2012年ルカの福音書第4講

主の恵みの年を告げ知らせるために

御言葉:ルカの福音書4:14〜44
要 節:ルカ4:18,19「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

今日は母の日ですね。 日頃の母親の苦労をいたわり、母への感謝を表す日だそうです! まだ、母への感謝を表していない方は今日のうちに表しましょう。
しばしば、母の愛と言うのは、神様の愛に近いという方もいます。私は「本当にそうだ」と思っております。去年、母親が天に召されたその日、悲しみも大きかったのですが、思い巡らすと、愛情豊かな母親を与えて下さった神様への感謝も大きいものでした。このように言いますと、「私の母親は、そのような愛情豊かな人ではない!」と言い返したくなる方がいらっしゃるかも知れません。確かに、最近の新聞に載せられる記事によると、愛情豊かな母親の姿とは程遠いなあと思われる時があります。実の親から虐待やひどい言葉の暴力を受け続けてきた人たちにとって、この母の日や父の日ほど嫌な日はないでしょう。
ではなぜ、愛の神様の似姿の両親なのに、わが子を虐待したり、愛情を失ったりしてしまうのでしょうか。それは人間が神様から離れているからです。聖書でパウロは「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです(ローマ7:15)。」とあります。本当は善を行ない、愛を実践したいと願いますが、神様から離れ、堕落してしまったので自分の子どもさえ、虐待したり、罵ったりして傷つけてしまうのです。しかし、誰でも神様の愛を悟り、その愛を信じるなら、傷ついた心も癒されます。神様は語られます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ49:15〜16)と。たとえ、私を産み、愛しているはずの母が私を忘れても神様は私を忘れません。ご自分の手のひらに私を刻んでいてくださいます。私たちにこの神様の愛が分かると自分の母の愛も理解し、分かるようになります。神様は、ご自分のひとり子を十字架につけて死なせたほどに私たち人間に対する神様の愛を現わしてくださいました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。?ヨハネ4:10」私たちがこの神様の愛のもとに帰っていくと、神様は私たちにご自分のかたちを取り戻してくださいます。私たちは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民となるのです(?ペテロ2:9)。そうして神様がご自分の民のために用意してくださった祝福と恵みを受けるようになります。イエス様は「その恵みの年」を告げ知らせるためにこの地に来られました。
では「主の恵みの年」とは何でしょうか。私たちとどのようにしてその恵みを受け取ることができるでしょうか。本文の御言葉を通して深く学びたいと思います。

