2012年クリスマス礼拝

ひとりのみどりご

御言葉:イザヤ書9:1−7
要 節:イザヤ書9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

Merry Christmas!
クリスマス、それはイエス・キリストの誕生を祝う日です。クリスチャンの少ない日本でも、クリスマスは年間行事の一つとして根付いています。喜びを持って私たちの主イエス・キリストの誕生を喜び祝いましょう。ハレルヤ!Merry Christmas! クリスマスのプレゼントはイエス・キリストご自身です。神様は罪や死や悪に支配されている人々を救うために神のひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださいました。そして、クリスマスと言う言葉は「キリストを祀る、崇める」と言う意味です。イエス様を心に受け入れ、崇めるならば、その日はクリスマスなのです。イエス・キリストを信じることによってすべての罪が赦され、心が喜びと平安で満たされます。まことの光に照らされて明るく平和の人生を生きるようになります。不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君であられるイエス様がその人生を真実と愛によって導いてくださいます。では、神様がお遣わしくださったイエス様はどのようなお方で、どのように働かれるのでしょうか。
今日は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇の誕生日を祝う日です。もし天皇の誕生が預言されていたと聞いたことがありますか。ないでしょう。仏教の釈迦も、イスラム教のマホメットも、生まれる前から預言されていたわけではありません。しかし、イエス様の誕生は数千年前から預言されていました。イエス様は、どこで生まれ、だれから生まれ、どのような生き方をするか、どのように死ぬか、死後にどうなるか、一生涯のことが事細かく預言されています。旧約聖書にイエス・キリストに関する預言が350位あると言われているほどです。そして、預言された約束が新約聖書において成就されました。これからも成就されつつあります。
今日はそういう聖書の預言の中でも最も知られている預言者イザヤの預言からイエス・キリストを学びたいと思います。B.C730年ころ、神様はイザヤとイスラエルにメシア、イエス・キリストの誕生に関するビジョンと約束を与えてくださいました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」」という約束です。それは当時の人々にとって注目のニュース、トップニュースでした。世界的なニュースだったのです。そのニュースは当時の世界で東の果てにある今のイラクまでも広がったようです。後で東から東方の博士たちがひとりのみどりごを拝みにイスラエルのベツレヘムまで来ました。では、なぜそれほどビックニュースだったでしょうか。
イスラエルは世界のどの国よりも多くの侵略を受け、虐待を受けている国です。エジプトの奴隷生活だけでも400年間でした。その後も、アッシリヤ、バビロニア、ペルシア、ローマなどによって圧制されました。ナチス・ドイツ時代には600万人も殺されました。しかも、ひどい殺され方でした。本当にイスラエルは数多くの苦難を受け、圧制されている国なのです。イザヤ時代もイスラエルはアッシリヤに侵攻され、抑圧されていました。特に、イスラエルの北部であるガリラヤ、ナフタリの全土は占領され、その住民はアッシリヤへ捕え移されました(?列王15:29)。イザヤ8章22節は、その状態をよく表しています。「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」とあります。正に真っ暗な状態です。そこに偉大な神様の約束、メシアの誕生の約束が与えられました。

9章1節をご覧ください。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」とあります。イザヤは後のことなのに「光栄を受けた」と表現しています。それほど信じ切ったということです。神様の約束に対する確信です。
2節をご覧ください。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」とあります。これも素晴らしい信仰の告白です。現在やみの中を歩んでいた民です。アッシリヤに侵略されて苦しみ、死の陰の地に住んでいました。ところが、イザヤは「大きな光を見た。彼らの上に光が照った」と確信したのです。
このように、神様に対する信仰がある人は苦しみの中でも希望を持つことができます。神様の時を待つことができます。それは幸せなことです。希望を持ち続け、待ち続ける時に苦しみにも耐える力が湧いてきますし、創造的な知恵も与えられるからです。それで、聖書勉強を通して神様の約束をつかみ、信じている人たちは幸せな人たちです。苦しみの中でも明るく肯定的に生きることができます。何よりも、神様から与えられたビジョンと約束が実現されて行くことの体験ができるからです。イザヤも自分に与えられた神様の約束が部分的に成就されることを体験しました。ユダヤ人を闇の中に陥れたアッシリヤは滅亡したからです。しかし、その約束が完全な形で実現されたのはイエス・キリストの誕生です。イエス様ははずかしめを受けていたゼブルンとナフタリの地、ガリラヤに来られました。大きな光として働かれました(マタイ4:13-16)。そして、ガリラヤでイエス・キリストを迎えて受け入れた人々は大きな光の力を体験しました。彼らはイエス様が病人を直し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出してくださることを見ました。死の陰の地、ガリラヤに住んでいた人たちが新しい人生を生きるようになりました。
