うし、出身学校、学歴も様々です。金持ちもいるし、貧乏の人もいます。信仰の経歴も様々です。学校は長くても一年生から六年生までがいますが、教会は0歳から100歳までもいられるところです。
このような教会で私たちはどのようにして成長し、一致を保つことができるでしょうか。本文の御言葉でパウロは信仰の強いものが弱いものを受け入れるべきであることを教えています。食べ物や日を守ることに対して、それぞれ異なる考え方を持っていますが、信仰のある人は、そういったことにこだわる人々を理解すべきです。そのためには私たちが生きる目的と方向性をはっきりして行かなければなりません。本文の御言葉を通してそれらのことを学んで、私たちが何をしても隣人を喜ばせ、その徳を高め、益となるようにするクリスチャンとして成長して行くことができるように祈ります。

?.主のために(14:1−12)
1節をご覧ください。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。「信仰の弱い人」とは、必ずしも初心者を指しているのではありません。偶像に捧げられた肉を食べることによって自分の良心が影響を受けてしまうような人です。信仰が中途半端な初心者ではなく、良心的な人々ですが、その良心が過敏すぎて自分で自分を責めてしまうような人のことです。
信仰の強い人とは、「クリスチャンは福音によって全ての規則から自由にされている」という人々のことです。?テモテ4:4,5節を見ると「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」とあります。これには私も大賛成です。私はどんな食べ物でも神様に感謝してからいただきます。そういう面では私も信仰の強い人だと言えます。問題は食べ物に対して敏感な人たちをさばいてしまうことです。「何で宣教師がお酒を飲むか。」とか、太っている人に「あなたは食べすぎだ。」と言ってさばいてしまうことです。パウロはそれらに対して「さばいてはいけません。」と言っています。
安息日や祝祭日などに関しても同じです。ある人は安息日を他の日に比べて、大事だと考えています。どの日も同じだと考える人もいます。日曜日に礼拝をささげることができなかったら月曜日に捧げてもいいじゃないかと考えている人もいます。イエス・キリストを信じている人にとってすべての日に主のために生きるようになったからどの日も同じだと考えているのです。それに対してパウロは何と答えましたか。 
5節をご覧ください。「ある日を他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」とあります。「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」と言っています。信仰の良心に従って決定し、それに従いなさいということです。これはとても大切な真理です。私たちは生活の中で明確に判断することが難しい時があります。たとえば、職場の付き合いでお酒を飲んでもいいか。「酔わないくらい」というはどれほどのことだろうか。主日礼拝の後に休まずに仕事をしてもいいだろうか。お寺でのお葬式に参列してもいいだろうかと言うようなことです。皆さんはどのように判断して行動しているでしょうか。パウロは言います。「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」と言うことです。聖書に明確に記されていない事がらについては自分の信仰の良心に従って行動するのです。そして、自分の考えと違う人の考えも認めることです。人の意見をさばいてはいけないのです。それからさらに大切な事は何をしても主のためにすることです。
6-8節までをご一緒に読んでみましょう。「日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」とあります。ここで繰り返されている御言葉は「主のために」です。私たちが生きている根拠も目的も主のためです。私たちは生まれ育ちの違いによってさまざまな見解を持っています。育てられた文化的背景、教育の程度、意識の違いのためにそれぞれ違う見解を持つことができます。国際修養会で宣教師たちの話を聞いてみると、ほんとうにさまざまな文化があります。私たちはそれぞれに違いを認めなければなりません。ただ何をしてもその目的は一つ「主のために」です。何かを食べても食べなくても「主のために」するなら問題になりません。そして、自分のために生きる人々が集まるところには不和と争いが続きますが、主のために生きる人々の集まりには平和と一致があります。家でも、教会でも、職場でも、主のために、主のように生きようとする人々に平和と喜びがあります。なぜなら、「主のために」という目的が一致し、主のものとして謙遜になるからです。では、なぜ私たちは何をしても「主のために」しなければならないでしょうか。
9節をご覧ください。「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」とあります。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは私たちの罪を贖うことだけではありませんでした。私たちの主となるためでした。キリストが主であるということは私たちが主のものであるということです。私たちクリスチャンはキリストが私のために十字架にかかって死なれたことを信じています。そして、私のためには死者の中からよみがえられたことも信じています。それは私が主のものになったということです。私たちがイエス様を私の主・キリストとして信じたその瞬間から私は主のものです。パウロは?コリント5:15でもっと具体的に教えています。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」とあります。
この時間、現在の自分の生活を顧みてみましょう。「自分のために生きているでしょうか。主のために生きているでしょうか。私たちが本当に主のために生きているなら信仰の弱い人の意見をさばき、自分の兄弟を侮るようなことはしません。
10-12節をご覧ください。「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」とあります。主のために生きる人「みな、神のさばきの座に立」たなければならないことを意識しています。さばき主であられるイエス様は今も私たちを見ておられます。ですから、私たちはちっぽけなことで人をさばく必要がありません。むしろ、神様の御前で謙遜に主のために人にはやさしく自分には厳しくして生きるのです。

