2013年マルコの福音書第22講

あなたのみこころのままを

御言葉:マルコ14:32〜72
要 節:マルコ14:36「またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」

メリークリスマス!
今年、マルコの福音書を学ばせてくださった神様に感謝します。15,16章の内容は夏修養会に学んだので今日が今年マルコの福音書の最後になります。この福音書を通してイエス様の働きと神様の御心を学び、知るように導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。少しでも神様の御心を知って御心に従えることは大きな恵みであり、特権です。思春期の時、私は自分の願いどおりに生きることこそ幸せだと思っていました。中学生の時は、親元から離れて自分の願いの通りに生きられるなら自由になり、幸せになると思いました。それで自分なりに一生懸命に勉強して第一志望の高校に入学し、親元から離れて自炊生活を始めました。ご飯を炊きたくなければインスタントラーメンばかり食べることができました。勉強をしなくても親からの小言はありませんでした。私の願うことがかなえられました。すると、田舎では親の自慢だった成績がどんどん落ちて行きました。健康も衰えて行きました。栄養失調による肝炎にもかかってしまいました。
ところが、大学1年生の秋から聖書勉強を通して少しでも神様の御心を知るようになりました。御心に従おうとする生活が始まりました。自分の願いより神様の御心を優先にして夜明けに祈り始めました。まだまだ未熟ですが人を赦し、愛しよう、人に仕えようとして来ました。すると心に平安と喜びを経験するようになりました。振り返ってみると自分の願いではなく神様の御心に従おうとし始めてから私の人生に平安と喜び、幸せがあるようになりました。
今日の御言葉には神の御子イエス様が父なる神様の御心に従うために苦しみ悶えながら祈られる場面が記されています。イエス様も私たちの同じく自分の願いどおりになることを望みました。苦い杯を飲みたくありませんでした。しかし、最後までご自分の願いを貫くことはなさいませんでした。神様の御心に従うことを決断し、御心の通りになることのために祈られました。私たちもこのイエス様の祈りを学んで父なる神様を深く信頼し、御心に従うことができるように祈ります。

 32節をご覧ください。「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」」とあります。「ゲツセマネ」とは「油絞り」という意味です。当時の人々はオリーブ油をつくる時、オリーブの実を圧搾機に入れて大きなハンドルで絞めました。すると、実が砕かれてオリーブ油が滴り落ちました。そのように、あのゲツセマネでイエス様の自我が砕かれて血のしずくのような汗が滴り落ちました。ルカによると「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように血に落ちた。(22:44)」とあります。この姿をイエス様が連れて行かれたペテロ、ヤコブ、ヨハネが目撃しました。弟子たちは今までもイエス様の素晴らしい奇跡を見て来ました。御言葉を語られる時、権威あるイエス様の姿を見て来ました。病を癒し、悪霊を追い出しておられるイエス様の御姿を見て来ました。ある時は嵐を静め、五つのパンと二匹の魚で5千人を食べさせられるイエス様の御姿を見て来ました。特にこの3人はイエス様が会堂管理者ヤイロの娘をよみがえらせた現場にいました(5:37)。変貌山と呼ばれている高い山でイエス様の御姿が栄光に満ちた姿に変わられた時も、この3人はその場にいました。つまり、弟子たちは自分たちの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれるイエス様の素晴らしい御姿を見て来たのです。
 ところが、今やイエス様の御姿が以前のようではありませんでした。イエス様は弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目を覚ましていなさい。」と言われました。今までこれほどに弱々しい姿を見せたことはありませんでした。このイエス様には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもありませんでした。イエス様は3人の弟子に祈りを命じてから少し進んで行って、地面にひれ伏して祈られました。「地面にひれ伏した」ことは神様に対する服従と謙虚な姿勢を現わします。イエス様は、ゲツセマネの岩の所に倒れ込むようにしゃがんだのです。そして、悲痛な声で苦しみもだえて祈り始めました。
35b、36節をご一緒に読んでみましょう。「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」ここで、イエス様の祈りについて考える時、二つのことを学ぶことができると思います。

