2013年マルコの福音書第2講

福音を知らせよう

御言葉:マルコの福音書1:16〜45
要 節:マルコの福音書1:38,39 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

先週、私たちは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」について学びました。イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、サタンの誘惑を受けてから神の国を宣べて言われた第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。
今日は福音を知らせるためにどのようなことをなさったかについて学びたいと思います。つまり、伝道の第一声から伝道の第一歩を学びます。イエス様はご自分と一緒に福音を知らせる仲間、スタッフであり、やがてイエス様のように人間をとる漁師になる弟子を選ぶことが伝道活動を始めました。

16、17節をご一緒に読んでみましょう。「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とあります。ここにイエス様が最初の弟子になるシモンとシモンの兄弟アンデレをご覧になって彼らを召され、「人間をとる漁師にしてあげよう。」と約束されたことが分かります。シモンとシモンの兄弟アンデレは自分の仕事をしていました。彼らがイエス様のところに来て弟子にしてくださいとお願いしたのではありません。イエス様が彼らをご覧になり、彼らに「わたしについて来なさい」と言われました。そして、「人間をとる漁師してあげよう。」と約束されました。ここで「人間をとる」と言うのはこの世の中から救われるべき魂を救い上げるという意味です。イエス様がシモンたちを救い上げたように、彼らもこの世の中から救われるべき魂を救い上げる偉大な働きをするのです。その条件は、ただ一つ、イエス様について行くことです。もう少し、具体的に言いますと、イエス様の御言葉、聖書の御言葉に従うことです。御言葉に従う時、私たちは初めて人間をとることができます。つまり、イエス様のように、人間をとる漁師として成長し、素晴らしい福音のみわざに用いられるようになるのです。ではイエス様に召されたシモンとアンデレはどのように応答しましたか。
18節をご覧ください。「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」とあります。ふたりはすぐに網を捨ててイエス様に従いました。彼らは人間をとる漁師であられるイエス様にとられたのです。イエス様から見ると、二人の人間をとることができました。また、イエス様が少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になりました。彼らも舟の中で網を繕っていました。すぐに、イエス様は彼らもお呼びになりました。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエス様について行きました。イエス様はまた二人の人間をとることができました。こうして、イエス様は4人の仲間、スタッフを得て伝道活動を始めました。これからイエス様は彼らとともに福音を告げ知らせる伝道活動をしながら、彼らを「人間をとる漁師」にしてあげます。マルコの福音書にイエス様が彼らを「人間をとる漁師」として育て上げていく姿が記されてあります。彼らがイエス様と共に働き、イエス様が見せられる偉大な模範を見ながらある程度成長すると、12弟子を任命されます(3章)。神の国を教え、風や湖までも従わせるイエス様に対する信仰を持たせます。彼らを二人ずつ遣わして伝道訓練をさせます。信仰告白に導かれ、十字架の道を教え、復活信仰も持たせます。そうして全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えるようにします。つまり、全世界に出て行き人間をとる漁師として生きるようにしてくださったのです。
今日はその初期段階として人間をとる漁師になる人々が信じるべきことを見習うべきことを示しておられます。
第一に、権威ある御言葉を信じ、権威ある者のように教えることです(21-28)
21 節をご覧ください。「それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。」とあります。イエス様は安息日に会堂にはいって教えられました。会堂はユダヤ人が安息日ごとに集まり、律法学者の教えを聞くところです。ユダヤ人は毎週の安息日に会堂に行って御言葉を聞いていました。ところが、イエス様が教えられると、人々はどうなりましたか。
22節をご一緒に読んで見ましょう。「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」人々はイエス様の教えに驚きました。人々は「今日も恵みを受けた」と言ったのではなく、イエス様の教えに驚いたのです。それはイエス様が、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからです。では、イエス様の教えにどれほど権威がありましたか。
23、24節をご覧ください。「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようと いうのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」とあります。イエス様の御言葉が伝えられる時、汚れた霊につかれた人がいて叫びました。イエス様が彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われました。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行きました。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言いました。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」と言っています。こうして、イエス様の評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まりました。