 14節をご覧下さい。「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に,くまなく広まった。」とあります。イエス様はバプテスマを受け、悪魔の誘惑に打ち勝たれたから主にガリラヤ湖の周辺で活動されました。この地方は外国軍の攻撃を真っ先に受ける所です。それでイスラエルの中でも比較的に貧しく、心の傷も多い所です。イエス様はその地域で彼らに救いによる恵みのメッセージを伝えられました。すると、人々の心の傷と肉体の病気は癒されました。悪霊に囚われている人々は解放されました。イザヤが預言した通りにイエス様によってメシヤの働きをなされました。するとイエス様の評判が回り一帯に、くまなく広まりました。イエス様は彼らの会堂で教えることでもできるようになりました。それから、イエス様はご自分の育ったナザレに行かれました。そして、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれました。ここで「会堂」とは今日の教会堂ではありません。ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)です。ユダヤ人は年に数回エルサレムの神殿で礼拝しますが、普段は安息日ごとに会堂に集まって礼拝をしました。そして礼拝の時は大人になった13歳以上の人の中から選ばれた人が聖書朗読をし、教えました。特に朗読の時、神様への敬意を表すために皆が立ちました。ところが、ちょうど、イエス様に預言者イザヤの書が手渡されました。その書を開いて、こう書いてある所を見つけられました。私たちも立ってご一緒に読んでみましょう。
18、19節です。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエス様は朗読が終わると、聖書を巻き、係りの者に渡して座れました。皆さんもお座りください。イエス様の聖書朗読に普通の人とは違う権威と力があったでしょうか。会堂にいるみなの目がイエス様に注がれました。そこで、イエス様は人々にこう言って話し始められました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」すなわち、イザヤの書に書かれた預言が実現したと言うことです。その預言の通りに主の恵みの年が来たのだと宣言なさったのです。では、イザヤはどういう意味で「主の恵みの年」と言ったでしょうか。それはイザヤがレビ記25章を念頭に置いて語っていると思われます。
 レビ記25章には「ヨベルの年」すなわち「主の恵みの年」について書かれてあります。ユダヤ人は律法の教えに従って安息日を守っています。毎週土曜日ですが、キリスト教ではイエス・キリストの復活を記念して日曜日に安息日を守る礼拝をしています。つまり、七日間を一周にして安息の日があるのです。そして、七年に一度は安息の年があります。畑を六年間使って収穫を得、七年目はその土を休ませます。そうすることで土地がやせ細ることを防ぐことができますし、働く人間も休みます。その七年目の休みを七回をしますと、49年になりますが、50年目を「ヨベルの年」と呼びました。「大安息の年」、「主の恵みの年」とも呼ばれます。なぜなら、この年は単なる休みの年ではなかったからです。その年は解放と赦し、救いと恵みの年でした。負債のある者はそれが免除されました。借金を返せないで奴隷となり、しいたげられている者は解放されて自由の身になりました。人手に渡っていた畑も、本来の持ち主に返されました。そういうわけで、ヨベルの年が告げられることは貧しい人々、弱い人々にとってGood News、福音なのです。ヨベルの年を通して人々は互いに愛し合う愛を実践することもできます。貧しい人も、弱い人も平等に自由に生きるようになります。それは神様の望みでもあります。
 愛の神様は私たち人間が神様を愛し、隣人を愛することを望んでおられます。神様の土地を分け合い、自立的に自由に生きることを望んでおられます。経済的な貧困のために差別を受けている人、借金のために苦しむ人も救われることを望んでおられます。ですから、神様はイスラエルをエジプトの奴隷の苦しみから救われました。乳と密の流れるカナンの地に導きいれてくださいました。そして、神様は約束されました。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。(申命記28:1-6)」このように、神様はイスラエルが祝福され、恵まれることを望んでおられたのです。ところが、イスラエルの民は神様に逆らい、自分中心に生きるようになりました。特にイスラエルのために「ヨベルの年」の戒めも守らず、安息を与える神様に従いませんでした。そこで、イザヤはイスラエルが捕囚の民、すなわち捕虜となってバビロンに連れて行かれると預言しました。それがイザヤ書の前半部にあります。しかし、イザヤが聖書を通してどう考えても神様はあわれみ深い方であると思われました。そこで、イザヤはイザヤ書の後半部を通してイスラエルの回復について預言されてあります。イエス様が読まれた箇所はイザヤ書の後半部61章の1,2節です。このようなイザヤの預言は両方とも実現しました。イスラエルはバビロンの捕虜となりましたが、その後解放され、独立しました。しかし、不完全なものでした。これはさらに理想化され、真のヨベルの年は主イエスの来臨によって成就されます。しかし、部分的にはどの地域、どの社会でも「恵みの時、救いの日」はあります。イエス様が十字架と復活を通して救いのみわざを完了したからです。イエス様はわれわれ人間の根本的な問題である罪の問題を解決し、救うために遣われました。そして、イエス様は十字架の死と復活を通してご自分に与えられた使命を完了したのです。それで、神様はイエス様を受け入れ信じる者はどこでも、いつでも恵みの年に生きるようにしてくださいます。
 もう一度、19節をご覧ください。「主の惠みの年を告げ知らせるために」とあります。この御言葉は私たちに人類歴史に対する希望を与えてくれます。それはキリストの季節が訪れたことを指しているからです。人々は「世界は悪のサイクルが繰り返されている」と思っています。自然災害が多いこの国では神様は怖いという意味が大きいでしょう。しかし、聖書の神様は違います。神様は恵みの神様です。神様から遣わされたイエス・キリストは主の恵みの年を告げ知らせるために来られ、恵みの年を宣布されました。では恵みとは何でしょうか。恵みとは何もお返しのできない私たちに神様が一方的な無代価の愛を与えてくださっていることです。では主がどのようにして今年も特に恵みを与えてくださるのでしょうか。謙遜に自分の罪を認め、イエス様を 信じる事により、罪が赦され、束縛から解放されます。私たちがイエス様を受け入れ、信じるその年が恵みの年となります。すると、罪に縛られている人が罪から解放されるようになります。ヨベルの年の喜びと感激が自分のものになります。しかし、偏見と自己中心のために高ぶっていては恵みを受けることができません。イエス様がイザヤ書から、恵みの年を宣布された時、その素晴らしい教えに人々は驚きました。しかし、偏見と自己中心のために素直に受け入れない人たちがいました。「この人は、ヨセフの子ではないか。」という人々もいたのです。彼らは「ヨセフの子」という自分たちの知識から離れることができませんでした。いくらイエス様が素晴らしい教えを説かれても、聞く耳を持たなかったのです。また、ナザレの人々は、イエス様が他の町々で行われた奇跡の噂を聞いて、自分たちにもその奇跡を見せてみろと思っていたようです。それは他の町の人々が奇跡を見たこと、あるいは病人が癒されたことを聞いて自分たちにも何か得になることをしてほしいという自己中心です。また他の町の人々に対する妬みです。他人の祝福をうらやましがりながらも自分が悔い改め、謙遜になろうとしない人は恵みの年を味わうことができなくなってしまいます。イエス様がせっかく主の恵みの年を宣言してくださり、救いの働きを初めてくださったのに、それを受け入れない人々は主の恵みと祝福を受け取ることができなかったのです。しかし、昔の人でも異邦人でも謙遜に神様に従う人は恵みの年を味わうことができました。
25-27節をご覧ください。「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」とあります。今も同じです。エリヤの時代に大飢饉が起こったように大震災が起こって困難な人々が多くいます。病んでいる人も多くいます。しかし、すべての人に神様の恵みが注がれるのではありません。シドンのやもめのように、シリヤ人ナアマンのように謙遜になる人が主の恵みと癒し、救いを体験することができるのです。神様はいつも豊かに恵みを与え、救おうとしていてくださいます。でも、自分の偏見と自己中心な心は神様の恵みを拒んでしまいます。他の人が祝福されている姿を妬み、つぶやいたり文句を言ったりすると、神様の恵みが見えなくなります。イエス様が宣言された恵みの年、それは賜物です。ただでもらえるものなのです。だから、自分のちっぽけな自尊心、偏見と自己中心を捨てて主の恵みを求めさえすれば受け取ることができます。

