2009マルコの福音書第3講

寂しい所で祈られたイエス様

御言葉:マルコ1:29-45
要 節:マルコ1:35「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

先週、私たちは最初の弟子になる人たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と約束してくださいました。そこで、ペテロとアンデレ兄弟も、ヤコブとヨハネ兄弟もイエス様について行きました。ヤコブとヨハネは父も一緒にいましたが父を船に残してイエス様に従いました。彼らがイエス様について行った時、何を見、何を学ぶことが出来たでしょうか。三年間数多くのことを見て学び、体験していきますが、今日は初期の出来事を学びます。ここで、私たちはイエス様について行く弟子たちが何を信じ、どんな目的を持って生きるべかを学ぶことが出来ます。それらを三つに分けて皆さんと一緒に考え、学びたいと思います。特に、まだ暗いうちに起きて寂しい所で祈られたイエス様を深く学ぶことが出来るように祈ります。

一つ目は、弟子の家族、さまざまの病気にかかっている人々を癒し、多くの悪霊を追い出されたイエス様[29-34]を信じることです。
29、30節をご覧ください。「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。」とあります。イエス様はヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられました。家庭訪問したのです。なぜ、ヨハネとヤコブの家には訪問しないでシモンの家に行かれたのでしょうか。よく分かりませんが、ヨハネとヤコブの場合は父親と一緒にいる時に召されたからでしょう。とりあえず、イエス様がシモンとアンデレの家にはいられると、今まで知らなかったこと知ることができました。人々がさっそくしゅうとめが病気であることをイエス様に知らせてくれたのです。実際にイエス様がご覧になると、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていました。なぜ、熱病になったのかは分かりません。ただ、それはペテロの重荷になっていたでしょう。では、イエス様はどうなさいましたか。
31節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。」イエス様はシモンのしゅうとめに近寄り、その手を取って起こされました。すると熱がひきました。イエス様は愛と力の御手でしゅうとめの熱病を癒してくださったのです。すると、しゅうとめはイエス様の一行をもてなしました。本当に素晴らしい光景です。ここに、ご自分の弟子の家を訪問してくださったイエス様の愛、ご自分に従う弟子の家族を助けてくださるイエス様の愛と癒しの力も見ることができます。
イエス様に従う時、家族のことが心配になる時があります。自分はイエス様の恵みを経験し、御言葉の権威を体験して従っています。でも、家族がイエス様のことを知らないから心配し、そのために熱病になってしまう時があります。私自身もそういう経験しました。私自身は数々の祈りを体験し、恵みを受けてイエス様について行くことを決断しましたが、母は私を心配しました。特に日本の宣教師として来たとき、母が倒れて病院に入院したこともありました。ところが、愛と力のイエス様はシモンのしゅうとめを癒されたように、主のしもべたちを通して私の母の病を癒してくださいました。あの田舎に不思議な方法でUBFの医者牧者を送ったり、教師牧者を送って妹の担任先生にならせたりしてくださいました。今は母も教会に通い、私たちのために祈ってくれるようになりました。
イエス様はイエス様について来る者たちを人間をとる漁師にしてあげるためにいろいろ助けてくださるのです。イエス様に従う弟子だけではなく、弟子の家族も、しゅうとめも助けてくださいます。ですから、シモンは何もかもイエス様に委ねてイエス様に従い、世界的なイエス様の弟子に成長して行ったことでしょう。
今日も、イエス様に従おうとする時、気になるしゅうとめの問題があるかも知れません。家族のことが心配になったり、将来のことが心配になったり、友達のことが心配になったりするかも知れません。しかし、心からイエス様に従う決断をして従い始めると、愛と力のイエス様が助けてくださいます。イエス様に従う人、ひとりのゆえに、家族も、親戚も、友達も祝福されるようになります。マタイの福音書6:33節を見ると、イエス様は約束されました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ここで、これらのものとは世の人々が切に求めているものです。私たちがイエス様に従い、神の国を求めていくなら、霊的な祝福に加えてこの世で求めているものも祝福してくださるのです。
