2012年ルカの福音書第30講

きょう、救いがこの家に来ました。

御言葉:ルカの福音書19:1−27
要 節:ルカの福音書19:9 “イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。”

クリスマスが近づいてきました。キリスト教ではクリスマスの4週間前の日曜日から24日までの期間をアドベント(待降節)と呼びます。「アドベント」には、「到来」、「接近」、「出現」などの意味があります。このアドベントの期間にクリスマスに向けて本格的に準備を始めます。私たちも先週、幼児洗礼式と聖餐式を行い、心をきよくしてクリスマス礼拝の準備を始めています。今年も心を込めて準備してイエス・キリストのお誕生をお祝いしたいと思います。
今日の本文を見ると、イエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」と言っておられます。そして、自分の家に来られたイエス様を迎え入れたザアカイは変わりました。お金を取り立てる人生から人のために自分の財産を施す者に変えられたのです。そこで、イエス様は救われた者がどのように生きるべきかを教えてくださいました。どうか、心からイエス様を迎え入れることができますように祈ります。今日も神様の救いを経験し、ほんの小さな事にも忠実な者として生きるように祈ります。

1,2節をご覧ください。イエス様は、エリコにはいって、町をお通りになりました。エリコは貿易の中心地であって税金を納めるのに良いところでした。そこに、ザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで、金持ちでした。「ザアカイ」という名前は「純潔、きよい」あるいは「正義、正しい」を意味しています。彼の両親は子どもがきよく、正しく生きることを望んだでしょう。ところが、彼は、どういうわけか、民族の裏切り者、不正にお金を集める者の代名詞である取税人になっていました。しかも、取税人のかしらになっていました。でも、彼の心はきよく正しくいきることへの憧れがあったでしょうか。彼は、町を通られるイエス様がどんな方か見ようとしました。イエス様に対する関心、好奇心があったのです。
今日、多くの人々は学校の歴史の時間でイエス・キリストがキリストのことを聞いています。特に、クリスマスシーズンになると、テレビを通してもイエス様のことを聞いています。ところが、ほとんどの人々はただ、聞いているだけです。イエス様がどんな方か知ろうとしません。しかし、ザアカイは違いました。彼はイエス様がどんな方か見ようとしました。思うだけではありません。
4節をご覧ください。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」とあります。ザアカイはイエス様を見るために走り出ています。積極的に行動していることが分かります。彼がイエス様を見ることができそうな所を探して走り出てみると、一本のいちじく桑の木がありました。背が低い弱点も木登りには長所になりました。素早く登れたのです。すると、どうなりましたか。
5節をご覧ください。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」」とあります。イエス様は上を見上げて木の上にいるザアカイに声をかけてくださいました。『ザアカイ!』と。ザアカイはイエス様がどんな方か見ようとしましたが、実はイエス様がすでに彼の名前も知っておられました。彼が木に登っていることも知っておられました。イエス様は彼の内面も知っておられたでしょう。心からは自分の名前の通りにきよく正しく生きようとしながらも汚い取税人になっている人生の迷い、不安と恐れを知っておられました。そして寂しい、孤独な人生を生きている彼を探しておられました。だからこそ、イエス様は彼の家に泊まることにしてあると言われたのです。イエス様は彼の家にはいり、彼と交わる中で彼を救おうとされました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と書いてある通りです(?ヨハネ4:10)。神様がザアカイのことを知っていて彼のためにイエス様を遣わしてくださったのです。
私たちに対しても同じです。皆さんはイエス様がどんな方を見るために教会に来ました。ザアカイは木登りをしましたが、皆さんは階段をのぼって三階の礼拝堂まで来ました。ところが、神様はこんな私たちのことをすでに知っておられます。私がイエス様を知る前から私を知っておられます。そして、罪深い私を救うためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様は十字架に掛かって死なれ、三日目に復活することによって私たちへの愛を貫いてくださいました。そして、今も私たちのところに来ていてくださいます。黙示録3章20節に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。心の扉を開けてイエス様を迎え入れましょう。では、イエス様に呼ばれたザアカイはどうしましたか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」ザアカイは急いで降りてきました。大喜びでイエス様を迎えました。ほんとうに素晴らしい光景です。ザアカイにとって忘れられない瞬間でした。ザアカイは踊りながら自分の家に案内したことでしょう。ところが、それを見ている人々の反応はどうでしたか。
