2009年ローマ人への手紙第14講   

御言葉による救いの御業

御言葉:ローマ人への手紙10:1?21
要 節:ローマ人への手紙10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

先週は神様の主権的な働きと召されについて学びました。今日の御言葉は、なぜ、イスラエルが救いを得ることができなかったのか、彼らが救われるためにはどうするべきかを教えてくれます。ここで、私たちは救われるためにはどうするべきか、すべての人々が救われるためにはどんな働きが必要なのかという救いのみわざについて学ぶことが出来ます。

1節をご一緒に読んでみましょう。「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」新共同訳では「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」と訳されてあります。パウロの心からの願いと祈りはイスラエル人が救われることでありました。先週も、パウロがイスラエルの救いをどんなに願っていたのかを学んだのですが、彼の祈りは続いていました。もし、パウロが感情的な人だったら、祈りをあきらめたはずです。なぜなら、ユダヤ人はパウロの働きを妨害するために全力を尽くしていたからです。パウロを町から追い出し、パウロを殺そうともしました。だから、「もう、この人たちは選ばれていない。恩知らずの人間だ。恩知らずの人間こそ最低の人間だ。この人たちは地獄に行っても仕方ない。」と思うこともできたはずなのです。しかし、パウロは自分を迫害し、殺そうとするユダヤ人の救いをあきらめず、彼らのために祈り続けていたのです。
ここで、私たちも自分の同族の救いのために、自分の家族の救いのために祈り続けなければならないことを学ぶことが出来ます。たとえ、自分に傷つけ、自分を憎んでいる敵のような人がいても彼らのためにも祈り続けることです。先週、不思議にも、パウロチームの勉強会でも、ヨシュアチームの集まりでも、過去、この教会から離れて行った方たちのために祈り続けていることが話題になりましたが、それは神様が望んでおられることです。私はそのことを深く悟りました。どうか、私たち皆が自分とかかわるすべての人の救いのために祈り続けることができますように祈ります。
ではユダヤ人の問題は何ですか。
2,3節をご覧ください。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」ここで、パウロはユダヤ人の無知な熱心を指摘しています。日本人も勤勉で熱心な国民として知られていますが、ユダヤ人ほど熱心な人たちもいないと言われています。特に宗教的に、ユダヤ人は週に二度も断食をし、収入の十分の一をささげ、多くのいけにえをささげていました。ユダヤ人の選手たちはオリンピックで金メダルが取れる種目であっても安息日に競技があるならあきらめます。彼らは絶対的に安息日を守ります。毎年、過越の祭り、仮庵の祭り、五旬節などの祭りにも、すべての仕事を休んで参加します。彼らの熱心は「まあ、宗教的なことだから、いいじゃないか。」という程度の問題ではなかったのです。パウロ自身も救われる前は熱心なユダヤ人でした。「その熱心は教会を迫害したほどで」あったと言っています(ピリピ3:6)。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
自分なりに熱心な人たちの特徴は自己義が強く、頑固で、高慢であることです。こういう人たちは自分の考えがあまりにも強いから人の言葉を聞こうとしません。最後まで自分の意見だけを主張し、謙遜に学ぼうとしません。決定的に、こういう人たちは御言葉に従いません。完全に自我が砕かれるような経験をしなければなかなか主の御前に出てきません。自分の義を立てようとして、神の義に従わないのです。すべてが人間中心になっていて神様中心の世界になっていないのです。
ところが、私たちの信仰生活はどうでしょうか。本当に神様中心の世界になっているでしょうか。あるいは自分中心、教会中心、団体中心になっていることはないでしょうか。つまり、自分や自分が属している教会、団体を通して神様の働きを判断することはないでしょうか。私たちは、まず神様の前に出て行かなければなりません。そして、まず神様を知る必要があります。神様がどのような素晴らしいお方なのかを知ることです。神様がどのようなみわざを行なわれるか、神様がどのように働いてくださったかを知ることはなのです。そうすると、自分に注がれている神様の愛を悟るようになります。そこで、神様への愛も生まれます。全身全霊で自分を愛してくださるその愛に応えて自分も心を尽くして主を愛しようと思うようになるのです。それによって神様に喜ばれる信仰生活ができます。人々に認められるためでもなく、自分の義を立てるためでもなく、ただ神様に愛されていることに感動し、感謝して神様を愛する行動をするようになります。ですから、まず、私たちは神様の働きを知ることが大切なのです。では神様は何をなさいましたか。
4?7節を読んでみましょう。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。」パウロはキリストが律法を終わらせられたこと、つまり律法を成就してくださったことを明らかにしています。キリストは私たちがしなければならないすべてのことを行なってくださいました。この世に生まれてくださり、十字架につけられるまでの生涯を通して律法を終わらせました。ヨハネの福音書19章28?30節を見ると、十字架にかけられたイエス様は律法のすべてを成就し、完了したのです。ですから、私たちに必要なのは、ただ、ご自分の十字架の死によって律法の要求を全うし、すべてのことを完了したキリストを信じることです。義と認められるために天に上るようなわざを行なわなければならないようなことはありません。すでに、キリストは天から下り、人となって私たちの間に現われました。ですから、再びキリストを引き降ろすようなことをする必要がないのです。また、義と認められるために「だれが地の奥底に下るだろうか」と言ってはいけません。キリストがすでに葬られて、よみがえられたからです。それでは、私たちはどうやって義と認められ、救われるでしょうか。
8節をご覧ください。「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」とあります。救いの道は遠くあるのではなく、近くにあります。救いの道は険しく難しい道ではなく、とてもやさしい道なのです。どんなにやさしい道でしょうか。
9,10節を読んでみましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」私たちが救われるために二つのことが必要です。一つは口で告白すること、もう一つは心で信じることです。では口で告白し、心で信じるということは何でしょうか。
