2007年ヨハネの福音書第17講
永遠の命をお与えになったイエス様
御言葉:ヨハネの福音書10:19~42
要 節:ヨハネの福音書10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」

 

 先週、私たちは「良い牧者であるイエス様」について学びました。イエス様は「牧者と羊、良い牧者」について教えられましたが、ご自分が良い牧者であることも明らかにされました。二度も強調して、「わたしは良い牧者です。」と言われました(11、14)。事実、イエス様は信仰を持って従うすべての人々の良い牧者です。イエス様は弱い羊を救い、守り、保護するために、自分のいのちまでも捨てられました。十字架にかかって死んでくださったのです。そして、十字架の死によって人類の罪を贖われたイエス様は死者の中からよみがえられました。よみがえられたイエス様は昇天され、神様の右の座におられますが、聖霊によって今私たちのうちに住まわれます。そして、イエス・キリストを信じる私たちクリスチャンに対して「わたしの羊」と呼んでくださいます。良い牧者イエス様は私たちのためにいのちを捨てられた一度の死で私たちを永遠の破滅から救われましたが今も私たちを養い、導いてくださるのです。私たちは2000年前に死なれた良い牧者イエス様の羊である、今も生きておらえるイエス様の羊なのです。

これは私たちにとって大きな恵みです。しばしば私は自分が良い牧者のような方たちに恵まれていることで感謝します。良い両親に恵まれているし、学生の時は良い先生に恵まれていました。UBF教会に導かれては良い1:1牧者に恵まれました。自分のすべてを犠牲にして羊たちに仕える多くの牧者たちに恵まれて来ました。私だけではなく、弱い私たち人間は牧者のような方たちによって助けられていることでしょう。もちろん、羊を盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする盗人や羊を置き去りにしてしまう雇い人のような人たちによって傷つけられることもあるはずです。でも、良い人たちに恵まれていることも事実なのです。良い牧者のように自分を犠牲にして私たちを助けてくれる人に恵まれていることは幸いなことでしょう。しかし、どんなに素晴らしい人であっても私たちを永遠に守り、永遠に助けてくれることはできません。人間の助けには限界があります。良い牧者の役割を果たすことは一時的に、部分的にしかできないのです。しかし、イエス様は永遠に良い牧者です。イエス様は御声を聞き分け、ご自身について来る人々に永遠のいのちを与えてくださるからです。ですから、私たちがイエス様の羊と呼ばれることは、ほんとうに偉大な特権です。ではイエス様の羊と呼ばれることが偉大な特権であるといえる具体的な理由は何でしょうか。

 

第一に、私たちの良い牧者イエス様はキリストであるということです。

 22、23節をご覧ください。「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。」とあります。宮きよめの祭りについては聖書の他の箇所では言及されていません。しかし、注解書によると、この祭りは「ハヌカ(奉献の意味、新共同訳の聖書では《神殿奉献記念祭》」と呼ばれて、毎年12月ごろに8日間祝われるユダヤの祭りです。紀元前170年頃、シリヤ王アンティオコス・エピファネスはイスラエルを征服し、エルサレムの神殿礼拝を禁じました。神殿にゼウスを持ってきてそこで豚の生贄をささげました。そんな中からユダ・マカビーが立ちあがりました。武器はあまりにも貧弱でしたが、戦いに勝利することができました。その後、神殿はきよめられ、祭壇が建て直されるようになりました。それを記念して制定されたのが宮きよめの祭りですが、灯の祭りとも呼ばれました。この祭りをしながらユダヤ人は光であるキリストを待望していたそうです。長く続く植民地の生活から救ってキリストを待ち望んでいたのです。イエス様はこのような祭りにも出席され、ソロモンの廊を歩いておられました。それでユダヤ人たちは、イエス様を取り囲んで言いました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」ユダヤ人たちにとって、イエス様がキリストであることの証拠はまだ不十分でありませんでした。高慢で邪悪な人たちは証拠を要求しますが、すでにイエス様がキリストであることは明らかになっていたのです。

25,26節をご覧ください。「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」とあります。イエス様は何度もご自分がキリストであると話しました。また、父の御名によって行なわれる御わざがイエス様はキリストであると証しています。足なえが歩き、38年も病気だった人が歩き出したこと、盲人の目が見えるようになったことのような奇蹟こそがイエス様はキリストであると証ししているわけです。それにも関わらず彼らはそれを信じようとしませんでした。それは彼らがイエス様の羊に属していないからです。イエス様の羊たちはイエス様の御声を聞き分けます。彼らはイエス様が語られた言葉、わざを通してイエス様こそがキリストであることが分かるのです。イエス様は彼らが分かっているとおりにキリストです。そして、イエス・キリストはご自分の民を「わたしの羊」と呼んでおられます。つまり、イエス様を信じる者はキリストの羊なのです。私たちは天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられるキリストが罪の破滅から救って守り、導いてくださる羊です。

