2010年箴言第8講

主を待ち望む生活

御言葉:箴言20:1-22:16
要 節:箴言20:22 「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。

 先週、私たちは「主の名は堅固なやぐら」であることを学びました。今日は「主を待ち望む生活」を学びますが、その前に、証しをさせていただきたいと思います。自分のことで恐縮ですが先週、私は自分の仕事のこと、自分が祈っている方たちの健康や仕事のことで苦しく、不安と恐れの時がありました。職場では家から電話があったのですが、私が怒ってしまいました。隣にいた教え子だった先生から「奥さんにそんなに怒るんですか。」と言われたほどでした。何だか、仕事や宣教活動において自分の責任を感じる時が多く、みじめな自分の姿に悲しい時もありました。ところが、聖霊はそのような時にも、私が主に祈れるようにしてくださいました。そして、祈ると、祈っている方の健康と職場問題、自分の仕事問題が解決されました。なかなか間連絡が出来なかったPNG宣教師との電話も出来ました。何よりもこのような経験を通して「主の御名は堅固なやぐら」であることを悟り、主を待ち望むようになりました。そのうちに、朝、子どもたちと一緒に聖書を読みながらとても感動した御言葉があります。詩篇119:49,50節です。「どうか、あなたのしもべへの御言葉を思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め、まことに、みことばは私を生かします。」とありました。不思議にもこの御言葉を通して私が今週のメッセージである「主を待ち望む生活」も教えてくださったのです。不思議な神様の導きに感謝し、堅固なやぐらである主の御名を賛美します。では、「主を待ち望む生活」とはどのような生活でしょうか。

