2006年ヨハネの黙示録第6講

近ごろの行ないが初めの行ないにまさっている教会

御言葉:ヨハネの黙示録2:18?29
要 節:ヨハネの黙示録2:19「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」

 先週、私たちはペルガモにある教会に送られたイエス様の手紙を学びました。ペルガモは「サタンの住むところ」、「サタンの王座」があるところでしたが、キリストの忠実なしもべたちはそんな環境の中でも信仰を守り通しました。でも、一部の聖徒たちはバラムの教えやニコライ派の教えを奉じていました。鋭い、両刃の剣を持っておられる主はそれを知っておられ、彼らが悔い改めて信仰の勝利を得る者になるように命じられました。鋭い、両刃の剣を持っておられる主は私たちのすべてを知っておられます。そして私たちが鋭い御言葉によって世俗主義を悔い改めて、最後まで信仰を守り通す勝利者になることを願っておられます。私たちはペルガモのようにサタンの王座があるような東京に住んでいるから世俗主義の影響を受けやすいです。でも日々御言葉を通して汚染される世俗主義を悔い改めて信仰の勝利を得る者として生きるように祈ります。
今日は主がテアテラの教会に送られた手紙を学びます。テアテラはトルコ共和国の町で現在のアクヒサルです。先週学んだペルガモから南東へ60kmほど離れている所ですが、リュウコス川沿いの肥沃な平原に町がつくられているそうです。肥沃な平野ですから、住みやすいところですが、軍事的には外部の攻撃から自分たちを守ることがなかなか難しい所でした。それで、戦争が起こるときごとに攻撃されて何度も町が壊されたそうです。こういう経験を通して市民たちは生き残るために一致団結する結束力を強めて行きました。そこで、テアテラは小アジアのいずれの町よりも早く同業組合(ギルド)が誕生しました。ギリシャ語碑文によると、この町には羊毛、紫布、亜麻布、衣服、土器、銅細工、染料などの多くの組合があったそうです。 
特にテアテラ産の紫布は世界的に有名になっていました。ホーマーの最古最大の叙事詩「イリヤード」によると「テアテラ市には世界的に有名な紫布が生産された」と記されているそうです。このテアテラ市出身の紫布商人として今でも世界的に有名な人はルデヤです。彼女はテアテラ出身の最初のクリスチャンのひとりです。使徒の働き16:14によると「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」とあります。ルデヤはパウロの良き同労者になります。では、主がこのテアテラにある教会に語られたメッセージは何でしょうか。今週も、この教会に紹介されたイエス様の御姿、イエス様の賞賛と叱責、イエス様の方向を中心に考え、私たちに語られた主の御言葉として受け止めて行きたいと思います。

?。イエス様の自己紹介
18節をご覧ください。「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。』」とあります。当時、テアテラ市の守護神はテュリムノスで、太陽神でしたが、イエス様は、イエス様ご自身が燃える炎のような目を持って彼らを守っておられることを示唆しておられます。この町の守護神は太陽神ではなく、イエス様なのです。そして、「足は光り輝くしんちゅうのような、神の子」とはこの地の銅細工人組合に関連する表現からきているとされています。銅細工人は自分たちが作った宝石の輝きを誇っていましたが、イエス様は、その足が光り輝くしんちゅうのようなお方なのです。
 イエス様は罪を見逃す節穴のような目ではなく、罪を焼き尽くす義の力を持つ燃える炎のような目を持っておられます。また、十字架への試練の道を自ら歩み尽くされた主の足は、光り輝き、しんちゅうのように、すべての邪悪をその足で踏み砕く力を持っています。イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれましたが、死と罪に打ち勝ち、死者の中からよみがえられました。よみがえられた主こそがテアテラを守られる真の神様であり、彼らを義のうちに正しくさばかれるさばき主です。では、燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような方が言われるテアテラ教会の状態はどうだったでしょうか。

