2007年テトスへの手紙第3講

良いわざに励むことを心がけましょう。

御言葉:テトスへの手紙3:1?15
要 節:テトスへの手紙3:8「これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」

 今日はテトスへの手紙の最後である3章を学びますが、テトスへの手紙の御言葉を通して健全な教えを与えてくださった神様に感謝します。先週も2章において健全な教えにふさわしいことを学びました。そこで、私たちは教会や家のリーダーとして、若者として、また奴隷としてどのように生きるべきかを学ぶことができました。それは一言で言うなら人々の模範となることでした。
今日の3章では社会生活に対する健全な教えを学ぶことができます。ではテトスがクレテの聖徒たちに教えるべき社会生活とは何でしょうか。この時間、御言葉を通して健全な教えにふさわしい社会生活を学ぶことができるように祈ります。何よりも私たち一人ひとりが社会生活の中でいつも良いわざに励む善良な市民であり、成熟したクリスチャンとして生きる者となるように祈ります。

?.すべての良いわざを進んでする者(1?8)

1節をご一緒に読んでみましょう。「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。」パウロはテトスが助けているクレテ教会の聖徒たちに注意を与えるようにしています。当時、クレテ島はローマの支配を受けていました。ローマは軍隊の力によって人々を支配し、治めていました。優しい軍人もいたと思いますが、ほとんどの支配者と権威者たちは非民主的な方法で人々を治めていました。そんな彼らに服従することはいやでしょう。むしろ、反抗したくなるものです。恐らく、クレテ教会の人々も当時の支配者たちに対して反抗的になっていたでしょう。ところが、パウロは彼らに注意を与えて上の人に服従し、従順である人にならせるように勧めています。それだけではありません。すべての良いわざを進んでする者となることが勧められています。
当時の状況を考えてみると、クリスチャンを迫害する支配者と権威者たちに服従することだけでも受け入れたくないことです。しかし、パウロはそれだけではなく、すべての良いわざを進んでする者となることを命じています。これはクリスチャンとして良い影響を及ぼすことができるようにしなさいということです。このようにすることはなかなか難しいことです。
私は職場生活において上の人から言われることだけではなく、もっと良いわざをしたいと思っています。キャンパスで祈ることでもしようとしています。ところが、なかなか難しく出来ませんでした。一年を顧みた時、悔い改めざるを得なかったのです。上の人に服従すること、与えられた仕事だけでも精一杯だったからです。良いわざをすることができませんでした。しかし、本文の御言葉を通して私たちクリスチャンはこの世の支配者と権威者に対して服従し、従順であることだけではなく、良いわざを進んでする者でなければならないことを悟りました。新学年度はいのちを生かす良いわざのためにフィッシングもしますが、キャンパスでの祈りだけでも良いわざのために積極的に励んで行きます。
一般市民も自分の生活のために支配者と権威者に服従します。特に自分の人事権を握っている人に服従し、従順であります。でも、良いわざを進んでする者は少ないでしょう。しかし、クリスチャンは勤勉になって上司に服従することだけではなく、良いわざを進んでする者でなければならないのです。また、人々に対して優しい態度を示さなければなりません。
2節をご覧ください。「また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。」とあります。何もしないで他人をそしる人もいますが、自分の仕事だけをするなら、人をそしったり、争ったりする必要もないでしょう。自分とかかわっていない人には柔和で、優しい態度を示すことができます。また良くないわざをしている人は恥ずかしいから自分の意見を強く主張することもしません。すると争うこともなく、柔和でいられます。しかし、良いわざを進んでする者にとっては自分のわざを誇りたくなります。これだけやっているぞと言って自分の義を主張したくなるのです。また、何もしない人を判断し、そしりたくなります。
私はイエス様を信じて大きな救いの恵みを経験した時、教会堂の掃除でも一生懸命にしようと思いました。それで、もともと怠け者ですが、教会ではトイレの掃除から良いわざをするために励みました。その時、人々から自分がしているわざに対してコメントされると優しい態度を示すことができませんでした。彼らの言うことが正しいかどうかと言うことよりも、良いわざをしているのに・・・、何で言われるのかという思いが先立ってしまうからです。今でも自分なりには一生懸命にメッセージを準備しているつもりなのに、同労者のマリヤ宣教師から「メッセージの準備はまだですか。」と言われると優しい態度を示すことができなくなります。やさしい態度を示すどころか怒ってしまう時もあります。皆さんの中にも賛美や日ごとの糧などの良いわざをするために夢中になっている方に声をかけて怒られたことがあるかも知れません。あるいは宣教師や牧者が言い争い、柔和でない姿を見たことがあるかも知れません。それは牧者や宣教師たちが良いわざをしているけれども、まだイエス・キリストの御姿にまで変えられていないからです。