2009年ローマ人への手紙第16講

霊的な礼拝

御言葉:ローマ人への手紙12:1?21
要 節:ローマ人への手紙12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

先週、私は神様の恵みによって李ヨシュア宣教師と共に大分UBF開拓礼拝に参加して来ました。皆さんの祈りの支援を感謝します。日本の47都道府県開拓のためにささげる祈りを聞かれる主が大分県にもUBF教会を立ててくださり感謝します。霊的なしもべレイ・グロンディン宣教師は民数記13,14章の御言葉を通して「主が私たちとともにおられる」ということを強調しました。レイ・グロンディン、ツカサグロンディン宣教師たちがカレブとヨシュアのような信仰を持って大分大学を始め、大分県のキャンパスを霊的に征服して行くことができるように祈ります。
先週、皆さんは、張パウロ宣教師を通して、あわれみの神様が不思議なご計画の中で、イスラエルが必ず救われる、回復されることを学んだことでしょう。11章の最後でパウロは「というのは、すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」と言っています。つまり、パウロはここで「アーメン」と言うことによって区切りをつけていることが分かります。事実、1章から11章まではキリスト教の教理的な面を記しました。その中で1章から8章までは個人の救いに関する教理だったし、9章から11章までは人類の救いに関する教理でした。ここで、パウロはイスラエルの救いと人類の救いのみわざはただ神様のご計画とあわれみによって成し遂げられるという真理を教えました。
これからは1章から11までの教理に基づく実際的な生活について教えています。私たち人間にとって最も大切な礼拝について、クリスチャンの教会生活や社会生活について教えています。この時間、学ぶ12章では霊的礼拝とクリスチャンの教会生活について教えています。私はこの内容を三つに分けて皆さんと共に考え、共に学びたいと思います。一つ目は、霊的礼拝、二つ目は、教会の奉仕に対する態度、三つ目は、愛の交わりです。どうか、この学びを通して、私たちの実生活が神様に受け入れられる者として変えられて行きますように祈ります。何よりも、私たちの営む全ての日が霊的礼拝となりますように祈ります。

