2007年ヨハネの福音書 第18講

もしあなたが信じるなら

御言葉:ヨハネの福音書11:1?57
要 節:ヨハネの福音書11:40「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

 

先週、イエス様が私たちに永遠のいのちを与えてくださることを学びました。ではどうやって私たちは永遠に生きられるでしょうか。それは信仰によってです。イエス様は言われまました。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」イエス様を信じる者は決して死ぬことがなく永遠に生きるのです。それだけではありません。イエス様は『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。』とも言われました。私たちがイエス様を信じるなら「神の栄光」を見るのです。

今日の御言葉を見ると、イエス様は愛する人たちの信仰を助け、彼らが「神の栄光」を見るようにしてくださいます。この時間、聖霊様が私たちの信仰も助けてくださるように祈ります。よみがえりであり、いのちであるイエス様を信じる信仰によって神の栄光を見る信仰の人として成長するように祈ります。

 

1,2節をご覧ください。ラザロ、マリヤとその姉妹マルタが登場しています。彼らはイエス様を愛していました。口先や言葉だけではなく、行ないと真実を持って愛していました。マリヤはイエス様に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったほどにイエス様を愛していました。5節を見ると、イエス様も彼らを愛しておられました。

ところがある日、ラザロが病気にかかっていました。その病気は死に至る致命的なものでした。そこで、マルタ、マリヤはイエス様のところに使いを送って、言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエス様にラザロが病気であることを知らせています。特に彼らはラザロがイエス様に愛されている者であることを強調しています。彼らはイエス様に愛されている者は病気にかからない、かかってもすぐに直ると思っていたからでしょう。イエス様に愛されている者はいつも健やかであるべき、若いうちに死ぬようなことはありえないと思っていたようです。しかし、イエス様はラザロのことを聞いて何と言われましたか。

4節をご一緒に読んでみましょう。「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」マルタとマリヤはラザロが死なないうちにイエス様が来て欲しいと使いを送ったはずです。ラザロの人生は死ですべてが終わってしまうからです。しかしイエス様は「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われました。イエス様は死に至る致命的な病気にかかっている、絶望的な状況を希望につなげておられます。イエス様は神様がラザロの病気を通してきっとご自分の栄光を表してくださると信じておられたからでしょう。イエス様は人には絶望のように見えることも神様には栄光を表わす良い機会になると信じておられたのです。このように信じる信仰があれば、私たちはどんな時でも心配に打ち勝つことができます。そして自分の現実は思ったほど、困難は大きくないと考えるようになります。そう考えた瞬間から、積極的に考え始められます。

しかし、マルタたちにはそのような信仰がありませんでした。イエス様は愛しておられるマルタたちの不信仰のために心を痛められたでしょう。そこで、イエス様はラザロの癒しよりも先に彼らの信仰を助けようと考えられたようです。

5,6節をご覧ください。「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられたところになお二日とどまられた」とあります。イエス様は彼女たちを愛しておられたわけで、そのおられた所になお二日とどまられまたのです。一般的に愛している人が病気だと聞いたら、どうするでしょうか。特に死にかかっていると聞いたらどうするでしょうか。すばやく病人のところに行くでしょう。しかし、イエス様はマルタたちを愛しておられたわけで、すぐに行かれなかったのです。ここで、イエス様の愛は私たち人間の一般的な考え、常識をはるかに超えていることが分かります。時々、私たちは親の愛も子どもの考えを越えていることに気づかされます。私は甘いものが好きでご飯に砂糖を入れた時もあるほどです。それで、親からよく叱られましたが子どもの時はよく理解できませんでした。しかし、大人になって歯医者の所に行く度に親から言われる時にやめたら良かったと思います。神様は私たちのことを自分の親よりももっと長く、もっと深く、広く見ておられます。使徒パウロはこの神様の愛をものすごく深く悟り、経験していたようです。彼は「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように(エペソ3:19)。」と祈っています。では人知をはるかに超えているイエス・キリストの愛がどのように現われていますか。

