2009年度新学期準備特別講義

あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです

御言葉:ヨハネ13:1?17
要 節:ヨハネ13:14「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」

 今日は新学年度を迎えながら、今年私たち教会のテーマである愛について学びたいと思います。この愛はイエス様が模範として示された愛です。御言葉を通して愛と謙遜の模範を示されたイエス様を深く学び、イエス様の御言葉に従うことが出来るように祈ります。

一番目、その愛を残るところなく示されたイエス様
1節をご一緒に読んでみましょう。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」ここで「過越の祭りの前に」とはイエス様が「神の小羊」として十字架につけられて死なれる日の前に」ということです。イエス様はご自分の死が間近になっていることを知られたのです。このような時になると、皆さんは何をするでしょうか。ほとんどの人は、自分が最も大切に思っていることをするでしょう。
世にいる自分のものを愛されたイエス様は、その愛を残ることなく示されました。ここで、「その愛を残るところなく示された」という言葉は、口語訳では「最後まで愛しとおされた」と訳されています。つまり、イエス様はご自分のものを最後まで愛し通されたのです。しかも、完全で徹底的な愛を残ることなく、ご自分のものたちに注がれました。ここで、「自分のもの」とは、その場にいる弟子たちだけではなく、イエス・キリストを信じるすべての人々を指しています。今日、ここにいる私たち一人一人も含まれているのです。信仰を持ってイエス様の愛を受け止めるなら、その人は、キリストの愛に包み込まれるようになります。そして、その限りない愛によって心は潤されます。人知をはるかに越えたその愛によって癒され、生かされ、励まされるようになります。
私は、大学3年生の時に、このキリストの愛に包み込まれました。私を最後まで愛し通されるキリストの愛に触れられたのです。その時、私は天の神様が人となり、しかも、人の奴隷となって卑しい私を救い、汚れている足を洗ってくださることを深く悟り、感動しました。高慢、嫉妬心、情欲によって汚れ、腐っている罪人であっても見捨てることなく、最後まで愛し通されるイエス様の愛が分かった時、私の人生は変わりました。その後、どんなに無視されても、どんなに寂しくても、それが大きな問題になることはありませんでした。辛い時、悲しい時、傷つけられた時に、この13章の御言葉を思い出すようになったからです。この13章を自分で自分に聞かせるように読みますと、なんだか、再びイエス様の愛に触れられるようになります。最後まで愛し通される愛に感動します。限りないイエス様の謙遜のゆえに、その愛のゆえに、自分の高慢を悟って悔い改めると、渇いた心は癒され、潤されるようになりました。今、考えてみると、もし、この13章に記されたイエス・キリストの愛を知らなかったら、私は宣教師として生きることさえできなかったかも知れません。しかし、最後まで愛し通されるキリストの愛が弱い私をささえてくれました。その愛によって私は赦され、癒され、生かされて来ました。では、イエス様はその愛をどのように示されましたか。
2,3節をご覧ください。「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、」とあります。悪魔はすでにイスカリオテ・ユダの心に、イエス様を売ろうとする思いを入れていましたが、イエス様はすべての主権が神様にあることを知られたので、ユダのことを神様にゆだね、ご自分が最も大切に思っておられる愛を示されました。
4,5節をご一緒に読んでみましょう。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子達の足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」
なんと驚くべきことでしょう。謙遜と愛のキリストの姿がよく現われています。イエス様は万物がご自分の手に渡されたこと、ご自分から神様から出て神様に行くことも知っておられました。イエス様は王の王であり、主の主であられるお方なのです。そのイエス様が夕食の席から立ち上がって弟子たちの足を洗い始められました。当時、足を洗うことは奴隷の仕事でした。また、足を洗うことは、夫を愛する妻の仕事でした。妻は労働から疲れて帰って来た夫の足を洗うことによって心からの愛を表現していたのです。ところが、イエス様があの奴隷の仕事、妻の仕事を担われたのです。イエス様は神様の栄光の御座を捨てて人となり、しかも人の奴隷までも低くなられました。しかも、夫を愛する妻のようにやさしく、あたたかく弟子たちの足を洗ってくださいました。洗い終わると、手ぬぐいで、拭いてくださいました。
