2009年ローマ人への手紙第12講 

圧倒的な勝利者

御言葉:ローマ人への手紙8:18?39
要 節:ローマ人への手紙8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

先週、私たちは御霊に導かれる人についてを学びました。私たちを罪と死の破滅から救い出して御霊に導かれる人にしてくださった神様の恵みを感謝します。
今日は私たちが圧倒的な勝利者となることについて学びたいと思います。私たちの社会には、勝利しなければならないさまざまな戦いがあります。昨日も、今日も大学入試センター試験がありますが、受験戦争があります。企業の世界での「販売合戦」もあります。武器を取って戦うような戦争もあります。こういう戦争は避けられるだけ避けるべきものだと思います。今パレスチナのカザ地区ではイスラエルの攻撃によって何百人も死んでいますが、こういう戦争は避けるべきでしょう。だからと言って、どんな戦いも要らないのではありません。戦って勝利しなければならない戦いがあります。病気との戦い、貧困との戦い、罪との戦い、悪との戦いで勝利しなければなりません。使徒パウロは「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(テモテへの手紙第一6:12)と教えています。私たちクリスチャンは、信仰の戦いを戦い、永遠のいのちを獲得するのです。では、私たちはどうやってさまざまな戦いを戦って圧倒的な勝利者となるのでしょうか。

第一に、私たちは栄光の望みによって圧倒的な勝利者になります(18?25)
18節をご一緒に読んでみましょう。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」ここでパウロが「今の時のいろいろの苦しみは・・・」と述べていることはクリスチャンにもいろいろの苦しみがあることを教えてくれます。パウロ自身がいろいろの苦しみを経験していました。彼は人に言える苦しみだけではなく、誰にも言えない苦しみも経験していました。人には言えない苦しみのためにひとりで寂しく悲しんだ時もあったことでしょう。クリスチャンになってもこんなにいろいろの苦しみがあるなら、クリスチャンにならなくて良かったはずだと思われる時さえあったかも知れません。時々、耐え難い苦難を避けて楽な道に歩んで行きたいと思われたかも知れません。しかし、彼はそのような誘惑に負けませんでした。なぜなら、今の苦しみがどんなに大きく見えても、将来自分に啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと考えたからです。彼は将来自分に啓示されようとしている栄光の望みがあったからこそ、さまざまな苦難に打ち勝って行ったのです。
私たちは現在の苦難をとても大きく拡大して考える場合があります。小さな丘のような苦難でも富士山のように考えてしまうのです。それで戦う前に戦う気力を失ってしまう場合もあります。しかし、私たちも、パウロのように今のいろいろの苦しみだけを考えないで、苦難の後にやってくる大きな栄光を考えなければなりません。
この間、勉強会の時、張パウロ宣教師は新潟から東京に向かってくる時の話をしてくれました。ある日、新潟から帰る時、雪が降り続けて目の前が見えないほどだったそうです。ところが、関越トンネルから出てくると、そこは別世界で晴れていました。私たちの人生もそういうものであるかも知れません。険しい世の中でいろいろの苦しみを経験しますが、そのトンネルを通ると、晴れる日になります。晴れる、ハレルヤの日になるのです。たとえ、この地上では雪が降り続けるような苦難の人生だとしても、クリスチャンには輝かしい天国の栄光が待っています。その栄光の望みのゆえに、私たちはいろいろの苦しみを乗り越えて勝利の人生を生きることができます。イエス様も十字架の苦難だけを考えられたのではなく、十字架の後にある復活の栄光を仰ぎ見て十字架を忍び、圧倒的な勝利者となられました。
同様にキリストを信じる者は、圧倒的な勝利者として天国に入るようになります。私はだまに天国はどんなところだろうかと想像します。私が天国に行ったら、多分、「ダニエル宣教師歓迎会」が行なわれるでしょう。そこには愛するイエス様も、アブラハムも、ヨセフも、ダニエルも来ていてくださいます。もちろん、皆さんも同じだと思いますが、案外、私は地上でも祝福を受けています。だから、天での褒美は少ないかも知れません。目立たないところでいろいろの苦しみがあっても忠実に仕えていた方たちには天での褒美がほんとうに大きいと思います。私たちには天国のマンションが与えられます。そこでは病気も、苦しみも、悲しみも、死もありません。永遠に神様の支配が100%現わされているところです。そこで、私たちはこの世での苦しみとは比べられない栄光を受けるのです。神様によって造られた被造物にもこの栄光の望みがあります。被造物も将来私たちに啓示される栄光の時を待ち望んでいるのです。
19?22節をご覧ください。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。被造物も、将来私たちに啓示される栄光を切実な思いで待ち望んでいます。なぜなら、私たちの体が復活して栄光の自由に中に入れられる時に、被造物も、滅びの束縛から解放され、栄光の自由の中に入れられることを知っているからです。被造物も栄光の望みのゆえに、切実な思いで私たちが信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得するように応援しています。山も、海も、その中にある木々も、魚たちも私たちを応援しています。「○○兄弟!期待しています。あなたは私たちのHopeです。」夜空の星たちも私たちを励ましています。「○○牧者!頑張ってください。」早稲田キャンパスの樹木たちも私たちを応援しています。「奥様たちが毎週来てくださってありがとうございます。一日も早く、ここで数多い神の子どもたちが現われて賛美し、祈ることを楽しみにしています。」と言っていることでしょう。すべての被造物は虚無に服するのではなく、神の子どもたちに役立つことを願い、完全に神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられることを待ち望んでいるのです。
ですから、私たちも、望みを失うことなく、まだ見ていないものを待ち望みます。
23?25節をご覧ください。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」とあります。私たちクリスチャンは御霊の初穂をいただいています。聖霊が私たちの心の中に留まっておられるのです。お陰で、私たちは御霊に属することをひたすら考え、御霊に導かれることができます。しかし、私たちの体までも完全に生まれ変わったのではありません。それで心は燃えていても、肉体は弱いのです。新年を迎えていろいろ決断しても三日坊主になってしまう時もあります。ちょっと苦労しただけですぐに疲れたり、風邪を引いたりします。ですから、救われている私たち自身も、心の中でうめきながら、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。この卑しいからだが栄光のからだに変えられる時を望んでいるのです。この望みを持ち続ける時、霊的に成長し続け、私たちはいろいろの苦しみの中でも圧倒的な勝利者になります。