聖書を読んで気づいているかも知れませんが、8?10節に書いてある言葉の順番を見ると、8節では「口」が先で「心」が後になっています。9節もそうです。ところが、10節ではその順序が逆になっています。まず「心」を語ってから「口」で告白することを語っています。普通ならこの順番でしょう。「心の中で信じてから口で告白する」と言うことでしょう。では、なぜ、パウロはこのように語順を変えているでしょうか。(○○牧者!その理由は何でしょうか。正解は天国に行けばパウロが答えてくれるでしょう。)私は福音総合研究所のスミス牧師の講解説教集から納得できる答えを発見しました。語順を変えた二つの言い方が一つの文脈の中で使われているということは、心と口が一体であることを示しているのだということです。「口の告白と心の信仰」とは一体であるのです。イエス様は「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」と言っておられます(マタイ15:11)。心に汚れて物があれば、それは口から出てきます。心がきよければ口からも良い言葉が出てきます。心にあるものが口から出てくるのです。それゆえ、イエス様は、自分の心を洗ってきれいにしなければ、口がきよくなることはないとユダヤ人に教えておられます。ユダヤ人たちは何が口に入るかばかり考えていました。現代人もダイエットのために、健康のために、口にはいる物ばかり考えていますが、ユダヤ人は儀式律法に禁じられているかどうかということで口に入るものを気にしていたのです。その人たちに対してイエス様は「心にあるものが口から出て来る」と教えたのです。神様に対する信仰の告白もそのように心と口は一つであって、心で信じて口で告白します。心で信じる者は、その信仰を口で告白する者なのです。
 私たちが毎週の礼拝に告白している使徒信条と主の祈りも心で信じていることです。クリスチャンなら、心において真実に信じていることを告白しているはずです。父なる神様が天地万物を創造し、御子なるキリストはこの世に来られて私たちの罪のために死んでくださり、死人の中から復活しました。その後、天に昇って万物を支配し、やがて再臨があります。今、聖霊による聖徒の交わり、聖霊による教会の働きと勝利があります。これらを信じて告白しているのです。ですから、考えもせずに使徒信条を口から吐き出していてはなりません。絶対にそうであってはなりません。主の祈りもそうです。心からの信仰の告白でなければならないのです。心から告白することが非常に大切です。日々の祈りも、心の中で信じて告白する時に、救われる恵み、助けられる恵みを受けます。どうか、私たち一人一人が心から信仰告白する生活を通してますます深く、ますます広く神様のご臨在と救いを体験して行くことができるように祈ります。では私たちの信仰告白の中で最も大切な告白とは何でしょうか。
それは9節にあるように「イエスを主と告白する」ことです。「主、主」ということばには、本当に深く、広い意味が含まれています。旧約的にはイエス様が万物の創造主、宇宙と全人類の唯一の主権者、生と死との支配者であると告白することです。新約的にはイエス様が私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれましたが、死者の中からよみがえった主、今なお生きておられる主、天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられる主であると告白することです。また、この告白にはイエス様が私の主人であり、私はイエス様の所有物、イエス様のしもべ、イエス様の奴隷であるという意味も含まれています。ですから、私たちが本当に心からイエス様を主として信じて告白するなら、言葉では言い尽くせない平安を経験することができます。創造主、生と死との支配者であられるお方、私のために死んでくださったほどに私を愛してくださる主によって守られ、導かれる者として生きるということは本当に大きな祝福です。何も恐れることはありません。イエス様が私たちの主になってくださったことを心から感謝します。  
13節をご覧ください。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」とあります。私たちが信仰告白の上で主の御名を呼び求める祈りをするなら、救われます。ユダヤ人は生活の中で主に頼ろうとしませんでした。謙遜に主の御名を呼び求めることより自分の義を立てようとしました。それゆえ、彼らは救いも、神の力も経験することができませんでした。しかし、誰でも主の御名を呼び求める者は神様の救い、大いなる力を経験するようになります。主を信じてその御名を呼び求める者は罪から救われます。暗やみから救われます。運命から救われます。無気力と軟弱な生活から救われます。私たちを罠に陥れるさまざまな罪の誘惑と快楽から救われて新しい人生を生きるようになります。さまざまな病からも救われます。私たちが日々心からイエス様を主として信じてその御名を呼び求める祈り生活を続けるなら、毎日主の救いとその力を体験することが出来ます。私は主の御前にひざまずいて「主よ。」と呼び求める生活を通してこの世界は主が支配しておられることを何度も何度も、体験しました。私にとって宣教師になることも、結婚することも、子どもが生まれることも、ビザを取ることも、就職することもやさしいことでありませんでした。この教会堂を購入することも、決してやさしいことではありませんでした。でも主の御名を呼び求めると、主は私を暗やみから救い出し、人々の心も動かしてくださることを体験しました。主なるキリストの御名を賛美します。
 14、15節をご覧ください。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」」とあります。ここで、私たちは宣べ伝えることの重要性を学ぶことが出来ます。あらゆる人に福音を聞く機会を与えることは、とても重要なことです。そうすれば、人々は若い頃から、キリストを受け入れ、すべての人生を変えて行く、神様の御言葉の真理を受け入れることができます。御言葉を知らせる人によって人々は生まれ変わり、とても美しく素晴らしい人生を生きるようになるのです。ところが、御言葉を知らせるためには出て行かなければなりません。足の活動が必要です。心で信じて口で信仰告白することは自分の救いのためですが、足の活動は人の救いのためです。それで、聖書は言っています。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」口で信仰告白することは大切ですが、「その口は、なんとりっぱでしょう。」と言われませんでした。聖書を福音を伝える人の足を褒めています。ある人の足は太くてあまり美しく見えないかも知れません。しかし、福音を伝えに行くなら、「その人の足は、なんとりっぱな足でしょう。」と神様から称賛されます。最近、私は自分の足をりっぱにするために毎日のようにキャンパスに行って祈っていますが、今年は私たち皆の足が良い知らせを伝えるりっぱな足として用いられるように祈ります。
17節をご覧ください。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。主の御言葉を聞く時に信仰のわざが起こります。主の御言葉の中に罪と闇の勢力を征服する光といのちがあるからです。このいのちの御言葉、光の御言葉を聞く人々のうちに素晴らしい信仰のわざが起こるのです。
 ところが、イスラエルの反応はどうでしたか。
16節をご覧ください。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。」とあります。イスラエルは福音を受け入れず従いませんでした。しかし、彼らは御言葉が聞こえなかったと弁明することはできません。
18節をご覧ください。「でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」」とあります。イスラエルはモーセ五書を全部を覚えたし、メシアに関する預言が詳しいイザヤ書の53章も読みました。また、パウロがこの手紙を書いているときには、ユダヤ人が住むあらゆるところで、すでに福音は宣べ伝えられていました。だから、彼らは「聞こえなかった。」と弁明することはできないのです。では、聞こえたけれども、どんな意味かを知らなかったと言えるでしょうか。果たしてイスラエルは知らなかったでしょうか。それも弁明できません。