32-33節をご覧ください。夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエス様のもとに連れて来ました。こうして町中の者が戸口に集まって来ました。シモンの家は、いつも列を並んでいる総合病院のようになりました。特に、普通の病人だけではなく、悪霊につかれた者が来ていたのでとても混雑していたことでしょう。夕方になって日が沈んだから自分の家に帰るべきなのに、むしろイエス様の所に迫ってきたのです。イエス様は彼らに対してどうなさいましたか。
34をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」ここにも愛と力のイエス様の働きがありました。イエス様はさまざまの病気にかかっている人をお直しになりました。さまざまの病気とはどんな病気だったでしょうか。先週、私は腰痛と全身疲労による風邪で苦しんだのですが、そういう病気も含まれていたでしょう。花粉症、アトピー、うつ病、鼻炎、頭痛、肩こりなどの病気も含まれていたと思います。それらだけではなく、無気力、うつ病、ゲーム中毒、インターネット中毒のような精神病にかかっている人もいたことでしょう。イエス様はそういうさまざまの病気にかかっている人をお直しになりました。また、多くの悪霊を追い出されました。悪霊は昔も今も働いています。先週、公園で全裸で騒いだとして人気アイドルグループ「SMAP」の草なぎさんが逮捕されました。翌日、釈放されましたが記者会見で謝罪し、「たくさんのお酒を飲んで、わけが分からなくなって大人として恥ずかしい行動をとってしまいました。」と反省の言葉を述べました。おそらく、彼も知らないうちに悪霊が働いていたのではないでしょうか。イエス様はそのような悪霊どもを追い出されました。このようにして、イエス様は日が沈んでからも多くの人々を助けてくださいました。イエス様はどんなに疲れたことでしょうか。さまざまの病人と付き合い、彼らを癒されることだけでも疲れたでしょう。その上、多くの悪霊を追い出されました。イエス様は夜おそくなってもご自分のところに集まってきたすべての人々を助けてくださったのです。結局、弟子たちは、このようなイエス様の姿を通してイエス様に従う弟子の家族まで助けてくださること、さまざまの病気の人々を癒し、悪霊を追い出されることを学んだことでしょう。私たちもイエス様に従う時、自分だけではなく、自分と関わっている人々も助けてくださるイエス様、多くの人々を助けてくださるイエス様を信じ、学ばなければなりません。もちろん、夜遅くまで人々を助けることはやさしくないでしょう。しかし、イエス様に従うということはイエス様のようになることです。シモンとアンデレ、ヨハネとヤコブはイエス様が夜遅くまで働かれたことを通してひとり一人の人間に深い関心を持って助けてくださるイエス様を学んだことでしょう。ではイエス様の朝の生活はどうでしたか。

 二つ目に、朝早くまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈られたイエス様[35-37]
35節をご覧ください。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」イエス様は、朝早くまだ暗いうちに起きて祈られました。ここで、私たちは祈りの人イエス・キリストを学ぶことが出来ます。まず、朝早くまだ暗いうちに起きられました。「早寝早起き」は健康に良いと言われています。私は朝、教会に来る時、80歳を越えたふたりのおばあさんによく会いますが、とても元気な方たちです。その中でひとりのおばあさんとは話し合いもしていますが、毎日、朝早く起きて6時まで自分の家だけではなく、隣の神社まで掃除しています。6時からは剣道の棒を持って運動しています。それで、80歳を越えたと思えないほど健康です。それで、刺激を受けて教会に来る時に自転車を使わずに歩くことを心がけていますが、早起きするのは健康に良いということです。でもイエス様はただ健康のために早起きされたのではありません。祈るためでした。「朝、まだ暗いうち」、それは黄金の時間、主と交わる最高の時間です。よくQT(クワイエット・タイム)といいますが、静止の時間、主と交わる静かな時間を通して私たちは主との交わりを深めていくことが出来ます。そして、静かな時間を確保するためには寂しい所へ出て行かなければならないでしょう。イエス様は起きてから寂しい所へ出て行き、そこで祈られました。