20章22節をご一緒に読んでみましょう。「「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。」まず、「悪に報いてやろう」と言ってはならない。」とあります。もし、世界中の人が、このみことばを知って従うのなら、この世界はどうなるでしょうか。この世界から、戦争やテロのような悲惨なことは消えてなくなるに違いないでしょう。ところが、この世界はどうなっているでしょうか。今日の本文を見ると、人々はお酒に酔っ払って人をあざけり、騒ぎます(20:1)。人を怒らせ、争いを引き起こします。彼らは眠りを愛し、歩き回って人を中傷しています。彼らは高ぶる目とおごる心をもって正義と公義を行なう人を無視し、あざけり、不法を行います。彼らはあつかましく、寄る辺のない人の叫びに耳を閉じています。
このような世界に生きている私たちは不当な扱いを受ける時があります。職場での不当な扱いを我慢している方たちがいるでしょう。時には曖昧な苦難を受けてむかつくときもあるでしょう。夫や妻から不当な扱いを受ける時もあるでしょう。それで、ささやかな仕返しを考えている方がいるかも知れません。多くの人は自分がされた事の報復を返すのは正統だと思っています。仕返しをせずにはいられないと思い、「悪に報いてやろう」と言う人もいます。しかし、聖書は私たちに「『悪に報いてやろう』と言ってはならない。」と教えています。私たちは悪に報いてやることを主にゆだね、主を待ち望まなければなりません。そうすると主が私たちを救ってくださいます。
信仰生活は神様の約束を信じて神様がなさることを待つ生活であるとも言えるでしょう。聖書には神様の約束を待つ続けたために救いと祝福を受けた人のことも、待つことに失敗した人のことも記されています。失敗した人のひとりはサラでした。彼女は待つことができず、自分の女奴隷ハガルを夫アブラハムに妻として与えて子供を産ませました。そうして生まれた子どもがイシュマエルです。事実、その子は生まれなかった方がよかったです。今までもイシュマエルの子孫はイスラエルの敵になっています。しかし、ヨセフは待ちつづける人生を生きた人物です。彼は兄たちから捨てられ、売られて異国の地エジプトで奴隷生活を始めましたが、それでも悪に報いてやろうと言いませんでした。彼がエジプトの総理大臣になった時は自分に不当な扱いをした人々に仕返しが出来たはずです。しかし、は自分の兄弟に仕返しをせず、むしろ、彼らを愛し、祝福してあげました。どうやってそのようなことができたでしょうか。ヨセフは兄弟たちに言いました。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。」ヨセフは仕返しをすること、悪に報いてやることは人がすることではなく、神様がなさることだと信じていたのです。
このように悪をもって悪に報いてやろうと言わず、主を待ち望んで生きる人は幸いです。イザヤ書30章18節に「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」とあります。
私たちは自分なりに祈ったつもりなのに、なかなか答えられないと、待ちつづけることが難しくなります。サラのように人間的な方法も考えてしまいがちです。しかし、主を信じて待ちつづけると、主が祈りに答えてくださるし、祝福を与えてくださいます。寺崎マリヤ宣教師はアブラハムにハガルを与えたサラとは違って待ちつづけたので結婚から7年目に立派なマリヤちゃんが生まれました。もし、サラのような人間的な方法を考えたら、どうなったでしょうか。それは考えるだけでも恐ろしいことです。どうか、私たちがどんな時でもヨセフのように主の約束、主の御言葉を信じて主を待ち望む生活が出来るように祈ります。祈ってからも待ち、伝道の種を蒔いてからも待ち、主のみわざに忠実に仕えてからも主を待ち望む生活が出来るように祈ります。では主を待ち望む生活とは具体的にどうすることでしょうか。
第一に、自分の状況にかなった御言葉が与えられることを期待してそれを待ち望むことです。詩篇130篇5-8節を見ると「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。」とあります。ここで待ち望むということばは漢字だけを書くと待望です。期待して望むことです。待望のメダル獲得と言いますね。浅田真央選手は待望のメダルを獲得しました。それが金ではなく銀だったので日本国民は悔しかったのですが、それでも本人は嬉しいと言いました。私たちクリスチャンも自分の状況に必要な御言葉が与えられることを待ち望み、待望の御言葉が与えられるとほんとうに嬉しいです。生活の中でいろいろなことを経験しますが、その時ごとに頼れる御言葉があると大きな力になります。特に困っている時、葛藤している時、どのようにすれば良いのかが良くわからない時、主の御言葉が与えられることを待ち望みながら祈り、聖書を読んでいるうちに、自分の状況にびったりの御言葉、待望の御言葉が与えられると、その喜びは大きいです。私は何度もその喜びを経験しました。去年、息子が最後の高校入試の模試で合格点からはずれると落胆しました。ところが、願書を提出する日に待ちながら、主の御言葉を待ち望むと、「今日でも、主の山の上には備えがある」という御言葉が与えられ、主の山が戸山に結びつき、戸山にも主の備えがあると信じるようになりました。そして、主の備えを経験しているところです。今年は娘の進学を考えるとき、立川国際中等教育学校を志願するか、学芸大学附属を志願するか、あきらめて韓国学校に行かせるかということで悩み、葛藤していました。ところが、ある日の朝、子どもたちと一緒に詩篇を読んでいると待望の御言葉に出会いました。「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。」と言われるような気がしたのです。そこで一番難しいと思われる所に挑戦し、神様の約束を体験しました。
 私たちは聖書リレーをしています。聖書勉強の時も、日ごとの糧の時間、礼拝の時も、御言葉を読んでいます。私たちがただ、読書をするのではなく、心から今の私に与えられる主の御言葉を待ち望むなら、時ごとに、自分にふさわしく待望の御言葉に出会うことが出来るでしょう。どうか、日々御言葉を待ち望んで御言葉による救いと恵みを体験して行きますように祈ります。
 第二に、聖霊降臨、聖霊の働きを待ち望むことです。使徒1章4、5節を見ると、「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」とあります。父の約束とは聖霊のバプテスマを受けることでしたが主は「それを待ちなさい」と言われました。それで使徒たちが待っていました。五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていました。心を合わせて祈っていたのです。すると、聖霊が臨まれて、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだすみわざがありました。そこにいた人々は力を受けてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、キリストの証人となりました。このように、私たちが聖霊を待ち望む時、聖霊が臨まれて私たちは聖霊に満たされ、力を受けます。全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えるようになります。キリストの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます(マルコ16章15-18参照)。ですから、聖霊を待ち望み、聖霊充満になって生きることを待ち望まなければなりません。聖霊が臨まれると、私たちは力を受けてますます力るクリスチャンとして生きるようになります。
