2010年マタイの福音書第23講
 
内側をきよめなさい

御言葉:マタイの福音書23:1−39
要 節:マタイの福音書23:26「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」

よく「ヤツはキレイ事を言っているだけだ。本当は悪いヤツだ」というような言い方をする人がいます。実際、立派なことをおっしゃっている方が必ずしも人格者だというわけではありません。「人のためと言っているけど、自分のことしか考えていないじゃん」とツッコミを入れたくなる方々もたくさんいます。反対に「言い方は下手だけれども本当は純粋な人だ、人格者だよ。」と言われている人もいます。そして、「顔にも表れているけれども、本当に素敵な人だよ。人格者で心の清い方ですよ。」と言われている人もいます。
皆さんは自分がどういう人として知られていると思われるでしょうか。・・・
イエス様はパリサイ人たちに言われました。「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」この時間、聖霊様が私たちにも同じことをおっしゃっておられるかも知れません。どうか、今日の御言葉を通してまず、内側をきよめることができるように祈ります。そうすると、イエス様の御言葉のとおりに外側もきよくなるでしょう。そうして本音も、建前もきよく神様に喜ばれるクリスチャンとして生きるようになります。どうか、聖霊様が私たち一人ひとりに語りかけてくださるように祈ります。

?.言うことを行ない、守りなさい(1-12)
1-3節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」イエス様は律法学者、パリサイ人たちが言うことは言うが、実行していないことを指摘されました。彼らはモーセの座を占めて、旧約聖書の律法を読み、説き明かしていました。しかし、彼らの行ないはそれとは別のものでした。彼らは建前では立派な聖書先生として聖書を教えていながら、実際の生活でそれとは違う行ないをしていました。イエス様は、そういう彼らの行ないをまねてはいけないと言われました。
 私たちクリスチャンの信仰生活は一言で言えば、イエス様に見習う生活です。イエス様のようになることを望んでいます。それで私たちは「♪心から願うのは/主のようになること/御形に似るために/世の宝捨てます。(折り返し)主のように主のように、きよくしてください/この心奥深く/御姿を写して―新聖歌382―」と歌っています。それほどイエス様に見習うことを願っているのです。そして、まだ聖書の知識も、イエス様のこともよく知らない方たちには霊的指導者たちの行ないが手本になります。ですから、律法学者、パリサイ人たちはモーセ律法を言うだけではなく、それを実行しなければなかったのです。しかし、彼らは自分が教えていることを実行していませんでした。そこで、イエス様は群衆と弟子たちに「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。」とおっしゃいました。彼らの教えは素晴らしいからそのまま行い、守るべきです。しかし、それを教えている彼らは言うことは言うが、実行しないから、彼らの行ないをまねてはいけないということです。
 もし、イエス様が私たちの教会に話をして言うなら、何と言われるでしょうか。私にはイエス様がうちの教会にこう言っておられるような気がしました。「ダニエル宣教師は毎週メッセージを伝えています。ですから、彼があなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼の行ないをまねてはいけません。彼は言うことは言うが、実行しないからです。」と言われるのです。「けれども、彼の行ないをまねてはいけません。」と言っておられる主の御声が私の心に響いてきました。特に、「あなたがたが信じて祈り求める者は何でも与えられます」と伝えたことが思い浮かびながら本文の御言葉が私の心に迫ってきました。
私は母が3週間前に入院した時、癒しのために祈り、すぐに治ると思っていました。しかし、母の病気が癌であることが知らされた時、信じて祈り求めることがなかなかできませんでした。心は暗くなり、悲しくなりました。私の心は嵐による波が激しくなっていたのです。母に会いたい、手術の時でもそばにいてあげたいという思いが強くなっていました。信じて祈り求める者は何でも与えられると教えていながらも心は祈りよりも母の思いに占められていました。そんな私に神様は言うことは言うが実行していないことを悟らせてくださいました。そこで、私は不信仰を悔い改めて心を新たにし、ヒゼキヤの祈りを始めました。でも、なかなか心の騒ぎが収まらなかったので牧者の弟に意見を聞きました。すると、「兄貴が来るのはいいけれども、それによって周りの人々が母の病気をもっと重く思い、信仰が弱くなる可能性がある。」と言われました。また、副病院長である先輩牧者が毎日母の病室に来て祈っている話を聞いていたので彼にも相談しました。すると先輩牧者は今までの検査は癌ですが、手術の前に癌が無くなるように祈っていると言いました。このふたりを通して神様は私が信仰の祈りをささげるように導いてくださいました。それで、月曜日の夜は徹夜祈りをするつもりで教会に来て手術前にガンが無くなるように祈りながら母の手術を備えました。それから、手術の結果を聞くと、母の肝臓はガンではなく、膿だったのでそれと胆のうを取り除いたということでした。神様は多くの方たちの祈りと、私の小さな信仰の祈りに答えてくださいました。奇跡的にガンが膿に変わっていたのです。神様の御名を賛美し、心から感謝します。私が聖書を教えることだけではなく、日々生活の中で守り、行いますように祈ります。どうか、私たちの教会の宣教師や牧者も言うことを行ないますように、兄弟姉妹たちがまねてもいい行動をする霊的リーダーとして成長して行きますように祈ります。
聖書を見ると使徒パウロも、本来パリサイ人でした。彼も偽善者の生活をしていたのです。しかし、イエス様に出会ってから変わりました。彼はイエス様に見習う生活によって良い影響を及ぼす指導者になりました。彼はピリピの聖徒達に向かってこう言いました。「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」と言うことができました(ピリピ3:17)。パウロのように「兄弟たち。私を見習う者になってください。」と言う人の言葉に力や説得力があるのではないでしょうか。私たちもそのように言える者になりたいと思います。管総理大臣は管改造内閣を「有言実行内閣」と命名しました。私たちの教会は「有言実行教会」であるように祈ります。
4−12節には言うことを行なわなかった宗教指導者のことが記されてあります。彼らは、聖書に記されていない多くの規定を「言い伝え」として付け加えていました。聖書の教えをもっと多く守っていくことのように見せかけていたのです。たとえば、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうでした。経札は、革製の小さな箱で、その中に申命記6:4-9などの聖句を書いた紙切れを入れたものです。それを祈る時に一つを左腕に、一つを額につけました。それを見て神の戒めを思い起こし、それを行なうためのものでした。しかし、それらが人々に、重い荷をくくって、人の肩に載せていました。結局、彼らのしていることはみな、人に見せるためのものにすぎなかったのです。結局、それらは神様の戒めを思い起こすためではなく、自分たちがどんなに律法を重んじているかを誇り、人々から尊敬を集めようとする演出だったのです。
ですから、弟子たちは彼らの行動を真似てはいけません。では、弟子たちにはどんな生活が求められますか。11、12節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」イエス様は、イエス様に見習う生活をするように教えてくださいました。自分を低くして仕える生活です。イエス様は唯一・最高の師であられましたが、それでも弟子たちの足を洗われました(ヨハネ13:4-)。そのようにイエス様は、へりくだって人に仕える模範を示してくださいました。弟子たちも、今の私たちにもそのような生活が求められています。イエス様のように、人々を愛し、人々に仕える生活です。しかも、謙遜に、献身的に仕える生活です。

