2010年箴言第6講 

正しい者に対する主の御心

御言葉:箴言  15-16章
要 節:箴言15:8「悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。」

 先週、私たちは「正しい者の天幕は栄える」ということについて学びました。先々週は「正しい者の結ぶ実」について学びました。そして今日は「正しい者に対する主の御心」です。タイトルだけを考えると「正しい者」のシリーズを学んでいるようですね。私としては不思議な神様の導きを感じます。なぜなら、メッセージのタイトルがパウロチームの基礎勉強を通してつけられているからです。しかも、先々週と先週のタイトルは、私が韓国にいる間につけられたものです。ここには何か神様の御旨があるのではないでしょうか。それで、私は考えて見ましたが、神様は私たちが常に「正しい者」である認識を持っていてほしいと願っておられると思われました。クリスチャンは信仰によって義と認められた人たちです。イエス・キリストが十字架上で流された血の代価によって正しい者になっているのです。ですから、私たちは自分に対して「罪深い人だ、もうダメな人間だ。しようがない人間だ。」と否定的に考えてはなりません。もし、私たちが過って罪を犯したとしてもすぐにキリストの十字架による贖いを信じて悔い改め、義と認められた正しい者らしく生きることです。自分自身に対して肯定的に考え、神様の子どもとして、正しい者としてのアイデンティティを持って生きるのです。しかし、高慢になってはいけません。常に謙遜になって神様を恐れ、人々に仕える者として生きなければなりません。
そこで、神様は箴言の御言葉を通して私たちに正しい者の生き方を教えておられます。特に、今日学ぶ御言葉を通して正しい者に対する主の御心を教えておられます。それを三つにわけで考えてみたいと思います。具体的に皆さんと共にことば、家庭を幸せにすること、すべての事を神様の摂理に委ねることについて学びたいと思います。

