2013年マルコの福音書第16講

仕えるために来られたイエス様

御言葉:マルコ10:32−45
要 節:マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 皆さん、私たちが毎週の礼拝の時に使っている新聖歌の中で一番好きな聖歌は何でしょうか。私が好きな讃美歌の一つは382番です。1節は「心から願うのは/主のようになること/御形に似るために/世の宝捨てます/主のように主のように/きよくしてください/この心奥深く/御姿を写して」です。特に「心から願うのは/主のようになること」とは私の願いです。本当に心から願うのは主のようになることです。私を始め、私が仕える教会のみんなが主のようになることです。主のようになり続けてイエス・キリストの御姿にまで変えられて行くことです。では、主のようになることはどのようになることでしょうか。
 今日の御言葉にはマルコの福音書全体を通して伝えようとするイエス様の姿がよく現われています。それは仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたイエス様の御姿です。このイエス様の姿から私たちは一番偉くなる秘訣、一番偉大な人生の生き方を学ぶこともできます。どうか、本文の御言葉を通して私たちひとりひとりがイエス様のようになって行きますように祈ります。

32節をご覧ください。イエス様の一行は、エルサレムに上る途中にありました。イエス様は先頭に立って歩いて行かれました。今までもイエス様は先頭になって歩いて来られたはずです。ところが、今回は日頃、弟子たちが見ていた御姿ではなかったようです。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちも恐れを覚えました。なぜ、驚き、恐れを覚えたでしょうか。恐らく、弟子たちは十字架に向かって進んでおられるイエス様の御姿から驚き、恐れるほどの重さを感じていたようです。そこで、イエス様はご自分に起ころうとしていることについて教えてくださいました。
 33,34節をご覧ください。イエス様はこれまで、2回にわたって弟子たちに、ご自身が十字架の受難を受け、三日目によみがえられることを教えて来られました(8:31、9:31)。そして、三回目が33,34節です。一緒に読んでみましょう。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」とあります。1回目、2回目と比較してみると三回目が最も具体的で詳しくなっています。御自身が「エルサレム」で十字架にかかり復活すると言われているのは、3回目だけです。御自身が「異邦人に引き渡される」と言われているのも3回目だけです。また3回目には「あざけり」「つばきをかけ」「むち打ち」「ついに殺します」というように、御自身が具体的にどのような苦しみを受けるかということも言われています。
このようにイエス様は、御自身の十字架と復活の予告を、旅が進むに連れて、具体的に弟子たちに教えていかれたのです。最初から具体的に詳しく教えるのではなく、徐々に段々と教えていかれたのです。
ここで、私たちに対する神様の御心が徐々に、段々と示されることを学ぶことができます。私たちに最初から「神様の御心」が具体的に詳しく示されるのではありません。だから、何が「神様の御心」かと思い悩む時があります。でも、私たちがイエス様の弟子としてイエス様と共に歩んで行くなら、徐々に神様の御心を知るようになります。神様が徐々に段々具体的に詳しく示されるからです。それで、私たちは多くの場合、最初は自分に起こっていることにどんな意味があるのか分かります。同じことが二度も、三度も起こっても神様の御心がよく分からない場合があります。しかし、長い年月が経ち、振り返ってみれば、あの時の意味は、あの時の「神様の御心」は、こういうことだったのではないか、ということがそれぞれに示されていくのです。
 弟子たちもイエス様から十字架の受難と復活について一度だけではなく、二度も、何度も聞いてもその意味がよく分かりませんでした。イエス様が十字架と復活の道を行かれるのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためです。また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。ところが、弟子たちは、その十字架の受難と復活の意味が分からなかったのです。イエス様から三度も言われましたが、イエス様の十字架の受難と復活のことは考えようとしませんでした。むしろ、自分たちの頼み事ばかり考えていました。
 35節をご覧ください。ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエス様のところに来て言いました。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」この二人は何を考えていたでしょうか。おそらく、彼らはイエス様が「栄光の座」につかれる時が近いと感じていたようです。イエス様がいよいよ神の国の王となり、栄光の座に着かれる時が近い、そう感じ取った彼らは、イエス様に頼み事をしました。情けない弟子たちです。そんな彼らにイエス様は何と言われましたか。
36、37節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座でひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」」とあります。イエス様は弟子たちの頼み事を無視しませんでした。イエス様は彼らの頼み事を聞いてあげようとされたのです。すると、彼らは栄光の座に座ることを求めています。それに対してイエス様は何と言われましたか。
