2013年ローマ人への手紙第15講メッセージ(朴エズラ)

生きた供え物として捧げなさい

御言葉:ローマ12:1-21
要 節:ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

イギリスのC・H・スポルジョン牧師(1834−1892)は、神の恵みを水源、信仰を水道管にたとえています。救いは、無尽蔵のダムのような水源である神様の憐れみから流れてきます。信仰は、救いを運ぶ水道管にすぎません。水源とつながっていない水道管が役に立たないように、神ご自身(水源)とつながっていない信仰(水道管)も役に立ちません。
私たちはローマ人への手紙1章から11章を通して、人間の罪と信仰、また信仰者の苦悩と勝利、そして先週まで習った9−11章ではユダヤ人と世界の人々の救いに対する神様のご計画について学びました。今までのローマ人への手紙は、手紙というよりは、まるで論文のようです。したがって、初めてローマ人への手紙を学んだ方は大学に戻って一生懸命研究する姿勢で読まないと、なかなか理解難いところがあったでしょう。しかし、今日の12章からは、神様の憐れみによって救われたクリスチャンがどのように生きるべきかという、具体的な生き方について書いてあり、ようやく、手紙らしくなってきます。   今日の御言葉を通して、神様に喜ばれるクリスチャンとしての生き方について深く学ぶことが出来るように祈ります。

?。霊的な礼拝(1−8)
1節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
1節の「そういうわけですから」というのは、11章まで習った、神様がイエス・キリストによって私たちを罪から救い出してくださったことを指していますが、言い換えれば、神様のあわれみを指しています。神様が、私たちを救ってくださったのは、私たちに救われるに価するだけのものがあったからではありません。私たちは、みな罪人であり、神様の前には、無力なもの、汚れたもの、惨めなものであったばかりか、神様に対して逆らうものでした。そのような私たちが救われたのは、ただ、神様のあわれみによってでした。私たちは、自分の罪のゆえに苦しんでいたのですが、神様はそのような私たちの苦しみを、まるでご自分の苦しみでもあるかのように、思いやってくださったのです。神様の「あわれみ」は、単なる同情やかわいそうに思うこと以上のものです。それは、もっと、深く、高く、大きく、決して変わることのない愛です。だから、使徒パウロは、「12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神様のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と言っているのです。
 冒頭でスポルジョン牧師のたとえを引用したように、神様の憐れみの恵みは、いくら飲んでも飲み尽きない膨大なアマゾン川のようです。皆様、日照りでアマゾン川が枯れたという話を聞いたことがありますか。神様の憐れみはそういったものですが、礼拝は、この神様の救いとあわれみに対する応答なのです。そこで、パウロは「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言って、神様のあわれみに対して答えるようにお願いしているのです。クリスチャンの生活は、自分の欲望に支配される生き方でも、人の目を気にしながら生きる臆病な生活でもありません。また、それは、規則でがんじがらめに縛られた窮屈な生活でも、義務感に追い立てられ疲れ果ててしまう生活でもありません。トマス・エリクソンという方が「新約の宗教は恵みであり、その倫理は感謝である。」と言っているように、罪から救われた者の生活は、神様のあわれみに拠り頼み、神様のあわれみに生かされ、神様のあわれみに感謝して生きるものなのです。
それでは、その礼拝は具体的にどのようにすることですか。1bを一緒に読んでみましょう。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
ここで、礼拝とは「私たちのからだ」をささげることであると言っています。この表現は、旧約時代に、祭司たちが神殿で犠牲をささげて礼拝していた様子を思い起こさせます。旧約時代、ささげ物のない礼拝は考えられません。人々は、必ず、いけにえのために雄牛や羊などの動物のささげものを神殿で捧げたのです。これは、私たちが、神様に対して「物」ではなく「命」をささげなければならないということを教えています。神様は、私たちの持っている何かではなく、私たち自身を、求めておられるのです。時間や健康、財産や才能などといった、私たちの持っている一部ではなく、私たちのすべて、私たち自身をささげることを神様は求めておられるのです。「からだ」をささげるというと、手足を使って行う奉仕活動のことだと考えるかもしれませんが、聖書で使われている「からだ」という言葉には、肉体だけの狭い意味ではなく、「全体」という意味があります。したがって、私たちの身も心も、私たち自身を、私たちの人生のすべてをまるごと神様にささげなさいという意味になります。
