2010年箴言第10講 

友の慰めはたましいを力づける

御言葉:箴言25-27章
要 節:箴言 27:9 「香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。」

 先週、私たちは力強い贖い主に関して学びました。私は次の日、日ごとの糧の御言葉を通して聖霊の導きい感動しました。力強い贖い主についてもっと確実に学び、悟ることが出来たからです。ヘブル人への手紙に書いてあるとおりに、イエス・キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られました。そして、ご自分の血を携え、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通られました。また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。ですから、今もキリストの血は、私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神様に仕える者にしてくださいます。力強い贖い主イエス・キリストが旧約時代大祭司とは違った、さらに偉大な、さらに完全な贖い、永遠の贖いを成し遂げてくださったことを心から感謝します。
今日は25章から27章までを学びます。ここで私たちは隣人との関わりについて、愚かな者への教訓について、良い友たちに関して学ぶことが出来ます。どうか、聖霊が今日の箴言を私たちに教え、悟りを与えてくださるように祈ります。

 では25章1節をご覧ください。「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。」とあります。この25章から29章までの箴言はソロモン王の死後約250年頃、ヒゼキヤ王の時に編集されたものです。ヒゼキヤは国の改革を断行した王でした。アッシリヤの大軍に包囲された時は、主の宮の前で衣を裂き、主に救いを願い求めた祈りの人でした。そのヒゼキヤが知恵を得るためにソロモンの箴言をまとめさせました。ではどのように生きることが知恵ある者の生き方でしょうか。
一つ目は、私を探り、知っておられる主の御前で謙遜に生きることです。
2,3節をご覧ください。「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。」とあります。「事を隠すのは神の誉れ。」というのは神様のご品性、属性、その働きが私たちには測り知れないということです。私たちはすべてのことを知ることは出来ません。神様は隠しておられるからです。ただし、「事を探るのは王の誉れ」とあるように、王は神様が隠しておられる事がらを悟る力が与えられています。事実、ダビデ王も、ソロモン王も、ヒゼキヤ王も神様に隠されている知恵と知識を探し求めて悟りを得ました。神様に隠れている事がらのすべてを知ることは出来ませんでしたが、それを探し求める祈りによって悟りを得ました。その知恵によって王の役割を立派に果たすことが出来たのです。ところが、新約時代に生きている私たちは王である祭司です。力強い贖い主イエス・キリストによって永遠に贖われている私たちの身分は王なのです。従って私たちには旧約時代の王と同じように、神様が隠しておられる事を探る特権が与えられています。私たちには、御霊に属する事がらを探し求めることによってそれを悟る力が与えられているのです。ですから、私たちが神様に祈り求めるなら、何が正しいか、何が神様の御心なのかを悟ることが出来ます。神様は聖霊によってご自分の御心を私たちに啓示してくださいます。圧倒的な勝利者として生きる知恵を与えてくださいます。ただ、私たちには聖霊が注がれる器として自分をきよく保つことが求められます。
 4,5節をご覧ください。「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる。」とあります。私たちのうちにあるかなかすを除けなければなりません。銀は貴金属です。その銀の中にかなかすがついているなら貴金属の価値がなくなるはずです。高貴な人たちはそんな銀を使わないでしょう。同様に、私たちにかなかすがあるなら、王である祭司としての価値がなくなってしまいます。神様がきよいお方ですから、私たちもきよくなければなりません。ところが、世の中にだれが自分は全くきよいと言えるでしょうか。人々の間でほんとうに敬虔に生きているように見えても義人はいません。一人もいません。?ヨハネ1:8節を見ると「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」とあります。ですから、私たちは自分の中にあるかなかすのような罪を認め、それを除かなければなりません。神様は私たちにご自分の知恵と知識を悟らせること、私たちを貴い器として用いることを望んでおられます。しかし、私たちが除くべきかなかすを除かなければ神様の御心を知ることも、神様に用いられることも出来ません。
 私たちが日々悔い改める生活を通して自分にあるかなかすのような罪を取り除く時にきよい器として用いられるようになります。詩篇139:1,2節を見ると「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられます。私の思いを遠くから読み取られます。」とあります。私たちは私たちを探り、私たちを知っておられる神様の御前できよい器になっていなければ、神様に用いられません。隣人との関係においてもかなかすを取り除かなければ良い関係を結ぶことが出来ません。心の中にある憎しみ、嫉妬心、競争心、高慢などのかなかすを除けば人間関係も良くなります。どうか、日々私たちが銀からかなかすを除くように自分の中にある汚れと罪を取り除いて神様にも、高貴な人にも貴く用いられるように祈ります。
その生活のためにはどんな心構えが求められるでしょうか。それは謙遜です。謙虚な人の心に聖霊が臨まれます。その人には人々が集まって来ます。高ぶっている人には聖霊も、人も近づこうとしません。6節を見ると「王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。」とあります。高慢な人は偉そうになって横柄ぶっています。自分を過大宣伝します。自分の主張ばかり強調します。敬虔な生活を見せかけて偽善者になっています。パスカルはそういう人が宗教人の中に多く、特に信仰生活が長い人たちにもっと多くいると言いました。それは信仰的な高慢のためであると言いました。パリサイ人的な根性のためであるとも言いました。
