2009年ローマ人への手紙第18講  

私たちが追い求めること

御言葉:ローマ14:1∼5:13
要 節:ローマ14:18、19「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」

先週、私たちは社会人としての生き方について学びました。良き市民として上に立つ権威に従い、互いに愛し合う生活、自分に対してはやみのわざを捨て、光の武具を着けて生きることです。ではそのような生活の中で心から追い求めることは何でしょうか。
結論から言いますと、「私たちは平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求める」ことです。これを三つに分けて皆さんと共に考え、共に学びたいと思います。どうか、これらのことを聖霊によって深く学び、実践していくことを通して神様に喜ばれ、また人々にも認められるクリスチャンとして生きることができるように祈ります。

一つ目;些細なことに縛られず、教会の本質を追い求めなさい。
1節をご覧ください。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。パウロは「信仰の弱い人を受け入れ」るように勧めています。教会にはいろいろな方がいます。信仰の強い人もいれば、また弱い人もいます。この間、張パウロ宣教師は自分の信仰が強いと思っていましたが、今は「強い。」と言えない」といいました。ここにいらっしゃる皆さんの中では、「昔は弱かったけれども今は強い」と言える方がいるかも知れません。でも、自分が強いからといって信仰の弱い人の意見をさばいてはいけません。では、ここで、信仰が強いとか弱いというのは、どのような内容を言っているのでしょうか。
2-4節をご覧ください。「何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」とあります。
ある人たちは、肉を食べるべきではないと信じていました。また、ある人たちは肉を食べることができると信じていました。パウロはここでどちらが正しいのかということに関する見解を示していません。お肉が好きな人に対しても、菜食主義者に対しても自分の意見を示していないのです。ただ、パウロは「食べる人は食べない人を侮ってはならないと言っています。「あの人、日本宣教師なのに納豆も、梅干も食べれないんだってさ?ばかみたい!」と言ってはならないのです。また、逆に、何でも食べる人に対して「あの人、何でも食べるだってさ?豚みたい!」とさばいてはならないのです。なぜなら、神様は人の食べ物を見てその人を受け入れるのではなく、その人の真心を見て受け入れてくださるからです。何よりも、私たちはクリスチャンとして、すべての人は神様のしもべであることを覚えていなければなりません。しもべが立つのも、倒れるのも、その主人の心次第です。神様が責任を持ってご自分のしもべたちを取り扱われるのです。私たちに他の兄弟をさばく権利はありません。人をさばかれるのは神様ご自身であり、私たちではないのです。安息日や祝祭日などに関しても同じです。
5,6節をご覧ください。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」とあります。初代教会の中には、土曜日に安息日を守っているユダヤ人がいました。なぜなら、神様が、ユダヤ人に安息日を守るように命じられたからです(出31:16)。一方では日曜日こそ主の日だと思っていました。なぜなら、イエス・キリストの復活が、日曜日の朝だったからです。また、ある人たちは、毎日集まって、パンを裂き、主を賛美していました。しかし、クリスチャンにとって何を食べるか、どのような日が重要であるかと言うことではないのです。何のために、食べるのか、何のために、日を守っているかと言うことです。
7-9節をご覧ください。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」とあります。これがクリスチャンライフです。イエス・キリストを信じて救われた人はみな、主のために生きるのです。私たちは生きるにしても、死ぬにしても、主のものです。私たちの生き方、私たちの生活をご覧になりさばかれる方も主です。私たちのすべては主に評価されるのです。もちろん、私たちクリスチャンは人々からも評価されます。ダニエル書6章を見ると、ダニエルは忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったのですが、私たちクリスチャンはそれほどの生活が求められています。しかし、たとえ、私たちが何の怠慢も、欠点も見つけられないほどの生活をしても、その正しさを持って人をさばいていけません。私たちは主のものであって、キリストが私たちの生も、死もうかがっておられる主であるからです。私たちはいつも主を第一にして生きなければなりません。
ところが、私たちは他の兄弟姉妹たちとの「考えの違い」を荒立てて、それが人生の重要な問題であるかのように思い、人をさばいてしまいます。主のことを第一にして忠実に生きているなら、兄弟姉妹たちをさばいている暇はないはずです。主の御前で死に至るまで忠実に生きようとする人には人をさばいている暇がないのです。キリストを第一にしていない時に、私たちは詰まらない些細なことのために目くじらを立て、自分と同じようになることを求め始めます。それが争いや、いざこざの始まりになってしまう場合が多いのではないでしょうか。
ある教会ではピアノの位置を変えたことで教会が分かれたそうです。若い牧師が赴任して教会堂の環境を新しくしていくうちにピアノを移しました。ところが、長老たちから反対がありました。元老牧師が開拓の時から一度も移したことのピアノ、人が少なかった時、元老牧師先生はピアノ伴奏もしながら説教をしていたのに、何も知らない若い牧師が勝手に移してしまったと怒ったのです。すると、その意見に賛成する聖徒たちと若い牧師に賛成する聖徒たちと別れたというのです。悲しい話です。何でも自分の判断だけが正しいと考えていると、それが争いや分裂の根元になってしまいます。特に、互いにさばいている時、人は自分を人類の裁判長である神様の座に引き上げるのです。それこそ、赦されないほどの高慢です。
10-12節をご覧ください。「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」とあります。私たちは神様のさばきの座に立つようになる者であって、人々を裁く裁判長ではないのです。兄弟姉妹を裁いてしまうとき、「私たちはみな、神のさばきの座に立」たなければなりません。そのとき、「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開き」をすることになります。パウロは、コリント人への第二の手紙で、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(5:10)」と言いました。ただ、これは私たちクリスチャンにとっては罰を受けるさばきではありません。賞を受け取るさばきです。イエス様から、「よくやった、忠実な良いしもべだ。」とほめられるさばきなのです。この真のさばき主であられるイエス様が今も私たちを見ておられます。ですから、私たちは人をさばく必要がありません。むしろ、自分に対して厳しくしてもっと本質的なことを求めて生きるべきです。
13-15節をご覧ください。繰り返されているように感じられるところでありますが、パウロは食べ物に関することや日を守ることに関することで互いにさばき合うことのないように勧めています。神様はすべてのものを創造されました。そしてもし、私たちが神様に感謝を返すなら、その時、私が何を食べようとも、それは神様によって、聖別され、祝福されます。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。たとえば、私たちの中で誰かがお酒を飲むべきではないと信じている兄弟と、レストランに行ったとします。たぶん、私たちの中ではそれを食べても全くかまわないと考えている方もいるでしょう。神様の御前では自由です。けれども、その人の前では自由ではありません。もし、自由な行動をするなら、それによってその人を台無しにしてしまうでしょう。そのような時に、私たちは兄弟に対して、寛大で思いやりのある慎重さが必要なのです。兄弟姉妹たちはキリストが代わりに死んでくださったほどの人であるからです。私たちは常にキリストが代わりに死んでくださったほどの人たちを滅ぼさないようにしなければならないのです。
20-23節をご覧ください。「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」とあります。結局、私たちが追い求めるべきことは食べ物のような些細のことではなありません。キリストのために、キリストが代わりに死んでくださったほどの人たちを愛することです。彼らのために、肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか、兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。

