2008年ローマ人への手紙第13講

神様の主権的な選びと召され

御言葉:ローマ9:1?33
要 節:ローマ9:11「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと」

 先週は神様が私たちUBFのGenral Director全ヨハネ宣教師を通して「聖霊の力を受けて生きる生活」を学ぶようにしてくださり感謝します。私たちが自分の罪を悔い改めて聖霊とつながるパイプである心をきよくして日々聖霊に満たされ、聖霊の力を受けて生きるように祈ります。
今日からローマ人への手紙に戻りますが、先々週の主日に、私たちは8章の御言葉を通して私たちクリスチャンが圧倒的な勝利者となることについて学びました。第九章からは、8章まで述べていた個人救いからイスラエルおよび人類の救いについて述べています。今日の御言葉である9章ではイスラエルに対する神様の働きについて教えています。ここで、私たちは神様の主権的な選びと召されについて学ぶことが出来ます。どうか、御言葉を通して神様の主権的な選びと召されの中で私たちが持つべき姿勢と信仰を学ぶことが出来るように祈ります。

1∼3節を読んでみましょう。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」使徒パウロは、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」と言っています。人々には絶えず痛みがあると思います。病気による痛みがあります。食べ物がなく、家がない悲しみもあります。結婚しなかったから経験する痛みもあるし、結婚したから経験する痛みもあります。離婚する痛みもあります。傷つけられた痛みもあります。ところが、パウロにも絶えず痛みがありました。しかし、それは食べ物や住まいによる痛みではありません。病や失敗による痛みでもありません。それは私の同胞、私の民族、私の親族がイエス様を拒み、神様を信じないことによる痛みです。この痛みはキリストを知れば知るほど大きくなる痛みであり、この痛みは時間がすぎれば過ぎるほど大きくなる苦痛です。たとえば、こういう痛みです。
ある人が聖書勉強をしてイエス様を知るようになりました。祈って病が癒されることも経験しました。それは感激的なことでした。大きな喜びのゆえに、多くの人々に伝道しました。すると、伝道された人々もイエス・キリストによって喜びにあふれた生活するようになりました。彼自身は伝道者になり、宣教師になりました。主のために忠実に働きます。ところが、自分の家族はイエス様を信じません。愛する母も、父もイエス様を信じません。自分の家に帰ってみると、何だから心が重くなるし、偶像崇拝による暗い雰囲気を感じます。その時に、この人の悲しみと痛みはどうでしょうか。皆さん、その心が理解できるでしょうか。「他の人々はイエス様を信じて祝福されるのに、何で自分の家族は信じないか?」という痛みです。これは自分がイエス様の恵みを経験すればするほど痛くなる痛みです。
まさに、これが使徒パウロの悲しみであり、絶えない痛みでした。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」というほどです。その深い心痛を伴い愛を旧約の指導者たちからも発見することができます。アブラハムも、モーセも、ダビデも、ネヘミヤなども、持っていた偉大な指導者が持つ、真実の愛です。特に、私たちはモーセを通して指導者が自分の民のために抱く偉大な愛の模範を発見することができます。
神様はモーセを通してイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出してくださいました。彼らは砂漠のような荒野でもマナを与えられ、水が与えられました。昼には雲の柱を、寒い夜には火の柱を持って導いてくださる神様の愛と奇跡を体験することができました。ところが、彼らは神様に感謝しませんでした。むしろ、高慢になってつぶやき、何でも指導者モーセのせいにしました。金の子牛を作って偶像崇拝もしました。そこで、神様の怒りは彼らに向かって燃え上がりました。モーセの怒りも燃え上がりました。どんなに怒ったのか、彼は手から神様からもらった律法の板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまいました。
それでも、モーセは再び、主のところに戻って、申し上げました。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」モーセは自分につぶやき、逆らった民のために、神様にすがりついて「神様!今度だけ赦してください。私の名前がいのちの書物から消え去ることがあっても、この民を赦してください。」と祈ったのです。このモーセの心がパウロにもあったのです。彼らはほんとうに自分の同胞を愛していました。でも、それはただ同じ民族だから愛する愛国者の愛ではありませんでした。つまり、イチロ選手がWBCで「祖国日本のために戦う」と言ったような愛国心とは違うのです。なぜなら、イスラエルは他の国々とは違うからです。ではイスラエルはどんな国ですか。イスラエルはバプテスマのヨハネがイエス様の道を備えたように、キリストが生まれるように助ける役割を果たしました。それで、4,5節を見ると、イスラエルがどんなに祝福されたかを教えています。
4∼5節を読んでみましょう。「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」ここにイスラエルに与えられた七つの特権と呼ばれるものがあります。
一番目の特権は神様が養子とされたことです。唯一、真実の御子はイエス・キリストですが、イスラエルは養子です。当時、ローマ帝国では養子に実の息子と同じ権威と責任が与えられていました。神様はイスラエルにイエス様に与えられた権威と責任を与えられたのです。私たちも神様の愛によって神様の養子とされました。私たちはイエス・キリストとともに、神の御国を治め、統治し、責任を担うために養子とされているのです。
二番目の特権は、神の栄光です。イスラエルが出エジプトした時、神の栄光は光りとして現われました。特に、モーセは、自分の人生のうちに現われた、素晴らしい神の栄光を経験しました。その時、イスラエルの民は、モーセの顔を見上げることさえできませんでした。モーセが経験したその栄光は、終わりの日に教会のためのものです。パウロはこの栄光に関して語っています。「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」(?コリント3:7,8)。終わりの日に、私たちはイスラエルの民がモーセの顔を通して知ったようにではなく、モーセが個人的に体験したように、神の栄光を見ることができるようになります。私たちは栄光から栄光へと変えられてキリストの栄光の姿にまで変えられるからです。
