2013年収穫感謝礼拝(賛美歌265)

新しい歌で主を賛美しよう

御言葉:詩篇40:1〜17
要 節:詩篇40:3主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

 
紅葉の秋になりました。日本は四季があって、季節ごとに異なる風景が見られます。華やかな春とは違って、秋は趣のある美しさがあります。木々に彩った山々は、形を変え色を変えて、まるで錦の反物を広げたように色とりどりに染まります。そして秋風に揺れる紅葉は、カラフルな折り紙のようにはらはらと舞い落ちる、それが秋の風景です。また、秋は収穫の季節です。黄金色に覆われている田んぼの稲や、穏やかな陽光を浴びて優しい色で染まっている秋の実りは、人々に大きな喜びと豊かさを与えます。何かプチ贅沢な秋の旅をしたくなる季節です。そういう気持ちを抑えて、今日は喜びと感謝を持って御言葉や賛美の旅をしてみましょう。

詩篇40篇は【ダビデの賛歌】の詩で、救いの喜びと感謝、賛美に満ちているダビデの姿があります。特に主の哀れみと力によって、一人の人が滅びの穴と泥沼から救い出されて、新しい道へと導かれ歩んで行く姿が描かれています。御言葉を通して、ダビデがどのようにして泥沼のような苦難から救い出されたのか、そしてそのダビデを救ってくださった主はどんな方なのかが学べます。今日はこういう礼拝を主に捧げたいです。一緒に歌で表現してみましょう。「あなたの恵みとそのあわれみを/私は褒めたたえる主の御前で/あなたの臨在とその喜びを/私は褒めたたえる主の御前で/麗しい主の愛に、満たされて心から/あなたを褒めたたえ、礼拝します」(小坂 忠)

1,2節をご覧ください。「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」とあります。詩人ダビデは、切なる思いで主を待ち望みました。それは彼が滅びの穴、泥沼に陥っていたからです。もともとダビデは勇士であり、牧者や詩人、音楽家であり、イスラエル王国を繁栄させた王でした。戦いでは主が彼と共におられたので、「百戦百勝」でした。勝利を収めて凱旋するある時には、イスラエルの女たちが喜び踊りながら繰り返して歌いました。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と。実に彼の人生は「順風満帆」そのもののようでした。それなのに、彼は自分の人生は「滅びの穴」と「泥沼」に陥ったようにメチャクチャだったというのです。もしかするとダビデは、サウル王に追われて険しい野原を逃げ回り、洞窟に身を隠して死と隣りあわせで恐れ戦った時を思い出したのかもしれません。或いは、息子アブシャロムの謀反と、信頼していた議官アヒトフェルにも裏切られたことで、彼の心に大きな傷が出来ていたのかもしれません。また、忠臣ウリヤの妻を犯し、その罪を隠すためにウリヤを戦場に送って死なせたことを思い出して、「泥沼」にはまり込んでどんどん沈んでいく絶望的な自分の姿を表現したのかもしれません。兎に角、彼は未来への望みを断たれ、いつ終わるとも知れない泥沼のような苦しみや悲しみに陥ったことは確かです。底なし沼に嵌まり込むと、自分の力では決して抜けだすことは出来ません。誰かに助けを求め、引き上げてもらう方法しかないのです。

そのような苦難に陥った時に、ダビデは何をしたのでしょうか。もう一度、1,2節をご覧ください。彼は切なる思いで主を待ち望みました。ただ何もせずに待つのではなく、切なる思いで主を待ち望み、粘り強く主に叫びの祈りをしたのです。すると、彼の必死の叫び声は主に届きました。主は彼の方に身を傾け、彼の叫びを聞いてくださったのです。主は彼を滅びの穴から、泥沼から引き上げてくださり、もう滅びることも、揺るぐこともない巌の上へと、彼を移してくださいました。それまでダビデは、あっちへふらふら、こっちへふらふらと足元が安定せず、滅びの穴へと落ち込む歩みをして来ました。しかし、主は彼を正しい道へと導き、しっかりとした確かな歩みができるように変えてくださったのです(2)。