 旧約時代の礼拝では、どんなに多くの犠牲がささげられても、人々が自分自身をささげていなければ、それらは、何の意味もないと、神様は言われます。形式だけで、真実の伴わない礼拝について、神様は、アモス5:22-23と語っておられます。「たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。」 大変厳しいことばですが、私たちも、私たちがささげているものが、私たち自身や私たちのすべてではなく、私の一部、私の持ち物だけではないだろうかと、問い直したいと思います。私たちの礼拝を、本当の意味で神様に受け入れられるもの、神様を喜ばせ、また私たちも、それによって神様を喜ぶものにしていきたいと思います。
「からだをささげる」ということばは、また、私たちにキリストの十字架を思い起こさせます。イエス様は完全な供え物として傷のないご自分のからだをささげました。イエス・キリストは、私たちを罪から救い出すために、十字架の上で、ご自分を犠牲の子羊として、神様にささげられたのです。私たちは、キリストがご自身をささげられたことによって救われました。キリストがそのからだを神様にささげられたように、私たちもまた、そのからだを神様にささげるよう求められているのです。そして、それこそが、私たちのなすべき礼拝であることを覚えていきたいと思います。
2節をご覧ください。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
私たちは、それぞれ、自分が生きてきた時代、生活してきた社会の影響を受けます。「この世と調子を合わせてはいけません。」というのは、その時代の文化や風習を一切拒否しなさいという意味ではありません。ここでいう「この世」というのは、神様にとってふさわしくない世界のことを意味しています。神様を否定し人間をあがめ、神様なしでも幸せな世界を作ることができると主張する考え方、原理、生き方、価値観、人生観、世界観などといったものを指しています。わたしたちは、こういったこの世と調子を合わせることなく、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える」生活に励まなければならないのです。ところが、弱くて無知な私たちは「神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」をわきまえるのが易しくありません。しかし、全く心配する必要はありません。本文で、パウロは、心を新しくし、自分を変えれば「わきまえ知る」ことができると教えてくれています。ここでの、「自分を変える」とは、常に悔い改めて心を新しくすることで霊的な人として内面が変化し成長することだと思います。御言葉の前で内面にある罪のかすを見つけ、悔い改めることで、心を新しくし霊的な人として成長する時、神様のみこころは何か、何が良いことで、神様に受けいれられ、完全であるのかをわきまえ知ることができるということです。罪は、かすのようで、かすがたまって詰まると、魂が疲れて無気力になり腐敗するようになります。悔い改めとは、このような詰まったかすを掃除することと同じだと思います。内面の罪を悔い改めると、魂がすっきりし、喜びが生じます。悔い改める時、聖霊が働かれ、変化した人生を生きるようになります。このように、私たちの心を新しくしてくださるのは、悔い改めによる聖霊の働きによって可能になるのです。
それでは、この世と調子を合わせず、心の一新によって自分を変える生活は、具体的にどのような生活でしょうか。3−5節を一緒に読んでみましょう。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。/一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、/大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」
まず、私たちに与えられている「信仰の量りに応じて、慎み深い考え方」をすべきです。そうすると、思うべき限度を越えて思い上がるような間違いを犯さなくなります。使徒パウロは、ここで、「体と多くの器官」のたとえを取りあげています。1つの体に、多くの器官がありますが、すべての器官が同じ働きをすることはありません。そのように、私たちもキリストにあった一つの体であり、互いに器官としてキリストの体である教会を構成しているのです。また、それにふさわしい賜物が与えられています。