7節をご覧ください。「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」とあります。彼らはイエス様を非難し、つぶやきました。それはイエス様に対する関心よりも、イエス様が罪人のザアカイのところに行くことに関心がありました。このように、私たちもイエス様に対する関心よりも罪人に関心があるとつぶやきます。教会に来てもイエス様よりも人のことばかり考えるとつぶやくようになります。たとえば、皆さんが罪人の私を見ると、讃美歌もまともに歌えないくせに牧師なのか…、発音もよくないくせに説教なんて…とつぶやくようになるでしょう。私だけではなく、他の人に対してもそうでしょう。しかし、ザアカイはつぶやく彼らの言葉を気にしませんでした。イエス様だけに関心を持ち、イエス様に喜ばれることを考えました。
8節をご覧ください。「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」とあります。彼はイエス様の御前で自分がどうするべきか、自分の決断を告白しています。ほんとうに、素晴らしい光景です。ザアカイは自分の財産の半分も貧しい人たちに施すと決断しました。取税人の先輩レビは自分の財産をどうしたのかを調べたり、彼と比較したりしませんでした。彼は神様の御前でものごとを考えて「だれからでも、だまし取った物は、四倍にして返します。」と言っているのです。大変なことが起こっています。『大変』と言うのは大きく変わると書きますが、その通りにザアカイは大きく変えられたのです。彼は今まで自分中心に生きてきました。当時、イスラエルの国を統治していたローマ帝国のために税を取り立てるという仕事をしていたのです。無理に税金を取り立てる人生でした。ところが、これからは自分の財産を施す人生に変わったのです。しかも、イエス様から言われたからそうしようと言い出したのではありません。自ら進んで人々に施し、与える人に変わったのです。そうです。ほんとうに、イエス様に出会い、イエス様を迎え入れるなら、その人はザアカイのように変わります。価値観が変わります。人に施すことができる幸せな人生に変わるのです。そこで、イエス様は彼に何と言われましたか。
9、10節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼に言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」イエス様はザアカイの告白を聞いて彼の救いを感心しました。そして彼の家に救いを宣言なさいました。そして、アブラハムの子としての名誉と祝福を回復させてくださいました。ザアカイはもはや孤独な人生ではなく、アブラハムの子として生きることができます。隣人と愛し合いながら、仲よく平和に生きられるのです。
12月になり、クリスマスが近づいて来ています。世界中の人々がイエス・キリストのご降誕を祝います。世界中の人たちがなぜ、それほど喜び、祝っているでしょうか。それは、荒野で羊の番をしながら野宿していた羊飼いたちに、天使が語った言葉がその事を伝えています。「「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10b,11)。と。ザアカイはイエス様を迎え入れることによって素晴らしい喜びをいただいたのです。その生き方を変えようとするまでの力も一緒にいただきました。私たちも純粋にイエス様を迎え入れる時に、ザアカイに起こったことを体験することができます。大喜びと救いをいただきます。今年のクリスマスにも、ザアカイのように寂しく孤独に生きている人々がイエス様を受け入れて救われますように祈ります。では救われた人はどのような姿勢で生きるべきでしょうか。
イエス様はたとえを通して救われた人々がどのように生きるべきかという方向を示してくださいました。
11節をご一緒に読んでみましょう。「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」イエス様は人々がザアカイのことに耳を傾けているときに一つのたとえを話されました。
12、13節を読んでみましょう。「それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』とあります。ここで、「身分の高い人、主人」は、イエス様ご自身のことです。主人はひとりひとりに1ミナを与えられました。一ミナは今の日本では約100万円くらいです。主人は「私が帰るまで、これで商売しなさい。」と命じられました。この一ミナに対する解釈がいろいろありますが、福音であると言えます。イエス様は救われた人々が福音で商売することを教えておられるのです。
イエス・キリストによって救われたクリスチャンには皆同じく、平等に与えられている一ミナがあります。イエス・キリストによって救われたという福音です。それはザアカイにも、私たちにも与えられています。イエス様は私たちに「わたしが帰るまでこれで商売しなさい。」と命じておられます。そして、福音には、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力があります(ローマ1:16)。この福音は利己的な取税人のかしらザアカイを隣人に施す人として新しく生まれさせました。ですから、私達がこの福音を預けてくださった神様を信じてよく商売するなら、多くのいのちの実を結ぶことができます。そういうわけで、イエス様はそのしもべたちに言われました。「私が帰るまで、これで商売しなさい」。