では、一つ目として霊的礼拝について学びます。1節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」パウロは1章から11章までの御言葉を通して述べられたように、すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができません。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです(3:23,24)。旧約時代では、義と認められるために儀式的な洗い聖めとして供え物をささげました。その供え物(いけにえ)は雄牛や子羊のからだであって不完全なものでした。ところが、イエス様は完全な供え物として傷のないご自分のからだをささげられました。聖く、悪も汚れもなく、罪人から離れたお方、イエス・キリストが神様に生ける供え物として、ご自身のからだを差し出されたのです。そういうわけですから、このイエス・キリストを信じ、神の子どもとされ、救われ、聖徒として生きることになった一人一人は、この地上でどのような生活をするべきでしょうか。特に、ローマという世界の中心地で数少ないクリスチャンとして、日々の生活をどのように営むべきでしょうか。世俗的な大都市の中でも、キリストのように、聖く、悪も、汚れもなく、罪人から離れた生活を営むことはなかなか難しいことでしょう。大都市東京に住んでいる私たちには理解できます。パウロもその実情をよく理解していたようです。そこで、彼は「兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と言っています。命令的に語るのではなく、「お願いします。」と言っています。J-Bibleの英語訳を見ると「beseech(懇切に願う、嘆願する)」になっています。この原語は、非常に強い言葉で、それは死に物狂いを意味するそうです。鞭打ちの死に処せられた奴隷は主人に、命乞いを泣きながら懇願するのですが、その時に用いられる言葉なのです。それほど懇切な心を持ってパウロは、神に受け入れられる聖い、生きた供え物として、私たちのからだをささげるように、お願いしているのです。
おそらく、パウロは21世紀のローマになっている東京で数少ないクリスチャンとして生きている私たちにも同じ心でお願いしていると思います。東京でクリスチャンとして生きること、イエス・キリストのように、聖く、悪も汚れもなく生きることはやさしくないでしょう。しかし、イエス・キリストはあなたを罪から贖うために、ご自身のからだを何の欠点もない供え物としてささげられました。あなたのためにイエス・キリストのからだは十字架に付けられて貴い血を流されました。イエス・キリストはあなたを救われ、神の子どもとされ、聖なる国民と祭司の王国とするためにご自身のからだを犠牲にされたのです。「そういうわけですから、東京UBFの皆さん。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたに懇願し、嘆願します。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。これこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言っているのです。
ここで、神様に受け入れられる者として生きなければならないことを学ぶことが出来ます。汚れたままで生きるのではなく、悔い改めを通して聖い生活をするのです。そして、死んだものでなく生きているものであることが大切です。つまり、知識的、理論的に学ぶことに留まらず、神様によって生かされ、確かに生きている者として神様に献身する生活が求められているのです。そのように生きることこそ、「霊的な礼拝」です。もちろん、今、ささげている主日礼拝も大切ですが、日々神様に仕えて生きる生き方こそ「霊的な礼拝」なのです。そこで、パウロはクリスチャンとして営む生活についても教えています。
2節をご一緒に読んでみましょう。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」神様に受け入れられる供え物として自分をささげることは、生まれながらの人間には不可能なことです。しかし、イエス・キリストを信じて生まれ変わった人には可能なことです。信仰告白をして救われた者は神様が導いてくださるからです。ただ、神様の導きに従うかどうか、私たち人間に与えられた自由です。私たち人間にアダムに与えられた自由意志があるのです。この世と調子を合わせて生きることもできるし、生まれながらの本性で生きることできます。ただ、私たちクリスチャンは本性のままでは汚れたままで情欲的に、利己的に、自己中心的に生きてはいけないのです。何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知らなければなりません。もちろん、それはやさしくないかも知れません。この世ではこの世と調子を合わせて生きる人が賢い人として評価され、善を行ない続け、良いことだけを行なおうとする人々を馬鹿にしてしまうからです。
先週、韓国人初の枢機卿であった金ム・スファン枢機卿が死去しましたが、彼はカトリック教会だけではなく、国民的に尊敬されていました。弔問客が40万人も至ったほどです。ところが、彼は自分に対して「馬鹿だ」とよく言っていたそうです。それは、この世では馬鹿にならなければ、単純に、分かち合いと愛を実践することができないからだったそうです。私たちもこの世と調子を合わせずに生きようとする時、馬鹿にされることがあるでしょう。牧者や宣教師たちは、キャンパスミッションのために、この国の救いのために、聖なる神様のみわざのために、週末も、休日も神様にささげています。また、貧しい生活の中でも節約し、献金してこの教会をささえ、世界宣教に仕えています。ところが、疲れたり、生活費が厳しくなったりすると、この世と調子を合わせたくなります。
私自身も、経済的に厳しくなった時に教師の仕事の以外に商売もしたいと思った時があります。実際にマナ・テックという会社に登録もしました。私も金持ちになり、彼らが言う成功者になりたいと思いました。ところが、牧者である弟から「兄は宣教師であり、しかも支部長でしょう。教師の仕事もあるでしょう。」と言われた時は、とても恥ずかしくなりました。それで、今はヨシュア宣教師に売っていた商売をやめましたが、この世の人々のいろんな話を聞いていると、本性では調子を合わせて行きたくなります。多分、皆さんもこの世と調子を合わせて生きることが楽だと思われる時があるのではないかと思います。日ごとの糧の御言葉や主日礼拝の御言葉を通して何が正しいか、何が間違っているかを問い続ける生活ができなければ、私たちの霊的な感覚が鈍くなります。だからこそ、私たちには心の一新によって自分を変えことが求められます。
心の一新によって自分を変えるということは本質が変わることです。外面的にこの世と調子を合わせずに生きることも大切ですが、心から変わると、その心は形に現わされます。そして、自分が変わると、周りの人々も変わってきます。李ヨシュア宣教師は会社で人間関係において心苦しくなる時がよくありました。ところが、今年は自分を変えると宣言なさったそうです。そうしたら、他の人の態度も変わって関係性が良くなっていると言われました。私たちにとって良い環境、良い友達、良い同労者に恵まれるということは幸せなことです。ところが、自分を変える生活をしなければ、流れない池の水のように腐ってしまいます。主の御前で自分の心をさらけ出して告白し、恥ずかしいことや罪を悔い改めることによって心を変えなければ腐ってしまうのです。だからこそ、常に、心の一新によって自分を変える闘争をしなければなりません。神様は私たちが自分を変えることを望まれ、喜ばれます。ですから、アブラムをアブラハムに、サライをサラに、サウルをパウロに変えてくださいました。では、私たちはどんな方向に変えて行くべきでしょうか。