マタイ14:13aを見ると「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。」とあります。同じ14章の23を見ると「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」とあります。寂しい所で祈られたイエス様の姿はルカの福音書にもあります。4:42a節を見ると「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」5:16節には「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」とあります。このような箇所を通して分かるように、イエス様がいかにひとりで寂しい所に行かれて、ゆっくりと時間をかけて祈られたことかが分かります。
ある人は夜明けに10分でも規則的に祈るなら人生が変わると言いました。その話に私も同感します。でも、イエス様は10分だけではなく、一時間、あるいは半日かけて、祈られました。さらに、丸一日、あるいは一晩かけて祈られました。このように静かな時間に、寂しい所で祈る時、主の御声を聞き分けることの出来る心の耳が開かれてきます。つまり、御言葉をいただくようになるのです。もちろん、聖書にはイエス様が日ごとの糧をお読みになったとか、聖書を通読されたとは書いてありません。しかし、イエス様の中には旧約聖書のすべてが入っていて、神様との交わりを通して御言葉をいただいたと思われるのです。私たちも、御言葉をいただいて神様と交わり、神様の御心を知ることができます。そして毎朝の祈りを通して、その日、一日の導きをいただきます。御言葉と祈りを通して少しでもより深く神様を知り、神様の力と知恵をいただいて生きることができるのです。
 私自身、この夜明けの祈りを通して多くのことを体験してきました。朝の静かな時間、御言葉の前に自分の心を置く、御言葉の中に主に聞いて行くと、主がいろいろなことを示してくださいました。何を取り、何を捨てるべきか、どう聞いてどう決断すれば良いのか、神様がきちんと教えてくださるのです。皆さんも、主の前に出て真剣に祈って求めて行けば主は出会ってくださいます。もし、苦しんでいらっしゃるでしょうか。もだえているでしょうか。不景気が続く中でさまざまな不安に襲われているでしょうか。その中で必死になって救いを求めているでしょうか。私たちが主の前に静まって祈る時、真剣になって主に祈り求める時、主は必ず出会ってくださいます。もちろん、忙しい生活が続く中で祈るために30分も、1時間も祈ることはやさしくないでしょう。私はマルコの福音書の学びを始める時、ヨハネが荒野で主の道を備えたこと、イエス様が四十日間も荒野におられたことを黙想するうちに、恵みを受けました。それで、直接に荒野に行くことはできませんが、一日に一食は断食しながら祈ることを決断し、昼は学校の地下の倉庫に行って静かに祈って来ました。ところが、昼にも予期しなかったことが起こって100%毎日祈ることが出来ませんでした。でも、何とかして祈ろうとする時、神様はいろいろなことを助けてくださることを経験しました。どうか、私たちひとりひとりが、朝早いうち、主の前に祈ることを日々の習慣としておられたイエス様に見習うことが出来るように祈ります。夜遅くまで勉強し、働いておられる方たちはまだ暗いうちに起きることが難しいかも知れません。私は日本に来て感じていることの一つは夜明けが早いということです。日本は韓国より太陽が早く昇るので、冬以外にはまだ暗いうちに起きることはなかなか難しいですね。土曜日特別早天祈祷会は5時半に始めますが、5時に起きても明るくなっています。ですから、私は皆さんにまだ暗いうちに起きることが出来なくても、毎朝規則的に祈ることを日々の習慣として行くことを勧めます。昼でも、夜でも寂しい所で祈ることを習慣にして行きましょう。

三つ目に宣教のために来られたイエス様
38,39節を読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」同じ箇所を新共同訳にはこう書いてあります。「イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」ここで見ると、イエス様は宣教のために来られ、宣教しておられたことが分かります。イエス様がつねに最も大切な目標としていたのは「宣教」だったのです。私たちには、しなければならないこと、やりたいこと、やってあげたいことなどがあります。学生には学校の勉強、グラブ活動、趣味生活、アルバイトなどがあるでしょう。大人には職場の仕事、家事、子育て、趣味生活、健康管理のための運動、いろいろな付き合いなどがあるでしょう。