ここで、イエス様のお言葉は霊の世界も支配している権威があることが示されています。先ほどイエス様の召されに従うことは具体的に御言葉に従うことだと言いました。御言葉に従うためには御言葉の権威を信じなければなりません。実際に神様の御言葉には汚れた霊をさえ戒める権威があります。人を従わせる権威があります。イエス様が「わたしについて来なさい。」と言われると、すぐにシモンとアンデレは網を捨て置いて従いました。それほどイエス様の御言葉の権威に圧倒されたことでしょう。そして、彼らは権威あるイエス様の御言葉を聞き従いながら変えられて行きます。やがて一日に3千人も救いに導くほどに権威ある御言葉のしもべになって行くのです。 
ですから、私たちは御言葉を聞く時も、教える時も御言葉の権威を信じなければなりません。私たちが御言葉の権威を信じると、その信仰のとおりに御言葉が力強く働きました。汚れた霊を追い出し、病人を癒します。
パウロチームの勉強会の時に、三人の兄弟たちと聖書勉強をしておられる金ヨハネ宣教師からよく聞いている言葉があります。それは「私がただ御言葉を教えているけれども不思議な力がある。」と言うことです。権威ある御言葉によって○○家が変わっていく姿を見ているからです。本当に変えられて来ました。特に最近は礼拝後フェローシップの時に交わすお父さんのお話にはポイントがあり、非常に恵みがあると証しています。聖書勉強会の時に李ヨシュア宣教師からもよく聞く言葉もあります。「何もないようですけれど、ほんとうはこの勉強会があるから生かされている」ということです。本当に、そうです。長い間御言葉を聞いているこの教会の長老たちが告白している通りに御言葉に権威があるのです。ですから、私たちは権威ある御言葉を堅く信じて律法学者のようにではなく、イエス様のように権威のある御言葉のしもべとして教えることはとても大切な事です。
私がとりなしの祈りをしながら気づいたことが一つあります。東京UBFで若い兄弟姉妹たちが一番多い赤門フェローシップのリーダーたちの祈り課題には「毎日御言葉でスタートし、御言葉に従う生活、鋭い御言葉のしもべとして成長し、鋭い御言葉で1:1に仕える」ことなど、御言葉への信頼がありました。どうか、私たちが御言葉の権威を信頼し、権威ある者のように教える生活ができるように祈ります。その教えに兄弟姉妹たちが驚くほどに権威ある者のように御言葉を教えることができるように祈ります。
第二に、イエス様はご自分に従う者の家族を助けてくださることを信じることです。
29、30節をご覧ください。「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。」とあります。イエス様はヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられました。すると、人々はさっそくシモンのしゅうとめの熱病をイエス様に知らせました。安息日に会堂にも行けなかったほどにひどい熱だったのです。イエス様は、彼女に近寄り、その手を取って起こされました。彼女は癒されたのです。こうして彼女ばかりでなく、シモンの家庭も救われました。
ここで、私たちはご自分に従う弟子の家族を助け、癒してくださるイエス様の愛と癒しの力も見ることができます。恐らく、シモンはすぐに従いましたが、それでも仕事、家族、親、財産いろいろ未練と心配はあったでしょう。でもイエス様のお言葉に従った時、イエス様が彼の人生に責任を持たれ、家族までも助けてくださったのです。
イエス様に従う時、家族のことが心配になる時があります。私自身もそういう経験をしています。以前は長男として親のことが心配になっていましたが、神様はUBFの医者牧者たちを通して私の家族を助け、病気を治療してくださいました。最近は知的障害を持っていながらもひとり暮らしをしている弟のことが心配になります。母は生前に弟のことを心配して長男である私に頼みました。「親が死んだら、お前がよく面倒見てあげなさい」とよく言いました。しかし、私は弟のために何もできない状態です。できることは電話だけです。ところが神様は他の弟たちと妹を通して助けていてくださいます。
私たちがイエス様に召されてイエス様に従うと、イエス様は私たちの家族も助けてくださいます。私たちはそれを信じて祈ることが大切です。その時に、神様が自分だけではなく、肉親の家族も、霊的家族も助けてくださることを体験して行きます。そうしてイエス様とともに人間をとる漁師の働きに励むことができます。
第三に、イエス様はご自分のところに連れて来る病人を癒し、悪霊を追い出してくださると信じることです(32-34)。
32-33節をご覧ください。夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエス様のもとに連れて来ました。こうして町中の者が戸口に集まって来ました。シモンの家は、いつも列を並んでいる総合病院のようになりました。イエス様は彼らに対してどうなさいましたか。
34節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、さまざまの病 気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」イエス様はさまざまの病気にかかっている人をお直しになりました。花粉症、アトピー、うつ病、 鼻炎、頭痛、肩こりのような病気だけではなく、病名も、病気の原因も知らない難病も癒してくださったでしょう。また、多くの悪霊を追い出されました。シモンとアンデレ、ヨハネとヤコブはどんな病気の人でもイエス様のみもとに連れて行けばイエス様が癒してくださることを体験できました。悪霊も追い出してくださるイエス様の権威と力を体験できたのです。
