2013年エズラ記 第1講メッセージ

歴史の主管者、神様

御言葉:エズラ記1−2章
要 節:エズラ記1:1「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」

社会学の用語でティッピング・ポイント(Tipping Point)という言葉があります。水が100度になった瞬間に、水蒸気となって空気中に放出される現象のように、突然、急激で大きな変化を起こす劇的な瞬間の意味です。私たちの生活の中でも、ビジネスでも、また歴史の中でもティッピングポイントがあります。今日から学ぶ「エズラ記」は歴史のティッピング・ポイントと言えるところです。
イスラエルは、捕囚の70年間、希望を失い、暗闇を生きる生活を強いられました。自分たちの罪によって罰せられ、捨てられたと思っていましたが、約束の時になると、神様は、救いの御手の働きを始めました。捕囚生活の70年間は、神様の裁きの警告を受け入れなかった結果、神様から与えられた訓練期間でした。しかし、彼らの罪の結果に対する神様の訓練期間が終わると、神様の回復の働きがありました。約束の神様は怒涛のようにご自分の働きを成し遂げられます。その働きの中では、神様を信じる人だけではなく、神様を全く意識してこなかった人までも用いられます。
私たちが今日から5週間にわたって学ぶ「エズラ記」の中には、神様の視点から展開される世界史の中で神様に用いられた3人の王が出てきます。神様は彼らの心を動かして、ご自身の約束を成し遂げるために、彼らを用いられました。 私たちがエズラ記の御言葉を通して、歴史の主管者、神様を深く学び、神様に貴く用いられる人となるように切に祈ります。