 一つ目に、主は私たちに正しい者らしい正しい言葉遣いをすることを願っておられます(15:1?15)。
箴言には「ことば(口、くちびる、舌)」について多く語られています。今日は15、16章にある本文だけを紹介しています。まず15章を見ると、1,2節に「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。」とあります。4節は「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。」7節は「知恵のある者のくちびるは知識を広める。愚かな者の心はそうではない。28節は「正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。」とあります。そして16章23節に「知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。」とあります。これらの御言葉から私たちは正しい言葉遣いをしなければならないことを学ぶことが出来ます。神様は私たちが柔らかな言葉、偽りのない言葉、知恵のある言葉、穏やかな言葉を使うことを願っておられます。優しい一言が心の傷を癒し、死に掛っている人を生き返らせることも出来ますが、愚かな一言で人に傷つけ、自殺に追い込ませる場合もあります。こういう詩を読んだことがあります。
「不注意な言葉一言が/喧嘩の火種となり。残酷な言葉一言が/人生を破壊させる。呪いと苦い言葉一言が/憎しみの種を蒔き、無礼な言葉一言が愛の火を消す。恵みの言葉一言が/でこぼこ道を平らにし、楽しい言葉一言が/一日を輝かせる。時に適した一言が緊張を解かせ、愛の言葉一言が祝福をもたらす。」と言う詩です。「なるほど」と思われました。言葉の大切さをよく説明してくれる文であると思います。実際に言葉には力があります。神様の御言葉には創造の力がありました。神様の形に造られた人間の言葉にも力があります。若い青年たちはいろんな人と出会って交わりをします。付き合い、婚活もします。その中で関心を示したり、好きになったりますが、愛の告白を受けると、どうなりますか。人が変りますね。その言葉は愛の種とり、心に落ちて芽生え、成長して生きます。結婚して生涯を通して愛し合う関係になります。しかし、激しいことばは怒りを引き起こし、人間関係を破壊します。そういう時には、憤りを静め、関係を回復させる柔らかなことばで癒さしてあげなければなりません。
例えば、夫婦の間に激しい言葉で怒りを引き起こしたなら、互いに柔らかなことばで赦し合い、再び愛を告白する時を持たなければなりません。この時を上手に生かして行けばもっと良い夫婦関係が形成されます。しかし、赦さなかったら、赦されなかったりするなら、なかなか消えない憤り、憎しみのために、後ではますます大きな喧嘩になっていきます。
根本的に、アダム、カインの子孫であるすべての人には妬み、嫉妬、憤り、不安などがあります。また、子どもの時、成長期に受けた傷が癒されていないために現われる場合もあります。それで、イエス様は私たちの代わりに妬まれ、憤られ、ののしられました。ついに十字架にかかって呪いと刑罰を受けられました。そして、私たちに愛と赦しの言葉によって私たちを呪いから救われました。ですから、私たちクリスチャンは、イエス様の愛と赦しを信じてイエス様のように赦し、愛する生活をしなければなりません。特にイエス様のような言葉遣いをしなければなりません。
使徒ペテロはこう言いました。「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱を持って侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(?ペテロ3:8、9)」一般的には悪に悪を報いるでしょう。侮辱には侮辱を報いるのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストによって赦されて正しい者となったた私たちは悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならないのです。私たちは祝福を与えるために、神様に召されているからです。イエス様も弟子たちが人の家にはいる時には、平安を祈るあいさつをするように言われました(マタイ10:12)。これが隣人を愛することであり、私たちが祝福される道です。祝福すると、そのとおりに祝福されます。創世記49章にヤコブが子どもたちのために祝福する祈りの言葉が記されてあります。子どもたちはその祝福の言葉どおりになりました。私たちも祝福の言葉で祈りをしましょう。私たちの祈りは主に喜ばれます。8節をご覧ください。「悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。」とあります。29節にも「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる」とあります。祈りを主が聞いてくださる、という約束は偉大です。
ある子どもはとても神経質的であり、反抗的になって親を苦しめていたそうです。それで、親は怒ったり、叩いたり、甘い言葉で説得したりしましたが、あまり効果がありませんでした。そこで、祝福してあげようと思い、子どもが寝る前に祈ったそうです。「神様!私たちの子どもに明るくて活発な性格をくださり感謝します。世の中で神経質的にならざるを得ないことが多くあるでしょうが、信仰によって乗り越え、いつも楽しい日に作り変えて行くようにしてください。」と。そして、「あなたは幼い時からいつも家族を喜ばせてくれた。神様がとても素敵な子どもをくださったのでパパと母はほんとうに感謝していたんだ。あなたは男らしく強くなって大きな心で人々を理解して仕える偉大な人になると思うよ。」言いました。このように祈り、時には素晴らしい性格の人だと言いながら祝福しました。すると、ほんとうに変えられて行ったそうです。ヤコブもヤコブと呼ばれている時は人を騙し、騙し取る人でしたが、イスラエルと呼ばれる時は成熟した人に変えられました。このように祝福の言葉、祝福の祈りに力があるのです。私たちの体は食物を食べて成長しますが、心とたましいは言葉を食べて成長します。正しく優しい言葉を食べると、正しく優しい人になるでしょう。素晴らしい言葉を食べると、素晴らしい人になります。そこで、栄養剤になる言葉を紹介します。「あなたの顔を見ていると、私は幸せになるよ。」「今日も、神様が助け、導いてくださるよ。あなたに大きな祝福があるよ。」「あなたを愛している。」。ちなみに、もう一つ紹介しますと、女性は愛されること、男性は認められることを望んでいるそうです。私たちが柔らかな言葉で祝福し、祝福の祈りをする生活が出来るように祈ります。
二つ目に、主は私たちが家庭を幸せにすることを願っておられます(15:16?33)。15章16節をご覧ください。「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる」とあります。大多数の人々は家庭の幸せが多くの物を持つこと、財産が多くになることだと思っています。所有が幸せと比例すると思っているのです。もちろん、お金が多くあれば便利な生活が出来るでしょう。高くてもおいしい和牛の牛肉をたくさん食べることもできます。しかし、それが家庭を幸せにすることが出来るでしょうか。幸せは作られた品物でもなく、遺産でもなく、賜物でもありません。特に運命的に与えられているものではありません。幸せな家庭は築き上げていくものです。そして一人一人が主を恐れ敬う生活をするなら、その人は幸せになり、そういう人たちによって形成される家庭に幸せがあります。主を恐れる人は主の戒めを守って愛し合うようになります。17節をご覧ください。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」とあります。