15節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」ここにイエス様が一般的な常識を超えて二日もとどまられた理由がはっきり示されてあります。それは彼らが信じるためでした。つまり、人知をはるかに超えているイエス・キリストの愛は彼らの信仰を助けることだったのです。事実、この世で一番価値ある愛はイエス・キリストを信じるようにすることです。そして、その信仰が成長するように助けることです。イエス・キリストを信じることは永遠のいのちとかかわっているからです。また、信仰があればどんなことでもできる人生を生きるようになるからです。イエス様は言われました。「できるものならというのか、信じる者には、どんなことでもできるのです。」信仰によって救われ、信仰によって永遠のいのちを得ることができますが、それだけではなく、この世の中でもどんなことでもできる積極的な人生、勝利の人生を生きるようになるのです。ですから、愛する人であればあるほど信仰を助けるべきです。人々は「愛するなら、お金をちょうだい」「愛するなら、早く病気を治してくれよ。」というふうに言います。しかし、イエス様の愛はそういう低次元の愛ではありません。イエス様の愛は私たちの永遠のいのちをつながる信仰を助けることにありました。ラザロの病気が治っても彼らによみがえりであり、いのちであるイエス様に対する信仰がなければ永遠に生きることはできません。そこで、イエス様はラザロのところにすばやく行かれないで二日も、そのおられたところに留まられたのです。信仰を助けるためです。では、イエス様は愛するマルタたちの信仰をどのように助けてくださいますか。

 

17?20節をご覧ください。イエス様が、ベタニヤにおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていました。大勢のユダヤ人たちがマルタとマリヤのところに来ていました。すでに葬式が終わり、ラザロの死体は墓の中に入れられていましたが人々はマルタたちを慰めるためにまだそこにいました。マルタは、イエス様が来られたと聞いて迎えに行きました。マリヤは落胆して立ち上がる気力もなかったでしょうか。彼女は家にすわっていました。二人ともイエス様がこんなに遅く来られるとは思わなかったでしょう。マルタはイエス様に向かって言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」32節を見るとマリヤも全く同じ事を言っています。彼女たちの言葉にはイエス様に対する不平が表れています。イエス様を愛していただけに不平不満、失望も大きかったと思います。しかし、そのような悲しみ、失望、不満足の中でもイエス様に対する基本的な信仰がありました。

22節をご覧ください。「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」とあります。マルタにとって愛する兄弟の死は何とも無念であったに違いありません。しかし、彼女はラザロが死んでしまった今でも神様はイエス様の願いを聞いてくださるという信仰的な発言をしているのです。彼女はイエス様が何を求め、神様が何をお与えになると思ったでしょうか。具体的なことは知らなかったようです。イエス様が死んだラザロにいのちを与えて生き返らせることには思い至りませんでした。確かに、彼女はイエス様が祈ると、神様が働いてくださると信じているようです。しかし、イエス様ご自身が全能の神様であることは信じていなかったのです。ただ、力ある祈りの勇者として信じていました。

そこでイエス様は、マルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。すると彼女はイエス様に言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」やはり彼女は信仰の人です。彼女は信者の復活を信じていました。信者が世の終わりに復活するという信仰を持っていたのです。しかし、それはイエス様が願っておられる信仰のレベルではありませんでした。イエス様は彼らの信仰がもっと成長することを望まれました。過去の事実、未来に起こることを信じることだけではなく、現在の悲しみも、苦しみも、絶望も乗り越えていく生きた信仰の人になることです。そこで、イエス様はとても重大な宣言をなさいました。

25、26節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」「わたしはよみがえりです」「わたしはいのちです」この御言葉はみな現在形です。イエス様は現在よみがえりであり、いのちです。信仰とは過去や未来ではなく、今どんな信仰を持っているかが大切です。信仰は単に過去の問題ではなく、現在に続いて生きて働き、私たちを根底から支えているものです。マルタたちはイエス様を愛し、イエス様に愛されていました。過去、彼らは愛と信仰、望みを持っていたのです。ですから、彼らはラザロが病んでいる時、イエス様を招きました。イエス様の愛を確信し、イエス様の力も信じていたからでしょう。しかし、今は弱くなっていました。ラザロの死が彼らの信仰を弱くし、イエス様に対する期待をあきらめさせてしまいました。そこでイエス様は彼らに今の信仰を求められたのです。イエス様を信じてきたからイエス様が何とかしてくださるだろうし、世の終わりによみがえらせてくださるでしょうと言うような信仰ではありません。ラザロは今、よみがえる、今ラザロにいのちが与えられると信じる信仰が大事なのです。