今日も、大きな光、イエス・キリストを受け入れる人々は癒され、生かされて新しい人生を生きるようになります。ただ、厳しい現実だけを見て生きている人は世の中が暗く見えるかも知れません。クリスマスがクリスマスではなく、「苦しみ増す」だと言いたくなる人もいるでしょう。しかし、この日本にも大きな光が照らされています。日の出が昇りました。私たちの上に光が照ったのです。その光はイエス・キリストです。イエス様は大きな光です。心からイエス・キリストを受け入れるなら、心は明るくなります。イエス様を信じると、イザヤに与えられたビジョンと約束の御言葉が与えられます。御言葉によって私たちの心に住み着いている暗黒と死の陰が消えていきます。冷え込んでいる冬でも心が温かくなります。内なる人が強くなります。そうして成長と刈り入れ時の喜び、勝利の楽しみを体験する人生を生きるようになります。
3節をご覧ください。「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの前で喜んだ。」とあります。神様がその国民を増やしてくださるのでイスラエルは繁盛する、成長する喜びが増し加えられるのです。この喜びは刈り入れ時に喜ぶ喜びです。この喜びはこの世の喜びとは質が違います。この世でも喜べるものは多くあります。コンピュータゲームやパチンコを楽しむような喜びではなくて健全な喜びもあります。クリスマスパーティーやクリスマスコンサートを楽しむ喜びもあります。しかし、そういう喜びは一生懸命に働いて得られる刈り入れ時の喜びには至らないでしょう。敵と戦って勝利して分捕り物を分ける時に経験する楽しみも大きいものです。大きな光に照らされた人は、そういう素晴らしい喜びを経験して行くのです。それだけではありません。勝利を楽しむ喜びと平和も経験して行きます。
4、5節をご覧ください。人々に負われていた重荷のくびきと、肩のむち、しいたげる者の杖は粉々に砕かれます。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火の餌食となります。つまり、イスラエルは戦争に勝利して外国の圧迫から解放され、争いから平和の国になります。そのように、私たちも大きな光に照らされると、自分を束縛する重荷から解放されます。安逸と情欲の支配から解放されます。険しい世の中で人を憎しみ、妬み、競争し、騒いでいた心が平和になります。そうして、いつも喜び、すべてのことにおいて感謝するようになります。もちろん、自分の力だけで収穫し、勝利する喜びを経験することもできます。ところがその時は感謝ではなく自慢話になりがちです。それが人を傷つけてしまう場合もあります。しかし、私たちのために生まれたひとりのみどりご、イエス・キリストによる刈り入れ時の喜び、勝利の喜びは違います。すべてがイエス様の恵みだから自慢ではなく、ただ、感謝するようになります。喜んでもへりくだっているから人々から妬まれません。それでいつも喜び、すべてのことにおいて感謝するようになるのです。
では、大きな光として来られたイエス・キリストは私たちのうちにどのように働かれるでしょうか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ここで、私たちのために生まれるひとりのみどりご、イエス・キリストについて学ぶことができます。
第一に、イエス様は「不思議な助言者」として働いてくださいます。「不思議な助言者」というのは英語の訳で「Wonderful Counselor」となっています。イエス様は知恵と知識にあふれています。私たちが経験するすべての領域において正しい道を示してくださいます。聖書の御言葉、メッセージ、聖歌の歌詞などを通して私たちが悟り、正しい道を歩んでいくようにカウンセリングしてくださるのです。
第二に、イエス様は「力ある神」として働いてくださいます。イエス様には不可能なことがありません。イエス様を信じる者たちはその力を体験することができます。使徒パウロは次のように告白しています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリ4:13)。私たちも力ある神イエス・キリストを信じて生きる時、どんなことでもできる人生を生きるようになります。
第三に、イエス様は永遠の父として働いてくださいます。皆さんにとってお父さんはどんな存在でしょうか。私の父は天に召されました。その後に悟ったことの一つは父が生きていることだけでも大きな恵みだということです。ほんとうに、子どもにとって父は大きな存在です。子どもたちを保護し、必要なものを満たします。いつまでも子どもを見守り、助けようとします。そういう父親に恵まれている人は幸いです。でも、この世の父は暴力的な父もいます。いくら素晴らしい父であっても限界があります。しかし、イエス様は永遠の父となって下さいます。いつでも、どこでも、私たちを見捨てず、父親であり続けて下さるのです。
私は弱い者で精神的にも肉的にもよく疲れてしまいます。さまざまなことで心が騒ぎ、落ち着かない日が続く時もあります。でも、静かに祈る時に、「父なる神様!お父様!」と呼ぶと、それだけでも心が癒されます。安堵感と平和が与えられます。ひざまずいて「お父さん」と呼んでいるうちに主の大きな愛に包まれて泣いてしまう時もあります。心は潤され、新しい力をいただきます。私たちに永遠の父がいていつでも「お父さん!」と呼べることは大きな恵みです。皆さん。一緒に呼んでみましょう。「父なる神様!お父さん!」永遠の父として私たちのうちに働いてくださる主の御名を賛美します。