二つ目は、教会の奉仕に対する態度について学ぶことが出来ます。
第一に、誰でも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。3節をご覧ください。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。ここで見ると、信仰も与えられたものであることが分かります。ある人は信仰が強く見え、ある人は信仰が弱く見えますが、それは人間の能力や努力によって形成されるのではなく、神様から与えられたものなのです。ですから、自分は信仰が強いと思って思い上がってはいけません。慎み深く考え、節度を知る必要があります。人には自分がしたことに対しては誇大評価をし、人の行ないに対しては無視してしまう傾向がありますが、それも気をつけなければなりません。人のことを判断するより、神様の御前での自分を知ること、自分を悟ることが大切です。そして、神様から与えられた信仰の量りに応じて謙遜に奉仕する時、教会は愛の共同体として神様に用いられるようになります。
第二に、教会のかしらキリストは、ひとりひとりに異なった賜物をくださっていることを知らなければなりません。4-8節を読んでみましょう。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」
 私たちが、キリストのからだの一部であることを知るのは非常に重要なことです。私たちは自分の役割と立場をわきまえる必要があります。私たち自身の役割以上のことをしようとしないのも大切なことですし、自分の役割にアイデンティティを持って忠実であるあることも大切なことです。各々のメンバーは、キリストのからだの一部分としての、大切な働きを持っています。各々の器官は、自分自身の特別の役目を果たさねばなりません。教会の中での問題点は、自己受容のことです。人々は他の人々を見て、その人たちのようになりたいと思います。私はヨハネ宣教師とサラ宣教師が一緒に歌う姿も見ると、私たち夫婦もそうしたいなあと思います。でも、私の同労者マリヤ宣教師は「そのようになることは無理だ。」と思っているようです。それはそうでしょう。私たちは、誰か他の人のように無理になろうとせず、神様が私たちの人生に、定められたことに、流れに身を任せましょう。神様から与えられた信仰から来る確信によって、語るべきことを語り、果たすべきことを果たして行きましょう。
 預言は、神様に示された教えの御言葉を語ることです。奉仕は、教会の中でのあらゆる仕える努めのことです。勧めをすることは、弱さを覚える者に励ましを与え、悲しむ者や悩む者に慰めの言葉をかけることです。分け与えることは、貧しい者への助けをすることです。その人は「惜しまずに」分け与える助けが必要です。指導することも、慈善をすることもすべて、熱心に、喜んですることが尊い働きとなります。何をするかが大切ではなく、熱心に喜んでするかどうかが大切なことです。何をしても、教会のかしらキリストのからだの一部分としてのアイデンティティを持って熱心に、喜んでするなら、それこそ尊い働きとなります。
 私たちが主のみわざに参加すること、奉仕できることは、そのままがクリスチャンにとってこの上もない特権です。この世では、人の地位や身分、働きの大小によって評価します。しかし、教会では教会のかしらキリストがすべてを見ておられ、すべてを知っておられます。ですから、周りを見回して競う必要がありません。ただ、神様から与えられた信仰に応じて、自分に与えられた賜物を感謝しながら仕えることが大切です。神様は私たちが一人一人が自分に与えられた役割を果たすこと、それによって神の教会を建て上げていくことを期待しておられます。どうか、私たち一人一人が神様から与えられた賜物を知り、自分の役割を忠実に果たすことができるように祈ります。