第一に、父なる神様への全き信頼の祈りです。
私たちは全き信頼関係の人の前では何も隠す必要がありません。何でも言えるし、何でも告白することができます。イエス様は十字架の死を目の前にして経験しる苦しみを隠しませんでした。軟弱な弟子たちにも「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言いました。神様にも「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と率直に祈りました。苦しみもだえることも、死ぬほど悲しいことも真実に告白したのです。それは神様への全き信頼(Perfect trust)があったからです。イエス様は神様を「アバ、父よ。」と呼ばれました。「アバ」とはアラム語ですが、「パパ」と訳することができることばです。子どもが父の愛を全く信頼して抱かれる時に「パパ」と言います。私が子どもの時にはなかなか「パパ!」と呼べませんでした。母に対しては「ママ!」と呼んでいましたが無口な父にはなかなか「パパ!」と呼べなかったのです。それでも父の愛は深いです。いつも私を理解し、無言の愛でささえてくれました。私の父だけではなく、お父さんたちの子どもに対する愛は深く遠大なものです。子どものために職場で自尊心が踏みにじられる羞恥も、疲れも、乗り越えって骨が折れる仕事をします。
先月、職場で私の隣に座っている先生は15年ぶりに二番目の子が生まれました。すると彼は車を売って自転車を買いたい、冬休みにはアルバイトをしたいと言いました。子どものためにもっと節約し、もっと働きたくなったのです。もちろん、世の多くの母親が我が子を深く愛しているのは事実です。けれども、父の愛も、母の愛同様に非常に深いのです。
この世のパパの愛がそうであるなら、それにまさる神様はどうでしょうか。パパ、父なる神様の愛は世の父の愛を遥かに超えて深く遠大なものです。私たちのすべての状況と状態を一番深く理解し、ベストの道に導いてくださいます。ですから、私たちはパパ、父なる神様に何でも真実に告白することができます。パパなる神様に私の苦しみ、悩み、悲しみのすべてを言い表すことができます。イエス様は神様に最初から「主よ。私が人類の罪の問題を解決するために十字架の苦しみに勝つようにしてください。」と祈ったのではありません。イエス様は「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り」まりました。「パパ。この苦い杯が嫌です。パパ、本当に苦しいです。これを取り除けてください。」と言うふうに祈られました。イエス様は現状を告げたのです。これこそ祈りです。
私たちにも苦しい時があるでしょう。心が傷ついた時も、心が疲れた時もあるはずです。落ち込んだ時もあるでしょう。現状を冷静に見る今の状況は本当に絶望的な状況だと思われる方もいるでしょう。私はそんなときは、思い切って信頼のおける人に自分の感じていることを吐き出してもいいと思います。家族、親友、誰でもいいと思います。本当にお互い信頼関係が成立しているなら、それでいいと思います。問題は本当に苦しい悩みを言える相手になりうる人がいるかどうかです。ある人は職場で人間関係での悩みを誰かに言いました。ところが、後でその話が別の人を通して自分の耳に入って来ました。しかも、それは自分が言ったことよりも膨らんでいました。その後、彼は誰も信頼できなくなりました。心の扉を開けなくなりました。ところが、私たちのパパ、父なる神様は絶対に私たちの秘密を守ってくださいます。常に無言の愛で私たちを励まし、ささえてくださいます。ですから、私たちはこのパパ、父なる神様へ全き信頼をもって何でも告白することができます。パパ、父なる神様の御前で私の心配、苦しみ、痛み、心の傷をそのまま告げることができます。聖書はこう言っています。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(ピリピ4:6,7)。
 今年も残すところわずかとなりました。まだ悩み苦しんでいる問題はないでしょうか。痛くて辛いことはないでしょうか。父なる神様の御前に自分の願いを告白しましょう。「パパ。苦しいです。辛いです。痛いです。この苦しみから救ってください」と真実に告白し、主に委ねることができるように祈ります。