結論的に19?21節を読んでみましょう。「でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」とあります。神の義を追い求めていなかった異邦人が、神の義を得ました。異邦人は、そのまま聞いたことを信じたので救いにあずかったのです。しかし、イスラエル人は、謙遜に神様の義に従わず、むしろ高慢になって自分の義を立てていたのです。それにもかかわらず、主は、また、「一日中、手を差し伸べた」とあります。主は、イスラエルをこよなく愛しておられるのです。福音に対してかたくなな彼らですが、それでも神様は彼らが何とか救われることを願っておられます。この神様の御心のゆえに、パウロは、9章でも、イスラエルが救われていないことを悲しむことから書き始めました。この10章でも、イスラエルが救われることへの望みと祈りから書き始めていました。パウロは限りなく変わらない神様の愛とあわれみを知っていたために、イスラエルの救いをあきらめることなく、祈り続けたのです。私たちに対する神様の愛とあわれみにも、変わりがありません。この日本の若者たちや47都道府県のすべての国民に対する神様の愛とあわれみも変わりがありません。ですから、今年は大分県にもRay Gronndin, ツカサグロンディン宣教師家庭を立ててくださいました。神様は大分県民も、ご自分のひとり子さえも惜しまずにお与えになったほどに愛しておられます。世界の人々のためにご自分のひとり子を十字架にかけて死なせられたほどに愛しておられます。そして、彼らに御言葉が伝えられることを願っておられます。御言葉を聞くことから信仰が始まるからです。どうか、私たちが神様の愛のゆえに、パウロのように祈り続け、御言葉を宣べ伝えることができるように祈ります。