  このように、私たちは主の御言葉を待ち望み、聖霊を待ち望む生活をするなら、主は私たちをさまざまな罪と試練、困難状況から救ってくださいます。具体的に御言葉を通して、聖霊の働きを通して私たちを助けてくださいます。ですから、常に心から主を待ち望むことはとても大切なのです。次に大切なのは敬虔な生活、潔白な生活です。
 20章1節をご覧ください。「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。」とあります。皆さんはお酒についてどのようなお考えでしょうか。ある人は「聖書は酔いしれることを禁じているだけで、酒を飲むこと自体は罪ではない。」と教えます。ある人は、「どこまでが酔いしれることなのか、その境界線を引くことはできない。酒をいっさい飲まないことが神様のみこころだ。」と教えます。果たして何が正しい意見なのでしょうか。「酒を飲むこと自体は罪ではないという人たちは、よく?テモテ5:23節をもって言います。パウロがテモテに、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」と言ったことです。私もこの御言葉を読むと、少し飲んでみようかなあと思われます。私は大学2年の時、神様の御前で誓ったのでその後お酒をいっさい飲んでいませんが、健康のために少量のぶどう酒を用いることはいいでしょう。ところが、本文でぶどう酒は、あざける者。強い酒は騒ぐ者」とあります。どうでしょうか。子どもの時、私の祖父は酒をよく飲んでいましたが、強い酒を飲んだ日は家が騒いでいました。私たちは聖霊に満たされれば、喜びと笑いがもたされます。ところが、お酒に満たされると、どうなるでしょうか。聖霊に満たされた時と同じような喜びと笑いがもたされるでしょうか。そうではないでしょう。酔っ払っている人が慰めの言葉、肯定的なことば、人を生かすようなことばを言うのは聞いたことがありません。かえってあざけりと騒ぎです。悪口や陰口を言い、また人に迷惑をかける行為をします。争いを引き起こす時もあります。3節に「争いを避けることは人の誉れ、愚かな者はみな争いを引き起こす。」とあります。私たちは「自分に関する限り、すべての人と平和を保つ」敬虔なクリスチャンとして生活をしなければなりません。
 7節をご覧ください。「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。」とあります。離婚の理由の中で一つは夫や妻が潔白な生活をしなかったことです。そのために、子どもたちは傷つけられ、孤児のようになってしまう場合が多くあります。しかし、私たちがイエス・キリストの血潮によって救われた正しい人として潔白な生活をするなら、夫婦関係もますますよくなります。その家庭に平和と喜びがあります。自然にその夫婦の子孫は幸せになるでしょう。聖書に「彼の子孫はなんと幸いなことだろう。」とあります。ほんとうにそのとおりです。
21章3節をご覧ください。「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる」とあります。旧約時代に神様に感謝し、罪を償うためにいけにえをささげることはとても大切なことですが、それにまさることが正義と公義を行なうことなのです。それが主に喜ばれることです。それだけではありません。正義と公義を行なう人にも喜びがあります。15節をご覧ください。「公義を行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。」とあります。21節もご覧ください。「正義と誠実を追い求める者はいのちと正義と誉れを得る。」とあります。快楽を愛する者は貧しくなり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがありません(17)が、正義と誠実を追い求めて敬虔な生活、潔白な生活をする人には喜び、いのち、正義と誉れがあるのです。彼らの住まいには好ましい財宝と油があります。ですから、私たちはあつかましい悪者にだまされることなく、自分の道をわきまえて敬虔な生活、潔白な生活に励まなければなりません。どうか、私たちが快楽やお酒による楽しみではなく、正義と誠実を追い求める生活から得られる喜びといのちを体験することができるように祈ります。それだけではなく、私たちの子どもたちも質の高い喜び、楽しみを体験するようように教育して行きましょう。若い時にタバコ、お酒、ゲームなどの楽しみに陥ってしまうと、質の高い喜びを経験できなくなってしまいます。学校では探求生活、問題解決による喜びを体験することを願いますが、多くの子どもたちが幼いときから、ゲームや快楽的な漫画などに汚染されています。それで、難しい数学の問題が解けた時の喜びを経験する生徒が少なくなっています。ですから、幼いとき、若い時からよく教育しなければなりません。
22章6節をご一緒に読んでみましょう。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」そうです。教育は若い時にしなければなりません。教育をPedagogy(児童、青少年中心教育)、Andragogy(成人中心教育)、Gerogogy(老人中心教育)に分けていいます。成人は経験が豊かで、講師より知識が高くてなかなか講義に集中しません。しかし、老人は集中して聞きます。居眠りをしません。でも記憶はできません。Zeroです。ですから、若者をその行く道にふさわしく教育しなければならないのです。
以上で、私たちは悪に報いてやろうと言ってはならないこと、主を待ち望むことに関して学びました。考えてみると、イエス様はまさにそのとおりに歩まれました。もちろん、イエス様が、相手のされるがままであったということではありません。例えば「宮清め」の時は、神殿の境内で商売をしている人々の台や腰掛けをひっくり返して、追い出しました。しかしそれは、相手をやっつけるためのでありませんでした。当時の宗教指導者たちを目覚めさせるためでした。決して悪に報いてやることではありませんでした。十字架にかかられるときには、あざけりを受けるがままに受けられました。唾を吐きかけられるがままにされ、平手打ちを受けるがままに受けられました。そして、無抵抗のまま十字架におかかりになったのです。イエス様は十字架の死の後に約束された復活を信じてそれを待ち望みながら悪に報いてやろうと言われなかったのです。それに関してヘブル人への手紙12章2bを見ると「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。」とあります。イエス様はご自分の前に置かれた喜びを待ち望みながら悪に報いてやることなく、一方的に敵意を抱いて侮辱する者に憐れみをかけました。悪口を言う者にののしりかえすことをせず、自分を侮辱する者のために祈られました。ついに、イエス様は私たちを救う愛のゆえに十字架にかかられて死なれました。そして三日目によみがえられました。その後も、イエス様は、ご自分を見捨てて逃げていく弟子たちをも受け入れてくださいました。罰をもって報いなかったのです。それは、そんな自分勝手な弟子たちでも、神様の力によって変えられる日が来ることを信じておられたからでした。そしてその通りになったのです。

 主は、こんなわがままで、自分のことしか考えないような私たちでも、変えられることを信じていてくださるのです。だから、今までも赦し、愛し続けてくださいました。そして、これからも、私たちがご自分の御姿にまで変えられることを待ち望んでおられます。あわれみ深い主の愛を心から感謝し、私たちがますますこの主イエス・キリストにならう者へと変えられますように、さらに、子どもたち、若者たちがイエス・キリストになら者へ変えられていくように教育して行きますように祈ります。