ここにイエス様の謙遜と愛がよく表れています。イエス様は汚れている弟子たちの足にその愛を残るところなく注がれました。イエス様は体の中でも一番下にある部分、汚れている足にその愛を注がれたのです。今もイエス様の愛は一番下までへりくだっている人に注がれます。その愛は頭ではなく、下にいる人に注がれます。自分が汚れていると思う心、罪の姿の上にイエス様の愛が注がれるのです。ところが、この愛に対するペテロの反応はどうでしたか。
6節をご覧ください。こうして、イエス様はシモン・ペテロのところに来られました。その時、ペテロはイエス様に言いました。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と。先生であるイエス様が自分の足を洗おうとされたのでペテロは驚いています。彼は「イエス様のようなお方に、自分のような者の足を洗ってもらってもいいのか?」と思ったようです。ところが、イエス様はわざわざ「夕食の席から立ち上がられました。そして上着を脱ぎ、手ぬぐいを取られて、弟子たちの足を洗い始められたのです。そこで、ペトロは驚いて「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と言いました。そんな彼に、イエス様はなんと答えられましたか。
7節をご覧ください。「イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたには分からないが、あとでわかるようになります。」」とあります。ここで、ペテロはイエス様の愛の行ないが分かっていません。ですがあとで分かってくるのです。私たちも同じでしょう。素直にイエス様が言われるままに信じることができれば、なんと素晴らしいことでしょう。でも、イエス様の愛が分からない時があります。不思議にも、大きな問題がなく、すべてが順調である時に、キリストの愛がもっと分からない場合が多いでしょう。でも、心配は要りません。やがて分かるようになるからです。自分がどんなに罪深い者であるかが分かってくるのです。ある方は激しい何かの挫折の経験の中で気づきます。特にペテロのように自我が強い人は何度も失敗して、自我が砕かれてから、やっとキリストの愛が分かるのです。実際に、ペテロはイエス様を三度も否認してしまう経験を通して自分の罪深さを知ります。夜を通して働いても小魚一匹も取れない失敗を通して自我が砕かれ、その時にやっとよみがえられたイエス・キリストに出会います。何もできない自分のことが分かった時に、そんなに惨めな自分でも相変わらず愛してくださるキリストの愛、最後まで愛しとおされるキリストの愛が分かるのです。しかし、今はまだ、分かりません。だから、ペテロはイエス様に言いました。「決して私の足をお洗いにならないでください。」と。ペテロは、イエス様に自分の汚い足を洗ってもらうなんて、考えられないと思ったようです。自分の考えがありました。けれども、私たちがイエス様は天地を創造し、今も全宇宙を支配しておられる神様であることを素直に信じなければなりません。そして、キリストの愛を自分がしっかり受け留めることによって神様がいかに自分を愛してくださっているのかを知ることができます。ところが、ペテロは、自分で足を洗わなければいけないと考えていました。すると、神様の一方的な愛は伝えられなくなり、その人の心を変わりません。自分とイエス様とつながるパイプがないからです。そこでイエス様は言われました。
8bをご覧ください。「「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」とあります。この御言葉は単純ですが、深くて豊かな意味を持っています。イエス様は「わたしが洗わなければ・・・」と言われました。つまり、誰でも、イエス様がその人の汚れと罪を洗い流すのでなければ、イエス・キリストの救いのわざになんの関係もなくなるのです。それは大変なことになります。
そこで、ペテロはびっくりして「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と言いました。ペテロはどうしてもイエス様との関係を保ちたいと願っていたのです。どうしてもイエス様との関係を深くしていたいと願うことは素晴らしいことです。しかし、まだペテロは全くイエス様のなさっておられることが分かりませんでした。ですから、イエス様に彼に言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」と。ここで「水浴する」とは罪を悔い改めてイエス様をキリストとして信じて救われることです。つまり、聖霊によって新しく生まれて神様の子どもとなることを意味します。これは一生一度しかないことです。たとえば、私が日本人になるために国籍を変えることは、ただ一度で終わりです。毎日国籍を変える必要がありません。私たちが生まれ変わって神様の子どもになりました。天国の国籍を取得しているのです。もう一度、天国の国籍を取得するために水浴する必要がありません。
