2009年ローマ人への手紙第20講

聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい

御言葉:ローマ16:1?27
要 節:ローマ16:16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。

先週、私たちは聖餐式を通してキリストのために生きる心を新たにすることができました。貴い血潮によって私たちをきよめられ、キリスト・イエスの仕え人として生きるようにしてくださった恵みを感謝します。
今日は、ローマ人への手紙の最後の章を学びますが、パウロの挨拶のことばと警告の言葉、そして祝福の祈りです。

一つ目、パウロの挨拶(1-16)
1?2節を読んでみましょう。「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」ここに、パウロはローマの教会にフィベ姉妹を推薦しています。彼女についてパウロは、「この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」と紹介しています。恐らく、彼女は、裕福な人で、社会的な地位もあり、商用で大勢のしもべを伴って旅をしたりする身分の人であったと思われます。経済的にも力があったので、多くの人たちに対して福祉的な助けを与えることができたでしょう。また、いろいろな意味でパウロたちの働きを助けることができたのではないかと思われます。多くの人を助ける人として知られているほどに多くの人々を助けていたし、主のしもべパウロも助けていました。このように、多くの人を助け、主のしもべを助けるフィベのような女性たちによって教会は支えられていました。今日も、フィベ姉妹のように、教会やフェローシップの兄弟姉妹たちを助け、主のしもべを助けるイエス・キリストの仕え人たちが多くいます。
私たちのUBF教会にも、姉妹牧者や宣教師たちが多くの人を助け、主のしもべを助けていることを感謝します。東京UBF教会も、キリスト教の伝統を受け継いで、多くの人を助けている姉妹牧者、宣教師たちによって支えられています。パウロは、ローマ教会が聖徒にふさわしいしかたでフィベ姉妹を歓迎し、彼女の必要には何でも助けてあげるようにと、心を配っています。というのは、パウロは多くの人を助けている人をとても大切にしていたことです。人を助けることはやさしくありません。ひとりを助けることもやさしくないのに、多くの人を助けることはどんなに難しいことでしょうか。事実、教えることより人を助けることがもっと難しいです。教師の仕事をしながらも経験していますが、教科書を教えることより、クラスの担任として生徒たちを助けることがもっと難しいです。だからといって人を助けることをやめて教えることばかりするなら、教会はどうなるでしょうか。教会は教え合うことよりも助け合うことを大切にしていかなければなりません。私たちの教会がこれからも多くの人を助け、フィベ姉妹のように多くの人を助ける人を重んじることができるように祈ります。
 3?16節では使徒パウロが26名の名前を挙げながら挨拶していますか。まず、3、4節でプリスカとアクラによろしくとあいさつしています。
3,4節をご一緒に読んでみましょう。「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」ここで、「同労者」という意味は共に働く同僚のことを意味します。同労者は主から与えられた使命のために共に働き、同じ目標に向かって励んでいきます。この夫婦はパウロの立派な同労者としてどんなによく協力していたのでしょうか、パウロは、「この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。」と紹介しています。
事実、このふたりがどれほど熱心なクリスチャンであったかは新約聖書からよく見ることができます。それは、彼らがどこに行っても教会の聖徒たちが彼らの家に集まっていたことからも明らかです。エペソの教会も、このふたりの家に集まっていました(?コリント16:19)。ここでもローマにいるふたりについて「その家の教会によろしく伝えてください。」と述べています。また、彼らは聖書に精通していました。使徒の働き18章を見ると、聖書に通じていたアポロがイエス様の事について教えていた時に、御言葉の意味について十分にわかっていないところがありました。それを見たプリスカとアクラはアポロを家に招いて、神の道をもっと正確に説明しました。それほどに聖書の御言葉をよく知っていたのです(18:25-26)。だから、この夫婦は尊敬されているクリスチャンであり、御言葉をよく理解して人々に御言葉を教えることができる成長した聖書先生でありました。また、彼らは自分の職を持っていてパウロと一緒にあちらこちらに行っても自分の手で働きながら福音を伝えることができました。私たちUBF教会も、聖書に精通している御言葉のしもべとして、自分の家を開放してもてなし、兄弟姉妹たちに仕える、しっかりしたクリスチャンとして成長して行くように祈ります。 
5,6節では「エパネトとマリヤによろしく」と言っています。エパネトはアジヤでのパウロの最初の改宗者でした。今はローマに遣わされています。パウロは宣教師として初めての実を宣教師として遣わしたことが分かります。東京UBFも宣教師たちの伝道によって最初の実となった米本真理牧者たちをアメリカの宣教師として遣わしました。私たちも、パウロのように愛するマリ・ロペス宣教師家族、マタイ・バイ宣教師の家族のために祈り続けて行きたいと思います。
マリヤに対しては「あなたがたのために非常に労苦したマリヤ」と紹介しています。マリヤはどんなに熱心に働いていたことでしょうか。遠く離れているパウロが非常に労苦した人として覚えているほどに熱心に働いていたのです。今日も、教会にはマリヤのように非常に労苦している方たちがいます。先週、秋分の日に、私は二階のゲストルームにいましたが、誰かが来てセンターのゴミを全部捨てて帰りました。私が名前を言わなくても皆がよく知っていることでしょう。このように、人々に見られない夜明けに、昼間に黙々と仕えている姉妹たちがいるからこそ、この教会も存在し続け、成長し続けて行くのです。ここで、パウロが「非常に労苦したマリヤ」と言っていることは、神様もそのように覚えてくださるということです。目立たない働きであっても、神様がご覧になっています。そして、私たちのすべての奉仕、仕えているすべてのことを覚えてくださるのです。私たちの罪と咎、失敗を覚えてくださるのではなく、この16章に記され、ヘブル人への手紙11章にも記されているとおりに、私たちが主にあって労苦したこと、信仰によってしたことだけを覚えて称賛してくださるのです。
7節をご覧ください。ここで、パウロは自分といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしくと言っています。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、またパウロより先にキリストにある者となりました。パウロは自分より先にクリスチャンになった先輩たちを尊敬していて、人々に紹介する時も、自分より先にクリスチャンになったことを明らかにしています。
8-12節では主にあって愛するアムプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロの家の人たち、ヘロデオン、ナルキソの家の主にある人たち、ツルパナとツルポサ、ペルシスによろしくと伝えています。
13-15節では「主にあって選ばれた人ルポスと彼の母、アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく」と伝えています。ここでルポスの母は、もちろんパウロの肉親ではありません。けれども、霊的に母と呼ぶことができたほどの関係があったようです。私たちが、家、土地、友人、家族をキリストのために捨てるとき、私たちは百倍の報いを受けます(マルコ10:28?30)」ここで、捨てるということは親子の関係を切るというようなことではありません。イエス様は十字架にかかられた時にも、ご自分の肉親の母であるマリヤを覚え、愛する弟子ヨハネに頼みました。それほど親孝行していたのです。ただ、そのような家族であっても、まず神の国とその義を求める者に大いなる神様の報いと祝福が約束されているのです。実際に、パウロは霊的に驚くべき人数の家族を得ることができたのです。聖なる口づけを持って互いのあいさつを交わすことのできる親密な家族が数多くいたのです。ですから、パウロはローマの教会に家族愛で愛し合うことを勧めています。
 16節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。」 ここで、口づけは、もちろん、当時の社会においてあいさつとして行なっていました。今でも欧米の人々は口づけで挨拶をかわしています。でも、ここでただの「口づけ」ではなく、聖なる口づけです。というのは、主にあってあいさつをする、ということです。これは、ただ「おはようございます」と言うことではなく、今見てきたように、主にあって抱いている兄弟愛、家族愛に裏付けされたあいさつです。こうした兄弟愛を抱くには、私たちが単に、聖書を学ぶために教会に来るだけでは身につけることはできません。主にあって共に労していることが必要なのです。苦難も一緒に経験するのです。もちろん、それは強いられてでもなく、いやいやながらでもありません。キリストの愛に満たされて、それがあふれ出て来る結果、ともに労します。喜びも、悲しみも一緒に経験して行きます。その中に、互いのあいさつを交わすことができるのです。私たちの教会も、いつも聖なる口づけを持って互いにあいさつを交わしましょう。「挨拶はその人自身の人間性を表すものだ」と言われています。挨拶の仕方1つで、相手の気持ちを和ませることができる道具だと思います。大きな声で、元気よく気持ちのいい張りのある声で挨拶されると、挨拶された方も気持ちがよくなるでしょう。挨拶で人の感情を左右できるのです。こんなすばらしい道具はないでしょう。聖なる家族として元気よく気持ちのいい張りのある声で互いにあいさつを交わすことができるように祈ります。