パウロは私たちクリスチャンがすべての人に優しい態度を示す者となるように命じています。自分に優しくしてくれる人だけではなく、すべての人に優しい態度を示すのです。私たちが一部の人に優しくすることは簡単ですが、すべての人に対して柔和で優しくすることは難しいでしょう。特に、「昔からのうそつき、悪いけだもの、怠け者の食いしん坊。」と言われているクレテ人のような人々に優しくすることは難しいでしょう。しかし、私たちクリスチャンは柔和でありすべての人に優しい態度を示す者にならなければならないのです。クリスチャンの特徴の一つは優しさです。良いわざを進んでしても自分の義、自分の正しさを主張して争うならつめたい人間になってしまいます。しかし、良いわざを進んでしていてもいつも柔和ですべての人に優しい態度を示すなら、ほんとうに神様に賞賛されるクリスチャンになるでしょう。ではどうやって私たちは良いわざを進んでする者となり、すべての人にやさしい態度を示す者となれるでしょうか。答えから言いますと、それは主の恵みを覚えることです。そこでパウロは救いの恵みを思い起こしています。
 3節をご一緒に読んでみましょう。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」
 この御言葉は私たちの過去のアルバム写真であり、私たちの過去の姿を見せてくれる鏡です。イエス様を信じる前の姿には五つの特徴があります。最初の二つは神様に対する姿です。一つ目は愚かな者です。「愚かな者」とは「神はいない」思っている者です。詩篇14:1節を見ると「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行なっている。善を行なう者はいない。」とあります。彼らは未来の観念がなく、ただ物質を喜ぶ者です(ルカ12:20)。「不従順、迷っている者」とは神様のみもとを離れて迷っていた者です。人生の行路に良い牧者がいなくてさまよっている者です。彼らは自分で知者であると言いながら愚かな者となっています。つまり、私たちは神様が語られる御言葉に従わず、それを知ることさえ拒んでいたのです。その結果、羊飼いのいない羊のようにさまよっていました。
次の三つの特徴は人々に対する姿です。三つ目としてはいろいろ欲情と快楽の奴隷であったことです。奴隷と言うのは救われていない者の身分を表します。過去、私たちは社会的には自由人であっても内面的には欲情と快楽の奴隷でした。自分の良心と健全な教えに従わず、燃える欲情と快楽に支配されていたのです。四つ目は悪意とねたみの中に生活し、憎まれる者であったことです。人類最初の殺人者カインは悪意とねたみのために自分の弟アベルを殺しました。旧約聖書を見ると、このねたみ(jealousy)がヨセフを罠に落とし入れました。ねたみがモーセとアロンが反逆するようにしました。ねたみのゆえにサウルは荒野でダビデを荒野に追いかけて殺そうとしました。イエス・キリストを十字架につけたのも、まさにねたみでした。ねたみはイエス様を十字架につけて殺す罪であったのです。五つ目は互いに憎み合う者だったことです。人を憎み、人に憎まれる生活を続けていました。ここでパウロは「私たちも以前は・・・・者でした。」となっていました。パウロも、テトスも、私も皆さんも以前は神様に対しても、人に対しても罪人であったのです。皆さん、自分の過去の姿を思い起こしてみてください。私は偶像崇拝者であり、情欲とねたみの奴隷でした。自分に対して何も悪い事をしなかった人々に対しても憎しみを持ってつぶやいていました。ほんとうに惨めな罪人だったのです。私だけではないでしょう。聖書によると、皆さんも、イエス・キリストによって救われていなかった時は惨めな罪人でした。一人一人が違うでしょうが、クレテ人のように昔からのうそつきであり、怠け者だった人もいるでしょう。欲情と快楽の奴隷だったと告白する人もいると思います。今のノンクリスチャンのように哀れな生涯を送り、結局はさばかれて地獄に陥る者でした。しかし、神様は私たちにどんな恵みを施されましたか。
4,5節をご覧ください。「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
ここで「しかし」と言うことばほんとうに恵み深いことばです。私たちを幸せにしてくれる感動的なことばです。「しかし」がなく、私たちが以前のままだったら、どうなりますか。神様にさばかれて滅びるしかありませんでした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたのです。私たちが罪人として、神様に敵対している者としているなら、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもとともに恐ろしい神様のさばきを受けます。つまり、火と硫黄との燃える池の中に投げ込まれる地獄のさばきを受けるのです(黙示録21:8)。しかし、一方的な神様のいつくしみと愛が現われました。それはイエス・キリストの十字架の死において完全に表われています。イエス様は私たちが受けるべきすべての罪の代価を背負って十字架にかかって死んでくださいました。ここに神様に愛があります。十字架に神様の愛が完全に表れているのです。神様は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、ご自分のひとり子イエス・キリストを犠牲の供え物にしてくださいました。