?.兄弟のために(14:13-23)
13-15節をご覧ください。パウロは繰り返して食べ物に関することや日を守ることに関することで互いにさばき合うことのないように勧めています。神様はすべてのものを創造されました。そしてもし、私たちが神様に感謝を返すなら、その時、私が何を食べようとも、それは神様によって、聖別され、祝福されます。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、私が食べている豚肉に対してそれが汚れていると思っている兄弟がいるなら、その兄弟から見ると、私は汚れたものを食べたことになります。そして、その兄弟が信仰の弱い人なら、牧師が汚れたものを食べたことでつまずいてしまうこともありうることです。牧師が自由になってお酒を飲んだことでも信仰の弱い兄弟は心を痛め、つまずいてしまう場合もあるでしょう。
したがって私たちは自分の正しい意見を主張することよりも兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないようにするのです。
20-23節をご覧ください。「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」とあります。結局、私たちは食べ物のことで人をさばいてはいけません。主のために生きるべきですし、兄妹のためなら、好きな食べ物でも食べないと決心しなければなりません。ただ、何をしても大切なのは信仰です。神様の御前で自分の信仰を保ち、信仰によって生きることです。

?.隣人を喜ばせ、その徳を高めるために(15:1-13)
1-2節をご覧ください。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」とあります。ここで、パウロは「私たち力のある者」と言っています。つまり、彼は自分とローマの聖徒たちに対して力のある者として認識していたのです。恐らく、パウロは東京UBF教会に対しても「私たち力のある者」という表現を使うでしょう。ローマ人への手紙を読んでいる人たちはパウロと同様に主にあって力のある者なのです。
自分は力のない者、弱い者だと考えている人は力のない人たちの弱さを担うことができません。むしろ助けられることを期待し、求めます。もちろん、私たちは神様の御前で限りなく弱い者です。神様にすがりついて生きていかなければなりません。しかし、イエス様を信じている私たちは隣人に対しては力のある者です。大相撲の横綱の白鵬のような力はないかも知れません。でも私たちはイエス様から授けられた力があります。イエス様は言われました。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。ルカ10:18〜19」「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)」この約束をされた方は私たちの主イエス・キリストです。主は正しいお方ですからその約束に間違いはありません。イエス様を信じる者はイエス様の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう力があるのです。、隣の人に「あなたは力ある者です。」と挨拶しましょう。私たちは力ある者としてその力を自分のためではなく、隣人のために使わなければなりません。自分の弱さを担ってくれる人を捜し求めるのではなく、人の弱さを担うクリスチャンとして生きるのです。さらに、私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。ところが、私たちは人の弱さを担うことだけでもなかなか難しいでしょう。子ども、妻や夫の弱さでさえ担うことがやさしくありません。
 今から300余年前アメリカを代表する神学者、牧師、宣教師であったジョナサン・エドワーズのエピソードの一つを紹介します。彼がニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)の学長であった時のことです。彼はひとりの娘が娘の結婚適齢期になると、心の重荷がどんどん重くなりました。その理由は娘の性格がとても鋭く、わがままなので結婚生活ができるだろうかと心配したからです。ところが、ある日、とても立派な青年が学長の家を訪問して娘と結婚したいと言いました。学長の心はどんなにうれしくなったでしょうか。しかし、学長は冷静になって「私は君と娘との結婚を許可することはできない。あきらめなさい。君は娘と結婚しようとするは娘のことをよく知らないからだ」と言ったそうです。すると、青年は「私は先生の娘を愛しているし、お嬢さんも私を愛しているのにどうしてですか。」と言いました。そこで学長は「君は娘と結婚する資格がない。」と言いました。それでも青年は退くことなく「どんな資格ですか。私もイエス様を信じています。それ以上どんな資格が必要ですか。」と強く言いました。その時、先生はこう答えたそうです。「君は本当にあきらめた方がいいよ。私の娘のような人と生涯を一緒にすることができる人なら、その人はイエス様のようでなければできません。君は自分がイエス様であると言えますか。」このエピソードから娘の弱さを担ってくれる婿を求める父親の愛情とともに、人の弱さを担うことについて学ぶことができます。本当に人の弱さを担うためにはイエス様のようにならなければならないということです。信仰が弱い人、性格的にも弱い人を担うためにはイエス様のようにならなければならないのです。ピリピ2:6-8節を見ると「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。このようにしてイエス様は私たちの病と痛みを担ってくださいました。イエス様は私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。そして、イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されました。私たちがこのイエス・キリストの心を抱く時に人の弱さを担うことができます(ピリピ2:5-6)。どうやってキリストの心を抱くことができるでしょうか。つまり、人の弱さを担うイエス・キリストの御姿にまで成長することができるでしょうか。
第一に聖書の御言葉によってです。
 4節をご一緒に読んでみましょう。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」昔書かれたもの、つまり、聖書が私たちを教えるために書かれたのです。したがって私たちが兄弟の弱さを担うことができるほどに成長するためには聖書勉強を通して忍耐と励ましを学ばなければなりません。私たちは御言葉を学び、御言葉を黙想し、自分の生活に適用して行くうちに変えられて行きます。赤ちゃんがミルクを飲んで成長することと同様に私たちクリスチャンは聖書の御言葉を食べると成長します。パウロは愛する弟子テモテにこう言いました。「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです(?テモテ3:15-17)。
 第二に信仰と聖霊によって私たちは成長します。
13節をご覧ください。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」とあります。すべての事は望みの神様の力ある働きによって成し遂げられます。ただ、私たちには信仰を求めておられます。神様はすべての喜びと平和を持って満たしてくださいますが私たちは信仰によって自分のものにすることができるのです。私たちが神様を信じると、神様は聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいます。
どうか、私たちがもう一度神様に対する信仰を新たにして主のために、兄妹のために、隣人を喜ばせるために生きるように祈ります。具体的に、信仰の弱い人の意見をさばくことなく、身近にいる自分の家族から人の弱さを担う生活ができるように祈ります。