 ?。イエス様の賞賛
19節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」主はエペソ教会については「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。(2a)」と言われました。ここでは「労苦」が除かれています。おそらく、テアテラの聖徒たちは、エペソとか、サタンの王座があるペルガモに比べれば信仰生活のために苦労することは少なかったようです。でも、エペソでは非難されていた「愛」と「信仰と奉仕」がここテアテラでは賞賛されています。また、エペソ教会に対しては「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」と叱られた行ないがテアテラ教会に対しては賞賛されています。しかも、「あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」と言われています。テアテラ教会は聖徒たちの信仰が日々成長していたのです。ここで、成長する教会、健康な教会の姿を見ることができます。エペソ教会は初めの愛を捨てましたが、テアテラ教会は初めの愛にまさって主を愛していました。彼らは初めより真実に主を愛していました。彼らは初めよりもっと熱心に主を信じ、主に仕えていました。それは彼らがますます熱く主を愛したから可能なことでした。
 行ないや信仰や忍耐があっても愛がないなら、主に受け入れられなかったはずです。私たちは主がエペソ教会に言われたことからも分かりますが、聖書のほかの箇所でも言われていることです。マタイ7:22、23節を見ると「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」とあります。また、?ヨハネ3:18によると「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とあります。テアテラ教会の聖徒たちはことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実を持って愛していたのです。その愛の行ないが初めの行ないにまさっていました。ほんとうに、すばらしいクリスチャンの姿です。テアテラ教会の聖徒たちは年を取れば取るほど信仰が成長し、愛の行ないも成長していたのです。「昔、あなたがたもほんとうに熱心な教会でしたが・・・」と言われるではありませんでした。「近ごろほんとうに恵みがありますね。ほんとうに変わっていますね」と言われる教会でした。また、「あなたも牧者や宣教師になった時は、心が燃えていたよ。」と言われるのではなく、「あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっているよ。ほんとうに素晴らしい」と言われる方たちが多くいる教会でした。
 テアテラ教会の事情を考えてみると、彼らがいつも初めの行ないにまさって行ない、今日は昨日より成長しているような信仰生活をすることは簡単ではありませんでした。先ほど、序論でも言いましたが、彼らは生き残るためにギルドを組織し、ギルドを中心に経済活動をしていました。その活動の中でさまざまな人々と交わり、交わりのためにお酒を飲み、時には享楽的なこともしました。接待のために歌舞伎町のような所に行って売春をする人々もいました。そんな雰囲気の中でクリスチャンは聖なる国民らしく行ない、世の光と塩として役割を果たさなければなりませんでした。だからと言って、世の人々と調子を合わせなければ組合の仲間から仲間はずれにされる恐れがありました。また仲間はずれになる経済的な損害をもたらしました。そこで、クリスチャンの葛藤がありました。
 今日も、クリスチャンが置かれている状況はテアテラの状況と似ています。私たちはこの世の人々の交わる中で世俗的な価値基準による圧力を受けながら生活をします。それでクリスチャンの価値基準も低くなってしまいがちです。最近は世の離婚率と教会の離婚率の違いがあまりないと言われます。最近日本では「熟年離婚、新成田離婚」がはやっていると言われています。先週園児二人が友だちの母親によって殺される恐ろしい事件があります。日々道徳基準が低下されています。伝統的な道徳を守り、何よりも聖書の御言葉のとおりに生きることがなかなか難しくなっているのです。しかし、いつも真理は真理です。私たちは過去より現在、昨日より今日の行ないがますます聖書的になって行かなければなりません。何よりも忍耐を思って愛の行ないをし続けることは大切なことです。信仰は、愛から出る行ないが伴ってこそ生きたものとなります。ところが、初めの行ないにまさった愛の行ないをするためには忍耐がなければできません。子どもに対する愛にも、夫や妻に対する愛にも忍耐がなければ愛し続けることが難しいでしょう。愛することは、忍耐することであるとも言えるでしょう。ですから、イエス様はこの忍耐をとても大切にしておられることが分かります。エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、これから出てくるフィラデルフィアでは忍耐が特に賞賛されています。ヤコブ先生もヤコブの手紙1:3,4節でこう言いました。「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
 私たちが「あなたの近ごろの行ないは初めの行ないにまさっている」と言われるクリスチャン、日々成長するクリスチャンとして生きるために欠かせない徳目が忍耐なのです。私たちは忍耐を持って完全な者となる目標を目指して行かなければなりません。「僕は完全な者にはなりえない。天国の隅っこでいいよ。」あきらめていると、初めの行ないにまさるどころか、現状維持もできません。むしろ、腐っていき、悪臭を周囲に放つことになってしまいます。私たちは気づいたことくらいは、悔い改め、忠実に完全を目指して祈り、努力していく必要があります。ですから、イエス様はテアテラ教会を賞賛しながらも非難すべきことも言われます。では何を非難されましたか。