しかし、足を洗うことは毎日しなければなりません。そうしなければ水虫になります。調べてみると、水虫は、原因となる白癬菌(水虫菌)が、患者の足のあかと一緒に床などに落ち、これが別の人にくっつくことで感染を広げていくそうです。そして、水虫菌は、あかの中でも少なくとも1か月ほど生き延びます。それで、いくら掃除しても、水虫菌との接触を完全にゼロにするのは無理だそうです。重要なのはいかに感染を防ぐかですが、それは「一日一回、足を洗うこと」です。足に接触した水虫菌が皮膚表面(角質層)に入り込むには、早くても24時間ほどかかるので1日1回、足を洗えば感染は防げるわけです。「しつこい、治りにくい」というイメージが強い水虫も、一日一回、足を洗うことで予防することができ、足をきれいにすることができるのです。
霊的に「足を洗う」ことは日常生活の中で犯した罪を悔い改めることです。そして、罪は水虫菌のようなものです。人の言葉や行ないによって感染を広げていきます。罪を完全にゼロにすることは無理です。しかし、一日一回でも悔い改めることによって霊的な健康を維持することができます。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、「主よ、わたしを平和の道具とさせてください。」という祈り始める「平和の祈り」の著者としても知られているフランチェスコの友達の一人は、いつも愛に燃えているフランチェスコの生涯の秘訣を学ぼうとしました。それでフランチェスコの家に泊まりながら観察しましたが、なかなかその秘訣を見つけることができませんでした。そのうち、夜中にその秘訣を発見したそうです。見ると、フランチェスコは寝床から起きて泣き始めました。「主よ。この罪人を赦してください。」聖者と呼ばれていた彼が毎日泣きながら罪を悔い改める生活をしていたのです。事実、すべての人は、毎日罪を告白し、イエス様に洗ってもらう生活を通してイエス様との深い関係を保っていなければなりません。私たちはこのことに最優先順位を置かなければならないのです。
 水浴させてくださる方もイエス様であり、毎日足を洗ってくださる方もイエス様です。ご自分の血潮によって私たちの全身をきよめてくださったイエス様は、毎日汚れている私たちの足を洗うことを願っておられます。私たちとの関係をますます深くするためです。私たちは聖書の知識を積み重ねることよりも、真実に悔い改めることによってイエス様との関係を深くすることができます。そして、イエス様との関係が深ければ深いほど、祈りの体験も多くなります。洗われた心にイエス・キリストの愛が注がれるからです。私たちの汚れた足を洗い清められ、その愛を残るところなく注いでくださるイエス・キリストに心から感謝します。

二つ目、互いに、足を洗い合うように教えられたイエス様
12,13節をご覧ください。イエス様は、弟子達の足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われました。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。イエス様は先生であり、主ですから弟子達に仕えられるにふさわしいお方です。そのイエス様がへりくだって奴隷の仕事をなさいました。先生とも主とも呼ばれているお方が足を洗う奴隷の仕事を行なわれたのです。ですから、イエス・キリストの血潮によって水浴し、毎日イエス様に洗っていただける私たちはどうするべきでしょうか。洗い清められてイエス・キリストの弟子となり、イエス様を主として、師として呼んでいる私たちはどのような生き方で生きるべきでしょうか。
14節の御言葉をご一緒に読んでみましょう。「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」イエス様はご自分が行なったように弟子たちに「足を洗い合いなさい。」と言われました。へりくだり、愛を持って互いに仕えるように言われたのです。イエス様は、私たちがイエス様のようになり、イエス様のしたようにすることを望んでおられます。私たちがクリスチャンとして生きるということはキリストのように生きることです。(新聖歌382)それで、今でもいくつかの教会では、「あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」ということばを文字どおりに受け取って実践しています。ちょうど、受難週の木曜日にイエス様は弟子たちの足を洗われたのですが、木曜日の夜、たらいに水を入れて聖徒たちが互いに足を洗い合うのです。また、ある教会では足のかわりに、靴を磨きあうそうです。
