2013年エズラ記第5講 

信仰の改革を実行したエズラ。

御言葉:エズラ記9、10章
要 節:エズラ記10:11「だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい」

 先週、私たちは御言葉を調べ、実行し、教えようと心を定めたエズラを学びました。神様はエズラの信仰を喜ばれ、彼の長旅を助け、守ってくださいました。それで、エズラの一行は危険に出会いながらも助け出されて無事にエルサレムに到着しました。彼らは神様への全焼のいけにえと罪のためのいけにえをささげ、王の命令書をその地方の太守たちと総督たちに渡しました。その後、エズラは祭司として、また律法の学者として自分に与えられた任務を果たします。それは信仰の改革の実行です。ここで、私たちは信仰の改革を実行したエズラを学ぶことができます。
一つ目は罪に対して驚き悲しんだエズラです。
9章1a節をご覧ください。「 これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。」とあります。「これらのことが終わって後」とは、先ほども話したように、エズラの一行がエルサレムに到着してから行なったすべてのことが終わって後と言うことです。エズラはこれから本格的に祭司の務めを果たそうとしていたでしょう。ところが、その矢先にとてもショッキングな話を聞きました。
1b、2節をご覧ください。エズラはイスラエルの民や、祭司や、レビ人が忌み嫌うべき国々の民と縁を絶つことなく、かえって婚姻関係を結んでいたことを聞いたのです。それはいけないことでした。かつて神様はイスラエル人に「多くの異邦の民、すなわち、ヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人を追い払うこと、彼らを聖絶しなければならないこと、何の契約も結んではならないこと、彼らと互いに縁を結んではならないことを命じられました (申命記7:1-3)。特に婚姻関係を結ぶことは預言者たちによっても禁じられていました(11、12)。それは神様が恋い慕っておられるイスラエルの民を異邦人の淫乱と偶像崇拝の悪影響を受けることなく聖なる民として守るためでした。聖書によると、人は大人になると結婚によって一つになります。遊女と交われば、遊女と一つのからだになります。同様に偶像崇拝者と交われば、偶像崇拝者と一つの体になります。「ふたりは一体になる」と言われているからです(?コリント6:16)。従って聖なる種族であるイスラエル人は絶対に偶像崇拝者と婚姻関係を結んではならなかったのです。ところが、聖なる種族が忌み嫌うべき国々の民と婚姻関係を結び、混じり合ってしまいました。エズラの一行よりも先に帰還していたと思われるイスラエルの民、祭司たちが忌み嫌うべき罪を犯し、堕落してしまったのです。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人でした。そのことを聞いたエズラはどうしましたか。
3、4節をご一緒に読んでみましょう。「私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。」エズラは罪の大きさを知りました。神様の御前で非常に大きな問題であることを知りました。そこで、彼は着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってしまいました。どんなに驚き悲しんだことでしょうか。彼は髪の毛とひげをそるのではなく引き抜いたのです。それでも彼は夕方のささげ物の時刻、午後三時ごろまで何もできないでじっと座っていました。
ここで、私たちは人の罪に対して驚き、悲しむエズラの態度を見ることができます。イスラエルの民は罪を犯していながらも悲しみませんでした。つかさや代表者たちさえこの世と調子を合わせていました。恐らく、彼らも最初は罪に対して敏感だったと思われます。彼らは異邦人の妨害を受けながらも神の宮を再建した時は神様への感謝と感激がありました。そこでイスラエルの最大の祭りである過越の祭りも回復しました。ところが、彼らも時間が経つに従って神様の御言葉への記憶が薄らいでしまいました。いつの間にカナン人と縁を結んでいました。祭司や代表者たちさえも異邦人の娘を娶ったり、自分たちの娘を彼らの息子たちに与えたりしていました。御言葉を調べて実行し、教えるべきつかさや代表者たちが不信の罪の張本人になってしまったのです。
エズラはそのような民の罪を聞いて大いに驚き悲しんで気を失ってしまったのです。では私たちはどうでしょうか。先月、フランスのパリではオランド大統領が打ち出した同性婚の合法化に反対するデモに数十万人が集まりました。2006年の調査では、ほとんどのフランス国民が結婚の定義を変えることに反対していました。結婚は女性と男性の間のものだとする聖書の教えを信じていたのです。ところが、現在では、60%以上の人々が賛成に回っています。養子をもらって育てることにも、同様に賛成しています。フランスは国民の2/3がカトリック教徒の国ですが、同性愛者に対する厳格さは、少しずつ弱まり、教会の態度もゆるんできているのです。これはフランスだけのことではありません。世界はますます不道徳的になり、非聖書的になっています。罪がますます悪化しています。このような世の罪に対して私たちはどう思っているでしょうか。エズラのように驚き悲しんでいるでしょうか。また、自分の家族や自分の罪に対してはどう思っているでしょうか。私たちはイエス・キリストに出会って救われてから王である祭司、聖なる国民となりました。ところが、時間が経つに従って王である祭司、聖なる国民としてのアイデンティティが薄らいでしまっていないでしょうか。私はこのメッセージを準備しながら罪に対して鈍くなっている自分の姿を発見して悔い改めるようになりました。私は自分の子どもたちを聖書のサムエル、ダニエルのような聖なる民、純潔な子どもとして育てようという意思を持っていました。それで、ある時長男と次男が小遣いを集めてゲーム機を買ったことが分かった時は非常に驚き悲しみました。彼らと一緒にひざまずき、涙を流して泣きました。子どもの罪は自分の罪でもあると認識していたからです。ところが、最近はこの世の罪に対しても、子どもや自分の罪に対しても鈍くなっていました。最近は涙ながら悔い改めた記憶がありません。エズラのような霊性を回復してこの国と自分の罪に対して驚き悲しんで悔い改める生活ができるように祈ります。