?。イエス様の叱責
20?23節を読んでみましょう。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」とあります。
イエス様がテアテラ教会を非難されたことは「イゼベルという女をなすがままにさせている」ことです。イゼベルは、列王記18章を読んでみると、バアル神をイスラエルの中に導入した人です。彼女は夫のアハブを誘ってイスラエルを深い偶像礼拝の中に陥れました。この時に、あの有名な預言者エリヤが出てきて、バアル神と対決しました。もちろん、エリヤは、このイゼベルのバアル預言者たちとカルメル山で戦って勝ちました。ところがイゼベルはあきらめることなく、エリヤをも殺そうとしました。つまり、イゼベルは、もともと神の民ではありません。イスラエルの王と結婚したバアル礼拝者であり、イスラエルに偶像礼拝、姦淫、不品行をもたらした女です。テアテラの教会でも本当はクリスチャンではないのに、教会の中にはいって来て変な教えをしているイゼベルがいました。世的な価値観を持って入り込んで人々を、誤りに導きました。不品行を行なわせていました。また、偶像礼拝に導いていました。
 テアテラ教会は愛と信仰、奉仕と忍耐を持っていながら、このような恐ろしい偶像礼拝と不品行がはびこっていました。なかなか信じられないのですが、りっぱな教会として言われても注意すべきことが不品行であり、偶像礼拝であることが分かります。それで、テアテラ教会をローマカトリック教会に例える方もいます。その働きには、驚くような愛と信仰の奉仕を見ることができます。また、忍耐もあり、日本の過去の殉教者はキリシタン、すなわちカトリック教徒です。しかしながら、その教会は、マリヤ信仰や聖人信仰を取り入れているということです。メキシコの宣教師たちから聞いたのですが、南米のカトリック教会の中はお寺とそっくりだそうです。
 しかし、イエス様は現在のローマカトリック教会だけではなく、私たちにも言われます。クリスチャンの中にもまじめに信仰生活をよくしているようですが、イゼベルの教えに誘われて不品行に落ちてしまう場合がよくあるからです。今日は、雑誌やインターネットを通して不品行の誘惑が氾濫しています。そして、一時的に有名だった教会のリーダーも女性の誘惑、情欲の誘惑によってつまずいてしまう場合もあります。私たちも例外ではありません。不品行を悔い改めなければなりません。神様により大切にしているものがあるなら、偶像崇拝の罪も悔い改めなければなりません。ところが、テアテラ教会には、主が悔い改める機会を与えても不品行を悔い改めようとしない人々がいました。彼らに対する警告がどうですか。「見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」とあります。」とあります。
イエス様は、どのような人に対しても、悔い改めの機会を与えてくださいます。あの裏切り者ユダにも、悔い改めの機会を与えられました。テアテラ教会の人々にも悔い改める機会を与えられました。ところが、イゼベルは不品行を悔い改めることはしませんでした。その結果、イゼベルという女本人は、性病にかかってしまいます。また、女の教えにだまされて姦淫を行なう者たちは、大患難の中に投げ込まれます。神様は私たちの行ないに応じてひとりひとりに報いられます。テアテラにいる人たちの中でもイゼベルの教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない人たちには神様が、ほかの重荷を負わせません。「サタンの深いところ」と出てくるので、この女はオカルトにも導いたようです。そういう変な教えを受け入れなかった人々、まだ、それを知らない人々は幸いです。そういう人たちには神様が、ほかの重荷を負わせないからです。今、私たちがイゼベルの教えによる不品行に陥っていないなら大きな感謝です。イゼベルの深い教えを受け入れていない、まだ知っていないなら、それも感謝です。しかし、少しでも気づかされるところがあるなら、悔い改めなければなりません。信仰生活は今日だけで終わるのではありません。主が来られるその日まで続きます。では、その日まで私たちはどうするべきでしょうか。

