2013年ローマ人への手紙第13講

信仰告白と福音宣教

御言葉:ローマ人への手紙10:1−21
要 節:ローマ人への手紙10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

先週は深いあわれみによる神様の主権的な働きを学びました。救われる資格もなく、価値もなかった異邦人である私たちも愛し、選んでくださった神様のあわれみを心から感謝します。
今日は多くのイスラエル人が救われない理由とともに、どうすれば救われるか、救われた人々に与えられた福音宣教の使命について学びます。どうか、聖霊の働きによって信仰告白による救いと福音宣教を深く悟り、学ぶことができるように祈ります。

?.信仰告白による救い
1節をご一緒に読んでみましょう。「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」先週も、私たちは同胞に対するパウロの愛を学んだのですが、この御言葉にも同胞に対する彼の愛がよく表れています。それは人間的な愛ではなく神様の愛です。もし、彼が血のつながりだけで同胞を愛していたなら、イスラエル人の救われることのためにあれほど祈り求めなかったでしょう。なぜなら、ユダヤ人はパウロを迫害して町から追い出し、パウロを殺そうともしたからです。人間的に考えると自分を苦しめ、殺そうともする人たちを愛し、彼らのために祈り続けることは無理でしょう。
人間的に考えると、人々は相手の態度や状態によって愛したり、憎んだりします。自分によくしてくれれば自分もよくしてあげたくなります。夫婦であっても自分に対する相手の態度に関係なく愛し続けることは難しいのです。しかし、神様は私たちの状態、私たちの態度に関係なく愛し続けておられます。ありのままの私を愛しておられます。聖霊は私たちのために言いようもないうめきによってとりなしておられます。そのような神様の愛によってパウロは同胞のユダヤ人を愛し、彼らの救いのために神様に願い求めていたのです。私たちも私たちに注がれた神様の愛を正しく知り、深く悟るなら、その愛のゆえに、どんな人でも愛し続けることができます。悪口を言われても、非難されても、はなはだしくは自分を殺そうともする人であっても彼らを愛し、彼らのために祈ることができるのです。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(ローマ5:8)。
パウロはそういう神様の愛を抱いていたので、自分を迫害するユダヤ人の救いを望み続け、彼らのために祈り続けることができたのです。どうか、私たちも神様の愛に満たされて近くにいる家族から始め、どんな人でも愛し続け、彼らのために祈ることができるように祈ります。では、パウロはあれほど愛しているユダヤ人なのに、彼らが救われない理由は何ですか。
2,3節をご覧ください。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」パウロはここでユダヤ人の間違った熱心さを指摘しています。ユダヤ人は神様に対して熱心でした。その熱心さは素晴らしいです。日本人も熱心な国民として知られていますが、熱心に生きることは素晴らしいでしょう。怠慢な人よりも、熱心に勉強する人、熱心に働く人が尊敬されるし、成功します。神様に対しても熱心な人が用いられます。そして、心の燃えている人は疲れも感じないですね。たいてい見ると、熱心な人は疲れません。疲れてしまうのは熱心さが無くなって行く時です。だから、何をしても心が熱い、熱心にやることは大切です。心が熱くなると、体温も上がるでしょう。「体温が1度下がると免疫力は30%低下し、逆に体温が1度上がると免疫力は500〜600%もアップする」と言われています。(『体温を上げると健康になる』 齋藤真嗣 医師)。
だから、熱心であることは素晴らしいと言えるのです。しかし、間違った熱心は危ないです。日本では、「宗教もいいけれど、あまり凝ってはいけない」と言われます。それは間違った熱心さが結果的に大きな問題を起こしている姿をよく見聞きしているからでしょう。地下鉄サリンガス事件、悪質霊感商売、合同結婚式などで変な熱心に走っている人々のことを見聞きしているのです。パウロの同胞であるユダヤ人たちの宗教的な熱心さは大変なものでした。人を石打で殺すことさえやりました。パウロはそれをいたいほどよく知っていました。なぜなら、パウロ自身が熱心な人であってイエス様に出会う以前はだれにも負けない熱心さがありました。その熱心さは、クリスチャンたちをこの世から抹殺しようとした思ったほどでした。しかし、それは間違った熱心、変な熱心だったのです。なぜなら、彼らは自分の熱心さによって自分が正しいことを証明し、神様に認められようとしたからです。建前は神様に対する熱心ですが、本音は自分の義を主張する自己中心になっていたのです。今日の教会でも熱心に奉仕した方たちの中では人々から認められないことでやる気を失っている方たちがいます。牧師から認められないと不平不満が貯まって行く場合もあります。しかし、私たちの神様に対する熱心は人々に認められるためでもなく、自分の義を立てるためのものでもありません。ただ神様に愛されていることに感動し、感謝して熱心に仕えるものなのです。ユダヤ人の熱心さが神様に認められず、救われなかったのは、自分を立てようとし、自己中心になっていたからなのです。ではどんな人を神様に認められるのですか。
4−7節を読んでみましょう。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。」パウロはキリストが律法を終わらせられたこと、つまり律法を成就してくださったことを明らかにしています。キリストは私たちがしなければならないすべてのことを行なってくださいました。従って、私たちは熱心に律法や宗教的な規則を守ろうとすることよりもイエス様を信じることが大切です。