「ゆでガエル現象」というものがあります。『2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。すると、前者は直ちに飛び跳ね脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できずに死亡する』という現象です。このように、今日の人々の罪の程度がますます深刻化し、世俗化して行きますが、人々は罪に対して無感覚です。クリスチャンでさえ、自分の罪に対して問題意識が薄れています。インフルエンザのように、ノロウィルスのように、感染されていても罪に対して驚き悲しむことがありません。むしろ、自分だけではないと罪を合理化しています。ところが、このままで行くなら、冷水に入れたガエルのようになって滅びます。
サムエル時代の祭司エリの息子たちは、よこしまな者で、主へのささげ物を侮っていました。こうなると、父親のエリは自分の着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜きながら驚き悲しまなければなりませんでした。ところが、彼は子どもたちに「子どもたちよ。そういうことをしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。」と言うふうに忠告するだけでした。結局、彼の家族は悲惨な最後を迎え、栄光がイスラエルから去りました。ですから、私たちはエズラのように罪のことを聞いたら驚き悲しまなければなりません。自分の罪に対しても驚き悲しまなければなりません。そうすることによって私も、この国の民も生き残ることができます。罪に対して沈黙し、合理化して行きますと、自分も知らずに滅亡に向かって行きます。自己破産の道です。結局、神様の栄光が私たちから去り、私たちは滅んでしまいます。ですから、私たちが罪であることが分かった時には驚き悲しんで悔い改める生活ができるように祈ります。
二つ目に、民の罪のために神様にとりなしの祈りをささげてエズラです。エズラの祈り(6-15)中には「私、私たち」という言葉が31回もあります。エズラは民の側に立って民の罪を自分の罪として感じ、それを負って祈ったのです。このように祈ることが祭司の任務です。多くの改革者たちは正しいことを言います。人の過ちと罪を鋭く指摘します。はなはだしくは他人事をネタにして喜びます。しかし、エズラは民の罪、指導者たちの罪に対して他人事だと思いませんでした。神様に人の罪を訴えるような祈りもしませんでした。彼は人の罪を自分の罪のように感じ、その人の側に立って悔い改めるとりなしの祈りをしました。
5、6節をご一緒に読んでみましょう。「夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、主に向かって手を差し伸ばし、祈って、言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。」エズラは民が罪を犯したことを聞いたのですが、民に向かって行きませんでした。民の罪を指摘し、さばくこともしませんでした。民を正しく導くのではなく、不信の罪の張本人であった代表者たちを咎めるようなこともしませんでした。エズラは民の罪を負って神様の御前に出て行きました。そして、自分が信じ、仕えている自分の神、主に向かって祈りました。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。」と祈っています。そして、6節から15節までのエズラのとりなしの祈りです。この祈りを見ると第一にイスラエル民族の過去の罪を告白しています。神様の明確な命令を軽蔑したことです。彼らは先住民と戦うよりも結婚関係を結んだ方が現実的に有益になると思いました。結局、彼ら自身が現地の悪い習慣に染まってしまいました。「聖なる国民、祭司の王国」としての役割を失ってしまいました。エズラはその罪の深さを正しく認め、それを悲しむべき、恥ずべきことであると真剣に認めています。
第二に、神様の罰の中に見られる深いあわれみを確認しています。イスラエルの民は、自分から神様を捨てました。ですから、この地から消えてしまっても仕方がありませんでした。実際に北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされました。その後、他の地域に強制移住させられました。移住先の住民に同化させられ、民族としてのアイデンティティを失ってしまいました。しかし、南王国ユダの民の中から逃れた者を残してくださいました。
8節をご覧ください。「しかし、今、しばらくの間、私たちの神、主のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした」とあります。こでの「釘」とは天幕を張るときの杭(くい)のようなものを指します。つまり、神様が、バビロンにおいてご自分の民を守り通し、エルサレムに帰還して天幕を張る所を与えてくださったのです。それだけではありません。神様は「ペルシヤの王たち」を用いて「神の宮を再建に必要なものも満たしてくださいました。
第三に、エズラは現在の罪の大きさも自覚していました。10節をご覧ください。「今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てからです。」とあります。彼らは神様のあわれみを軽蔑し、神の民としてのアイデンティティを捨てようとしていたのです。せっかくエルサレム神殿が再建されたというのに、再び、主の命令を破って、忌みきらうべき行いをしました。だから、主が彼らを、絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされる可能性があります(9:14)。そこで、エズラは「イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」と祈りました。神様がイスラエルの罪過にもかかわらず、彼らを主の御前に立つことを許してくださったことを強調しています。つまり、エズラは主の正しさもあわれみも知り、あわれみに頼っているのです。素晴らしい祈りです。私たちは神様の一方的なあわれみによって赦され、救われています。ただ神の御子イエス・キリストの十字架と復活による赦しと贖いを信じることによって救われました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために新でくださったことにより、神様は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(ローマ5:8)。だからと言って、私たちはその神様のあわれみを軽く見て甘え続けていてはいけません。「神の仕事は、罪人を赦すこと…」と言う傲慢な態度ほど危険なものはありません。キリストの十字架を罪の消しゴムのように甘く捉えてならないのです。神様の正しさを知り、正しくきよく生きるために最善を尽くさなければなりません。神の仕事は赦すことですが、私たちの仕事は最善を尽くすことです。