レビ記に出てきたヨベルの年は一年間だけです。次のヨベルの年までは50年間待たなければなりません。50年間続くのではありません。今日は母の日ですが母の恵みが50年間も続く場合もあるでしょう。母から受ける恵みも大きいものです。母の日に歌う韓国の歌にこういう歌があります。「낳으실제 괴로움 다 잊으시고 기르 실제 밤낮으로 애쓰는 마음 진자리 마른자리 갈아 뉘시며 손발이 다 닳도록 고생하시네 하늘아래 그 무엇이 높다하리요 어버이의 은혜는 가이없어라(産みの苦しはみな忘れ、育てる時は昼も夜も苦労するその心、濡れる所、乾いた所を取り替えて寝させながら、手足がみなすりへるほどに苦労される母。天下に何がそれほど高いと言えるだろうか。母の恵みは果てしないなあ」本当に母の恵みは果てしないものです。しかし、主の恵みには比べることができません。イエス様が宣告された「主の恵みの年」はすぐに終わってしまうようなものではありません。何年間続くのでしょうか。50年くらいではありません。それは、今日までずっと、です。紀元前のことをBCと言います。ビフォー・クライスト、キリスト以前という意味です。それに対し、紀元後のことをADと呼びます。これは「アノー・ドミニ」、すなわち「主の年」という意味です。イエス様が来られたことにより歴史が変わったのです。主の年が始まり、それが続いているのです。ですから、主の恵みの年は、一年間だけでなく、今日まで続いているのです。エリヤに仕えたやもめの家は大飢饉の中でもそのかめの粉は尽きず、そのつぼの油は亡くなりませんでした。食べ物、経済的な必要が満たされたのです。ナアマンは病が癒されました。今の私たちにもそういう恵みが注がれます。罪が赦される大きな、大きな恵みだけではなく、パンの問題が解決され、祝福されます。病が癒される恵みがあります。今年も「主の恵みの年」です。だから、神様の恵みをいただくために、心を開いて、救いを求めましょう。
今日は先ほども言ったように母の日です。母には恵みを求めないでください。ただ母の恵みに感謝しましょう。しかし、神様には今日も恵みを求めましょう。求める人には、与えられます。神様は一人一人のためにも豊かな恵みの計画を立てておられます。パウロは言いました。「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(?コリント6:2)」私たちが心から神様の約束を信じて恵みを受け取ることができるように祈ります。
私は今年も恵みの年であることを感じています。試練もありますが、神様がいろいろ助けてくださることを体験しているからです。だから、もっともっと、豊かな恵みを信じて、求めて行きたいと思っています。特に、今年3年ぶりに行われる日本UBF全国夏修養会を通して豊かに注がれる主の恵みを体験することを信じて期待しています。私たち皆が神様の恵みを求め、豊かな恵みを体験して行きましょう。