2007年ヨハネの福音書21講 

イエス様を通してでなければ、

御言葉:ヨハネ14:1?31
要 節:ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 この間、SBCに来られたお客さんたちをガイドする時、〇〇牧者、金南帝牧者、張パウロ宣教師は運転のために大変苦労しました。私はカナダの牧者たちと一緒に金南帝牧者の車に乗っていましたが羽田空港に行く時は道をそれてしまったこともありました。予定の時間をかなり過ぎて、やっと羽田空港に到着したのです。運転席の隣に座っていた私が正しい道に案内していたなら、楽に空港についていたことでしょう。正しい道を見つけるということがどんなに大切かを思い知らされました。
イエス様はわたしが道であり真理であると言われました。私たちの人生の目的地に無事到着できるためには正しい道を選ぶことが大切ですが、イエス様はわたしが道であると言われたのです。同時に、イエス様は真理であるとも言われました。主は私たちが道をそれることも途中で挫折することもなく、一歩一歩確実に進めるよう真理の光となって、目的地に必ずたどり着けるよう導いてくださるのです。そして、道であり真理であるイエス様が、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。
今日は、このみ言葉を中心にイエス様の教えを学びたいと思います。イエス様はご自分と父なる神様、聖霊との関係について教えてくださいます。ご自分が父なる神様のみもとに行ける唯一の道であることも明らかにされました。
 
1節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」この御言葉から弟子たちは心を騒がしていたことが分かります。なぜ、彼らは心を騒がしていたでしょうか。先週、学んだように、イエス様は新しい戒めを遺言的に言われました。この世を離れていく親が子どもたちに言っているように「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。そこで、イエス様との別れに気づかされたペテロは「主よ。どこにおいでになるのですか。」「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、いのちも捨てます。」と言いました。ところが、イエス様は「わたしのためにいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」イエス様はユダの裏切りだけではなく、ペテロが三度もイエス様を否認することも言われたのです。それは三年間もイエス様と侵食をともにして来た弟子たちにとっては本当に理解できないことであったでしょう。イエス様を裏切り、イエス様を否認する者が自分たちの仲間であることも心を騒がす問題です。しかし、何もかも捨ててイエス様について来た弟子たちにとってイエス様との分かれることがもっと心配になったでしょう。「これからどうなるんだろう!」それが分からなくなった時ほどに不安な時もないでしょう。重苦しい不安と恐れが彼らのうちに広がっていたに違いありません。そんな彼らの心を気づかれたイエス様は彼らを励まして力付けるために「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われたのです。ではここで、「神を信じ、またイエスを信じる」ということは具体的に何を信じることでしょうか。

 第一に、神の国には住まいがたくさんあると信じることです。
2,3節をご覧ください。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」ここで「父の家」とは神の国を指しています。イエス様は弟子たちを慰め、励まし、また彼らの目を天に向けさせて望みをお与えになりました。困難と試練があっても、愛と信仰と希望のあるところに勝利が来ます。イエス様は先週学んだ13章に記されてあるとおりに愛を残るところなく示されましたが、ここに信仰の激励と希望の約束を与えておられます。イエス様は私たちの罪を贖うために十字架につけられて死んで葬られます。しかし、葬られた三日目に死者の中からよみがえられます。そして天に昇られますが、私たちのために「場所を備えに」行かれます。ですから、今は天国に、私たちのために住まいが十分用意されています。
 この間、私が父の家に行って来た時、先輩の先生から「あなたは幸せですね。帰られる父の家があるとは」と言われました。本当に、この世でも帰られる故郷、父の家があるということは幸せなことでしょう。私は田舎にある小さな家であっても久しぶりに母が備えてくれた料理を食べて父と一緒に寝る時、大きな幸せを感じました。しかし、それは一晩だけでした。しかも父の健康の状態が良くなかったために私は日本に帰ってからも心配せざるを得ませんでした。
 ところが、神の国には私たちが永遠に父なる神様とともにいられる住まいがあります。イエス様が備えてくださる住まいは愛にあふれているところです。いのちと平和と自由と喜び満ちているところです。私たちが心を騒がすことなく、永遠に安息できるところです。
この世では仕事や使命のために忙しくてなかなか休めない生活が続いている方も多くいるでしょう。また、週末を楽しむことも、旅行することもできずに地味な生活が続いている方もいるでしょう。私は職場で日本に来て2,3年過ごしている人たちが家族旅行であちこち行って来たこと話しすると、20年近く住んでいる私よりも日本の観光地をよく知っている彼らに劣等感を感じる時もありました。しかし、よく考えてみれば私たちにはこの地上では見ることができない素晴らしい住まいが備えられています。使徒ヨハネは黙示録21、22章で私たちの住まいを紹介しています。21章1?4節を見ると「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあります。また22章1?4をみると「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」とあります。この住まいは神様がイエス様の十字架と復活によって建てられた家です。ですからイエス様が備えてくださる住まいは最も確実で、最も美しく、最も輝かしい家です。この家は誰も破壊することができない神の都であり、永遠の喜びと幸せの楽園です。この素晴らしい住まいが私たちのために備えられているのです。
 ですから、私たちは、今重苦しいこと、不安と恐れがあっても心を騒がす必要がありません。私たちには帰られる父の家があり、その家に輝かしい住まいが備えられてあると信じるべきです。私たちの住まいを備えてくださる神様を信じ、またイエス様を信じる者には輝かしい永遠の住まいが備えられているからです。それで、神を信じ、またイエスを信じる者はこの世で心を騒がすような様々な問題を主に委ねて勝利の人生を生きることができます。なぜなら、神を信じ、イエスを信じる者たちが孤児のように捨てられるようなことはないからです。
私たちのために「場所を備えに」行かれたイエス様は、場所を備えたら、また来て、私たちを迎えてくださいます。それだけではありません。今、生きている私たちを天の父の家に運んでくださる正しい「道」でもあります。しかもただ一つの道です。