この世では絶えず何かが私たちを「奪おう」とし「引き抜こう」としています。しかし、私たちはキリストの「手の中で」守られており、決して滅びないキリストの羊なのです。ローマ書8章38、39節は言います。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを切り離すことはできません。」私たちを養い、導いてくださる私たちの牧者がいっさいの権威を持っておられるキリストであるからです。王の王、主の主であられるキリストが私たちの良い牧者であるということは、羊たちにとって大きな慰めであり、ものすごい約束です。

 

第二に私たちの良い牧者イエス様は私たちを知っておられるということです。

27節をご一緒に読んでみましょう。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」イエス様は「わたしは彼らを知っています。」と言われました。この御言葉は本音と建て前を使い分けている人にとっては恐いかも知れません。だれかが自分の罪と弱さを知っていることに対する恐れもあるでしょう。もちろん、主はすべての人の心の秘密を知っておられます。すべての邪悪な者たちのあらゆることを知っておられます。しかし、ここで「知っている」ということはイエス様が羊たちを、特別な愛と関心を持って知っておられることを表わします。イエス様は私たちのすべてを知っておられます。その名前、家族、住んでいる場所、環境、生い立ち、経験していること、試みなど、これらすべてをキリストは完全に知っておられます。たといどんなに小さくつまらぬものに思えても、キリストが知らないものは一つもありません。しかも、素晴らしいことに、すべてを知りながらも決して弱い者たちを軽蔑することはありません。むしろ、私たちを知る確かな知識によって私たちをよく理解し、一人ひとりにふさわしく助けてくださいます。

聖書は言っています。「あなたは私の内側も外側も知っておられ、私の体を組み立てている骨々を皆ご存じです。あなたは私の成り立ちを事細かく正確に知っておられ、どのように生まれてきたのかをも知っておられます(詩篇139:15Msg)。」また、詩篇31:7節を見ると「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。」とあります。イエス様は私たちのことを正確に知っておられるから、正確に助けてくださいます。だれよりも私の悩み、私のたましいの苦しみをよく知っておられるから、だれよりも私をよく理解して助けてくださいます。それで私たちは私を知っておられる主の恵みを楽しみ、喜ぶことができます。イエス様の私たちに対する特別な知識は特別な愛に基づいているからです。特にイエス様は「わたしと父とは一つです。」と言われました。その本質、性向、神性、力、意志、わざにおいて一つであるということです。それゆえ、イエス様の羊を知り、羊を守ることに関してイエス様のなすことは父なる神様も同じくなされるのです。神様は言っておられます。「あなたが生まれた時から、わたしはずっとあなたを導いてきた。あなたが誕生した時から、わたしはあなたの面倒をみてきた。あなたが年をとってからも、わたしの態度は決して変わらない。あなたが白髪になっても、わたしはあなたの世話をしよう。わたしがあなたを造ったのだから、わたしがあなたの面倒をみよう(イザヤ46:3?4 NCV)。このような愛を持ってイエス様は私たちを知っておられるのです。C・S・ルイスはこう言っています。「二種類の人々がいる。神に対して、『あなたのご計画がなりますように』と言う人と、神の方から『分かった。それならもう勝手にしなさい』と言われる人である」残念ながら現代の多くの人が神様から引き離されたままの状態でさまよっています。というのは、すべてを知っておられるイエス様にゆだね、イエス様に従うのではなく、おのおの自分かってな道に向かって行っているからです。神様は彼らのことも知っておられますが、イエス様の御声に聞き従わない人々に対しては「分かった。勝手にしなさい。」と言ってしまわれるのです。しかし、私たちはイエス様の羊たちに対しては人知を超えた特別な愛と関心を持って導いてくださいます。羊のすべてをよく知っておられる良い牧者として一人ひとりを人格的に導いてくださるのです。どうか、私たちが私たちをよく知っておられる良い牧者イエス様を信頼して朝ごとに自分の生活を主の導きにすべてをゆだねましょう。イエス様に向かって『あなたのご計画がなりますように』と祈る人生を生きるように祈ります。

 

