2012年ルカの福音書第10講

よけい愛すること

御言葉:ルカ7:18〜50
要 節:ルカ7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」

先週、私たちはイエス様を驚かせたりっぱな信仰を学び、慰めといのちの御言葉をいただきました。毎週、イエス様のお言葉をいただけることは幸いです。「パンがなければ、力もない」というトルコのことわざがあります。私たちに「いのちのパンである御言葉がなければ、霊的な力もない」とも言えるでしょう。どうか。今日も神様が私たちにお言葉をいただかせてくださるように祈ります。
今日はバプテスマのヨハネのこと、イエス様を招いたパリサイ人の、イエス様をよけい愛した女のことを通して彼らに対するイエス様の評価を学ぶことができます。特によけい愛することについて考えさせていただき、私たちもよけい愛することができるように祈ります。

18節をご覧ください。「さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。」とあります。「これらのこと」とは先週、学んだことです。死にかけていた百人隊長のしもべを癒したこと、死んだ青年を生き返らせたこと、それによって人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われたとか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神様をあがめていたことです。さらにイエス様についてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まったことです。当時、ヨハネは国王ヘロデ自分の兄弟の妻だったヘロデヤを奪い取ったことが悪いと厳しく責めたことで、牢屋に閉じ込められていました。そんなヨハネに弟子たちが来て死者も生き返らせたイエス様のことが報告されたのです。そこで、ヨハネはイエス様のみもとに弟子を送って『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』と聞きました。彼は弟子たちの報告を通してイエス様こそ、おいでになるはずの方、キリストであると確信したようです。そして、キリストなら、正義のために戦った自分を助けてくださるだろうと期待したでしょう。何よりも、あの悪質なヘロデ王を王座から降ろし、キリスト王国を立ててくださると信じていたようです。ところが、イエス様は何と答えられましたか。
22節をご覧ください。「そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」とあります。イエス様はご自分の活動について何も説明なさいませんでした。ただ、ご自分がメシヤとして働いておられることをそのままヨハネに報告するようにおっしゃいました。ではこの報告を聞いたヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。
時代はイエス様の先駆者として働いていたヨハネの時代が終わり、すでにイエス様が働いておられました。このイエス様の働きによってメシヤの先駆者として働いたヨハネの労苦が無駄にならず、今キリストによって実が結ばれていました。でも、ヨハネの弟子から聞く報告寂しいものだったでしょう。メシヤの道を備えるために、正義のために命がけで働いた自分に対しては何も言われず、イエス様がご自分の働きだけを伝えさせたからです。イエス様に対する信仰がなければつまずいてしまうでしょう。そこで、イエス様はこう言われました。
 23節をご覧ください。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」とあります。ヨハネの立場から考えると、つまずきやすい状況です。正義のために戦ったのに何も報われず、むしろ牢屋に閉じ込められてしまいました。メシヤとして信じているイエス様は何も助けてくれませんでした。むしろ、自分が悔い改めさせた民を通して多くの実を結んでいました。こうなると、本当につまずきやすいでしょう。それはヨハネだけではありません。イエス様が「だれでも」と言われたように、誰でもつまずく可能性があります。
たとえば、ある宣教師が何年間も御言葉の種を蒔き、日本の宣教のために働いたのに、何も実を結ぶことができませんでした。むしろ、自分は牢屋に閉じ込められていないけれども、現実的に良くなっていることが感じられません。一方、自分より遅く始めた宣教師は多くの実を結んでいるのです。すると、つまずきやすいでしょう。それで、日本に遣わされた宣教師たちの中で数多い方たちがつまずいてしまいました。日本は「宣教師の墓」とも言われるほどです。しかし、今もイエス様は言われます。「誰でも、わたしにつまずかない者は幸いです。」本当にそうです。神様のみわざは神様がなさいます。今日も神様は聖霊の働きを通して日本と全世界に福音のみわざを広げておられます。私たちは自分の事が正しく評価されていないと思われる時に、つまずきやすいですが、つまずくようになると、実は何もかも失ってしまいます。私たちは自分の信仰生活が評価されなくてもつまずくことなく信仰の中心を守る時、幸いな者になります。神様はそういう人に永遠のいのちを与えられ、神様の救いのみわざに貴く用いてくださいます。ではヨハネに対するイエス様の本当の評価はどうでしたか。
24-26節を読んでみましょう。「ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」イエス様はヨハネが歴史的にどんなに偉大な人であるか、を称賛してくださいました。ヨハネはどの預言者よりもすぐれた預言者です。どのような点でそうでしょうか。
