2013年ローマ人への手紙第11講 
                         2013.4.28

すべてのことを益としてくださる神様

御言葉:ローマ人への手紙8:18〜39
要 節:ローマ人への手紙8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」

日本の諺に「楽は苦の種、苦は楽の種」というものがあります。それは、楽をすれば後で苦労を味わうことになり、逆に苦労をしておけば後で楽ができるという意味です。人はだれでも楽な生活を望んでいるはずです。しかし、この世に身を置いている限り、苦しみはつきものだと言われます。時には、地震と津波のような想定外の自然災害や、思いも寄らない重い病、予期せぬ事件、人間関係などで、悶え苦しむこともあります。また、思いがけないことが起こったりした時に、「どうして、こんなことが私に起こるんだろう」と思い悩む人もいるでしょう。

ところが、私たちは今の現実がどんなに苦しくても辛くても堪えられます。なぜなら、私たちは神様がどんなお方なのかを良く知っているからです。神様は、ひとり子をお与えになったほどに私たちを愛され、ご計画に従って私たちを召してくださいました。この神様が「すべてのことを働かせて益としてくださる」ということですから、私たちはいろいろの苦しみや困難に直面した時も喜ぶことができるわけです。今日は、御言葉の内容を三つに分けて、皆様と共に神様の愛と栄光の世界へ旅立ちたいと思います。主の御言葉に耳を済ませば、きっとキリスト・イエスの愛による喜びと勝利の歓声が聞こえてくるはずです。今日の礼拝は、感謝と喜び溢れる礼拝としてささげることばできれば、何より幸いです。

第一に、今の苦しみは、後に受ける栄光に比べれば、取るに足りないものです(18〜25)。
 
18節をご覧下さい。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」とあります。ここで「いろいろの苦しみは」、クリスチャンが受ける様々な苦しみを意味します。なぜクリスチャンは、この世で苦しみを受けるのでしょうか。それは、キリストと栄光をともに受けるためです(8:17)。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願っているから迫害を受けるのです(?テモテ3:12)。パウロは福音を伝えるために、人々から憎まれ、激しい迫害を受け、最後には殉教しました。それは、福音のための苦しみであり、キリストと苦しみをともにすることでした。イエス様の生涯を集約しますと、“No cross no crown” (著者William Penn, 1644-1718)、「十字架なしに、冠なし」、「艱難なくして、栄光なし」と言えます。イエス様は私たちのために十字架の上で苦しみを受けられ、死者の中から甦られて神様の栄光を表されたのです。この教会の中にも、キャンパスで福音を伝える時に警備員から追い出された方も、また教授会に呼ばれて学生に聖書を教えないように厳しく注意を受けた方もいます。それはクリスチャンであれば誰もが経験することだと言っても良いでしょうが、この教会で、主を愛し、この国の人々を愛する信仰の持ち主と共に、主の御業に奉仕できることは、本当に光栄なことだと思っています。
パウロは、この手紙の冒頭で、ローマクリスチャンの信仰について、「・・・あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」(1:8)と言っています。このパウロの言葉を裏返して考えますと、彼らはローマ帝国から約250年もの間、想像もつかない苦しみを受けたことでしょう。紀元64年に起ったローマ市街の大火災の時に、彼らは皇帝ネロによって迫害を受けました。多くのキリスト教徒は逮捕され、中には犬やライオンなどにかみ殺された人、生きたまま火あぶりにされた人もいたと言います。しかし迫害は、かえってキリスト教徒の信仰を強くし、殉教者が増えるたびに新しい仲間が信者として加わりました。それは彼らが、今受けている苦しみよりも、将来に受ける神の栄光を待ち望んでいたからではないしょうか。そういう訳で、そんな彼らの信仰が全世界に言い伝えられ、今に至るまで多くのクリスチャンを勇気付けているのです。