三番目の祝福と特権は契約です。アダム、アブラハム、ノア、モーセ、ダビデたちとの契約があります。神様はイスラエルの民に素晴らしい契約をされました。アブラハムとダビデの子孫からキリストが生まれるという契約されました。そして、その約束のとおりにキリストはイスラエルから生まれました。
四番目の特権は、律法を与えられたことです。彼らに律法、御言葉が与えられたことによって彼らは神様の知恵を得ることができました。申命記4:6節を見ると「これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。」とあります。これは私たちクリスチャンに与えられた特権でもあります。それは、私たちの心の肉の板に、書かれた御言葉によって、知恵を得ることができるからです。ほんとうの知恵は御言葉から来ます。それで、この間、アメリカの大統領就任式の時、オバマ大統領も、副大統領も、聖書の上に手を置いて誓いました。今年、私たちが聖書通読リレーをしていることもすべての知恵が御言葉から出るからです。私たちにこの御言葉が与えられ、それを読み続けることは大きな特権です。
五番目に与えられた特権は「神の礼拝」です。神様に礼拝できるということはほんとうに大きな特権です。礼拝を通して神様のご臨在を体験し、聖なる神様と交わりもできるからです。
六番目の特権は約束です。イスラエルに与えられた約束はあまりにも多くあったので、そのすべてを私が紹介することはできません。ただ、申命記28:1?6だけを紹介します。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」とあります。神様はイスラエルを祝福したいと切実に願っておられます。同様に、神様は私たちが祝福されることを熱望しておられます。
七番目の特権は、イスラエルには「父なる神」があることです。ほんとうに真の意味で、神様はイスラエルにとって父親です。神様は愛する父親として、慈愛深い父として、また、自分の咎と罪に対しては忘れてくださる父として、尊敬されています。イスラエル人は父を考える時、すぐに父なる神を思い浮かべました。私たちも私たちの兄としてイエス・キリストを考えるだけでなく、私たちの父として神様を考える必要があります。
ある人にとっては、自分の父親として神を考えるのは、非常に難しいかも知れません。なぜなら、彼らは自分の地上の父親との間に問題があったからです。私たちは自分の父親に対して、どんなイメージを持っているのでしょうか。もし、それが良いイメージなら、私たちの神のイメージもまた良いものです。もし、私たちの父親のイメージが暴力的、大酒飲みである時、私たちは父なる神をそのように見てしまいます。これは私たちが克服しなければならないことです。そして、私たちは完全なる父として、父なる神様をイメージし、神様を尊敬する必要があります。すると、常に父なる神様の愛と保護、祝福の中で生きるようになります。
このような七つの特権の他に、最も大きな祝福があります。キリストはイスラエルの子孫であるということです。王なるキリストはイスラエルの究極の祝福であったのに、イスラエルがキリストを拒絶したので、キリストは異邦人の光となりました。イスラエルが切り離されたので、私たちはイスラエルに約束されたすべての特権と祝福を受け継ぎました。
そういうわけで、パウロはイスラエル人が自分の同胞であることだけではなく、神様から特権をいただいている民だからこそ救われなければならないという願いが強かったのです。では、イエス様を受け入れず、十字架につけてしまったイスラエルだから、彼らに与えられたすべての特権は無効になったでしょうか。
いいえ。神のみことばが無効になったわけではありません。では、神様のみことばが無効にならない理由は何でしょうか。それは、初めから、約束の子が神の民の祝福を受け継ぐことが定められていたからです。その確かさを、パウロは6?13節を通して説明しています。イスラエルの先祖アブラハムには多くの子どもたちがいました。ふたりだけではありません。ハガイから生まれたイシュマエル、サラからイサクだけではないのです。三番目の妻、ケトラから少なくても六人の息子をもうけました。ところが、パウロは「アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。」と言っています。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。それはエサウとヤコブの場合も同じです。神様はご自分の主権によって弟ヤコブを選ばれたのです。
11節をご一緒に読んでみましょう。「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと」結局、約束の子が神様の民の祝福を受け継ぐことは、神様の主権に属することで、神様の選びの計画は確実に成就していたのです。
それは神様の主権的なみわざです。だからこそ、確実で、完全な救いです。ところが、人は「それほど完全で完璧であるなら、人は何を成し得よう・・・。」ということになります。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。・・・」という反論ができるのです。それに答えてパウロは言います。
20、21節をご覧ください。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」とあります。
 私はだまに生徒たちから「先生は今日も同じ服を着ていますね。」と言われます。「先生。着替えしましたか。」と言われる時もあります。すると、私は「それはお前が言うべきことじゃないでしょう。」と言います。着替えするかどうかというのは、私の自由だからです。同様に、どのような用途の器を造るのか、それは陶器師の心一つです。すべては同じ土のかたまりから造られても、陶器が陶器師に反論する余地はありません。
神様の絶対的主権は、創造のみわざ、救いのみわざにおいて決して揺るぎありません。そのさばきにおいても、揺るぎがありません。ただ、神様が全人類に、直ちにさばきをくださるのではありません。22、23節をご覧ください。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。」とあります。ここで、「怒りの器」とは異邦人を言います。神様が異邦人を滅ぼさないで豊かな寛容を持って救いに導いてくださいます。「あわれみ器」とは異邦人でも、ユダヤ人でも、神様の主権的選びと召されを受けている人たちを指しています。神様は異邦人の中でも、あわれみによって救って生けるご自分の子どもとされます。ユダヤ人の中でも残された者を救ってくださいます。この救いのご計画は、旧約聖書においてすでに明らかにされています。神様の主権的な選びと召されは何の変更もなく、また神様に不正はありません。救いのみわざは、全く公正にキリストを信じる者の上に成し遂げられているのです。