?。イエス様の方向
25?29節をご覧ください。「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」とあります。
イエス様の方向は「ただ持っているものを、しっかりと持っている」ことです。これは、簡単なようですが、実は難しいことです。世の中は変わり移るからです。私はアメリカUBFの日ごとの糧の表紙を見ると、感心しますが、私が初めに見た時から今まで変わっていないからです。だからと言って日本の日ごとの糧の表紙が季節ごとに変わることに反対するのではありません。ただ、私は個人的に変わらない神様の御言葉に対する態度、もっているものをしっかりと持っているような態度を感じ取ることができるからです。私は毎週メッセージを伝えていますが、毎度新しいものを伝えているのではありません。古くから伝えられている御言葉を伝えているだけです。今日伝えているメッセージも2000年前のことです。でも、主は私たちがこのイエス・キリストの福音をしっかりと持つように命じておられます。
私たちが今もっている真理の御言葉をしっかりと保っていれば勝利を得る者となります。そして、神様から諸国の民を支配する権威をいただきます。イエス様が神様から受けている権威を私たちも受けるようになるのです。諸国を支配するこの統治は千年間つづきます。復活した者たちがキリストとともに王となることが約束されています。千年王国における統治です。
 また、「彼に明けの明星を与えよう。」と約束されています。私たちは神様が与えられる明けの明星によって世の光となります。暗い世の中で埋没されてしまう人生ではなく、主の真理の御言葉を守っていればこの世を照らす世の光となるのです。ダニエル書12章を見ると、多くの者を義とした者が、世々限りなく星のようになると約束されています。真理の福音を守り、それを伝えて多くの者を義とした者たちに輝かしい栄光が約束されているのです。
テアテラ教会はギルドという組合中心の社会の中で御言葉を守り、行ない続けることが難しかったでしょう。商売が盛んなところで、多くの人々が日曜日にも店を開いていました。クリスチャンだけが日曜日には休むことも難しかったでしょう。組合員の飲み会に欠席することも、仕事だけでも疲れているのに、夜の祈祷会、聖書勉強会に参加することも優しくなかったはずでしょう。しかし、テアテラ教会は日々成長していました。生まれたばかりの初代教会のような愛の交わりも、祈りも、信仰の行いも、聖徒たちの奉仕も成長していく教会でした。彼らのように、自分たちが持っている真理の御言葉を守り、信仰を守る者には輝かしい栄光が約束されています。

結論的に、私たちの愛と信仰、奉仕と忍耐が去年より今年に成長しているどうかを顧みて見ましょう。近ごろの行ないは初めの行ないにまさっているでしょうか。私は最近、「ある宣教師は近ごろ1:1しながら変わっている。言葉に恵みがある」と聞かれました。私もそのように言われる者になりたいと思います。私たちの教会全体の行ないが初めの行ないにまさっている教会、つねに成長する教会でありますように祈ります。そして、いつも目を覚ましていて不品行と偶像礼拝を悔い改め、真理の御言葉を単純に守る教会でありますように祈ります。