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでも救われるようにしてくださいました。しかも、それは聖霊による、新生と更新との洗いを持って私たちを救ってくださいました。聖霊が私たちのうちに働いてくださり新しく生まれ変わる新生を体験させてくださいました。つまり、新生とはイエス様をキリストとして信じて救われた時の恵みです。そして更新とは生まれ変わった者がその次に受けるべき聖霊のみわざですが、悔い改める生活に罪を洗い流してきよめられる恵みです。聖霊によってすでに救われた者が、生きて働いておられる聖霊の持続的な働きによってさらにきよめられる生活から受ける恵みです。これは本当に大きな恵みです。たまに、私は何もかも捨ててどこかに行きたいと思います。飲み食いをしながら適当にこの世と調子を合わせて生きたいと思う時もあります。しかし、聖霊が私のうちに働いてくださり悔い改めに導いてくださいます。今の私が少しでも良いわざをすることができるのは神様の哀れみと聖霊の働きによるものです。ローマ12:2節によると「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心を一新によって自分を変えなさい。」とあります。私たちには聖霊によってイエス・キリストの御姿にまで自分の変えて行く恵みが与えられているのです。聖霊によって私たちは罪の汚れからきよめられましたが、さらに聖霊によってきよめられて霊的に成長し、天の御国にふさわしい者として変えられていきます。そのために、神様は聖霊を私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです(6)。ここで「聖霊が注がれた。」という表現は旧約の祭司制度につながっています。旧約時代の祭司たちは油を注いできよめの儀式を行ないました。油注ぎは聖霊の働きを表していたのです。その油は注ぎは一滴、二滴落ちるものであって部分的であり、制限的でありました。しかし、今はイエス・キリストの十字架と復活によって私たちに豊かに注がれているのです。つまり、旧約時代、神殿で働く祭司たちにあった聖霊の働きが今はすべてのクリスチャンにあるのです。その結果、私たちの生活は潤され、豊かに祝福されます。聖霊は荒野に道を、荒地に川を設けられるからです(イザヤ4319)。聖霊によって私たちは砂漠のような環境にも、川が造られる恵みを体験するようになるのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人になるためです(7)。聖霊は単に私たちがキリストの恵みによって生まれ変わり、義と認められるようにするだけでなく、永遠のいのちの望みによって、相続人になるようにしてくださるのです。何と素晴らしい恵みでしょうか。聖霊による働きによって私たちは救われて神様の子どもとなり、神の相続人となりました。やがて輝かしい富と誉れと栄光が私たちに用意されているのです。イエス・キリストの復活を信じて永遠のいのちの望みを抱いている人々はその永遠の望みによって永遠に神様とともにおり、汚れることも、朽ちることも、消えることもない永遠の祝福をいただいているのです。
 以上のように、私たちが以前は罪深い者としてさばかれ、滅びるしかありませんでしたが、神様の一方的なあわれみと愛によって聖霊によって救われました。今は聖霊によって罪の汚れからきよめられています。さらに聖霊によって日々イエス・キリストの御姿にまで変えられていくところです。それだけではありません。私たちは神様の相続人として輝かしい永遠の祝福をいただいています。ですから、私たちは良いわざを進んでする者とならなければなりません。8節を見ると、私たちが良いわざを進んでする者とならなければならない理由がもっと明らかにされます。
 8節をご一緒に読んでみましょう。「これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」パウロは神様の一方的なあわれみによってこんなに恵みを受けたし、こんなに素晴らしい永遠の祝福を受けているのだから、神を信じている人々は、良いわざに励むことを心がけるようにしましょうと勧めています。「良いわざ」とはいのちを救うことであり、いのちを生かすことです。イエス様は安息日に片手のなえた人を直すとき、いのちを救うことこそ良いわざであり、それは安息日にも行なうべきであると教えられました。実際に、イエス様はいのちを救う、いのちを生かす良いわざに励むことを心がけておられました。イエス様が励まれた良いわざによって盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられました。良いわざに励まれたイエス様の働きによってつんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられるようになりました。イエス様はこのように、いのちを生かす良いわざに励んでおられましたが、他人をそしることも、争うこともなさいませんでした。黙々と良いわざに励まれ、ついに全人類を救い、生かすために十字架につけられて死なれました。このイエス・キリストの十字架によってすべての人が救われ、生かされて永遠のいのちを得る道が開かれました。私たちも新学期を迎える中でイエス様のように、パウロのように良いわざに励むことを心がけましょう。