第二に、私たちはうめきによる聖霊のとりなしの祈りによって圧倒的な勝利者となります(26?27)。
26、27節をご一緒に読んでみましょう。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」「私たちはどのように祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とあります。私たちは、日頃、自分にして欲しいことを求めています。お金が欲しい人はお金を、健康を願う人は健康を求めているでしょう。でも、「何を祈ったらいいのか」自分でも整理がつかなくなるときがあります。どう祈ればいいのか、わからない。何が最善なのか分からない、何が御心なのか分からない。どんな仕事をするべきか、どの人と結婚すべきなのか、子どもをどの学校に行かせるべきか、何をどう祈って良いのか分からない、そういう時があるでしょう。聖霊はそのような私たちの弱さを理解し、その弱さを助けてくださいます。
私は肉体的にも精神的にも疲れはてるとき、気力が薄れ「どう祈ったらいいのかわからなくなる」ときもあります。ひざまずいて祈ろうとしても自分の弱さのために、自分の足りなさのために、絶望するばかりで祈りができない時もあります。ところが、そのような時にも、聖霊は私の弱さがご自分の責任であるかのように、私のためにとりなしてくださるのです。聖霊ご自身が、言いようもない、言葉にはならない深いうめきをもって、私たちのために、祈ってくださいます。私たちには祈らない日があります。気持ちが向かない時もあります。心が入らない時もあります。どころが、聖霊はいつも、絶えず、私たちの祈りにご自身を載せて、イエス・キリストの御名によって、とりなしの祈りをしてくださいます。なんとあわれみ深いことでしょう。その聖霊のとりなしによって私のような者もメッセンジャーとして立てられています。この聖霊のとりなしの祈りによって勝利の生活ができます。聖霊のとりなしの祈りによって信仰を守り続けることができます。私たちクリスチャンは究極的には圧倒的な勝利者となるのです。 