二つ目も平和に役立つこととして自分の意見よりも愛を追い求めることです。
16、17節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」パウロが、ここで教えている原則は何でしょうか。それは、教会においては、信仰の強い人が、弱い人に対して、罪でない限り、「譲歩しなさい。」ということです。この原則は、キリストの体なる教会の一致のために極めて重要です。皆が自分の意見だけを強く追い求めるなら、共同たちの一致を保つことはできません。
先週、私は職場で自分の意見ばかりを強調する人たちに悩まされました。私が勤めている学校では校長の人事権を補佐する人事諮問委員会で新学年度の部長、担任などを調整しています。ところが、ある先生は会議の前まで自分は「部長をやらない」と強く主張していました。しかし、委員会での彼の意見は自分がやるということでした。しかも、彼の意見は強いものでした。分かってみると、本音はやりたいことでした。しかし、管理者からみると、公でやらないと言っていた人に仕事を任せることも優しくありません。私にはその間で調整する役目がありましたが、とても難しかったのです。ほかにも、自分が考えて強い人の意見が優先されるような気がすると、それに反対する私の意見もなかなか強くて会議が長引きました。それで、会議が何回も繰り返されましたが、やはり自分の意見だけを強く主張すると、職場でも一致を保つことができないという真理を悟り、学んだのです。でも、職場では給料があるから、嫌でも管理者に従うから、学校も、会社も維持できます。しかし、教会は給料をもらうところではありません。だから、信仰の強い方、経歴のある方たちが譲歩することがなければ、教会は成り立たなくなってしまいます。東京UBFの教会も、一番年上の李ヨシュア宣教師を初め、名誉支部長の金ヨハネ宣教師が見ると、私のやっていることが幼稚に見えるかも知れません。牧者たちから見ると、韓国式に思われることも多いでしょう。この世の社会的な身分から考えると、CBF担当の朴エズラ宣教師は大学教授であり、私は中高の教師にすぎません。しかし、皆が謙遜になって自分の意見よりも愛を追い求めているから東京UBF教会と言う共同体が成り立ているし、ますます成長しています。もし、教会の本質ではない、食べ物、飲み物などの些細なことで自分の意見だけを主張しているなら、何をしても平和に役立つことはできません。霊的な成長もできません。教会の本質は、何と言っても、霊的性格にあるのであって、飲み食いなどにあるのではないからです。もう一度17節をご覧ください。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」とあります。もちろん、だからといって、教会で飲み食いをしてはいけないと言っているのではないということは言うまでもないでしょう。飲み食いに代表されるような小さなことで、人をさばいたり、批判したり、人を引きずりおろしたりするが教会の本質ではなく、義と平和と聖霊による喜びこそが本質なのだということです。そういうわけですからどうするべきでしょうか。
19節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」ここで、私たちが究極的に追い求めるべきことが何かを学ぶことが出来ます。それは「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことです。この御言葉と関連して12章18節を開いて見ましょう。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とあります。ここに、「自分に関する限り」とパウロは言っています。これも意味深いことだと思います。私たちは「あの人さえ良くしてくれれば、平和になるよ。」と思います。しかし、パウロは「ほかの人は、どうであれ、あなたに関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と言っているのではないでしょうか。
クリスチャンは、キリストによって救われてキリストに仕える者です。キリストの主権に従い、上に立つ権威に従う者です。飲み食いなどによって結ばれる関係よりも、キリストとの関係、キリストを最優先する生き方で生きる者です。ですから、クリスチャンに心の中心がキリストから離れ、キリストに仕えなくなると、途端に、自己主張が始まり、自分の考え、自分のやり方などを他の人にも押し付けるようになります。自分の知識で人々を批判する批評家kとなってしまいます。そういう人の意見が強くなっていくと、教会の一致を破壊する結果をもたらすでしょう。そういうわけで、「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求める」必要があるのです。食べ物のことや、日を守ることのような些細なことで、教会の一致と教会成長を妨げ、神様のみわざの壊すようなことがないように気をつけなければなりません。私たちは、一人一人、違った甥立ち、背景、考え方を持っています。特に東京UBFは国籍も違う方たちが集まっています。そのために、細かなことになると、少しずつ違った考え方が現わされることは、ありうる事です。そのような場合、自分の意見を主張するより、自分の方から、他の人がつまずかないように配慮しましょう。お互いに霊的成長を遂げられるように、自己犠牲をして助け合うことができるように祈ります。