?.分派を起こす人たちに関して(9-15)

9-11節は分派を起こす者に関して記されてあります。避けるべきことと避けるべき人のことです。私たちは愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けるべきです。私たちは御言葉を学び、御言葉の恵みを分かち合うことを大切にしていますが、どこまでもそれは自分を顧みて悔い改め、御言葉に従って生きるためです。議論のためではありません。ですから、私たちは自分が議論を仕掛けることを避けるべきです。聖書勉強もただ、知識的なものに留まらず、イエス様のように良いわざに励むことができるようにしなければなりません。パウロはこの手紙を通してクレテ教会の聖徒たちが異教徒の影響を受けて議論、論争などに巻き込まれていることを悔い改めて良いわざに励むことを懇切に願っていたことでしょう。そのために祈りながらこの手紙を書き送ったと思います。私自身もこの手紙を勉強しながら、自分の言葉だけの信仰生活を悔い改めて新学期の良いわざのために夕食を断食しながら祈り、毎日日ごとの糧を書いて食べることを心がけています。どうか、私たちが言葉や口先だけではなく、行ないと真実を持って良いわざのために励むことができるように祈ります。
パウロは避けるべき人についても教えています。自分は悔い改めず、良いわざにも怠けているのに、議論によって人を説得し、自分の知識と情報を伝えようとする人々を警戒しなければなりません。自分の主張を聖徒たちに押し付けて分派を起こすようなことをするなら、まずは悔い改めを勧めますが、同じことを繰り返すときは除名しなければなりません。
12-15節は手紙の終わりに、パウロが個人的な指示を与えていることです。そしてあいさつと祝福の祈りが記されてあります。手紙の最初はテトスのために祈られたイエス・キリストの恵みと平安がクレテのすべての聖徒たちにあるように祈っています。
ここに、いらっしゃる皆さんの上に同一のイエス・キリストの恵みと平安がありますように祈ります。