 第三に、良い牧者イエス様は羊である私たちに永遠のいのちを与えてくださるからです。

 28節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」イエス様はご自分の羊たちに永遠のいのちを与えてくださいます。それは、この世においては赦しと恵みの賜物であり、来るべき世においては栄光のいのちです。つまり、主はご自分の十字架の死によって私たちの多くの罪を赦してくださいます。たとい、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになります(イザヤ1:18参照)。赦された私たちに主は全き義の衣を着せて天国への権利と資格を無代価でお与えになります。もちろん、主はご自分の羊たちに金銭や健康、この世の繁栄などを、場合によっては思慮深く差し控えられます。しかし、永遠のいのちにある恵みと平安、栄光をお与えにならないことは決してありません。イエス様は、ご自分の羊たちは「決して滅びることがない」と宣言されました。彼らは弱くあってもすべての者が救われます。彼らのうちのひとりさえも失われ、捨てられて、天国に入ることができないということはありません。弱い羊たちが間違った時には連れ戻されます。倒れた時には助け起こされます。もちろん、私たちがこの世に生きている限り、私たちのたましいの敵の攻撃も受けます。サタンは強い武器である肉欲と好色、淫乱と安逸などによって主の羊たちを誘惑し、自分たちの奴隷にしようとしています。健康や将来の心配を飢えて攻撃する時もあります。私たちの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているのです(?ペテロ5:8)。その悪魔は強く、力があります。しかし、良い牧者であるイエス様の手から私たちを奪い去るようなことはありません。私たちの敵は強く、力があるけれども、私たちの良い牧者イエス様はもっと力強いからです。イエス様は「わたしの羊は決して滅びません。」と断言しておられます。イエス様はそのように語られたのだから、ご自分の語られたことを確かなこととしてくださるに違いありません。イエス様は必ずご自分の語られた約束を守ってくださいます。イエス様と父なる神様は一つですから、天地を造られた全能の力によってご自分の約束を守ってくださるのです。

 ただし、私たちはこの栄光に輝くご約束から、なんの益も受けないということが、あってならないことを心に刻んでおかなければなりません。私たちはいつまでもイエス・キリストの羊の群れに属するように心がけて行くことです。良い牧者イエス様の御声を聞き、イエス様について行くことです。いつまでも良い牧者の羊としての特権と恵みを自分のものにするためです。

 ところが、ユダヤ人たちはイエス様の御言葉を受け入れず、むしろイエス様を石打にしようとして、また石を取り上げました。しかし、イエス様はユダヤ人に対して何一つ悪を行なわれませんでした。国の法律に反逆したのでもありません。イエス様のご生涯は愛で満たされていました。イエス様「巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者を癒されました(使徒10:38)」と言われています。イエス様のご人格には一つの欠点も矛盾もなく、責められるべき罪もありません。けれどもユダヤ人たちはイエス様を憎み、その血に飢え渇いていたのです。彼らにイエス様は言われました。37、38節をご覧ください。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」とあります。イエス様は「わたしのことばを信じることができなければ、わざを見なさい。」とおっしゃっています。私たちも、人が言っていることについて、本当にそのとおりであるかどうか確かめるためには、その人の行なっていることを見ます。同じように、イエス様がなさった一つ一つ見るならば「真の神の人だ。」と言うことができるでしょう。ですから、イエス様ご自身をしっかりと見なさいと言ったわけです。そこで、彼らはまたイエス様を捕らえようとしました。しかし、イエス様は彼らの手から逃れられました。そしてイエス様はバプテスマのヨハネが宣教をしていた地に行きました。バプテスマのヨハネが言っていたことはこの方によって事実となりました。確かにこの方は救い主だということが分かったのです。そして、その地方で多くの人がイエス様を信じました。その険悪な中で、聖書ははっきりと記します。「そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた」と。それが神様の選びの信仰です。どんな悪い環境の中でも、必ず神様が選んでくださった人々がいるのです。
 日本に、キリストの福音が伝えられて、カトリック教会では、450余年を声、プロテスタント教会でも140年以上たっているのですが、未だにキリスト教信者の数は、総人口の1パーセントにも達していません。日本においては、僅かなキリスト者がいるにすぎず、この状態が急に変わる確かな兆しもまだ見えません。今年SBCの参加予定者の名簿を見ると、生まれてきた子どもたちだけが増えているような状況です。東京UBFは50チームの1:1、50人の礼拝参加のために祈っているし、47都道府県開拓のためにも祈っていますが、果たして福音伝道に成功するのだろうかと思われる時もあります。そうならざるをえない厳しい現実があるのです。しかし、神様の言葉は、全世界に響き渡っています。そして最も大切なことは、多くの人々の無関心や不信仰の中でも、私たち自身が真の神様を知らされました。良い牧者であるイエス・キリストの救いに与ることが許されているのです。険しいユダヤ人の中でもイエス様を信じた人たちがいたように、この日本でもイエス様の羊の群れに属している人々がいるのです。私たちはそれを確認し、また確信して行きましょう。

 パウロの時にローマ宣教も、今日の日本宣教のように難しかったでしょう。神様に選ばれている人がいるし、残されている人々がいるのです。ローマ11:2?5節を見ると「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」この日本にも神様のために残している牧者候補、宣教師候補たちがいることを信じて感謝します。

 私たちが永遠のいのちまで与えてくださる良い牧者イエス様の羊である特権を感謝し、まだ羊の群れに属していない人々の救いのために励むことができるように祈ります。