三つ目は霊的成長に役立つこととして自分をキリスト・イエスにふさわしいことを追い求めることです。15章1節から13節では信仰の弱い人に対する愛の態度について教えています。ここで、大切なのはキリストにならって行動することです。
1-3節をご覧ください。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。」私たちの主イエス・キリストです。イエス様は正しい方でありながら、私たちが受けるべきそしりを代わりに受けられました。もしイエス様がご自分の精神的必要を満たしたいと願われるなら、十字架につけられる前の、またつけられたときに受けたののしりを、決して黙って聞いておられなかったはずです。ですから、私たちが自分を喜ばせないためにはどうすればよいか分からないときは、キリストを見上げれば良いのです。

結論として13節をご覧ください。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」とあります。パウロは祝祷しています。望みをいただくと、それが実現する期待で私たちに喜びが満ちます。また、実現するので将来への不安がなくなり平安で満ちます。ですから、すべての喜びと平和をもって満たされるのですが、さらに聖霊の御力によって私たちは、その望みがあふれでるようになるのです。望みに満ちるのではなく、あふれでます。これが聖霊のみわざです。私たちの心を満たすだけではなく、あふれ出させてくださるのです。どうか、この素晴らしい聖霊に働きによって私たちが日々、些細なことよりも本質的なことを求め、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求める生活ができますように祈ります。