6−8節をご覧ください。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。/奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。/勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」
神様は体を構成する一つ一つの器官である私たち一人一人に、その恵みに従って、異なった賜物を与えてくださいました。人によって、預言する人も、奉仕する人も、教える人も、勧める人も、分け与える人も、指導する人も、慈善を行う人もいます。教会の中でも、それぞれ自分の役割があります。ある人は、賛美で、ある人は楽器で、ある人はメッセージで、ある人は掃除で、ある人は食事で仕え、ある人は笑顔で、ある人は、人の話を良く聞いてあげたり、よく食べてあげたりすることで神様に仕えることができます。こうすることでそれぞれの役割を果たしています。目に見える働きも大事ですが、目に見えないがそれぞれに大切な役割があります。重要なことは、自分に与えられた恵みの賜物を見出すことです。ここで、明確に示してくださったように、だれでも必ずその賜物が与えられているのです。しかし、自分に与えられた賜物の価値を、神様の前でその価値を評価せず、世の人々のやり方のように、他人と比較する瞬間、神様から与えられた恵みの賜物がつまらないもののように見えるのです。2節で説明したように、「この世と調子を合わせてはいけない」理由はそこにあるのです。世の人々の基準から見るので、自分に与えられたすばらしい恵みの「賜物」の価値を知らず、他人を妬んだり、劣等感に陥ってしまいがちです。自分に与えられた最高の賜物を見出す時、人は本当に幸せに生きられます。また熱心に喜んで自分に与えられた賜物を発揮することが、「自分の体を、生きた、聖い、供え物として神様にささげる」霊的な礼拝となります。
皆様、私たちの健康にすごく良い影響を与える物質である「エンドルフィン(Endorphin)」について聞いたことがありますか。エンドルフィンは笑う時や、愛する時に分泌されるホルモンです。疲労回復や病気を治癒することにおいて卓越した効果があると言われます。逆にストレスを受けると、脳内からアドレナリン(adrenaline)とノルアドレナリン(noradrenaline)がたくさん分泌されますが、これを緩和する役割をするのが、βエンドルフィンです。しかし、エンドルフィンより4000倍も強力な物質が見つかったそうです。それは、ダイドルフィン(Didorphin)です。ダイドルフィンは感動した時に分泌されるホルモンだそうです。美しい音楽の旋律に心を奪われた時、心を揺り動かす文章を読んだ時、御言葉の恵みを受け、感動の涙が出た時、美しい風景、例えば富士山の頂上で御来光を見た時などにダイドルフィンが分泌されると言われています。私たちが自分に与えられた賜物を喜び、一生懸命その賜物で人を喜ばせる生活をすると、エンドルフィンとダイドルフィンが脳内から分泌されて、私たちを健康な生活に導くことになると信じます。ただし、エンドルフィンが一度分泌されると、5分間効果が持続されますので、常に健康生活を維持するために、5分ごとに喜びを覚える必要がありますね。周りの人たちから変だと言われても、気にせず、神様から与えられた賜物を考えながら微笑む日々を過ごして生きましょう。

?。愛と善を行いなさい(9−21)
9節からは具体的に世の人々との間でどのように生きるべきかに対する具体的な指針となる御言葉です。第一に、偽りのない愛に基づき、悪を憎み、善に親しむように勧めています。
9−10節をご一緒に読んでみましょう。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。/兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ここでの愛は、兄弟愛を意味しています。つまり、私たちの周りと互いに愛し合うことです。そうするためには、人を尊敬し、互いに人を自分よりまさっていると思うことが必要です。私たちは相手が自分を尊敬してくれれば自分もそのように思う準備ができているのに、と思う時が多くあります。しかし、聖書では「互いに思いなさい」となっています。兄弟愛のベースは相互の関係です。
第二に、勤勉で、望みを抱き、旅人をもてなす生活です。11−13節を一緒に読んでみましょう。
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。/望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。/聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」