 私たちはよく考えてみると、神様の御前に誇れるものは何もありません。ところが、神様のあわれみ、神様の祝福によって少しでも豊かになると高慢になります。貧困な時よりも生活に余裕が出来た時に高慢になります。無知な時よりも知識が増えた時に高慢になりがちです。ある人は自分がきれいだと高ぶります。高い飾り物や高い服を誇る人もいます。何もなく、困窮している時は神様に切実に祈っていた人でも少し生活が楽になると祈ることを忘れてしまう場合もあります。私たちの信仰の競走はまだ終わっていません。まだ走りつづけなければならないし、私たちの走る道に何があるか、どんな事が起こるかはだれも分かりません。ですから、私たちはいつもへりくだっていなければなりません。箴言3:34節に「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」とあります。私たちがほんとうにへりくだっていると神様が恵みを授けてくださいます。職場生活の中でもへりくだっていると、恵みを受けます。ではへりくだっていることはどういうことでしょうか。
 7-10節をご覧ください。「高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい。」と言われるほうがよいからだ。あなたがその目で見たことを、軽々しく訴えて出るな。そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。 あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる。」とあります。ここで具体的な謙遜を学ぶことが出来ます。まず、自分の身分や職位が高いと思われても最初から上席に座るよりは末席に座ることです。そうすれば、「ここに上って来なさい。」と言われるようになります。また、「目で見たことを軽々しく訴えて出るな」ていることです。人々はよくも人の咎と過ちを言います。でも、自分の目で見たからといって人のことを軽々しくて言うことは高慢です。人は争っても他人の秘密を漏らしてはなりません。特に夫婦の間では過去のことで恥ずかしい思いをさせてはいけません。そうでないと、自分も恥ずかしい思いをさせられ、いつかは自分の秘密も漏らされて侮辱を受けるでしょう。それで、二人の間に争いが止まらなくなります。へりくだっている人はどんなに無視されたとしてもそれを持って仕返しをしたり、目で見たことでも軽々しく言いません。時宜にかなって語ります。その言葉は美しいもものです。
 11、12節をご覧ください。「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。 知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。」とあります。一言でも銀の彫り物にはめられた金のりんごのような言葉を語ることが出来るなら、何と素晴らしいことでしょうか。そのように語れるなら、たとえそれは叱責であっても、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようですね。私たち皆が時宜にかなって金のりんごのような言葉を語る人になりますように祈ります。
また、へりくだっていることは忍耐することです。軽々しく訴えるのではなく、時宜にかなって語るためにも忍耐がなければなりません。15節をご覧ください。「忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。」とあります。思いのまま、感情的に説くのではなく、へりくだって忍耐強く説く言葉に力があります。忍耐強く説けば、首領も納得します。この忍耐は私たちの信仰生活において、とても大切な徳目であります。祈りにも忍耐がなければなりません。最後まで忍耐強く祈りつづけるなら答えられます。日頃の言葉遣いにも忍耐がとても大切なのです。
このように、いつもへりくだっているためには話をする時に軽々しく語らず、忍耐強く、柔らかな舌で語る必要があります。行ないにおいても善を持って悪に勝つまで忍耐する必要があります。
21、22節をご覧ください。「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。」とあります。自分を憎む者に善をほどこすことは難しいことです。私を愛する人を愛し、私を助けてくれる人を助けることは難しくありませんが、自分に恥ずかしい思いをさせた人を愛すること、さらに、自分を憎む人を愛することは何と難しいことでしょうか。ところが、神様は私たちが敵をも愛するように命じておられます。どうやってそれが出来るでしょうか。それはイエス様を仰ぎ見る時に可能になります。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6-8)」イエス様は私たちがまだ罪人であったとき、神様の敵であった時に私たちを贖うために十字架にかかって死んでくださったのです。そして、イエス様は十字架上でこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