第二、イエス様こそ神の国に至る唯一の道であると信じることです
6節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」イエス様は、はっきりと、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。それは、イエス様こそ、唯一の「道」だからです。
 古来多くの人々がこれこそ、道であると言って、道について語ったり、道を指し示したりしました。また、歴史の中で人間は、宗教や哲学の名のもとに多くの道を切り開いて来ました。しかし、それはそれは天に通じる道ではありませんでした。私たちの輝かしい住まいが備えられた神の国に至らせる道ではなかったのです。神の国に行くためには神様が決められた方法に従わなければなりません。神様は、イエス様をこの世に遣わされ、この方によってご自分のところに来る道を用意されました。昔ヤコブが夢で見た天に上るはしごのように(創世記28:12)、イエス様は神様と人とを結ぶ唯一の道であり、正しい道です。同時に、イエス様は真理であり、いのちです。イエス様が真理であられるから私たちはイエス様に学ばなければなりません。また「いのち」であられるからこそ、私たちはイエス様を受けて新しいいのちを得ます。いのちと力に満たされて、信仰生活を送ることができます。結局、やがて私たちが天の御国に運ばれることも、この世にいのちと力に満たされて信仰生活を送ることもイエス様を通してでなければできないのです。
 人間は里親によって育てられた子どもが産みの親を捜しているように、神様から離れた人間は神様を捜しにさ迷っています。?ペテロ2:25節はそのことを言っています。「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」人々は本当の父親、たましいの牧者のもとに帰ることを望んでいます。心の奥底で神様に会いたいと渇いているのです。そのような人間を神様に帰らせる唯一の道がイエスさまなのです。なぜならイエス様だけが十字架と復活によって人々の根本問題である罪と死の問題を解決されたからです。イエス様は神様と人との間の唯一の仲介者となられる方です(?テモテ2:5)。イエス様は私達が神様のところへ行ける唯一の道なのです。
また、私たちはイエス様を通して神様を知ることができます。イエス様は言われました。7節をご覧ください。「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」。イエス様は、父なる神様と主イエス・キリストとがひとりの神様であられることを語られました。イエス様は、見えない神様のかたちとして、神様の御姿を完全に啓示された方です。ですから、私たちは福音書に記されているイエス様の活動を通して神様の働きを知ることができます。神様はイエス様が私たちの間で行なわれた力あるわざと不思議としるしよりも大きなわざを行なわれます。そして、イエス様を信じる者は神様がイエス様を通して行なわれる大きなわざに用いられます。
 12節をご覧ください。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」とあります。私たちは信仰によって福音書に記されたとおりに、イエス様が行われたわざを行うことができるし、それよりもさらに大きなわざも行うことができるようになるのです。ただ、それは私たちの自然な力によってではなく、神様に祈ることによってできます。私たちがイエス・キリストの御名によって祈ると、神様が力あるわざ、イエス様がなさったわざよりも大きなわざを行なわれるからです。
私たちは神様のみわざに仕える時、限界にぶつかる時が多くあります。その時、全能の神様を信じて祈るなら、神様が私たちの限界を越えたわざを行なってくださるのです。ですから、神様を信じ、イエス様を信じる者の祈りには力があります。その祈りの力を体験したヨハネはこう告白しました。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(?ヨハネ5:14)。祈りは天の宝庫を開く鍵です。イエス様は私達が祈り求めることによって逆境と不可能なことを乗り越えて大きなわざを行うことを願っておられます。
 では私たちが祈る時、神様を何を通して働いてくださいますか。それは聖霊を通して私たちのうちに働いてくださいます。