アフリカの聖者と呼ばれるアルベルト・シュバイツァーは「何が最大の異端なのか?」ということに対して最大の異端は教義上の異端ではなく、最も大切な戒めである愛を実践しないことが最大の異端である」と言いました。肥えた牛を食べている人をうらやむ必要はありません。野菜だけ食べてもまず自分の家族を愛するべきです。たとえ、両親が無学な人であっても私の父、私の母であることに感謝するべきです。顔が大きくてハンサムではなくても私の夫です。勉強がよくできてもできなくても私の子どもは子どもとして愛するのです。夫だから尊敬し、妻だから愛します。給料が少なくても、帰りが遅くても私の夫ですし、たとえ、顔がきれいではなくても私の妻です。私が病気にかかったり、困っている時に、だれよりも心を痛めてくれるのは家族です。また、信仰の家族です。私の父が亡くなった日に一番最初に私を慰めてくれたのは、東京UBFの宣教師たちでした。家に来てくださったり、慰めのことばをかけてくれました。この間、私が韓国に行った時、車で300キロも走ってきて迎えてくれたのは弟でした。帰りに送ってくれたのも弟でした。研修が終わったら、私の牧者が迎えて来てくれたし、1:1羊だった牧者は職場で早退して光州から大田まで迎えて来てくれました。肉親の家族も、信仰の家族も愛し合うとすばらしいです。ほんとうに、幸せを感じます。私たちはまず家族を愛し、信仰の家族を愛することから愛を実践しなければなりません。神様は私たちがまず第一に主を恐れることを望んでおられますが、次に家族が愛し合い、幸せに生きることを望んでおられます。私たちの教会が幸せな家庭を作り上げ、聖徒たち同士も家族のように深く愛し合うことができるように祈ります。では、愛することはどうすることでしょうか。
 第一に、心を与えることです。士師記16章を見るとデリラはサムソンに言いました。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。」と。また、?サムエル18章1節を見るとヨナタンの心はダビデの心に結びついた。」とあります。心が離れているなら、愛すると言えないのです。愛するというのは心と心が結びついていることなのです。
第二に、労苦を惜しまないことです。創世記29章20節を見ると「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」とあります。愛する人のためになら、七年間苦労してもほんの数日のように思われるのです。
第三に、いのちまでも捨てることです。イエス様は「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われました。ほんとうに愛するいのちまでも捨てることができるでしょう。私たちが神様を恐れ敬い、家族、信仰の家族から愛し合ってますます幸せな家庭、幸せな教会を作り上げて行くことができるように祈ります。
 三つ目に、主は私たちがすべてのことを神様の摂理に委ねることを願っておられます(16:1?33)。
16章1節をご覧ください。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」とあります。3節には「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」そして9節をご一緒に読んでみましょう。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」とあります。これらの御言葉は人々の人生が神様の主権的な摂理の中にあることを強調しています。
詩篇127章1,2節を開いて見てください。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」とあります。つまり、人々はこの世の生活の中でさまざまな計画を立て、それらのために努力しますが、それはむなしいです。結局それらを実現させる方は神様であられるからです。ここで、私たちは何事も神様に委ねなければならないことを学びます。事実、人が何をしても、自分の計画のとおりになるとは言えません。先週、記録的な大雪のためにアメリカ連邦政府は四日休業になりました。政治の町、ワシントンは街全体が休日のようになったそうです。人の計画通りにならないことが数えきれないのです。
それでは、私たちは何の計画も建てる必要がなく、私たちがもっと豊かになるために努力する必要もないでしょうか。全くそうではありません。私たちは何事もでも神様がやってくれると思って何の準備もせず、何の計画も立てなくてもよいということではありません。私たちは緻密に計画を建て、準備しなければなりません。実を結ぶため、結果をもたらすために実行して行かなければなりません。良い結果がもたらされなければ、「自分の用意が足りなかった。ここが原因であった。」と反省する必要もあるでしょう。それを自分の責任だと思い込み、ストレスを溜めてはなりません。ストレスを溜めるのは、「物事はすべて人間の行為の結果である」という誤った考えがあります。そうではありません。もちろん、私たちはよく考える責任があります。しかし、大切なのは、自分の力ですべてができたと思ってはいけないということです。神様が助けてくださらなければ私たちは失敗するしかないということを知り、神様のことを期待しながら、神様に祈りながらすべての事を計画し、実行して行くのです。
そのためには、御言葉に心を留めることです。20、21節をご覧ください。「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。心に知恵のある者は悟りのある者ととなえられ、その快いことばは理解を増し加える。」とあります。私たちは自分を引き上げるために、自分よりも力のある人のところに行きます。しかし、知恵ある人は神様に委ね、神様に従います。モーセはパロの王子としてエジプトの王者なれる人でした。しかし、彼は、奴隷であるイスラエル人たちとともに、荒野の旅を始めました。ヘブル11章にこう書いてあります。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。(24-25節)」
 彼はみことばに心を留めること、主により頼む生活をしたのです。使徒の働き1章で、イスカリオテのユダに代わる使徒を選ぶとき、祈ってからくじを投げました。けれども結果は主が与えられました。そうです。私たちは祈り、いろいろ行いますが、その結果は神様から来るのです。従って私たちは霊的に勤勉になると同時に、根本的なところでは主に委ねて生きるのです。霊的には積極的でなければいけませんが結果は主にゆだねていくのです。

以上で、私たちに願っておられる神様の御心を学びました。私たちが正しい者らしい言葉遣いをし、幸せな家庭を築き上げるために励みましょう。何よりも、すべてのことにおいて神様の主権を信じて神様に委ね、神様の御言葉に心を留めて生きるように祈ります。そうすると、正しい者の家には多くの富があり、楽しみがあるようになります。神様の栄光に輝くようになります。幸せな家庭、幸せな教会生活、神様に喜ばれる生活ができます。