私たちも、ただ自分の弱さを見ているときではありません。大事なのは“今の信仰だけ”です。“今”どうあるべきかです。「世界傑作ジョーク250」という本にはこう言うジョークがあります。/礼拝中に居眠りをする人は多い。どこの国の教会でもよくあることだ。賛美が終わり、説教が始まると、一番前の席の男がぐっすり眠りこけてしまった。説教者が言った。「地獄に落ちたい人は」そして声をあげて「どうぞ立ってください!」 「立ってください!」だけが耳に入った男は、わけもわからず立ってしまった。みんながどっと笑った。とっさに意図をつかんだ男は、あたりを見回しながらおだやかに言った。「先生、立っているのは、先生と私と二人だけですね!」/まあ、これはジョークですが、もし私たちがマルタとマリヤのようにイエス様との関係性が良かったとしても今の信仰が眠っているなら悲しいことでしょう。

今、信仰によって生きることが大切なのです。今主のために生きる者は、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって歩みます。聖書を読んでみると、ペテロも、パウロも、ステパノもが特別なのではありません。生まれつきの信仰を持っていたのではありません。私たちも同じ立場にある者です。また、彼らを用いられた神様は、私たちが信じ、依り頼む同じ神様です。この神様が、私たちをも用いてくださると信じ、感謝しましょう。何よりもこの世の終わりにおいてだけではなく、今主はよみがえり、いのちであると信じましょう。今週木曜日から始まるSBCは死んだラザロのようなたましいが生き返り、いのちを得ることを信じましょう。自分の過去や自分の弱さに縛られることなく、よみがえりであり、いのちであられるイエス様の力と働きを信じましょう。すると、きっと神様がいのちと成長、喜びにあふれる修養会にしてくださると信じます。

イエス様はご自分がよみがえりであり、いのちであることを信じる者は死んでも生きるし、生きていて信じる者は決して死ぬことがないことを宣言してからマルタに「このことを信じますか。」と問われました。このイエス様の問いかけに彼女は「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と言いました。彼女はイエス様に対して神の子キリストとして信仰告白したのです。このマルタの告白はそのまま私たちの告白にならなければなりません。「主よ。あなたは神の子キリストです。」と告白する者に神様は賜物としていのちを与えてくださいます。

イエス様はマルタの姉妹マリヤにも会うことを望んでおられました。そのことをマルタから聞いたマリヤはすぐにイエス様のところへ走って行きました。そして、イエス様に会うと、マルタと、全く同じことをイエス様に申し上げました。彼女は「主よ。もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っています。マリヤにもマルタと同様に主に対する不平の気持が見られます。でも今はラザロが葬られて四日も経っているからしようがないと思ったでしょう。彼女は泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いていました。それをご覧になったイエス様は霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。そしてイエス様も涙を流されました。悲痛な嘆きと悲しみのただ中に人間を閉じ込めているサタンに対して霊の憤りを覚え、涙を流されたのです。ところが、ユダヤ人たちは言いました。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいました。そこでイエス様は、またも心のうちに憤りを覚えられました。イエス様は彼らの不信に憤りを覚えられたのです。
 墓に来られたイエス様は石を取りのけるように命じられました。当時、墓は岩の横穴を掘って造り、入り口は大きな石でふさぐスタイルのものでした。そのようなラザロの墓の前まで来られたイエス様は、「その石を取りのけなさい。」と言われたのです。それはイエス様が墓の中に入るためではなく、ラザロが墓から外に出て来るためでした。しかし、誰もイエス様がどうしてそんなことを命令するのか分かりませんでした。それで、マルタは言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」これは常識的な答えです。「ラザロは完全に死んでいるのですから遺体を見てもむだです。」とも言いたかったでしょう。彼女がイエス様の御言葉を聞いて信仰告白したのはついさっきのことだったのにまだ、まだ常識を超えていません。しかし、イエス様は彼女の心の鈍さを責めることはなさいませんでした。かえって彼女の信仰を助けておられます。イエス様は彼女の信仰を呼び覚ますように言われました。