 38節をご覧ください。「しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」」とあります。イエス様は、はっきりと彼らに「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。」と言われました。それから、イエス様は彼らに「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」と尋ねられました。この質問から彼らはイエス様が飲もうとする杯、イエス様が受けようとするバプテスマを分かっていなかったことが分かります。では、それはいったい何を意味するのでしょうか。
 旧約聖書において「杯」は、「苦難」の象徴であり、特に神様の怒りを耐え忍ぶことの象徴でありました。ですからイエス様は十字架にかかる前、「ゲッセマネという所」で「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られたのです。
「バプテスマ」も同じような意味があります。「バプテスマ」もまた「苦難」の象徴であり、神様の怒りを耐え忍ぶことの象徴でありました。ですからイエス様は、ルカの福音書12章50節で「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」と言われるのです。
イエス様が飲もうとする「杯」、イエス様が受けようとする「バプテスマ」というのは、これから受ける「苦難」であり、直接的には、神様の怒りを耐え忍ぶ「十字架」であったのです。イエス様にとって「栄光の座」とは、「苦難」であり「十字架」でありました。ですから「栄光の座」の右と左にすわるということは、イエス様と一緒に「苦難」を経験するということです。同時に、イエス様の「十字架」の右と左につけられるということでした。ところが、実際にイエス様の「十字架」の右と左につけられるのは、ヤコブとヨハネではなく、「ふたりの強盗」であったのです。ヤコブとヨハネは、イエス様と一緒に「苦難」を経験し、イエス様の「十字架」の右と左につけられるどころか、イエス様を「見捨てて、逃げてしまった」のです。ですからイエス様は、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」と言われました。だから、彼らはイエス様の「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」という問いかけに対して「できます」と答えました。分かっていないから言える答えでした。それに対してイエス様は何と言われましたか。
 40節をご覧ください。「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」イエス様は彼らが十字架の苦難を分かっていないことを知っておられましたが、彼らの願いを無視されませんでした。栄光の座を求めることを無視しなかったのです。ただ、「わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。」と言われました。神様がそれに備えられた人々があるからです。
ここで、私たちは大切な真理を学ぶことができます。すべての結果、決定権は神様にあることです。私たちがイエス様の右と左に座るために苦難の杯を飲むことができます。本当に栄光の座に就きたいなら骨を折る苦労が必要でしょう。しかし、自分なりに骨を折る苦労をしたからと言って確かな地位と権力を手に入れるのではありません。それは神様が決めることです。使徒パウロはそれをよく理解していました。ピリピ人への手紙3章13、14節を開いて見ましょう。「兄弟たちよ。私はすでに捕らえたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」彼は神の栄冠を頼むのではなく、それを得るために目標を目指して一心に走っていたのです。そして、その結果は神様にお任せしました。
私たちにもこういう姿勢が必要だと思います。目標を目指して最善を尽くしますが、結果は神様にお任せするのです。すべての主権は神様にあるからです。いつか、私が紹介したと思いますが「努力したからと言って成功するとは限らない。でも成功した人は必ず努力をした。」という言葉があります。世の中でも成功したと言われる人々は努力したから栄光の座についたとは言えないのです。ただ、栄光の座に着くのは、骨を折るような苦労が必要なのです。福音のみわざにおいても同じです。この間、金サムエル宣教師は牧者宣誓式を一番喜ぶのは誰でしょうと質問してから1:1牧者だと言いました。多くの時間をささげて仕えたからこそ喜びも大きいでしょう。ただ、一生懸命に仕えても実が結ばれない場合もあるのです。栄光の座にすわれない場合もあるのです。しかし、私たちクリスチャンはすべての事を働かせて益としてくださる神様を信じて栄光の座、神様の栄冠を求めていくのです。誰かに頼み事をして栄光の座に着こうとするのはクリスチャンの態度ではありません。
41節をご覧ください。「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。」とあります。要するに、残る10人の弟子たちもこの兄弟と全く同じ思いを持っていたことが分かります。この十人は自分たちよりも先にイエス様に頼み事をしたことに対して腹を立てました。自分たちも支配者となり、権力を振る舞いたいと願っていたからです。そこで、イエス様は彼らを呼び寄せて、大切な教えを語られました。