三つ目に立ち上がって「この地の民と、外国の女から離れなさい」と言ったエズラのことです。エズラは祈るだけではなく、立ち上がってなすべき任務をしました。
10章1節をご一緒に読んでみましょう。「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」エズラひとりが先頭に立って祈り、悔い改めと、イスラエルのうちから大集団が激しく涙を流して泣くみわざが起こりました。バビロンから帰って来た民、その子どもたちも自分たちの罪に対して嘆き深く悔い改めました。そればかりではありません。彼らは、「これらの妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください」(10:3、4)と驚くべき提案をしました。そして、彼らは、「捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するように」と命令を出しました。それとともに、「三日のうちに出頭しない者はだれでも、その全財産は聖絶され、その者は、捕囚から帰って来た人々の集団から切り離される」という警告までつけていました(10:7、8)。それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちに、エルサレムに集まって来ました。こうして、すべての民は神の宮の前の広場にすわりました。その中でエズラは何と言いましたか。
10,11節をご一緒に読んでみましょう。「祭司エズラは立ち上がって」彼らに言った。「あなたがたは、不信の罪を犯した。外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた。だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい」とあります。それに対して、全集団は大声をあげて答えて言いました。「必ずあなたの言われたとおりにします」(10:12)と。ただ、中には反抗して逆らった者もいました。しかし、彼ら以上に、大多数の者がエズラのことばにそのまま従いました。それは彼らが、自分たちの罪の深刻さを悟ったからです。それで外国の女をめとった男たちについて、みな調べ終えましたが、彼らの中には祭司の名も記されています。彼らは民を指導する祭司の立場でありながら、自分も同じ罪を犯し、民を誤った道に引き入れてしまいました。それで彼らはその妻を出すという誓いをして、彼らの罪過のために、雄羊一頭を罪過のためのいけにえとしてささげました(10:19)。それから、最後に「これらの者はみな、外国の女をめとった者である。彼らの妻たちのうちには、すでに子どもを産んだ者もいた」(10:44)と記されています。これは本当に心が痛む記述です。外国の女だからと言って子どもを産んだ人までも追い出してしまうことは残酷にも思われます。しかし、それにしても、このように罪を明確にすることによって、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしました。では国際結婚が頻繁に行われている今日の私たちはどうすればいいでしょうか。
 私たちは当時のイスラエルの民とは異なります。私たちは新しいイスラエルの民です。イエス・キリストを信じて聖霊を受けることによって新しい人に生まれ変わりました。それで、私たちは旧約聖書のレビ記で食べることが堅く禁じられているお肉も食べることができます。つまり、豚肉もイカもタコも食べることができるのです。ですから、エズラによる分離の命令を、そのまま新約の時代に適用する必要はありません。それに対してパウロの見解を紹介します。
?コリント7章12-16節を開いてみましょう。「次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか」とあります。これは、神様と自分との関係はいかなる夫婦関係にも優先するという意味です。聖書は基本的に、夫婦の関係をすべての人間関係の基礎と見て尊重しています。しかし、それを守ろうとすることが、神様との関係を壊してしまうことになるなら、離婚もあり得るということです。離婚もありうることであって離婚してもいいというのではありません。人間関係も大切ですが、それよりも神様のあわれみに頼り、感謝しながら正しい神様の御前で生きることが大切です。この世と調子を合わせるのではなく、まず、第一に神の国とその義を求める生活をしなければならないのです。かなり厳しい勧告ですが、もしここで罪を取り除くことをしなかったらイスラエルは罪の中で滅びるだけです。

同様に私たちも信仰の改革、罪を悔い改める生活をしないなら、ゆでガエルのように霊的に死んでいきます。自分の知らずに罪の中で滅びるだけなのです。改革にも成長にも犠牲と痛みが伴われるものです。どうか、エズラを通して与えられる神様の御言葉を真剣に受け取って罪に対して驚き悲しんで悔い改める生活をできるように祈ります。そういう信仰の改革を実行して行くうちに、私たちは成長して行くことを信じます。