第四に、イエス様は「平和の君」として働いてくださいます。イエス様はなぜ、「平和の君」なのでしょうか。それは、イエス様が十字架の死によって人と神様との和解を実現したからです。パウロはこう言いました。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです(コロサイ1:20)。」私たち人間はイエス様の十字架の死によってのみ神様と和解することができます。私たちは神様に敵対していました。神様の怒りを受けるばかりのことをして来たのです。ところが、神様は私たちのすべての咎と罪をイエス様に負わせました。それに対してもイザヤは預言しました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた(イザヤ53:4-6))とあります。このキリストの死によって私たちは、神様との和解をいただいているのです
ですから、私たちはイエス様の十字架の死による贖いを信じることによって救われ神様と和解することができます。神様との和解から人々の間でも平和が生まれます。それで人々に「シャローム!」と言えるようになります。ヘブル語のシャロームは「平和、平安」とも「繁栄」とも訳すことができます。つまり、シャロームという時に平安と繁栄を祈るのです。(隣の方と挨拶しましょう。シャローム!)どうか、平和の君であられるイエス・キリストの働きによっていつまでも平安で何をしても栄えるように祈ります。
 7節をご覧下さい。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。
イエス様は、ひとりのみどりごとしてお生まれになりますが、その主権は増し加わります。その平和は限りなく続きます。「ダビデの王座」に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支えます。なぜなら今より、とこしえまで万軍の主の熱心がこれを成し遂げられるからです。つまり、救いのみわざは万軍の主の熱心によって成し遂げられるということです。私はこの日本の宣教、救いのみわざのために遣わされて来ました。特に、若者たちがダビデの王座に着いておられるイエス様を信じて救われ、イエス様に従う人になることを願っています。この国が神の国になることを望んでいます。しかし、それは私の力では無理です。日本に1%のクリスチャンがいますが彼らの力によってでもできません。しかし、万軍の主の熱心によって愛する兄弟姉妹たちがイエス様を不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君として受け入れ、信じるようになるのです。
イエス様が選んだ弟子たちのほとんどが、ガリラヤの漁師たちでした。イエス様はあえてエルサレム大学の出身の人ではなく、あまり学問のない、普通の人たちを選ばれました。当時の国際語であるギリシャ語もできない人たちが選ばれたのです。パウロは?コリントでこのように言っています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです(1:27,28)。」でも、イエス様が彼らのうちに、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君として働いてくださいました。すると、彼らの人生は変わりました。今なお歴史に残る偉大な12使徒として福音のみわざに用いられました。
 ここにいるクリスチャンも過去は苦しみ、はずかしめを受け、やみの中、死の陰の地に住んでいたことでしょう。自殺を考えたほどに死の陰の谷を歩いていた人もいます。私たちは本来、神様の子どもとして造られたのに、罪の中で死に、サタンの支配下にいたのです。しかも自分が闇の中にいることさえもわかりませんでした。イエス様を信じて救われた後、「ああ、私は闇の中にいたんだ!」ということが分かりました。そんな私たちのためにイエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになったのです。大きな光として私たちを照らして明るい人生を生きていくようにしてくださいました。それで、皆さんの顔を見ると明るいです。もちろん、クリスチャンでも厳しい世の中で苦しみ、悲しむ時があるでしょう。しかし、イザヤに与えられた神様のビジョンと約束の言葉があるから希望を持ち続けることができます。今は苦戦しても勝利の時を待つことができます。祈り続けながら神様の愛と力を体験して行きます。行く先々に勝利を与えられる神様の不思議な力と愛を体験して行くのです。
私も過去はやみの中、死の陰に住んでいました。自分の安逸と情欲の罪のためにはずかしめを受けていました。漁師の子どもとして親には財産もないのに、自分に何の才能も、実力もないと言うことでつぶやいていました。体育の時間に走ると、いつもビリだし、歌では音痴として呼ばれていたことで悩み、苦しんでいました。さらに、体は肝炎にかかって黄色くなり、学校の成績も落ちって行くと生きる意味を失ってしまいました。ところが、大学1年生の時にこのUBF教会に導かれて聖書を学び、祈って行くうちに心も、体も癒されました。ことばではうまく説明できませんが、不思議な力と愛を体験して宣教師になりました。今は教会のメンバーにも恵まれ、家族にも恵まれています。笑顔で幸せに生きる人生になりました。惨めな私を救ってくださった主の御名を賛美します。どうか皆さんも心からひとりのみどりごのイエス様を受け入れますように祈ります。クリスチャンでも、もう一度、ひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス様の誕生が自分のためであることを信じてイエス様に対する心を新たにして行きますように祈ります。ひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス・キリストの恵みと平和が皆さんと皆さんのご家族に上にありますように祈ります。