私も学生の時はUBF教会で互いに足を洗い合うことをしました。時には川に行って洗い合いました。でも、今の東京UBF教会では、そうしたことはしません。しかし、目に見えない形で足を洗い合うことはしなければならないと思います。イエス様は私たちが毎日、イエス様に足を洗っていただく生活を望んでおられます。そして、互いに足を洗い合うことによってイエス・キリストの愛が豊かな共同体を作り上げて行くことこそ、イエス様が私たちに期待し、望んでおられることです。では、誰の足から洗うべきでしょうか。
まず、一番近くにいて足の臭いをかぐことができる人でしょう。その人は誰でしょうか。結婚している方は自分と妻や夫であり、家族ではないでしょうか。私たちは、まず家の教会を愛の共同体にしなければなりません。ある人は、職場や教会のメンバーにはやさしいけれども自分の妻に対しては厳しいですね。また、ある奥さんは他人の夫のことに対して良いことばかり言いながら、自分の夫のことに対しては悪いところばかり言います。ところが、自分の夫を自分がかばってあげなければ誰がかばってあげるでしょうか。ちょっと汚れていたら、それを口に出さないで洗ってあげましょう。昔、ユダヤの妻たちが仕事から帰ってくる夫の足を洗ってあげたように、自分の夫の汚れた足を洗ってあげましょう。夫も、自分の妻が自分にとってちょうどいい妻であることを知り、足の汚れから臭いがしても洗ってあげましょう。そうしてまず家庭の中から互いに洗いあうことができるように祈ります。
次は、教会の中でフェローシップの同労者、チームの同労者たちが互いに洗いあうべきです。この教会のすべての聖徒たちに対しても、世の人々に対しても、足の汚れを指摘し、噂にするのではなく、彼らの弱さを担い、互いに洗いあうことが求められるのです。
事実、汚れている足を洗うことはやさしくないと思います。言葉で言うことはやさしいですが、行なうことはなかなか難しいでしょう。イエス様と一食を共にしていた弟子たちにとっても難しいことでした。そこで、イエス様が私たちに模範を示してくださいました。イエス様は夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。しもべの姿で弟子たちの足を洗われたのです。このことは、ピリピ人への手紙2:6-7を思い起こさせます。そこには、こうあります。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」このイエス様は今も、ご自分の血を持って私たちの汚れた心を洗い清めようとしておられます。十字架にかかって流された血によって清め、赦して救うために、静かに、謙遜に私たちに近づいて来られます。
このイエス様のことを思う時、私たちは自分が非常に高慢であることを恥じないでいられるでしょうか。私たちクリスチャンは自ら自分を省みて全くへりくだるようになります。そして、奴隷のしもべの姿で愛してくださるその愛のゆえに、いかに卑しい仕事であっても、それをするようになります。私たちに示されたキリストの模範を思い出して、謙遜にキリストの愛を実践するようになるのです。すると、私たちは豊かな実を結ぶことができます。家庭でも夫婦が互いに足を洗い合う愛を行なうなら、子どもたちがその愛の中ですくすく成長するようになります。キリストの謙遜と愛によって生かされた私たちがその謙遜と愛を実践すると、私たちを通して人々が癒され、生かされるようになるのです。

私は農夫の子どもとして育ちましたが、農夫たちの仕事を考えてみると、ほとんどが膝をまげてする仕事です。種を蒔き、肥やしをやり、雑草を抜くような仕事は、姿勢を低くしなければできないことです。このように自分を低くして働く農夫にたちが収穫の実を得ることができます。考えてみると、稲や麦だけではなく、人も、自分を低くして謙遜に仕える時に成長していくと思われます。また、人は愛し合ってこそ、健全な子どもが生まれます。つまり、謙遜と愛によって良い実を得ることができるのです。どうか、私たちがイエス様のように、謙遜になって第一に主を高め、私たちの周りにいる人々を常に高めることができるように祈ります。私たちが心から謙遜になって神様を愛し、家族と隣人を愛して豊かな実を得ることができるように祈ります。
今週から始まる新学期に伝道する時、人々から無視され、寂しくなる時があるかも知れません。自分の弱さと罪深さのために絶望せざるを得なくなる時もあるでしょう。そのような時ごとに、神であられるお方が奴隷の姿、しもべの姿で私の汚れを洗い清め、愛してくださることを思い出しましょう。すると、きっとイエス様の愛によって赦され、癒され、生かされますようになります。どうか、日々私たち一人一人がイエス様に見習い、謙遜と愛によってキャンパスの学生たちに福音を伝えることができるように祈ります。