第三に、私たちはキリストの愛によって圧倒的な勝利者となります(28?39)
28?30をご一緒に読んでみましょう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」パウロは「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と言っています。「すべてのこと」とは、私たちの人生に起こるすべての出来事のことです。楽しいことばかりではありません。辛い経験、苦しい経験、いまだに心の中に重くのしかかっている過去の悲しみ、傷ついた心、それらすべてです。特に、パウロはいろいろな苦しみを経験していました。35、36節にこう語られています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか。危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。」と。これらはパウロが経験してきたことです。彼は数多い患難、苦しみ、迫害、飢えを経験しました。裸になる時さえありました。ところが、神様はご自分の愛のゆえにそのすべてのことを働かせて益としてくださるのです。
37節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」私たちはすべてのことの中で、悲しみの中で、苦しみの中で、決して打ち負かされることはありません。勝つことができます。ただ勝つだけではありません。今は勝つことができても、この次負けてしまえば、悲しみも、心の傷も残されたままです。しかし、そうではなくて圧倒的に勝利するのです。勝利してなおおつりがくるということです。
昨日のニュースによると、大相撲初場所七日目にも注目を集める横綱朝青龍が全勝を守り、彼の活躍に大きな期待がかかっています。でも、危なげなく全勝を守った横綱白鵬もいるから、朝青龍が優勝することは厳しいでしょう。優勝するまでは勝つか負けるかわからない勝負を、接線の中でものにしていかなければなりません。しかし、私たちの戦いは違うのです。どんなことがあっても決して負けることのない戦いを戦っています。その戦いに余裕を持って勝つことができます。私たちにそのような力強い勝利が与えられているのです。
不景気の中でいろいろ不安になることがあるかも知れません。誤っていってしまった自分の言葉が気になって恐れる心があるかも知れません。自分の足りなさ、自分の弱さのために悲しくなり、心を騒いでいる方がいるかも知れません。でも、それはそれでいいのです。私の人生のすべてが働き出すことを恐れる心があっても、それでもいいのです。ただ、このことを心に留めておきましょう。すべてのことを働かせて益としてくださる神様の愛です。私が悲しみにしか感じないそのことを、不安に思っているそのことを神様が働かせてくださいます。私を愛し、どんなことがあっても決して愛することをおやめにならない神様が、すべてのことを働かせてくださいます。神様がすべてを益としてくださいます。神様は私たちの人生に起こるすべてのを支配し、すべてを働かせて益としてくださるのです。
そういうわけで、パウロは叫んでいます。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」「圧倒的な勝利者」と言うのはNIV聖書で“more than conquerors”と訳されています。”conquerors” というのは「征服者たち」という意味です。古代にはバビロンのネブカドネザルやマケドニアのアレクサンダー大王といった征服者たちがいました。パウロの時代には、ローマの皇帝たちが世界の征服者たちでした。そして、パウロは、ローマに征服されたユダヤ民族のひとりにすぎませんでした。クリスチャンは人の目からは羊のように弱々しく見えたでしょう。しかし、キリストを信じる者は、”more than conquerors”「征服者以上の者」、どんな征服者にまさるもの、ローマ皇帝よりも強い者なのです。事実、ローマ皇帝はクリスチャンたちに負けてローマをキリスト教の国家にするようになりました。キリストを信じる者“more than conquerors”は国々の征服者たちを征服し、去る2,000年間、全世界を征服して来ました。何よりも、イエス・キリストは人類の最後の敵である死を滅ぼし、墓を打ち破ってよみがえられました。キリストは、私たちを愛して、限りないその愛のゆえに、私たちの罪を贖うために、十字架にかかって死なれ、葬られました。しかし、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたのです。それで、このキリストの復活を信じる者は、キリストの復活のいのちに生かされて、キリストとともに永遠の国で生きるようになりました。キリストを信じる者は死さえも征服する、圧倒的な勝利者、“more than conquerors”になるのです。

以上で、私たちは栄光の望みによって、あわれみ深い聖霊のとりなしの祈りによって、キリストの愛によって圧倒的な勝利者となったことを学びました。もし、人生の戦いに、信仰の戦いに苦しみがあるなら、私たちを圧倒的な勝利者としてくださる神様を信じてください。パウロのように今の苦しみをはるかに越えている神様の栄光を考えてください。そして、今も言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる聖霊に頼ってください。聖霊とともに祈ってください。どのように祈ったらよいのかわからなくても、祈ってください。どこでもいつでも祈るなら、聖霊が私たちのために弁護し、私たちのためにとりなしてくださいます。キリストを信じる者のすべてのことを働かせて益としてくださいます。それで、私たちは圧倒的な勝利者となるのです。私たちに圧倒的な勝利者の人生を許してくださった神様の御名を賛美します。