たとえばこういうことでしょう。私は毎年花粉症で苦しんでいます。それで毎年その時期になると、毎日のように薬を飲んでいます。ところが、誰かが完全な治療薬が出ます。しかも、ただでもらえるものであり、二度と花粉症がかからないようにしてくれる治療薬の存在が分かったのです。そんな時、私はまた、花粉症にかかってしまいました。どうしたら、いいでしょうか。今まで飲んだから、前の薬を飲むべきでしょうか。私なら、新しく完成した治療薬を飲みますね。完全な治療薬があるにもかかわらず、以前の薬を飲み続ける人はいないでしょう。完全な治療薬があるなら、それを受け入れればいいわけです。
イエス様は私たちに代わって律法の要求をすべて満たしてくださいました。イエス様は完成者であられます(ヘブル12:2)。ですから、私たちはそのイエス様から目を離さないでイエス様の救いを受け取るべきなのです。それ以外に私たちの選ぶべきものはないのです。ところが、私たちは、完成されたものを単純に受け取ろうとしません。むしろ、それよりも、以前のものを使い、自分の力で別のものを作ろうとするのです。そして、その熱心さが霊的な高慢を生むこともあります。つまり、自分たちの努力と熱心さで天に行ったり、地の底に下ったりできるかのような錯覚をする人になるのです。これは思い上がりです。全くの高慢以外のなにものでもありません。
パウロは、人が自分の努力や熱心で永遠の救いを得ることができると考えるとしたら、それは間違いだと教えています。正しくない人の熱心は、かえってその人を高慢にしてしまうのです。そこで、パウロは彼らを何とかして正しい方向に向けさせようとしています。そこで、パウロは彼らが救われる正しい方法、救いの道を教えています。
8節をご覧ください。「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」とあります。救いの道は遠くあるのではなく、近くにあります。救いの道は険しく難しい道ではなく、とてもやさしい道なのです。どんなにやさしい道でしょうか。
9,10節を読んでみましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」私たちが救われるために二つのことが必要です。
一つ目は「あなたの口でイエスを主と告白すること」です。ということは、「私は、イエス様のしもべです」ということです。イエス様を救い主として受け入れ、信じるということは、イエス様を人生の主として、人生を導く羊飼いとして信じ受け入れることなのです。一般的に人々は自分自身を自分の主としています。いつも、世界が自分を中心に動くことを願います。そうでなければ気分が悪くなるのです。それでは救われません。しかし、イエス様を主、自分の王として受け入れると、どうなりますか。それは今までの自分のすべてを主なるイエス様に明け渡すことです。主権放棄です。だから、難しく感じる人もいるかもしれません。でも、良い主人に恵まれたしもべが楽に生きていくことと同様に、イエス様が私の主、私の牧者になると、その時から心に安らぎが来ます。私たちは平安な生涯を始めるようになるのです。それは人類の歴史の中で数えきれないクリスチャンが告白していることです。現在も世界人口の3分の1が認めています。
私たちが「イエスは主である」という告白するなら、ほんとうにイエス様が主として責任を持って私たちを導いてくださいます。私たちに平和を与えられ、私たちの行く先々で勝利を与えてくださいます。そのうちに、私たちは、人として本来あるべき姿を取り戻し、神様を礼拝し、感謝と賛美を持って歩むようになるのです。
二つ目は「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる」ことです(9節)。イエス様は、何の罪もなかったのに十字架につけられ、死なれました。しかし、それで終わったのではありません。三日目によみがえられたのです。そして、今もイエス様は生きて働いておられる方です。だから、毎年クリスマスの時が世界中の人々がイエス様の誕生日を祝っています。普通は死んだ人の誕生日を祝うことはしません。私の両親が死んだので今は誕生日ではなく、亡くなった日を覚えています。でも、イエス様の誕生日は今でもお祝いするのです。イエス様が今も生きておられるからです。クリスマスの時に世界中の人々がイエス様のお誕生を祝っているのは、クリスチャンでもノンクリスチャンでもイエス様は生きておられると認めていることなのです。でも、自分の心から信じ、口で告白しないなら、死者の中からよみがえられて、今も生きて働いておられるイエス様とは無関係になってしまいます。今も死者の中からよみがえられたイエス様、今も生きて働いておられるイエス様を信じる人がキリストの救いを体験するのです。
ヘブル人への手紙13章8節には、「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、同じです」とあります。イエス様は、今も生きておられ、昨日も今日もいつまでも私たちを救うことができるお方だ、というのです。パウロの時だけではなく、今もイエス様を信頼する者はパウロと同様に生きておられる神様の力と愛を体験することができます。
第一に、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と言うことです。イエス・キリストに信頼する者は、失望させられることがないのです。口語訳聖書では、失望に終わることがないと訳されています。ですから、失望と思われることが襲ってくることもあるでしょう。しかし、失望に終わらない人生が約束されているのです。
第二に、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と言うことです。民族、国境、言語を越えて、どの国の人であっても、イエスの御名を呼び求める者は救われるというのです。イエス・キリストを呼び求める者には、区別も、差別もありません。誰でも、いつでも、キリストの御名を呼び求める者は神様の救いを得るのです。