40節をご一緒に読んでみましょう。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」ここで、イエス様は「神の栄光」、神様の大いなるわざを見るためには、神様を信じなければならないことを教えておられます。特に信じ続けることです。マルタはイエス様との愛の関係性が良かったし、イエス様の御言葉を聞いて信仰告白もしました。もちろん、そういう愛と信仰がイエス様に無視されるのではありません。しかし、一度のイベントのような信仰ではなく、信じ続けることが大事なのです。「ああ、あの時のメッセージすごかった。あの集会は良かったですね。」という位の信仰に留まっていてはなりません。イエス様の教えを聞いて「アーメン」と答えることも信仰ですが、イエス様から「その石を取りのけなさい。」と命じられた時に従うことこそほんとうの信仰ではないでしょうか。信仰は、勉強や知識や解説の世界とは違います。知っているのではなく、信じていると言えるまで、成長しなければなりません。イエス様はマルタに常に信じている信仰を求められました。私たちが信じ続けていなければ、「神の栄光」も、神様の大いなるわざも見ることはできないということです。
 人にはできないことも神様にはおできになります。神様に信頼しつづけ、神様を求めつづけるならば、神様は大いなるみわざを現し、神様の素晴らしいご栄光を現してくださるのです。神様は、実にそのひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられます。私たちの身代わりにイエス様を十字架にかけて私たちを救ってくださるほどに私たちを愛してくださっています。そして、良い牧者として私たちを守り、最善に導き、豊かな恵みと祝福を注いでくださいます。この神様を信じ続けるなら、私たちはすばらしい「神の栄光」を見るのです。

ある人たちは、信仰とは実際の生活、社会的成功の間には関係がないという考え方にとらわれています。信仰はビジネスとは無縁であり、道徳や社会活動などにしか関係がないものと決めつけているのです。しかし、そういう考え方は神様の大いなる力を制限し、信仰の成長を抑えつけるものです。私たちが本気で神様を信じると、ビジネスの中でも、家族生活の中でも神様の栄光を見、神様の力を体験できます。神様は、あらゆる敗北感を一掃し、あらゆる困難な状況から人を引き上げる力を持っておられます。私たちが実際に信じるなら、信仰によって心に描くどんなことでも、祈って実際に努力するどんなことでも神様はそれが実現できるようにしてくださいます。ですから、信仰を用いて、神様のご栄光を見ることができるということは、神様を信じる者に与えられた大きな恵みであり、特権です。

そういうわけで、イエス様は愛するマルタたちに、この素晴らしい恵みと特権を与えるために彼らの信仰を助けてくださいました。愛するラザロが病んでいることを聞かれても二日留まり、死んでから四日も経って墓に到着されたのは彼らの信仰を助けるためだったのです。ほんとうに、よみがえりであり、いのちであられるイエス様を信じる信仰がなければ「神の栄光」を見ることができません。しかし、信仰さえあれば、人としてのイエス様の姿が見えなくても神の栄光を見る生活ができます。ですから、どのような状況の中でも信仰に堅く立って、信仰の告白をし、神様を信じ続けましょう。

イエス様の御言葉を聞いた人々は石を取りのけました。彼らはイエス様の御言葉に従って、ふさいでいる大きな石を取りのけてから、神の栄光を見ることになります。まず、イエス様は目をあげてご自分の願いを聞いてくださった神様に感謝の祈りをささげました。ご自分の願いとはそこにいる人々がイエス様を信じるようになることでした。その願いのとおりに人々がイエス様の御言葉を信じて石を取りのけたことを感謝しました。そして、イエス様は大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んで4日もたっているラザロが体を布でまかれたままの状態で出てきました。死んだ人が生き返って来たのです。何と素晴らしい光景でしょうか。イエス様を信じた人々は目の前で素晴らしい神の栄光を見たのです。人々はどんなに感動し、感激したでしょうか。特にマルタとマリヤは、言葉で言い尽くせない感動に包まれていたでしょう。「イエス様を信じて良かった。ほんとうにイエス様はよみがえりです。いのちです。」と告白したことでしょう。

 

このように誰でも、イエス様を信じるなら神の栄光を見ることができます。自分にはできないことを神様がなしてくださることを見ることができます。どうか、私たち一人ひとりイエス様を信じ続ける者になりましょう。イエス・キリストは私たちの罪のために、すべての罪を贖うために死んでくださいました。そして、死者の中からよみがえられました。この方に真のいのちがあります。それで、イエス様を信じる者はいのちを得、それを豊かに得ることができます。それだけではなく、素晴らしい神の栄光を見る人生を生きるようになります。