14節をご覧ください。「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。」とあります。ここで見ると、商売する環境は良くなかったことが分かります。1ミナを預けた主人を認めず、憎んでいる環境で主人から預かった1ミナで商売することは難しいでしょう。では、決算の時にどうなりましたか。
15節をご覧ください。「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」とあります。主人は人々の反対にも関わらず、身分の高い人は王位を受けて帰って来ました。時になると、イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って再び来られます(マルコ13:26)。その日は人生の決算を求める日です。私たちは自分の行ないに応じて神様の前で人生の決算をしなければなりません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです(ヘブル9:27)。それでは、しもべたちの商売の決算はどうでしたか。
16節をご覧ください。「さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』」最初の者はよく商売して10倍の利益を残しました。商売できない環境の中でも10倍の利益です。彼は人々が主人を憎んでいたにもかかわらず、主人を全く信頼して商売したでしょう。彼に対する主人の評価がどうですか。
17節をご一緒に読んでみましょう。「主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」主人は彼を称賛し、十の町を支配するように言われました。一人が10の町を支配する権威が与えられたのです。英語では10Citiesになっています。東京都の多摩地域には西東京市、八王子市などの26市があります。そのうち10の市を治める「権威」が神様から授与されるのです。それほどその人の影響力が大きくなることでしょう。この教会におられる皆さんで東京都のほとんどの地域までに影響を及ぼすことができます。小さな事に忠実であれば神様からそういう権威が与えられて影響を及ぼすようになるのです。実際にパウロ宣教師はビジネスをしていますが、小さな事に忠実にやって行くと、それが10倍に繁栄します。神様が権威を与えてくださると、都市全体に神の国が来るのを見るのです。
それでは、18、19節をご覧ください。二番目の者が来て言いました。「ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。」主人はこの者にも言いました。「あなたも五つの町を治めなさい。」二番目の者に対して主人は最初の者と比較してもっと多くの利益を残せなかったことをお叱りになりませんでした。そのしもべが最善を尽くして努力したことを認め、賞賛しました。そして、彼の行ないに応じて五つの町を支配する報酬を与えました。しかし、商売しないでいる人はどうなりますか。
20、21節をご覧ください。「ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」とあります。この言葉から見ると、このしもべには主人に対する信頼がありません。主人との信頼関係ができてなかったのです。神様に対する信頼がなければ、何をしても不安と恐れのために人生を投資することができません。結局怠け者になってしまいます。
自分には能力がないからあれもこれもできないと言いますが、恐れているからです。遠慮しているようですが、実は能力のない者として、実力のない者として見られることを恐れていることでしょう。主人はそのしもべに「悪いしもべだ」と叱りました。そして、そばに立っていた者たちに「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。」と言いました。
26節をご覧ください。主人は結論的に言いました。「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。」これがまさに福音の原則です。誰でも、主人から責任を与えられていることを自覚して忠実に働く者は、さらに多くの責任が与えられ、責任を持っていないと思っている者、すなわち、神様からのいのち、福音を軽んじている者は、持っているものまでも取り上げられてしまうのです。

まとめますと、ザアカイのように、私たちはイエス様に出会って救われました。イエス・キリストは今も、私たちひとりひとりを捜しておられます。そして、私たちに出会おうとしているのです。私の名前を知っていて声をかけ、迎え入れられるのを待っているのです。そして迎え入れるなら、主は私たちを今の苦しみ、悩み、病、罪、孤独などから救ってくださいます。そして、自分を救ってくださった福音で商売するように導かれます。どうか、今日も私たちの所に来ておられるイエス様を迎え入れ、忠実に生きることができるように祈ります。