私たちがこのイエス・キリストを仰ぎ見るとき、善を持って悪に勝つことが出来るのです。サムエル記を見ると、ダビデにとってサウルは敵でした。サウルはダビデを憎み、ダビデを殺そうとしました。ダビデはサウルに善を施しましたが、サウルはダビデに対する憎しみと殺意に燃えていたのです。そんなサウルがペリシテ人との戦争の時に殺されました。ヤベシュ・ギルアデの住民がその死体をヤベシュに運んで焼いてから葬りました。それがダビデに知られました。その時、普通の人ならどうしたでしょうか。皆さんならどうするでしょうか。私なら、「サウルが殺されるのは当たり前だ、それは神様のさばきだ、そんなやつを葬ってあげた人たちは何者か。彼らも殺されるべきだ」と言ったのではないでしょうか。ダビデは10年間もサウルの燃える憎しみに苦しめられ、死ぬほどの苦しみを経験してきたからです。ところが、ダビデは、自分を憎む者、彼に協力した者たちを祝福しました。?サムエル2:5節を見ると「ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使いを送り、彼らに言った。「あなたがたの主君サウルに、このような真実を尽くして、彼を葬ったあなたがたに、主の祝福があるように。」何と素晴らしいことでしょうか。どうやってそれが出来たでしょうか。ダビデは詩篇109篇で告白しています。「彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌をもって、私に語ったからです。彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私と戦いました。彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです。」とあります。愛し続けてもそれを分かってくれるか、かえってなじる時にどうすれば良いでしょうか。ダビデはただ祈るばかりでした。このような心が神様を喜ばせ、人々が尊敬するようにしました。
どうか、私たちも愛しても、愛し続けてもそれを分かってくれるところが、なじられるようなことがあってもへりくだって愛し続けることが出来るように祈ります。
知恵ある生き方の二つ目は怠け者に対する教訓を知ることです。聖書は人が怠けることを悪いと言っています。マタイ25:26節を見ると「悪い怠け者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。」とあります。怠けていると罪を犯しやすくなります。あの偉大な王であるダビデも怠けている時に罪を犯しました。エペソ4:28節によると、自分の手をもって正しい仕事をし、骨折って働かなければ、盗みをするようになることが警告されてあります。では怠け者の特徴は何ですか。
26:13-16節をご覧ください。「なまけ者は「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる。」と言う。戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる。なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう。なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。 」とあります。私も過去ものすごく怠け者だったし、今もそういう習慣が残っているのでよく分かりますが、ここには怠け者の特徴がよく描写されています。
第一に言い訳がおおいです。働きたくないと言うのではなく、道に獅子がいるから、外に出かけることが出来ないと言うのです。だから仕事が出来ないということです。勝利した人、成功した人たちに言い訳がありません。しかし、敗北した人、失敗した人にはいいわけが多く、何事も否定的である場合がおおいです。人のせいにし、環境のせいにします。戸がちょうつがいで回転するように、怠け者は寝台の上で転がりながらも言い訳があります。私も、子どもの時によく言い訳を言いました。勉強すると言っても寝台の上で転がりながら眠ってしまう時が多くありました。そこで、隣の小父は「お前もう寝ているの?」と言いました。すると、私は「まだ寝ていません。目を閉じているだけです。」と言いました。「買い物に行ってきなさい。」と言われると「今日は宿題がおおすぎます。」と答えてから寝てしまったりもしました。これらのことは怠け者の生活の中で一部分に過ぎませんが、怠け者はいつも否定的に言いますが、出来れば骨折る仕事を避けようとします。それで、否定的な人、消極的な人、怠け者たちがいると何もできません。家庭でもそういう人たちだけがいるなら何事もうまく出来ないでしょう。共同体にもそういう思想を持っている人たちがいるとなかなか主のみわざに献身することが出来ません。
怠け者はそれほど怠けていて、自分が賢いと思います。なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思うのです。そういう怠け者にだまされてはいけません。彼らは合理的に、賢く、楽に生きているようですが、実は悪を行なっているのです。イエス様が言われたように悪いしもべです。使徒パウロはだれよりも賢い人でした。でも彼は「すでに得たのだ」と思いませんでした。そして、彼は言いました。「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締りのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(?テサロニケ3:10-12)」
どうか、私たちが怠けているなら、その生活を悔い改め、勤勉に、静かに仕事をするクリスチャンとして生きるように祈ります。
賢い生き方の三つ目は良い友たちを持つことです。ではどんな人は良い友達でしょうか。
第一に、慰めを与える友達です。27:9節をご一緒に読んでみましょう。「香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。」落ち込んでいる時、失敗した時に慰めてくれる友達は良い友だちです。
第二に、交わりの喜びがある友だちです。「香油と香料」は気分をよくしてくれる役割をします。まことの交わりには喜びがあります。会えば会うほど、話をすればするほど喜びがあるならよい友達です。
世の中で一番良い友だちは夫にとって妻であり、妻にとって夫でしょう。苦しい時も、貧しい時も、失敗した時も互いに慰めあう友達です。一緒いること自体が喜びである関係です。そして、最も素晴らしい友だちは私のために命までも惜しまずにお与えくださったイエス・キリストです。イエス様はいつもともにいてくださいます。まことの慰め主です。喜びの源です。

私たちに最も素晴らしい友だちイエス・キリストを遣わしてくださった神様の愛を心から賛美します。私たちがいつも謙遜に、怠けることなく、良い友であるイエス・キリストに見習い、イエス・キリストとともに歩む生活ができるように祈ります。