27節をご覧ください。「その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」この御言葉からヨハネの偉大さは、彼が担った使命にあることが分かります。ヨハネはメシヤの先駆者としてメシヤの道を忠実に備えました。彼が荒野にいても数多くの人々が集まって来るほどに人気が上がった時にも、自分を誇らないで謙虚にイエス様を証ししました。彼は名もなく、誉れもなく、ただ、自分に与えられた役割を忠実に果たしていたのです。イエス様はそのような彼を女から生まれた者の中で一番すぐれていると誉められました。ところが、イエス様は「神の国で一番小さい者でも、ヨハネよりすぐれています」とも言われました。それはイエス様を信じることで神の国の民となる新約のクリスチャンたち、イエス様の血によって贖われた人々はヨハネよりも偉大だということです。これは不思議な言葉です。ヨハネもイエス様の血で贖われるはずからです。ただ、その時はまだ、ヨハネは旧約の羊の血による贖いの中にいるから、完全な贖いを受けてはいないという意味なのでしょう。神の国では一番小さい者でもイエス様の十字架の血による恵みのゆえにヨハネよりすぐれた者になるのです。
 29節をご覧ください。すべての民は、収税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けたので、神様の正しいことを認めました。彼らはヨハネが悔い改めのメッセージを伝える時、自分たちの罪を告白して罪の赦しを受けました。それで、彼らはイエス様の御言葉を心から認め、受け入れました。しかし、パリサイ人、律法の専門家たちは意図的にヨハネのバプテスマを受けませんでした。彼らはヨハネも拒み、ヨハネが証ししたキリストも拒みました。イエス様はたとえを通して彼らのかたくなさを指摘なさいました。
31‐32節をご覧ください。「では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。」とあります。
当時、市場では子どもたちが結婚式ごっこやお葬式ごっこをしていました。それで、二組に分けてやりましたが、一つの組が笛を吹いてやると、他の組は踊るべきでした。また、弔いの歌を歌ってやると泣かなければなりませんでした。それがよく守れなかった時は互いに「お前のせいだ。」と言いながら喧嘩し、遊びが喧嘩で終わってしまいました。当時の人々もまるで規則を破った子どもたちのように何を見ても人のせいにし、否定的、批判的でした。バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』と非難しました。イエス様が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と非難していたのです。それをイエス様は叱られました。否定的、批判的な生き方をしている人々は彼ら自身も批判されるでしょうが、まず自分自身の心に喜びも平安もなくなってしまうでしょう。ヨハネのことも、イエス様のことも、パリサイ人のことも、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。ここで、すべての子どもたちとは、神様の御業、実を指しています。つまり、私たちの行動は人々の厳しい批判によって評価されるのではなく、私たちの行動の結果結ばれるその実によって評価されるのです。
36節をご覧ください。「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。」とあります。あるパリサイ人が誰かは知りませんが、イエス様を招いたこと素晴らしいと思います。イエス様は彼の招きに応じられました。イエス様は彼も愛しておられたからです。「ただ、自分の敵を愛しなさい。」と教えられたイエス様は、そのとおりにご自分に敵対しているパリサイ人もを愛しておられたことが分かります。 
37,38節をご一緒に読んでみます。「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。」
罪深い女と呼ばれている人が人の家に訪ねること、しかもパリサイ人の家を訪問することはほとんどなかったでしょう。それなのに彼女がパリサイ人の家におられるイエス様の身元に来たことは大変な決断があったと思われます。彼女は勇気を出してパリサイ人の家に入り、まっすぐに主イエスのところに行きました。そして、イエス様の御足許に行くと、跪いて泣き始めました。そして、泣きながら、その涙で濡れた主イエスの御足を、自分の長い髪の毛でぬぐい、口づけをして、持ってきた香油を塗りました。それを見ていた、パリサイ人シモンは、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」(39)と、心ひそかに思いました。その心の中の思いを、イエス様は、ご存知でした。神の御子であるイエス・キリストは、私たちの心の中で考えていることさえも、全てご存知なのです。その時、主イエスは、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われました。心の中で、主イエスを批判していたパリサイ人シモンは、ドキッとしたことだと思います。しかし、取り繕って、「先生。お話しください。」と答えました。そこで、イエス様はお話しなさいました。