42bをご覧ください。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」とあります。
イエス様はここで、「異邦人の支配者」を、ただ「支配者」と言うのではなく、「支配者と認められた者たち」と言っています。なぜイエス様はこのような言い方をされたのでしょうか。ここには皮肉が込められていると思います。この「支配者と認められた者たち」とある中の「認められた」という言葉は、「見られている」「思われている」という意味の言葉です。イエス様がここで「異邦人の支配者」を、「支配者と見られている者」「支配者と思われている者」と表現しているのは、「異邦人の支配者」は「支配者と見られている」だけ、「支配者と思われている」だけで、本当の「支配者」ではないのだということを言おうとされているのだと思います。
では本当の支配し、本当に偉い人はどんな人でしょうか。
43、44節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」イエス様は弟子たちが異邦人の支配者たちのようであってはならないことを教えてくださいました。さらに、積極的にどうすべきかを教えておられます。本当の支配者は「みなに仕える者」です。「しもべ」になって仕える人です。私たちは聖書全体を通して知ることができます。
旧訳聖書を通してみると、ヨセフ、モーセ、ダビデは本当の支配者でした。本当に偉大な指導者でした。今も数え切れないほどの人々が彼らの思想に支配されています。彼らの人生を通して感動を受けています。その理由が何でしょうか。それは彼らが多くの人々に仕える人生を生きたからです。
ヨセフは兄弟たちから捨てられてエジプトの奴隷になりましたが、ポティファルに忠実に仕えました。曖昧に苦難を受け、監獄に入れられましたが、そこでも監獄にいる人たちに仕えました。パロにも仕え、飢饉になった時、エジプトの全国民に仕え、自分を売り捨ててしまった兄弟たちにも仕えました。こういう仕える生活を通して彼はすべての人々から尊敬される偉大な支配者になりました。
 モーセは奴隷の民を連れて出エジプトをしましたが、数多くの非難を受けました。「水がない。道が悪い。食べ物がおいしくない。エジプトに帰りたい。」という言葉を何度何度も聞きました。ある時には意志でモーセを殺そうとしました。それでもモーセはその民に仕えました。民たちと戦うのではなく、神様にひざまずいて祈りながら彼らに仕えました。結局、彼は地上で誰よりも柔和な人、偉大な指導者になりました。
ダビデもサウルを始め、イスラエルの民に仕えました。自分を殺そうとしているサウルに仕えるだけではなく、サウルの子どもにも、サウルの孫にも仕えました。すると、王の中でも最も偉大な王になりました。しかし、ヨセフも、モーセも、ダビデも、イエス様の偉大さには至りません。イエス様はどうなさいましたか。
45節をご一緒に読んでみましょう。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
イエス様はしもべのように低くなって多くの人々に仕えてくださいました。その一例としてヨハネの福音書13章4,5節を見ると「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」とあります。仕えられるにふさわしいイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。イエス様は上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの足を洗ってくださいました。イエス様は奴隷のようになって弟子たちに仕えてくださったのです。
このように、イエス様は本当に卑しい私のような人に仕えるために来られました。そして、こんなに情けない、醜い罪人を贖うためにご自分のいのちをお与えになりました。多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちをお与えになったのです。事実、イエス様は私たちの罪を贖うために十字架でいのちまで捨ててくださいました。私たちのために、イエス様は徹底して仕え尽くし、いのちまで捧げてくださいました。その結果、どうなりましたか。
ぺうろは言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ2:6−9)」
 イエス様が仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られて皆に仕える生涯を過ごされた時、神様は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。イエス様は最も偉大な人生を生きられたのです。
私たちがこのイエス・キリストの生き方を学び、実践して行きますように祈ります。へりくだって人々に仕えることは決してやさしくありません。45節の御言葉は私たち夫婦の結婚要節でありますが、その通りに生きることはやさしくないと言うことは何度も経験して来ました。でも、イエス様のように仕えられるためではなく、仕えるために生きようと心掛けている時、神様が助けてくださることを体験して来ました。ですから、まだまだ足りませんが、仕えるしもべイエス・キリストを見習う生活をして行きたいと思っています。

 どうか、私たちが心を新たにして仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたイエス様に見倣い、イエス様のようになって行きますように祈ります。イエス様の御姿にまで成長して行きますように祈ります。