二つ目は、パウロの警告の言葉です(17-20)
17?18節をご覧ください。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」分裂とつまずきを引き起こす人たちです。彼らは、自分たちが学んだ教え、つまり聖書の教えにそむいている人たちです。そのような人が教会の中にいると、その人は必ず分裂とつまずきを引き起こします。だから、警戒しなければいけません。パウロは、「彼らから遠ざかりなさい。」と言いました。彼らを攻撃して、彼らと対抗しなさい、とは言っておらず、「遠ざかりなさい」と言っています。悪に対しては、対抗するのではなく関わりをもたない、遠ざかることが必要です。なぜなら、このような人は何でも、自分たちのところに人を引き寄せようとするからです。自分たちの活動がさらに大きくなり、前進するために、教会にいる人々を利用しようとします。そして彼らの特徴は、なめらかなことば、へつらいのことばを話すことです。一見、すばらしいクリスチャンだなあと思わせるようなことを話すのですが、教会の中で仕えるのではなく、自分たちのグループに人を寄せ集めようとするためにそのようなことを行ないます。だから、純朴な人、警戒心を持っていない人たちは、だまされてしまいます。
19、20節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」ローマの教会の従順はすべての人に知られていました。従順であることを知られているということは、非常に素晴らしいことです。当時、ローマ帝国は権威に従うことを徐々に教え込みましたが、ローマのクリスチャンたちは、従順をよく理解していたようです。昨日の日ごとの糧に記された百人隊長は、従順をよく知っていました(マタイ8:9)。百人隊長は「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 と言いました。これが従順です。だから、彼は「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」(8b)と言うことができました。そして、イエス様は、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と言われ、彼の信仰を祝福し、すぐに御言葉でしもべをいやしてくださいました。ローマのクリスチャンには、このような純朴な信仰があったのです。ところが、純粋な心にはサタンに騙されやすい危険性もあります。だから、パウロはローマにいる聖徒たちに、異端の人々が教会に入り込んでくるということを知ってほしい、と警告し、警戒しているのです。異端は自分たちが思いもよらないところで入り込んでくることがよくあります。今日の日本の教会でもさまざまな異端が忍び込んでいます。エホバの証人、モルモン教、統一協会だけではなく、名が知られていない異端がたくさんあります。また、教えは異端ではないけれども、その行ないにおいて異端のグループもいます。姦淫、暴力、詐欺などを公然と行なっている教会がありますが、これらも異端です。私たちは、そういう異端を警戒しなければなりません。私たちが神様の御言葉に従順であれば、平和の神は、すみやかに、サタンを踏み砕いてくださいます。平和の神様こそが、私たちが悪い人に打ち勝つようにしてくださいます。サタンを私たちの足の下に打ち砕きます。
21-23節ではパウロが仲間になっている人人の名前を載せて、彼らのあいさつも一緒に、ローマのクリスチャンたちに送っています。