41、42節をご覧ください。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」とあります。それに対して、シモンは、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えました。すると、イエス様は、「あなたの判断は当たっています。」と言われました。そして、その女のほうを向いて、シモンに言われました。
44−47節をご覧ください。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして、その女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われました。
ここで、私たちはパリサイ人の考え方とこの女の考え方の違いを発見することができます。この女は、自分の罪をしっかりと自覚していました。ですから、主イエスの御足許にひれ伏して、涙を流し、その涙を自分の髪の毛で拭い、口づけして、香油を塗ったのです。この愛は熱く、情熱的なものです。周りの人々を意識せずに愛を表現している若者たちを見ると「燃えているね」と言います。それを聖なる愛に比べるのは良くないかも知れませんが、本当によけい愛していることが分かるほどの表現です。ある程度愛することではないのです。彼女は実に熱くイエス様を愛しました。情熱的に愛しました。献身的に、犠牲的に愛しました。心を尽くし、体を尽くし、力を尽くして情熱的に愛したのです。よけいにしたと言われるほどイエス様を愛したのです。イエス様はこういう愛を喜ばれます。イエス様は私たちの信仰もこの女性のように熱くなることを願っておられます。私たちもイエス様を情熱的に愛することができるように祈ります。周りからイエス様をよけい愛していると言われるほど熱く愛することができるように祈ります。
ではよけい愛した彼女の行動に対するパリサイ人シモンの考えはどうでしたか。自分は、律法をしっかりと守っており、その女のような罪人ではないと考えていました。彼はイエス様を自分の家に呼んだものの、イエス様に対する礼儀はありませんでした。自分のしもべたちにイエス様の足を洗うように命じることもせず、対等の立場で、食事を共にしていました。イエス様への感謝も礼儀もなく、ただ、何でもかんでも否定的・批判的に考えていたのです。
皆さんは、いかがでしょうか。「自分は、赦されるべき罪人である」と思っておられるでしょうか。それとも、私は、人様から後ろ指を指されるようなことは何もしていません。むしろ、人たちからは、良い人だと言われるし、私に罪があるとは到底思えない。と思われているでしょうか。もし、そうであれば、あなたは、このパリサイ人シモンと同じように、イエス・キリストは必要ありません。
私は、時々、人に言えないような、本当に自分がいやになるような汚い、醜いことを考えてしまいます。また、ひどいことを言ってしまいます。学校で生徒や教師「えー、先生は牧師なのにそんなことを言いますか。」と言われる時もあります。そんな時、本当に自分が嫌になります。でも、私は、教会に来ると、表面上は取り繕っているので、皆さんは、私の心の中を知らないでしょう。私のことを良い人だと思ってくださっている人もいるでしょう。でも、皆さんは、私の心のなかまで、読むことは出来ません。しかし、神の御子であられる主イエスは、私の心の中までも、全てご存知なのです。ですから、私は、時々祈る時に、自分の罪が思い浮かび、悔い改めながら泣きます。涙が多いと言われる時もありますが、罪が多いからです。パリサイ人シモンの家で、食事を一緒にしていた人たちは、口には出さずに、心の中で、「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」(49)と、思い始めました。すると、イエス様は何と言われましたか。
最後に50節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」彼女はイエス様をよけい愛していたので非常識的な行動をしました。人の家にはいり、泣きながら、その涙で濡れた主イエスの御足を、自分の長い髪の毛でぬぐい、口づけをして、持ってきた香油を塗ったのです。これは確かに常識的な行動とは言えないでしょう。でも、イエス様は彼女がよけい愛してくれたと評価してくださいました。彼女の愛の表現は真実で素晴らしかったのです。しかし、そのような行ないによって救われるのはありません。また、誰も洗ってくれなかったイエス様の御足を洗い、香油を塗ったから赦されたのではありません。彼女の信仰が彼女を救ったのです。
私たちも同じです。行ないや品性、業績や言葉によって救われるのではありません。ただ、イエス様を信じる信仰によってのみ救われます。私たちの罪は、全く罪のない、聖なる神の御子であられるイエス・キリストが、あの十字架の上で流された血潮によって赦されました。聖書によれば、イエス・キリストを信じる以外に救いの道は、私たち人類に与えられていません。私たち人類の救いの道は、イエス・キリストにしかないのです。これは、神様の一方的な愛である、恵みによるものです。いくら教会に通い、献金して、一生懸命に奉仕しても、救われません。イエス・キリストを信じて、従っていこうとする、その信仰によって、私たちは、救われるのです。そして、その救いには、大きな喜びが伴います。自分の罪が全て赦され、神の家族とされ、永遠のいのちが与えられたという喜びです。イエス様は言われました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」