三つ目は、愛の交わりです。9-21節まではクリスチャン同士の交わり、クリスチャンとノンクリスチャンとの交わりについて教えています。まず、9-13節では神様を信じているクリスチャン同士の交わりについて教えています。
9?13節を読んで見ましょう。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」ここで、大切なのは愛には偽りがあってはなりません。もし、偽りがあるなら、愛の共同体である教会が、偽りのもの、見かけだけのものになってしまいます。イエス様が忌み嫌われることは偽善でした。祈りも施しも、もしうわべだけのものなら、それはイエス様に忌み嫌われる偽善です。もし、教会の交わりがうわべだけのものなら、どれだけむなしいものでしょう。教会のかしらイエス様が悲しまれるでしょう。そして、私たちは「忌まわしいものだ」と叱られるに違いありません。だからこそ、パウロは偽りのない真実な愛を勧めています。ではどうやって真実の愛と偽りの愛を見分けることができるでしょうか。パウロは「悪を憎み、善に親しみなさい。」と教えています。善と悪を見分け、どのように対処するか、そこに真実が明らかになるからです。私たちは善と悪をよく見分けて騙されることなく、兄弟愛を持って心から互いに愛し合うことが大切です。私たちの教会に愛し合う愛の雰囲気があることは非常に重要なことです。私たちが熱く愛し合うなら人々がここに集まって来るでしょう。寒いところには人が集まりません。しかし、温かいところ、熱いところに人が集まります。世の中が冷たくなっていきますが、だからこそ、教会に熱い愛の交わりが求められます。私たちの教会がますます熱く、熱く愛し合う愛の共同体として成長していきますように祈ります。
 そのために、尊敬を持って互いに人を自分よりもまさっていると思わなければ成りません。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えることも必要です。自分の生活の中で困難なことがあったとしても望みを抱いて喜ぶことも必要です。自分の家で、夫婦喧嘩したとしても、険しい顔しないで、よくなる望みを抱いて喜ぶのです。そして、患難に耐え、絶えず祈りに励むことです。患難に耐え、絶えず祈ることが大切です。祈り続けると、神様が助けてくださいます。すべてのさばきは神様に任せて、自分は自分に与えられた賜物を生かして聖徒の入用に協力し、旅人をもてなすような働きに励むことが大切なのです。そういう努力、霊的な闘争を通して教会はさらに熱い愛の共同体になって行きます。
14?21節ではクリスチャンがノンクリスチャンとの交わりをどのようにするべきかについて教えています。自分を迫害する者があっても、のろってはいけません。むしろ、祝福するべきです。そして、大切なことは、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣くことです。私は父親が天に召された時、多くの方たちが一緒に泣いてくれました。そのことを通して、私は心のしみじみにキリストの愛、兄弟愛を感じ、悟りました。

私たちは、以上で素晴らしい教えを学びました。皆さんも納得することでしょう。同時に、「それは難しい!実行不可能だ!」と思い知らされるところもあると思います。」共に喜ぶことも、共に泣くことも、私には難しい・・・・」と思わされるかもしれません。では何故、そのような難しい教えが語られるのでしょうか。ただ努力目標としてだけの教えでしょうか。そうではないはずです。私たちにできないことが求められているのではありません。主にあって、聖霊の働きによってできることとして求められています。教会は御霊によって生まれ変わり、造り変えられた者の集まりです。だからこそ、私たちは聖霊によって主の教えを実践することができます。もし、私たちが御言葉のとおりに実践する愛の交わりは無理だと決め付けるなら、その時、教会は教会ではなくなるのでしょうか。私たちは小さな群れであります。どうか、悲しいことも、喜ぶことも、互いに知らせ合いましょう。それで、どんなことでも一緒に、泣き、一緒に喜ぶことができるように祈ります。そういう生活を通して日々神様に喜ばれる霊的礼拝をささげることができるように祈ります。