?。主のことばを実現するために、人々の霊を奮い立たせる神様(1章)
1節をご覧ください。「1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」
今日、学ぶエズラ記の時代背景は、ぺルシヤのクロス王の時です。正確には、クロス2世[kyros](BC559−530)です。彼はアケメネス朝の建国者であり、BC550年に、メディアを滅ぼして建国し、その後、リディア・カルデアを滅ぼし、引き続き、BC539年に、オピスの戦いでナボニドゥスの率いる新バビロニア王国を倒しました。バビロンを滅ぼした後、クロス王はバビロンに入城して、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、強制移住させられた諸民族を解放しました。
1節に、「エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために」とありますが、これは、エレミヤ書29:10節に預言されていることを指しています。すなわち、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」と預言されています。バビロンによってエルサレムが陥落し、エルサレムが荒廃したのが、BC607年ですので、70年後のエルサレムの荒廃が終わらなければならない年は、BC537年でした。
国を奪われているイスラエルが70年経つと、約束の地に帰ることができるという主のことばは、すでにBC600年頃エレミヤによって預言されていました。驚くべきことに、このクロス王によるバビロン征服と神殿再建命令は、150年前の預言者イザヤによってもクロスの名前と共にはっきりと預言されていました。イザヤ書44:28節によると、「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」」とはっきりと預言されています。クロス王の出現によってエレミヤにより預言された主のことばが実現されたことが分かります。
神様はご自分の約束を実現するために、クロス王の霊を奮い立たせたので、彼はイスラエルに帰還命令を出しています。神様は、ご自分の約束を実現するために当時の王を用いていることがわかります。
神様は、実際の歴史を、それが起こる何千年、何百年も前から聖書に預言されたのです。預言者たちは神様が啓示されたことをただ口で預言しただけでなく、それを記録させ、後代の人が実際に歴史と照らし合わせてみることができるようにしました。そして今日、私たちは聖書と世界史の本とを並べて比べることによって、預言が文字どおり実現していることを客観的に実証することができるのです。
それでは、なぜ聖書の中に預言があるのでしょうか。その理由の一つは、聖書の教えている神様がまことの神であることを、人間に分からせるためです。そのために、預言を実際の歴史で実現させ、それを私たちが確かめてみることができるようにされたのです。そうでもしなければ、人間は、聖書が神様のことばであることを信じようとせず、また、そのことばに耳を傾けないからでしょう。聖書には、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ 1:45)と記しています。
アメリカで最も大きい教会の牧師であるJoel Osteenは、『Church Report magazine』、という雑誌の読者から、最も影響力のあるアメリカのクリスチャンとして選ばれました。ところが、ある日、彼のお母さんが癌にかかってしまいました。余命がこれから先、何週間も残っていなかったそうです。家族たちは、お母さんの癌を治療するため、最も有名な医者たちを世界の各地から呼び、あらゆる手を尽くしました。しかし、病院からは、もう生きる望みがないから家に帰って、死を準備するほうがいいと言われたのです。Osteen牧師の家族とお母さんは、人間の理性と限界を超えて働く、超自然的な神を信じる人々だったので、医者の死の宣告のあとでも、癌から直る希望を諦めなかったそうです。特に、お母さんは、絶望的で否定的な言葉を、一切口にしないで、代わりに、必ず癒してくださると書かれてある聖書の約束の御言葉を、40箇所探して、その約束の御言葉を昼も夜も口ずさみながら、覚える生活をしたそうです。すると、癌にかかったお母さんは、少しずつ元気を取り戻し、食欲もわき、徐々に健康を回復したそうです。必ず癒してくださるとおっしゃった神様の約束の御言葉を信じ、頼った彼女に、神様は癒しを通して御言葉を実現させてくださったのです。人間は約束を忘れたり、裏切ったりしますが、神様は何があっても必ず約束を実現される方です。普段、神様が見えないので、ほとんど意識しないかもしれませんが、神様はその約束を実現するために、常に見張っておられます(エレミヤ1:12)。
では、神様は預言されたご自分の言葉を実現させるために、何をされましたか。「クロスの霊を奮い立たせた」とあります。ここで「霊を奮い立たせた」という意味は、「人の心を動かした、感動させた」という意味です。神様は世界の歴史を支配した権力者や政治指導者の心をも動かして、ご自分の意志を行なわせることもできることが分かります。箴言21章1節は次のように語っています。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」とあります。神様は、人の心を感動させる方です。神様の御業はひとりの心が感動され、奮い立たせられることによって始まります。
昔、日本における最初のキリスト教の伝来は、1549年に鹿児島に上陸したイエズス会神父のフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier;1506-1552年)の活動から始まります。ザビエル神父が日本に上陸したのは、43歳の1549年8月15日ですが、当時は戦国時代の最中であり、織田信長がまだ15歳のときでした。最初の伝道は、お寺の迫害もあって、なかなかキリスト教は広まらなかったのです。しかし、1568年、織田信長がルイス・フロイス(Luís Fróis;1532‐1597年)宣教師に会い、キリスト教の布教を許しました。これにより、キリスト教が日本に広まり、クリスチャンも増えてきました。当時の大名の中にもキリスト教を信じる者が現れ、キリシタン大名と呼ばれるようになりました。とくに、大友宗麟(おおともそうりん)、大村(おおむむら)純忠(すみただ)、有馬(ありま)晴(はる)信(のぶ)などのキリシタン大名の誕生とともに布教は加速的に進展しました。キリスト教の伝来から50年経った1600年頃には、60万人以上の信者があったといわれています。それも西日本だけの信者の数ですから、当時の人口に換算すると、3%ほどの信者があったことになります(当時の人口は、約2400万程度で計算された)。その中には、有名な小西(こにし)行(ゆき)長(なが)、高山(こうざん)右近(うこん)、大友宗麟(おおともそうりん)、細川ガラシヤなど多くのキリシタン大名もあり、社会的かつ文化的に大きな影響力を示したのです。織田信長、本人は神様を信じなかったかもしれませんが、神様は彼の心を動かし、日本宣教の働きの礎石に用いてくださいました。
そして、今現在日本で最も大きな教会の一つである「カルバリーチャペル」(主任牧師:大川従道)があった裏には、アメリカから来た一人の青年の兵士がいました。戦後、教会と同じ市内に、米軍のキャンプ座間があり、敗戦の痛みの中で何の夢もない心の荒れ果てた日本人を見て、アメリカの若い兵士たちが自分のお小遣いのすべてを出して、伝道資料を買い、それを配布し、町の人々に一生懸命伝道したそうです。古い因習の中にいた当時の日本人たちは、アメリカのドルはほしくても、福音を求める人はほとんどいなかったそうです。やがって、福音を必死で伝えた若きクリスチャン兵士たちは、務めを終えて、心を痛み、失意の中で米国に帰りました。しかし、かなりの年月が経ち、そのところに、今の大きな「カルバリーチャペル」教会が立つようになったのです。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」(伝道書11:1)という御言葉ありますように、神の霊に奮い立たされた一人の若者によって、福音の種が蒔かれ、やがて大きな実を結ぶようになったのです。
このように主がペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、彼はその全領域にあまねくお触れを出しました。そのお触れは、イスラエル人が故国に戻ってエルサレムに神殿を再建するようにというものでした。2節から4節をご一緒に読んでみましょう。
1:2「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。1:3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。1:4 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」
クロス王は、神様をまことの神と認めて、イスラエル人が、故国に帰還して神の神殿を建てるようにという命令を出しました。イスラエルにとっては想像もしなかった良い知らせです。その時代に生きていた人々は、当時の政治的状況から、王がそのような命令を下すとは夢にも思わなかったでしょう。クロス王は、バビロンに残る者たちがエルサレムに上っていく人たちのために、エルサレムにある神の宮のために進んでささげ物をもって援助するように命じました。
5節をご覧ください。「1:5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」
クロス王の勅令が出された時、神にその霊を奮い立たされた人たちはみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がりました。しかし、彼らが実際に上って行くことを決断することは、決してやさしくなかったと思われます。バビロンは、外国の地であっても、当時の先進国です。自分に能力があれば、出世することもできます。70年の間、バビロンが生まれ故郷のようになり、住み慣れたところになったでしょう。バビロンは、家も財産も仕事も子供たちもある安定的なところでした。ところが、このような安定的なところを離れ、遠く、荒れ果てているエルサレムに上り、神殿建築をしながら、新しい開拓者の人生を始めることは、大きな決断が求められることでした。楽に生きたいと願う人間にとっては、多くの犠牲と十字架が伴われます。しかし、神様にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がりました。クロス王のように、神の霊に奮い立たされた時、彼らの心が変わったことが分かります。
70年前、国が亡び、捕虜となる直前のイスラエル人はとても頑固で、高慢な人たちでした。イザヤ、エレミヤなどの主のしもべたちが命をかけて神の御言葉を伝えても、彼らは受け入れませんでした。彼らの心はかたくなになっており、イザヤのさばきのメッセージを聞いても、エレミヤの涙のメッセージを聞いても心が動かず、感動しませんでした。しかし、70年間の捕虜としての試練を通して彼らの心は砕かれ、へりくだるようになりました。とくに、聖書の御言葉を一生懸命研究し、神様の御心が成し遂げられることを待ち望む、ダニエルのような神のしもべたちの働きによって、民全体の心が変えられ、謙遜になっていたのです。その時、神様の御言葉が働きました。同じ聖書の御言葉であっても、悔い改め、へりくだる心で受け入れるかどうかによって、何の力のない単なる文章になることも、感動を与える神様のパワーのメッセージになることもあります。イスラエルの捕囚の民たちが心をへりくだらせ、神様にその霊を奮い立たされた時、主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がることができました。
6節をご覧ください。「1:6 彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。」
神様にその霊が奮い立たされ、感動された心が行動に現わされた時、彼らの回りの人々はみな、あらゆるささげ物をもって彼らを力づけてくれました。神様の霊に感動され、神様の導きに従う時、神様は思いもよらなかった形で助けてくださるのがわかります。
7−11節をご一緒に読んでみましょう。「1:7 クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。1:8 すなわち、ペルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した。1:9 その数は次のとおりであった。金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、1:10 金の鉢三十、二級品の銀の鉢四百十、その他の用具一千。1:11 金、銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに連れて来られたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみないっしょに携えて上った。」
クロス王自身も、彼らを助けました。かつてイスラエルがバビロンに滅ぼされる際、ネブカデネザルが、神の宮から自分の神々の宮に器具を運び出しましたが、今、エルサレムに戻ろうとすると、クロス王はそれを返還しています。神様に従おうとすると、失われていたと思っていた宝をすべて取り戻すことができたのです。