第三に、イエス様は助け主、聖霊によって私たちのうちに働いてくださると信じることです。
16,17節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」この御言葉は聖霊に対する驚くべき約束です。まもなく、イエス様はこの世を去って行かれます。弟子たちは人としてのイエス様の姿を見ることができなくなります。しかし、神様は、「助け主」を送ってくださるというすばらしい約束を与えてくださいました。その助け主とは真理の御霊です。イエス様はご自分が道であり、真理であると言われました。つまり、真理の御霊とはイエス様の御霊、イエス様ご自身であられるのです。イエス様は地上生活においてもさまざまな人々を助けられた助け主でした。でも、それは地域が限られていました。イスラエルの人々を助けられましたが、日本人を助けることはできなかったのです。2000年前、イエス様によって癒された日本人、助けられた日本人はいませんでした。しかし、助け主、真理の御霊は、人となられたイエス様の場合とは違います。今、聖霊は、いつでも、どこにでもおられます。ユダヤ人だけではなく、世界中の人々を助けることができます。神様を信じ、またイエス様を信じる者はどこでもイエス様の助けを受けることができます。神様に祈り求めると、真理の御霊が私たちのところに来てくださり正しく助けてくださいます。真理の御霊は私たちが神様の御心をわきまえる知恵、聖書を正しく理解する知恵を与えてくださいます。真理の御霊は私たちが悲しんでいる時、私たちを慰め、涙を拭い取ってくださいます。私たちは不完全な人間ですから、傷つけたり、傷つけられたりします。その時、聖霊は傷ついた心を慰め、癒してくださいます。弱くなっている人を励まし、立ち上がる力も与えてくださいます。聖霊はいつまでも私たちとともにおられます。さらに、私たちのうちに住んでくださいます。特に、聖霊は自分と自分の先生を世に現わそうとする人々よりも、イエス様を愛し、隣人を愛する人々のうちに力強く働いてくださいます。御言葉を守る人は神様に愛されます。
 22節をご覧ください。イスカリオテでないユダはイエス様に不満を言いました。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」彼は自分の先生が世の人々から認められる有名な人になることを臨んでいたようです。今でいえば、自分の教会の牧師先生がビリグラハム牧師のように有名になることを望んだでしょう。しかし、イエス様は彼に答えられました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」イエス様は世に知られること、有名になることよりも御言葉を守ることを勧めておられます。イエス様を愛する人はイエス様をマスコミに知らせることよりも、イエス様を守るべきだということです。ところが、まだ弟子達の霊的な目が開かれていませんでした。そこでイエス様は聖霊の働きについて教えられました。26節をご覧ください。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は私達の聖書先生となって私達に霊的世界を教えてくださいます。ですから、私達が挫折することなく、勝利の人生を過ごすために必ず聖霊の働きを信じて聖霊に頼らなければなりません。そうすると、マンツーマン聖書勉強をしてもなかなか分からないほど霊的に鈍い人でも聖霊が臨まれると立派な聖書先生になることができます。

以上では私たちは神様を信じ、またイエス様を信じることの大切さを学びました。何よりもイエス様を通してでなければ神の国に行くことはできないということを学びました。イエス様こそ正しく、唯一の道であり、真理であり、いのちです。このイエス様が私達に二つのすばらしい約束を与えてくださいました。ひとつは主が私達を天の住まいに連れて行ってくださることです。もうひとつは私達が生きている今この所において、主が来て住んでくださるという約束です。私達はこの約束を受け入れ、天の御国への望みと、私達のうちに住んでおられる聖霊に対する信仰を持って生きる時、力強い信仰生活をすることができます。私達に輝かしい神の国に対する望みを与えられ、聖霊を送って私達のうちに住まわせてくださった神様に感謝と賛美を捧げます。