?.偽善者たちに災いが来る(13-39)
イエス様は、「偽善の律法学者、パリサイ人たち」に向かって、八回も「わざわいが来ますぞ」とのろいを宣告されます。まず、イエス様は彼らが災いを受けるべき忌まわしい者である理由を言っておられます。
第一に、彼らは天の御国をさえぎっていたからです。律法学者、パリサイ人たちは人々を天の御国に導く責任を持っている人々です。ところが、彼らの教えは人々から天の御国をさえぎっています。彼らは御国に自分もはいらず、はいろうとしている人々をも入らせません。それは彼らが、人々を御国に入らせるために必要な福音を教えず、律法による義を自分にも人にも押し付けていたからです。
第二に、彼らは哀れなやもめの家を食いつぶしていたからです。そうしながらも見えのために長い祈りをしていました。こういう偽善のために彼らは人一倍ひどい罰を受けます。
第三に、彼らは熱心に異邦人に伝道しましたが、それは改宗者を自分より倍も悪いゲヘナの子にしていたからです。異邦人で割礼まで受けてユダヤ教徒になった改宗者は、生来のユダヤ教徒より熱狂的になり、それだけひどいパリサイ主義の奴隷になってしまったのです。
第四に、彼らは神殿より黄金を、祭壇より供え物を尊んでいたからです。イエス様は黄金より神殿を、供え物より祭壇を尊ばれるお方です。さらにイエス様は、その神殿や祭壇よりも、神ご自身を尊ばれました。神ご自身を忘れるなら、神殿も祭壇も、まして黄金も供え物も、その意味を全く失うことになるからです。そこでイエス様はお金を愛している彼らを「愚かで、目の見えぬ人たち」だと言われました。彼らは目の見えぬ人として人々を誤った道に導きました。
第五に、彼らは律法の精神を捨てたからです。十分の一のささげ物は、地の産物や家畜の十分の一を聖別して神様にささげる制度です。神殿で奉仕する祭司やレビ人の生活を支え、貧しい人々に施すために用いられました。その意味で、それは正義とあわれみの意思表示でした。また、それは自分の収入がすべて神様から授かった預かり物であることを告白する誠実のしるしでした。パリサイ人たちは、モーセの律法が命じていない「はっか、いのんど、クミンなど」の庭の草類まで、その十分の一をささげることによって、律法をよく守っていることを誇りました。しかし、彼らは律法の目的であるはるかに重要なものを忘れ、正義もあわれみも、誠実もおろそかにしていました。それはちょうど、「ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいる」ようなものです(24)。ぶよは汚れた虫で、それが体内に入らないように、彼らは布でこしてぶどう酒を飲みました。ところが、同じ汚れた動物であるらくだは、平気で飲み込んでいたのです。
第六に、彼らの外側と内側が違っていたからです。彼らはよく信仰生活をしているように見えますが、彼らの心は罪に汚れていました。彼らの外側は敬虔なふりをしていましたが、内側はお金と権力と名誉に対する貪欲と淫乱な考えでいっぱいでした。このように、外側と内側が違い、建前と本音が違う生活からさまざまな問題が生じていました。そこで、イエス様は彼らが最優先的に何をするべきかを教えてくださいました。
26節をご一緒に読んでみましょう。「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」預言者エレミヤは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」と言いました(エレミヤ17:9)。このように人の内側は汚れています。どうすればきよくすることができるでしょうか。毎日お風呂に入ればきれいになるでしょうか。ヨガや熱心な宗教活動を行なえばきれいになるでしょうか。人の心をきよめることは人の力や努力によってできるものではありません。それはイエス・キリストの十字架の御前に出て行き、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストの尊い血によってきよめられる時に可能です。私たちの内側に働く罪は恐ろしい力を持っています。それは私たちの心を虜にしてしまいます。その力を打ち破ることができるためにはもっと強い力が必要です。そして、その力はイエス・キリストの血のほかにはありません。ヨハネの手紙第一1:9は次のように言っています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」また、ペテロの手紙第一1:18,19は次のように言っています。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」イエス・キリストの尊い血はどんなに汚れた人の内側もきよくすることができる力があります。イエス・キリストの血の力によって人の心がきよくなれば、自然と行ないもきよくなります。