日本では、江戸幕府の時に「檀家制度」というものがありました。「檀家制度」とは、徳川幕府がキリスト教を禁止し、民衆を支配するために設けた制度ですが、それに従って、人々は必ずどこかの寺院に所属し、寺に戸籍を登録せざるを得ませんでした。もし寺院が発行する寺請証文(戸籍謄本にあたる)がなければ、就職も、旅行もできないし、そして証文の発行を拒否されますと、「帳外れ」と差別され、それは社会的な抹殺を意味しました。もう一つは、「踏み絵」というものがありましたが、それは、キリスト教弾圧に際して、キリスト教信者か否かを見分けるため、キリスト・イエスや聖母マリアの像を木または金属の板に刻み、足で踏ませたのです。それを拒んだ場合はキリスト教徒として逮捕され、処罰されたと伝えられています。

もう一度18節をご覧下さい。人間はだれでも、自分の受ける苦しみを非常に大きく感じてしまうものです。でも18節は、神様の前でその非常に大きく見えてしまう苦しみや恐れさえも、“本当は、「取るに足りない」ものでしかないんだよ”、と言っており、苦しみに対する私たちの視点や考え方、生き方を変えてくれる御言葉です。パウロや日本の初期クリスチャンたちの場合は、実際に命に関わるほどの大きな試練を受けました。私たちは、そんな彼らを見て、自分とは、かけ離れた人間力と信仰の持ち主だと感じてしまいがちです。しかし、彼らが試練を乗り越えていけたのは、神様の用意されている将来の栄光が、自分の苦しみよりもずっとずっと比べ物にならないぐらい大きな栄光である!という聖書の約束を深く悟っていたからでしょう。これは、本当に祈る中でしかつかめない真理であり、聖霊様の助けによってのみ体験できる真理なのです。私を含めた信仰の幼い人達が苦難を乗り越えられない時があるのは、目先のことだけを考えてしまい、目に見えるものだけを望んでいるからではないでしょうか。私たちは、やがて必ず実現される神の栄光を待ち望みながら、日々主に祈り、賛美を歌いつつ、聖書の学びと教えに熱心に励んで行こうではありませんか。

やがてキリスト・イエスは、予告もせず再びこの世に訪れます。神様の栄光がこの世に実現されるのです。その時には、アダムが犯した罪によって虚無に服するようになった被造物が本来の姿に回復されます。人は弱いからだが贖われ、罪から完全に解放されるのです(19〜25)。からだが弱い人や重い病を患っている人などにとっては、この神の栄光が本当に自分に実現することを望めば、今の苦しみは取るに足りないものと実感することができるわけなのです。

第二に、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます(26〜30)。

私は本当に弱い者です。弱い体のことで、涙もろく、悩みも多いです。時には自分に置かれた現実が苦しくて、何を祈ったらよいか分からず、祈れなかったこともあります。しかし、私たちはそういう時にも思い悩む必要がありません。なぜなら、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」からです(26)。また神様は、「人間の心を探り極める方」だからです(27)。「探り極める」とは調査する意味です。神様は私たちの必要なものが何かをよく知っておられます。そして助け主なる御霊がとりなしてくださるとは、心強いです。

28節をご覧下さい。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」この28節は、多くのクリスチャンが慰められている御言葉です。主の愛によって神様を愛するようになったクリスチャンは、神様の救いのご計画に従って召された者です。私たちが主を愛するようになったのは、先に主が私たちを愛してくださったからです。その方によって私たちは使徒として召されたわけです。神様はすべてを働かせて益としてくださるお方です。すべてのことを益に変えることができる力を持たれる方にとって、不可能なこと、無駄なものは何一つありません。かえって、困難や試練がその人を練り、御子の姿にまで変えていくのです。

「神がすべてのことを益としてくださる」というこの箇所は、「人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄の如し」といった「世の幸不幸は変転し、寄り合わせた縄のようだ」という意味で受け取られがちです。しかし、この二つの故事はどこまでもこの世の一面を論じたものに過ぎません。それとはまったく次元が異なります。すべてのことを益とされる神様の計画と目的は、やがて私たちが御子キリスト・イエスと同じ栄光の姿に変えられるためでした(29)。ですから、私たちは日々生活をしていく中で体験した神様の愛やご計画、導き、栄光の姿などを、体いっぱいに感じられているし、魂いっぱいに喜び歌っているわけなのです。