「花無百日紅、人無千日好(はなにひゃくにちのこうなし、ひとにせんにちのこうなし)」という中国のことばがあります。どんなに綺麗な花でも百日もすれば枯れてしまうように、人もどんなに順調で良い事があっても千日は続かない、と言うことです。つまり、人生には多かれ少なかれ試練があるというわけなのです。今年はワタル君が思わぬ病で2度も手術を受けました。大変辛かったと思いますが、きっと受けた苦難は純金のように鍛練された信仰に変わると信じます。時には、主に切なる思いで祈り続けていても、まだその祈りが答えられていない場合もあるでしょう。しかし、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを」(ローマ8:28)、堅く信じましょう。たとえ、自分の望み通りに行かなくて、理解できないような不条理に思える道を歩むことがあっても、主は私たちの歩みをしっかり支えて、主の恵みによって生きる者としてくださるお方であることを信じ、祈り続けましょう。

この救い主、主を、ダビデはどのように賛美したのでしょうか。3節をご覧ください。「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」とあります。賛美は主を褒めたたえる信仰の表現です。誰かから強要されてやむを得ず歌うのは真の賛美ではありません。それなのに、ダビデは主が自分の口に神様への賛美を授けられたというのです。なんだか、とても不思議な表現です。もし、神様を褒めたたえる賛美を主ご自身が授けて、「歌を与えるから、それを私に向かって歌いなさい」と言われるのであれば、何とも厚かましいことのようにも感じられます。ここで「主が、賛美を授けられた」とは、では、どういうことなのでしょうか。それは、主こそが賛美を受けるのに相応しい方であることを(黙5:12)、ダビデが身に沁みて体験したということでしょう。恐らくダビデは、自分を滅びの穴や泥沼から引き上げてくださった主の救いの恵みや、揺るがない岩場に移されて新しい道を歩むようにしてくださった主の導きを思うと、神様への賛美をしなくてはいられなかったのでしょう。ですから、彼は、「・・・主にあって、喜び歌え、賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」(詩33:1)。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」(詩34:1)、と歌っているわけなのです。

それでは、私たちはどんな歌を主に捧げるべきでしょうか。それは、「新しい歌」です。主によって新しくされているからこそ、私たちには新しい歌が与えられます。ここでの「新しい歌」の意味を、どう考えたら良いでしょうか。毎日新曲を作らなければならない、ということでしょうか。そう考えてしまいますと、喜びの賛美が負担になってむしろ心が重くなるでしょう。「空知太栄光キリスト教会」の牧師、銘形秀則先生は、「新しい歌」をこう定義しています。「新しい歌とは、新作の歌ではなく、神への救いの驚き、感謝、感動を新たな思いで歌う歌のこと。新しい歌とは、救いの感謝と喜びの歌、愛の交わりの歌、信仰と希望の歌のことだ」と(「牧師の書斎」より)。このように喜びと感謝を込めて主に賛美するなら、その歌は新しい賛美歌なのでしょう。

賛美にはもう一つ素晴らしさがあります。3節後半部をご覧下さい。「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう」とあります。ここには賛美を聞く人の変化が現れています。新しい歌で喜んで賛美する姿に、多くの人々は主の素晴らしさを見、主の力の偉大さを悟るようになります。そして神様を恐れ敬い、自分たちも主を信頼しようとする思いが生まれるのです。毎週私は、重唱団の新しい歌に感銘を受けています。特に、心の琴線に触れる賛美を通して、疲れた心と魂が癒されています。また、賛美には悪い霊さえも追い出す力があります。「ダビデが琴を手に取って弾くと、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた」、という御言葉がそれを物語っているのです(?サム6:23)。

人は誰でも幸せになりたいものです。スイスの心理学者カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)の幸福の条件5つを紹介します。それは「心身共に健康であること、美しいものに感動する能力を持つこと、幅広く豊かな人間関係を有すること、朝起きた時その日やるべきことがあること、自分で程よいと思う程度のお金を持っていること」です。このようになれば、本当に幸せになりそうです。しかしダビデは、このような条件が真の幸せではないことを悟ったようです。もし、この世の「富貴栄華(ふうきえいが)」が幸せの条件だとしたら、ダビデより幸せな人はいないでしょう。