 結論的に30?33節を読んでみましょう。「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」」神様によって義とされ、救いに与ったのは、信仰によって義とされた異邦人たちであり、信仰によって義とされたユダヤ人たちでした。信仰に背を向けたままの異邦人たちは、なお救いからは遠いままです。また、行ないによって義を追い求めたユダヤ人たちは、「つまずきの石」であるキリストにつまずいたままです。神様のあわれみにも、寛容と忍耐にも気づくことなく、心を閉ざしているのです。結局、救い主であるイエス・キリストを信じ、キリストに信頼する者だけが救いに与り、決して失望することはないのです。
 ですから、私たちは神様の主権的な選びと召されを心から感謝し、神様に従わなければなりません。特に、私たちが今生きていること、生かされていること、妻や夫に恵まれていること、子どもたちに恵まれていること、それは、ひとえに神様の豊かなあわれみにささえられています。この事実を忘れてはなりません。荒野でモーセにつぶやき、不平不満を言い出していたイスラエルの民のように、主の恵みとあわれみを忘れてはなりません。イエス様を十字架につけて殺し、パウロと主のしもべたちを迫害したユダヤ人のように高慢な者になってもいけません。もし、そうなると、私たちの罪に対する神様の怒り、また神様への不遜な態度に対する神様ご自身の怒りは、いつでも、どこでも、さばきとして下されても、神様に不正はないのです。ただ、神様は豊かな寛容を持って忍耐し、私たちの悔い改めを待っておられます。何よりも、神様は私たちが何事も言い訳を言うことよりも神様の絶対的主権を信頼し、悔い改めと信仰を持って神様に仕え、礼拝し、御言葉に従うことを望んでおられます。自分の主権、自分の権利、自分の言い分だけを強調するところには争いがあります。妬みと競走と高慢と悪があります。しかし、神様の主権を認め、信頼し、従うところには謙遜があり、自己否認があります。美しい従順があり、献身があります。神様の主権が立てられるところに秩序と感謝があります。光といのちがあります。特に、日々神様の絶対主権を信じている生きる人の心には平安と感謝があります。その中で、主権的に働いておられる神様の測り知れない知恵と力を悟り、体験するようになります。どうか、私たちが日々神様の主権的な選びと召されに感謝し、その絶対的な主権に従いますように祈ります。さらに、パウロのように、モーセのように、私の同胞が救われること、愛する私の家族も、私の友達も救われることのために心から祈り求め、伝道して行くことができるように祈ります。