三番目に、パウロの祈祷です(25-27) 最後に、パウロは祈っていますが、その中で神様をほめたたえています。
結論として25-27節をご一緒に読んでみましょう。「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」
知恵に富む唯一の神様は、唯一のイエス・キリストという一つの道筋を通して、神の本来のお姿を、ほめたたえられます。イエス・キリストは神の真理とご性質とを、彼自身の人々に明らかにされます。私たちは、どのようにすれば、神様について知ることができるのでしょうか。神様はご自身の唯一の御子イエス・キリストを通して、ご自身を明らかにされます。次のイエス・キリストに関する、これらの驚くべき真理は、キリストの使徒たちを通して明らかにされました。使徒パウロは福音のすべての真理を理解し、そして教会にその真理を明らかにする特別な賜物を持っていました。福音の真理や新しい契約の解釈を、私たちに伝えるために、パウロは聖霊によって任命されました。そのパウロがこのローマ人への手紙を通して福音を明らかにしてくれました。そして今日、私たちは使徒パウロの最後の「アーメン」に来ました。なんと素晴らしい手紙でしょう。私たちはひとりひとりがこのローマ人への手紙を通して多くのことを学び、大きな恵みを受けました。
 特に、今日の御言葉を通して私はパウロの個別的な挨拶を通して恵みを受けました。新改訳聖書で名前を数えてみたら、35人の名前が記されています。そのうちパウロとともにいた人たちは8人で、27人はこの手紙のあて先であるローマにいる人々です。当時、パウロが関わってきた家の教会は数え切れないほどあったはずです。その一つ一つの教会の人々についてパウロはひとり一人の名前を覚えていたのです。しかも、パウロは彼らのひとりひとりの働きについて短い感謝と賛辞の言葉を記していいます。ある夫婦についてひとりは信仰があるけれども、ひとりはまだまだ足りないというようなことを書いていません。すべての人について良いことを、また励ましになることを記しています。なんと素晴らしいことでしょう。私たちには二つの見方があります。私たちは悪い面ばかり見ていくと、すべてが悪い方向へと進みます。また、教会のために、人人を持ち上げるなら、神様からの前向きな言葉を、得ることができます。パウロは肯定的に考え、肯定的な面を見ることができました。ローマの聖徒たちがこの手紙を受け取り、そこに自分の名前を見出した時、その人たちはどんなに励まされたことでしょうか。パウロの牧者の心、愛の心、愛情のこまやかさに驚いたことでしょう。

結論的に、私たちもパウロに見習いたいと思います。ひとり一人の名前をあげて祈り、惜しみなく感謝と賛辞の言葉をかけ合う教会を築き上げていきたいと思います。つまり、聖なる口づけを持って互いの挨拶をかわす教会を築き上げていきたいのです。どうか、私たちの教会も、日頃の生活の中で良いこと、また励ましになることを互いのあいさつを交わすことができるように祈ります。また、私たち一人一人が主にあって感謝と賛辞の言葉をいただけるクリスチャンとして成長して行くことができるように祈ります。これからも、私たちの生涯を通してますます深く、広く福音を理解し、使徒パウロのようなしもべとして用いられるように祈ります。すると、私たちは圧倒的な勝利者の人生を生きるようになります。