どうか、私たちが日々イエス・キリストの御血によってまず心をきよめる生活ができるように祈ります。
第七に、彼らは外側では正しいと見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいになっていたからです。彼らは内側がきたないので、それだけ外側をきれいに見せようとしたのです。しかし、外側をきよくする努力によってきよくなるのではありません。私たちは弱くて心ならず罪を犯す場合もあります。神様はそんな私たちの弱さをよく知っておられます。それで、哀れみ深い神様は私たちの身代わりとしてイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。イエス様はあのゴルゴタの十字架の上で私たちのために尊い御血を流されました。その血によって私たちの過去の罪、現在の罪、これから犯す罪までもすべて赦してくださいます。イエス・キリストによってのみきよめられるのです。
第八に、彼らは神様が遣わされた人々を迫害していたからです。彼らは「預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言いますが彼らの心も先祖と同じように反逆に満ちていました。その証拠に、彼らは今、神様が遣わされたメシヤを拒否し、殺そうとしています。そうさせたのは、まさに彼らの偽善の罪でした。こうして彼らは先祖の罪の目盛りの不足分を満たしていました(32)。
結局、彼らが建前と本音とが違う偽善者になっているのは、神様を無視していることの現われです。それゆえ、偽善の罪は、神様を神様として信じない態度です。ゲヘナの刑罰を逃れることができません。だからイエス様は、「わざわいが来ますぞ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と繰り返し言われたのです。それにかかわらず彼らが悔い改めなければどうなりますか。
八つのわざわいを語り終えたイエス様は、これから、彼らに対する審判を告げられます。彼らは先祖と同じく迫害の罪を犯し、ゲヘナの刑罰を逃れることができなくなります。こうして旧約聖書の初めから終わりまでの「地上で流されるすべての正しい血の報復」が彼らの上に臨むのです(35)。義人アベルの血は、旧約聖書の最初に記されている殺人事件を指し、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血は、ヘブル語旧約聖書の最後に置かれている歴代誌第二に記されている殺人事件を示します。最初から最後まで義人を迫害したイスラエルの歴史は、その罪の目盛りがこの時代に満たされ、エルサレム滅亡の悲劇的結末を見ます。さらにユダヤ人は1900年近く国を失い、蔑視と苦難を受けるようになります。そして、600万人のユダヤ人がナチスによって虐殺されました。これらのことを思われるイエス様のお心はどうだったのでしょうか。
イエス様は「ああ、エルサレム、エルサレム」と、涙の叫びを発せられます。イエス様はエルサレムを見捨てることなく、めんどりがひなを翼の下に集めるように、幾たびも集めようとされました。イエス様は深い愛を持ってエルサレムの人々を守ろうとされました。それなのに、彼らはかたくなで愚かでした。エルサレムは、母鳥の翼の下に入らせようとする愛の招きを拒んだのです。それゆえ、エルサレムは、きびしい刑罰を逃れることができません。

イエス様は律法学者、パリサイ人たちの偽善を咎められました。神様は私たちが言うことをまず自分から実行することを望んでおられます。また、真実に自分の罪を悔い改めることを願われます。私たちが毎日あるがまま主の御前に出て行き、自分の罪を悔い改めることによって心をきよめることができるように祈ります。そうすれば、自然に行ないもきよくなります。どうか、イエス様の教えを実行し、見習う生活を通してキリストの御姿にまで変えられて行きますように祈ります。