第二に、自分の願いより父なる神様の御心を優先する祈りです。
もう一度36b節をご覧ください。「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」とあります。イエス様は祈り始める時は自分の苦しみがあまりにも大きく見えました。でも祈り続けると、神様の御心も見えて来ました。神様の御心はどうしてもイエス様が十字架を背負い、死なれることによって全人類を救うことでした。そして、死後にはよみがえらせ、輝かしい復活の栄光を与えてくださるという希望が見えてきました。そこでイエス様は十字架の苦い杯を飲もうと決断なさいました。「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られました。自分の願いに対しては「No」、神様の御ころに対して「Yes」と答えました。
イエス様はご自身の願いと神様の御旨との間の葛藤の中で、神様の御心を第一にする祈りをされたのです。大多数の人は神様のみこころより自分の考えや願いを優先させる祈りを多く捧げています。「神様のみこころではなく、私の願うことを、なさってください。」と言っているような祈りをしているのです。最初から最後まで自分が神様に願うことばかり一方的に求める祈りを捧げています。もちろん、祈り始める時は、素直に、自分の願いを求めます。イエス様も素直に、真実にご自分の願いを求めました。しかし、最後までご自分の願いを貫いたのではありません。神様の御心を求める祈りに変わったのです。では、神様の御心は何でしょうか。
 それはイエス様が苦い杯を飲むこと、十字架の苦しみを受けて死ぬことです。それによって私たちの罪が赦され、救いを得るようになることです。神様はすでに預言者イザヤを通してご自分の御心を示しておられました。イザヤ53:10節を見ると「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」とあります。この預言の通りにイエス様は砕かれ、痛められる祈りを通して神様の御心に従いました。
ところが、イエス様が一度祈って戻られた時、弟子たちは何をしていましたか。彼らはイエス様の苦しみとは関係なく、眠ってしまっていました。そこで、イエス様はペテロに何と言われましたか。37、38節をご覧ください。
38節を今年の要節にしているxx牧者に37、38節を読んでもらいたいと思います。
「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」この御言葉から私たちは誘惑に陥らないように目を覚まして、祈り続けなければならないことを学ぶことができます。事実、私たちの心は燃えていても、肉体は弱いものです。だからこそ目を覚まして祈らなければならないことを教えています。
私たちが強ければ祈る必要がないかも知れません。私は毎日夜明けから祈らなければならないと思っていますが、もし、私の心も、体も強かったら祈る必要性を感じなかったと思います。でも心も体も軟弱な者で勉強もよくできないような人間だからこそ祈らざるを得ない人になりました。ところが、今は祈りが答えられて心も体も癒されて強くなりました。すると、いつの間に私の祈りに切なさが欠けていることに気づかされました。それは私が高慢になっているからでしょう。私は今回のメッセージを準備しながら自分の高慢に気づきました。イエス様のように祈らなければならないことを深く悟りました。私が自分の高慢を悔い改め、今週は朝食を断食しながら神様の御心のために切に祈ることを決断します。
私たちは自分の肉体の弱さを認めて謙遜に神様に祈り続ける時、世の誘惑に陥ることなく、神様の御心に従う人生を送ることができます。祈り始める時は苦しくても祈り続けると確信を持つことができ、祈りが答えられる人生、圧倒的な勝利者の人生を生きるようになります。
 41、42節をご覧ください。「イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」」とあります。ここで、私たちは確信に満ちたイエス様の姿を感じ取ることができます。イエス様が三度目に来られたということは「この杯を取りのけてください。しかし、神のみこころのままに」と祈り続けたことしょう。ヘブル人への手紙5:7節を見ると「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。祈り続ける時にイエス様の心は苦しみから確信へ変えられたし、その祈りは神様に聞き入れられたのです。そうして、イエス様は父なる神様の御心に従うことができました。
ゲツセマネの祈りは、イエス様の苦悩の祈りです。しかし、「みこころままに」と祈ることによって、最終的な確信を持つことができたのです。そして、その確信の通りに御心に従って救いのみわざを完成なさいます。
ところが、弟子たちは、祈りませんでした。「私は決してイエス様を裏切りません。見捨てません」とあれだけ言っていたのにイエス様を見捨てて逃げ出てしまいます。祈られたイエス様は、たった一人ですべての罪を背負います。救いを成就するために、少しの恐れもなく、少しの不安もなく、十字架に進んで行かれるのです。私たちのために、この私のためにです。
43節から72節を見るとイエス様は裏切り者ユダの口づけによって捕えられます。その後、他の弟子たちもイエス様を捨てて逃げてしまいます。後でペテロはイエス様の御言葉を思い出して泣き出しました。彼がそのように失敗したのは目を覚まして祈らなかったからです。しかし、イエス様はこのゲツセマネで祈られたので十字架と復活の道を歩み続け、神様の御心の通りに従うことができたのです。

以上で私たちはゲツセマネの祈りを学びました。イエス様は神様の御子でありながら十字架を目の前にして切に祈られました。父なる神様の愛を確信して真実に祈りました。何も隠すことなく本音で祈られました。そして、神様の御心が示されると、神様の御心を第一にして祈られました。その祈りによってイエス様は自分の願いではなく、神様の御心の通りに十字架の苦しみを受けることができました。それによってすべての預言が成就され、救いのみわざが完成されました。私たちもイエス様のゲツセマネの祈りを実践して行きますように祈ります。祈りによって神様の御心に従い、神様に喜ばれるクリスマス礼拝をささげることができるように祈ります。祈りによって年末の誘惑にも打ち勝つことができるように祈ります。何よりも祈りによって自分の願いではなく、神様の御心に従う人生を生きるように祈ります。