そのようなことの中で何に重点を置いて生きるべきかと言うことはとても大切なことです。もし、優先順位がなければ何もかもできなくなる場合も多いことでしょう。「成功する人々の七つの習慣」(Stephen R. Covey著)によると、いわゆる成功した人々の習慣の一つに「目標を確立し、行動する」ことがあります。やはり、目標をはっきりしている人たちが成功するのです。イエス様はこの地上の生活の中で多くのことをなさいました。イエス様は病人を癒し、悪霊を追い出しました。時には経済的問題を助けてくださいました。人々のさまざまな問題を解決してくださったのです。しかし、イエス様が最も大切にした目的は、宣教することだったのです。イエス様は「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と言われました。
果たして私たちは何のためにこの世に生まれてきたのでしょうか。私がこの日本にいる目的は何でしょうか。私をこの教会に導かれた神様の目的は何でしょうか。
今の時代は学生には一生懸命に勉強し、大人には仕事に忠実であることが求められています。クリスチャンなら、もっと忠実に働く必要があるでしょう。長崎大学の教授である全ダビデ宣教師は定年が保障された教授になりましたが、外国人としてクリスチャンとして非難されることがないように人の二倍も努力していると言いました。私たちにもそういうスピリットが必要だと思いますが、それよりも大切なのは何のために生きているかです。私が神様を信じてイエス様の弟子になったなら、神様が私をこの世に遣わされた目的を深く考えてみる必要があるでしょう。そうして、イエス様のように「わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と言える者にならなければならないでしょう。宣教の使命はイエス様に従うすべての人々に与えられた使命です。そして、この宣教によって、私のたましいが生き返り、私の教会が成長し、私の国が変えられて行きます。宣教こそこの時代を生かす力です。イエス様はご自分の弟子たちがこの宣教のために生きることを願っておられます。そして、この宣教は御言葉を宣べ伝え、教えることだけではありません。弱い人たちを助けることも宣教です。
40、41節をご覧ください。「さて、ツァラアトに冒された人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」とあります。 当時のツァラアト(らい病人)が置かれていた状況は、悲惨なものでした。肉体をしばむ病気に加えて、社会から隔離され、卑しめられていたのです。律法によると、この病気は汚れた病気でした。その病気にかかった人は唇の上までおおって、歩くときには、「汚れた者、汚れた者」と叫び声をあげて、自分が汚れた存在であることを人々に知らせなければなりませんでした(レビ記13:45、46)。イエス様はこのように哀れな彼を深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわってくださいました。誰も彼に触ろうとしませんでしたがイエス様は彼の醜くなった体に触られ、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。このように、イエス様はどんなにひどい罪人でも信仰によって出て来ることを望んでおられます。そして、謙遜に出て来る者をあたたかく迎え入れて癒し、きよくしてくださいます。そのためにイエス様は十字架につけられ尊い御血を流されました。もし、私達が自分の罪を言い表すなら、主はその罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。たとい、私達の罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださいます(イザヤ1:18)。このイエス様によってきよめられるとらい病人のような人が丈夫な人になります。それは恵みであり、祝福です。
 ところが、42-45節を見ると、このツァラアトはイエス様の指示に従わず、自分が癒されたことをふれ回り、言い広め始めました。そのためイエス様は表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられました。イエス様に助けられたのですが、最後までイエス様の御言葉に従わなければ、イエス様の働きに邪魔することになることも学ぶことが出来ます。私たちが恩知らずの人間ではなく、恩返しができる人として最後まで最後の最後まで感謝しながらイエス様に従うことができるように祈ります。