?。捕囚の身から解かれて、エルサレムとユダに戻った人たち(2章)
2章1節をご一緒に読んでみましょう。「バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれて上り、エルサレムとユダに戻り、めいめい自分の町に戻ったこの州の人々は次のとおりである。」
捕囚の身から解かれて、エルサレムとユダに戻った人たちが出てきています。詳しく書いてありますが、歴史の中で働いておられる神様は、歴史のルーツを大事にしているからだと思います。そのため、歴史を知ることがとても大切です。
2節以降は、エルサレムに帰還した人たちが詳しく書いてあります。2節には、リーダーグルプ、3節から自分の系図を知る人々の人数が記載されており、21節からは自分の故郷を知る人々の人数が書かれています。そして、36節からは祭司およびレビ人の人数です。そして、43-58節では、宮に仕えるしもべたちとソロモンのしもべたちの子孫が書かれています。最後に、59-63節では、先祖の家系と血統が証明できなかった人々が記されています。
ここに出身と役割ごとに詳しく記したのは、主の御業は、一人ひとりの協力によって成し遂げられることを教えてくれます。教会がイエスキリストの体であり、各自が自分の役割を担うことの重要性について先週のエペソ4章で学びましたが、そのように主にあって協力することが大切です。一人ひとりが自分の役割をしっかりと担う必要があります。そのために、1章で学んだように、一人ひとりが神様の霊によって奮い立たされる必要があります。2013年、神様が私たちの霊を奮い立たせてくださり、自ら進んで祈り、自分の役割を担っていく年となるように祈ります。