私はすべてを益としてくださる神様を知っています。17年前に私の家庭が宣教師として来日したのは、実に、益としてくださる神様の導きだったとしか言うようがありません。大学3年の時、私は「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の御声に、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と答えました(イザヤ6:8)。卒業後は鶏を屠る仕事でアメリカに渡ろうとしました。しかし、仲介者だった人がすべてのお金を持って海外に逃げ、それ以降は、宣教の門が14年間も閉ざされていました。ところが、不思議にも同じ立場にあった先輩、友達、後輩たちは、ロシアやリトアニア、ドイツ、豪州などに宣教師として世界へ散らされて行きました。このように神様は福音伝播のために、すべてのことを益に変えてくださったのです。金銭的には損をしましたが、この国に来て皆様と共に主の御業に仕えながら弟子が立てられる喜びを味わったことは、かけがえのない主の御恵みです。今はしばらくの間リベカ宣教師と離れ離れになって生活しているのが凄く寂しいですが、主が私の家庭をどのように導いてくださって益としてくださるのか、本当に楽しみです。先週は皆様が祈っていたワタル君が元気な姿で教会に来ました。幼い子どもにとっては大変な手術だったでしょうが、ワタル君の病は神の栄光を現されるためであることを堅く信じています。私は喜びをもってこう祈りたいです。“神様。私たちの弱さや苦しみが、御霊の助けをいただき、御子の姿に変えていただくチャンスとなっていることを感謝します。どんなときでも主を褒めたたえ、感謝をささげます。アーメン”

第三に、神様は、私たちを圧倒的な勝利者としてくださいます(31〜39)。

この箇所のみことばは、パウロの歓喜極まる雄たけびです。圧倒的な勝利の宣言です。あれほど苦しみ痛めつけられてきたパウロの、この勝利者としての宣言の根拠は何でしょうか。

一つ目の根拠は、神様が私たちの味方であるということです(31〜34)。しかも、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」神様が味方なのです。神様は私たちすべてのために、たった一人の御子さえ惜しまずに、死に渡されたほどのお方ですから、他のすべてのものをも下さらないわけがあるでしょうか。神様がご自分の者として選ばれた私たちを訴えるのはだれですか。神様ですか。どんでもないです。神様は私たちを赦し、義と認めてくださったお方ではありませんか。これ以上の味方は、他にはありません。34節をご覧下さい。では、私たちを罪に定めるのはだれでしょうか。キリストですか。とんでもありません。キリストは「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません(ヨハネ8:11)」、と言われたお方です。そのキリスト・イエスは、私たちの最強の味方です。なぜかというと、キリストは私たちのために死に、復活し、今は神様の右の座で、私たちのために祈っておられるからです。

二つ目の根拠は、神様が私たちを愛してくださったということです(35〜39)。私たちをキリストの愛から引き離すのは、どのようなものでしょうか。「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(35)。確かにこのようなものに直面しますと、キリストの愛から離れていく人もいます。しかしパウロは、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのだ」(37)、と力強く言っています。その大きな試練の中で、つぶされずに圧倒的な勝利者になったのは、人生のいかなる場面でも、この神様の愛を見失わなかったからである、というのです。最後の38,39節で、パウロは、全被造物を引き合いに出しています。そして、それらをすべて否定した後に残る「主キリスト・イエスにある神の愛」を、何とも力強く描き切っています。まるで、全宇宙すら飲み込んでしまうような神様の愛が、パウロの全生涯を包んでいたのだ、という大宣言です。

皆様は苦しみに遭うと、神様に見放されたような気持ちになったことはないでしょうか。そんな時にこそ、私たちを勝利に導く神様の大いなる愛を魂いっぱいに頂きましょう。キリストと共にある限り、私たちはどんな試練の中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。最後にキリスト・イエスの言葉を皆様に伝えましょう。ヨハネの福音書16章33節です。「・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

ハレルヤ!!!アーメン。