第四に、まだ暗いうちに起きて祈られたイエス様の偉大な模範を見習うことです。(35-37)
35 節をご一緒に読んでみましょう。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」ここに、朝早くまだ暗いうちに起きて祈っておられた」とあります。最近の東京だと何時ごろになるでしょうか。私は5時半から6時頃に起きていますが、とても明るいです。まだ暗いうちは4時頃になるでしょう。その時に起きて父なる神様と交わりを持って一日をスタートするのが、イエス様の習慣であったと考えられる場面です。それにしても前日は多忙を極めました。まず会堂に入ると人々に聖書を教え、汚れた霊を追い出しました。次に会堂を出てシモンの家にはいると、シモンの義理の母の熱病を癒されました。その後、あの姑のもてなしでようやく食事をしました。ところが夕方になり、日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエス様のもとに連れて来ました。イエス様は休む間のなく病を癒し、悪霊を追い出すために働き続け、人々に仕えました。このように、皆さんが多忙な一日を過ごしたとしたら、どうでしょうか。朝早くまだ暗いうちに起きて祈ることを選ぶでしょうか。それとも布団に入り続けることを選ぶでしょうか。私たちは祈りが大切であることを理解しています。しかし、祈りを実行することにおいては弱い者でもあります。そして、多くの人が祈れないことの理由の第一に挙げるのが忙しさです。また、疲れている身体の状態です。私も同感します。私にとって一番起きるのが辛い日は月曜日です。それで布団に入り続けると、同労者は祈りに行かせるために「牧師先生!早く起きて。」起こします。すると、私は「牧師は月曜日が休みだよ」と言って布団に入り続けてしまいます。しかし、このイエス様のお姿を見ると、「忙しく祈れない。」と言えなくなります。イエス様は忙しい生活にもかかわらず祈られました。いや忙しいからこそ、神様と交わる祈りの時を大切にされたでしょう。そして祈りによって大いなる神様の力を体験してさらに祈る生活を続けられたと思います。そしてこのイエス様の祈りの習慣は、時代を超えて、すべての真実な信仰者たちに、偉大な模範を示して来ました。
「ジョージミュラーの祈りの秘訣」という本の14頁にこう書いてあります。「もし貧乏な私が、祈りと信仰のみによって誰にも求めずに孤児の家を設立し運営する資金を得るとすれば、そのことによって未信者の心に神のリアリティを証することができる。それだけでなく、主の祝福によって神の子どもたちの信仰を強める助けとなる何かがあろう。」と言うことです。これはイエス様から見習ったことでしょう。イエス様は貧乏な生活をしておられましたが、祈りと信仰によってさまざまな奇跡を行なわれました。5つのパンと2匹の魚で5000人も食べさせられました。それらのことを通して弟子たちの信仰を強める助けとなりました。ジョージミュラーもイエス様のように祈りと信仰によって神様に用いられたいと思っていたのです。
人間をとる漁師は自分の力で働く者ではありません。神様の力をいただかなければなりません。そして、神様の力をいただくためには祈りをしなければなりません。イエス様はまだ暗いうちに起きて祈ることによって神様からの力と知恵をいただきました。その日の方向も決めて行かれました。
36、37節をご覧ください。「シモンとその仲間は、イエスを追って来て、 彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。」とあります。彼らがイエス様を捜したのは人々の前に奇跡を行なってもらうためでした。つまり、彼らはイエス様に「祈るより働け。」「祈る暇があったら、動け、働け。」と言うふうに迫って来たのです。それはこの世的な効率主義者たちの考え方です。私たちもそのような考え方をしてしまいがちです。たとえば、毎朝祈る1時間を英会話のために使ったら英語を流暢に話せるようになったのではないかと思うことです。自分の使命よりも目先の有益だけを求めてしまうのです。しかし、夜明けに祈られたイエス様はご自分の使命、何を第一に求めるべきか、見分けることができました。カペナウムではなく、別の村里に行き、福音を知らせる使命、それこそご自分がなすべきわざであると語り、進むべき道を示されました。
 第五に、イエス様は福音を告げ知らせるために来られたことを信じ、それを見習うべきです。
38,39節を読んでみましょう。「イエスは彼らに言 われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわた り、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」とあります。ここに「そこにも福音を知らせよう」とあります。つまり、イエス様は新しいことをなさるのではなく、今まで福音を知らせたように、そこにも「福音を知らせよう」と言われたのです。今まで権威ある御言葉を教え、病人を癒し、悪霊を追い出すことを通して福音を知らせたように、別の村里にも福音を知らせるということです。実際に40-45節を見ると、イエス様はツァラとに冒された病人を癒してくださいました。と言うのは、福音を知らせることは繰り返されることであり、福音を告げ知らせる宣教の使命はどこに行っても果たすべきことを教えてくれます。福音を知らせることはイエス様に従うすべての人々に与えられた使命です。そして、この宣教によって、私のたましいが生き返り、私の教会が成長し、私の国が変えられて行きます。福音を告げ知らせることこそこの時代を生かす力です。イエス様はご自分の弟子たちが福音を告げ知らせるこの宣教のために生きることを願っておられます。そのために彼らを「人間をとる漁師」にしてあげるのです。どうか、今週も福音を告げ知らせることのために励むことができますように祈ります。今年の夏修養会を通してますます福音が告げ知らせられますように祈ります。