?.福音宣教
13節をご覧ください。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」とあります。私たちが信仰告白の上で主の御名を呼び求める祈りをするなら、救われます。ユダヤ人は生活の中で主に頼ろうとしませんでした。謙遜に主の御名を呼び求めることより自分の義を立てようとしました。それゆえ、彼らは救いも、神の力も経験することができませんでした。しかし、誰でも主の御名を呼び求める者は神様の救い、大いなる力を経験するようになります。主を信じてその御名を呼び求める者は罪から救われます。暗やみから救われます。運命から救われます。無気力と軟弱な生活から救われます。私たちを罠に陥れるさまざまな罪の誘惑と快楽から救われて新しい人生を生きるようになります。さまざまな病からも救われます。私たちが日々心からイエス様を主として信じてその御名を呼び求める祈り生活を続けるなら、毎日主の救いとその力を体験することが出来ます。私は主の御前にひざまずいて「主よ。」と呼び求める生活を通してこの世界は主が支配しておられることを何度も何度も、体験しました。
 14、15節をご覧ください。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」」とあります。この御言葉を逆に言いますと、良いことの知らせを伝える立派な人々が遣わされました。私たちは彼らが宣べ伝えた福音を聞いたので信じることができました。また、それを信じたので主を呼び求めることができます。その祈りによって多くの恵みを受けています。だからこれからは私たちが遣わされて行かなければなりません。そのためには足の活動が必要です。聖書は福音を伝える人の足を褒めています。私たちのからだの器官の中で足の役割は大きですが、称賛されるより非難される場合が多いでしょう。「汚いにおいがする」と言われるのです。本当に夏になると酷いにおいがする足になります。でも、その足で福音を伝えに行くなら、「その人の足は、なんとりっぱな足でしょう。」と神様から称賛されます。最近、私は福音自分の足をりっぱにするために毎日のようにキャンパスに行って祈っています。が、今年は私たち皆の足が良い知らせを伝えるりっぱな足として用いられるように祈ります。
17節をご覧ください。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。主の御言葉を聞く時に信仰のわざが起こります。主の御言葉の中に罪と闇の勢力を征服する光といのちがあるからです。このいのちの御言葉、光の御言葉を聞く人々のうちに素晴らしい信仰のわざが起こるのです。
18節をご覧ください。「でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」」とあります。イスラエル人はモーセ五書の全部を覚えていました。メシアに関する預言も読みました。特に、パウロがこの手紙を書いているときには、ユダヤ人が住むあらゆるところで、すでに福音は宣べ伝えられていました。だから、彼らは「聞こえなかった。」と弁明することはできないのです。では、聞こえたけれども、どんな意味かを知らなかったと言えるでしょうか。果たしてイスラエルは知らなかったでしょうか。それも弁明できません。それに対してパウロは説明しています。

結論的に19−21節を読んでみましょう。「でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」とあります。神の義を追い求めていなかった異邦人が、神の義を得ました。異邦人は、そのまま聞いたことを信じたので救いにあずかったのです。しかし、イスラエル人は、謙遜に神様の義に従わず、むしろ高慢になって自分の義を立てていたのです。それにもかかわらず、主は、また、「一日中、手を差し伸べた」とあります。主は、イスラエルをこよなく愛しておられるのが分かります。福音に対してかたくなな彼らですが、それでも神様は彼らが何とか救われることを願っておられます。それで神様は一日中、手を差し伸べておられます。この日本に対しても同じです。今日も神様は御手を差し伸べておられます。
この神様の愛を心から感謝します。どうぞ、肩の荷を下ろしてください。主は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と読んでおられます。いろいろな思い煩いをイエス様にゆだね、ただ主を信頼して行きましょう。信頼する者を失望させることのないイエス・キリストが、いつも私たちと共にいてくださいます。その事実を覚え、間違った熱心ではなく、イエス・キリストを信頼する熱心を持って生かされていきますように祈ります。さらに、福音宣教にも励むことができるように祈ります。