神様は、クリスチャンに「勤勉」な生活を求めておられます。「努力に勝る天才無し」ということばは、たとえ天才的な才能を持っていても、コツコツ努力している人にはかなわないということを言っています。エジソンは、電球を作るとき、フィラメントの材料を見つけるのにとても苦労しました。電気を通すとそれが燃えて光るようにするのですが、すぐ燃え尽きるようではだめで、明るく輝き、しかも長く保つ材料をみつけるのに、エジソンはなんと1600もの材料を試したそうです。そして、やっと見つけたのが、日本の京都の竹であり、これを炭にし、細い線にして、電球が出来上がったという話があります。このことは、何かを成し遂げるのに一番大切なのは、勤勉でたゆまない努力であることを教えています。
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える生活を送ると、すぐに報われる場合もありますが、あまり評価されない時もあります。そういった場合、望みを抱いて喜び、患難に耐えながら、絶えず祈っていきたいです。さらに、積極的に同じ教会の聖徒たちをサポートしながら、旅人ももてなす生活に励むべきです。クリスチャンライフは、かなりレベル高いことが求められているのです。
第三に、迫害するものを祝福する生活です。ますますハイレベルの生活が求められています。
14-16節をご覧ください。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。/喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。/互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」
今までの御言葉もかなり高い水準の御言葉でしたが、ここに至ると、本当に順従しにくい御言葉に違いありません。いや、私たちの人間の力では不可能な事でしょう。私たちの本性では、「迫害する者を祝福するどころか、迫害する者が喜ぶと、お腹が痛くなるし、迫害する者が泣くと、嬉しくなり、ご飯がもっと美味しくなるのが現実でしょう」。そこで、心の奥底では、「やったか!?へへっ、ざまみろ!いい気味だ」と快哉を叫びます。しかし、イエス様は、マタイ5章11−12節で、迫害されると幸いだと言われます。だから、むしろ、喜び踊るように言われました。何故なら、天での報いが大きくなるからです。
最後に、悪に悪を報いず、すべての人と平和を保つ生活をすべきです。17−18節をご一緒に読んでみましょう。
「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。/あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」
ここで、「悪に悪を報いることをせず」という意味は、復讐するなという御言葉です。なぜ、私たちは私たちに悪を行った人に復讐してはいけないのですか。その理由は、復讐は神様がするものだからです(19)。ある牧師は、“復讐を行動で実行しなくても、心で復讐の思いを持っている者は、神様の恵みを忘れてしまうので、自分で復讐してはいけない”と説明しています。何故なら、復讐しようとする考え自体がすでに神様の恵みを忘れてしまっている証拠だからです。私たちが直接復讐することより、神様の御手と神様の時に復讐をゆだねる必要があります。敵が飢え渇いている時、正常な心ではなかなか難しいので、その瞬間だけは、気違いになって、敵を食べさせ、飲ませると、彼の頭に燃える炭火を積むことになります(20)。つまり、世の法則であれば、敵同士であれば、憎むのが当然であるのに、かえって悪を悪で報いず、善を施すことで、私たちの敵は恥ずかしい思いで、頭が燃えるようになります。このように、悪に負けず、かえって、善をもって悪に打ち勝つことによって、私たちは世の人々を感動させることができるのです(21)。相当難しいレベルですが、ここに本当の意味でのクリスチャンライフの魅力があるのではないでしょうか。また、感動があるのです。上で説明したように、感動を受け、感動を与える生活をすることで「ダイドルフィン」がたくさん分泌され、私たちの体が健康になりますし、人を癒すことができます。
皆様、数年前、双子のニュースがテレビで報道されたことがありましたが、ご覧になったことがありますか。生まれたばかりの双子のうち、妹が死にかけていました。インキュベーターの中で死にかけていた双子の妹を、元気なお姉さんのそばに横たえると、お姉さんが腕を伸ばして死にかけていた赤ん坊の妹を抱いてあげました。すると、妹の赤ん坊の心臓が徐々に正常に帰って来て、赤ん坊の妹を生かすことができたのです。感動を受けた妹の脳から奇跡的にダイドルフィンが分泌されたでしょう。
この時間、十字架の上で死なれることで、敵であった私たちを愛し、救ってくださったイエス様を思い、そのイエス様に感動され、悪に対して、善を持って打ち勝つ生活ができるように祈りたいと思います。私たちが、周りの人々を感動させる格好いいクリスチャンになれるように切に祈りたいと思います。