では、どんな人が「幸いな人」でしょうか。4節です。「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や偽りに陥る者たちの方に向かなかった、その人は」とあります。それは、主に信頼する人です。なぜ、主に信頼することが、幸いなのでしょうか。それは、「主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む」からです(詩32:10)。また「主に信頼する者は、失望させられない」からです(ロ-マ10:11)。このように「幸いな人生」とは、主に信頼し、主に向けて礼拝し、主と共に生きることです。その幸せを、パウロはこう言っています。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。貧しさの中にいる道も・・・、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と(ピリピ゚4:11,12)。

それでは、主に信頼することでダビデは何を悟ったのか、について学んでみましょう(5〜17)。

まず、ダビデは、主がなさった数も知れない奇しいわざ、即ち神様にしか出来ない奇跡を通して、主に並ぶ者はないことを悟りました(5)。つまり、主こそが唯一の神、全能の神であることを、悟ったのです。それで彼は、「自分が告げても、また語っても、それは述べ尽くせません」、と主に歌っているのです。今年は私たちの念願だった日本の牧者が誕生し、そして大学生中心の「ヨハネ」チームも結成されました。また毎週私たちは聖書の学びをしています。それは聖書の御言葉には人を生まれ変わらせる恵みと力が秘められていることを信じているからです。人は御言葉によって主の奇しいわざを悟り、聖霊によって生まれ変わっていくわけですが、それを通して「主に並ぶ者はない」、「主こそが王の王、主の主」であることを確信することになるのです。

次に、ダビデは、主が何を喜ばれ、何をお求めになる方であるかを悟りました(6)。当時イスラエル人にとって「いけにえ」は、神様に対する礼拝の儀式でした。しかし、いつの間にかダビデの口からは賛美がなくなり、主の御言葉には両耳を塞いでいました。そこから罪を犯してしまったことを悟った彼は、「私は主に対して罪を犯した」と悔い改めます(?サム12:13)。それを通してダビデは、主が喜ばれることは全焼のいけにえよりも、砕かれた霊、悔いた心であることを悟り(詩51:17)、主の御声に聞き従うことがいけにえよりまさり、耳を傾けることが雄羊の脂肪にまさる(?サム15:22)、ということを悟ったのです。そういう訳で、彼の心は主のおしえに満ちており、主のみこころを行うことを喜びとしていたのです(8)。また、多くの会衆の前では、自分のくちびるを押さえることができず、喜びと感謝に満ちて、主の義の良い知らせや恵み、主のまことを告げたのです(9)。

さらに、ダビデは、主が正しい裁きをしてくださることを悟りました(11〜15)。ダビデはこの詩篇40篇を書いた時も数え切れないほどのわざわいに取り囲まれており、自分の咎のことで悶え苦しんでいました(12)。彼は自分を見ることもできず自分の心さえも見捨てた、というほど心身ともに追い込まれていました。しかも、敵は虎視眈々と自分の命を狙っていたし、自分の不幸を見て大声であざ笑う者どももいました(14,15)。彼は人々から「自業自得」と言われても仕方がなかったでしょう。しかし彼は謙った心で主に哀れみと助けを求めました。彼は自分の不幸を喜んだ者どもの復讐を願わず、ただ全てを主に委ねて、主が正しい裁きをして下さるよう叫び求めたのです。

最後に、ダビデは、牧者が何をやるべきかを悟りました(16)。ダビデの今の状況は自分のことで目一杯で、他人に気を配るどころではありません。しかし、主の哀れみと助けを身を持って体験したダビデは、イエス様のような牧者の心でこう願い求めたのです。「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『主をあがめよう』と、いつも言いますように」と。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺があります。人は苦しい経験をしてもすぐに忘れてしまうという意味ですが、私たちは主から頂いた救いの喜びと感謝のことも忘れがちです。ダビデのように、主を心から賛美し、主に栄光を帰しながら、救いと喜びを感謝し続ける者でありたいものです。そして主にあって生きる者になりたいものです。最後に皆様と一緒に喜びと感謝を持って、賛美の歌を歌いたいです。「I・N・O・C・H・I」という賛美です。

「イエスの命、よみがえりの命/今、新しい命に生きる/イエスの命、よみがえりの命/今、新しい命に生きる/古いものは過ぎ去って/すべてが新しくなった/たとえ私は弱くても/イエスの命を持っている/私のために十字架で/死なれ、よみがえられた/イエスを信じて、私は生きる/イエスの命、よみがえりの命/今、新しい命に生きる」(小坂 忠)