2006年ヨハネの黙示録第5講   

鋭い、両刃の剣を持つ方

御言葉:ヨハネの黙示録2:12?17
要 節:ヨハネの黙示録2:16「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」
 
先週、私たちは主がスミルナ教会に送られた手紙を学びました。そこで、主は「死に至るまで忠実でありなさい。」と言われました。私たち一人ひとりが死に至るまで忠実であっていのちの冠を受け取ることができるように祈ります。
 今日の御言葉は主がペルガモの教会に宛てられた手紙です。ペルガモは、この手紙が送られた当時、ローマがアジア地方の首都にした所でした。この地にBC4世紀に建てられたアスクレピオン(ローマ時代の医療センター・音楽療法 現代の精神療法のための70mもある地下道等が整備されていた)は当時の医科大学付属病院でした。医学の父と呼ばれるヒポクラテスがそこで働いていたといわれています。また、ペルガモは非常に文化が進んでいてBC197 ?160年頃には世界最大の図書館が建てられ、20万巻の本があったそうです。このペルガモの発展を嫉み、警戒したエジプトでは本を作るのに必要なパピルスの輸出を禁じたほどでした。しかも、ペルガモはパピルスの輸入ができないと、自立的に羊の皮を伸ばして作った羊皮紙を発明したほどの力を持っていました。
 このようにペルガモは政治の都市、医学の都市、学問の都市、文化都市として繁栄し、栄えていました。今日の東京のような都市だったようです。ところで本文の御言葉によると、ペルガモは「サタンの住むところ」、「サタンの王座」があるところでもありました。霊的には危険な所であったのです。それは、ペルガモの町でローマ皇帝の礼拝が行われていたからです。ローマというのは、もともと女神の名前です。そしてこの女神の霊が一人の人間、つまりローマ皇帝に入っていると考えられるようになり、皇帝を祭る神殿が建てられるようになりました。そして、ローマの政府は、皇帝礼拝を行うことによって帝国をまとめることができると考えていました。
  そのような時代に皇帝礼拝の中心地になっていたペルガモは、クリスチャンとして生きることが難しい都市でした。でも東京に東京UBF教会があるように、ペルガモにもペルガモ教会があり、小さな群れですが、聖書の神様を礼拝していました。イエス様は彼らに何と言われましたか。今週も、先週のように、この教会に対するイエス様の自己紹介、イエス様の賞賛と叱責、そしてイエス様の方向について皆さんとともに考え、学びたいと思います。どうか、聖霊が私たちにうちに力強く働いてくださるように祈ります。

?.イエス様の自己紹介
12節をご覧ください。 「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。』」とあります。イエス様は鋭い、両刃の剣のような御言葉です。ヘブル4:12節は言います。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。たまに、私たちはだれも私を理解してくれないとつぶやきます。また、「だれも私のことを分かってくれない」と言われるでしょう。事実、だれも私のことを分かっていません。私はこの教会の牧者として皆さんのことをよく知り、よく理解してあげたいと思っていますが、実はよく知りません。何も知らない自分が悲しく思われる時もあります。しかし、イエス様は私たちのことをよく知っておられます。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。ですから、私たちは神様がどのように判別されるだろうかということをつねに考え、心のいろいろの考えから神様を愛し、神様を敬って神様に従わなければなりません。だれも私のことを知らなくても、神様は私たちのすべてがご存知です。ですから、私たちは、いつも神様の御前で生活しなければなりません。それがペルガモの教会、東京UBF教会に送られたイエス様のメッセージです。ではイエス様はペルガモの教会のどんなことを知られ、どのように判別されましたか。

?.イエス様の賞賛
 13節をご覧ください。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」イエス様は当時のクリスチャンたちが住んでいるところを知っておられました。そこにサタンの王座があることを知っておられました。実際に、この都市には医療の神、エスクラピアスの神殿があって、ギリシャ人たちがサタンだと思っている蛇の形を作って拝んでいました。また、ゼウス神の神殿がありました。「サタンの王座」と言われているのは、このゼウス神の神殿のことでしょう。
 当時、世界的な都市であったペルガモはサタンの王座があるほどにサタンの世界でも力を入れている所だったのです。今日の東京にもサタンの王座があるのではないでしょうか。大きな都市に住んでいる人々は毎日のように詐欺、不品行、麻薬、ヤクザの活動、売春、盗難事故などの犯罪に直面しています。淫乱と快楽、物質主義と利己主義などの勢力がきよく、正しく生きようとしている人々を脅かしています。姉歯元建築士やライブドアの堀江氏などを非難しながらも、知らず、知らずに彼らの影響を受けます。不倫や性犯罪が報道されると、彼らを非難しながらも、自分も知らずに性的犯罪に対して無感覚的になって行きます。それで、心の中では敬虔に生きようとしている人たちも、さまざまな誘惑を受けているのです。
ペルガモにある教会の聖徒たちも日常生活の中でさまざまな問題に直面しました。サタンが住んでいる所、サタンの王座があるところで暮らしていたからです。特に、ペルガモはローマ皇帝の礼拝がとても盛んな所でしたので、クリスチャンにとって生きることが非常に難しい都市でした。しかし、彼らはそんな環境の中でも神様に対する信仰を守りました。彼らはイエス様の御名を真実に信じました。彼らは最後まで信仰をあきらめませんでした。
私たちは、信仰生活に困難が生じると、それを避けたいと願う時があります。はなはだしくは信仰さえ捨ててしまおうと考える人もいます。そのほうが一時的に楽だからです。しかし、このような逃げる姿勢は、決して本当の勝利を得ることができません。むしろ、その困難を乗り越える時に、私たちは勝利を経験することができます。また、困難を乗り越えて強くなることができます。ペルガモのクリスチャンは厳しい状況の中でも信仰にとどまりました。しかも、彼らはキリストの名を堅く保って、キリストに対する信仰を捨てませんでした。
当時は皇帝礼拝が強要されて「主はシーザーと言え」と言われていました。そして、それだけ言えば、多神教のローマでは、主日礼拝を守ることも許されました。しかし、クリスチャンは「主はシーザーと言え」と言われると、「主はイエス」と答えていたそうです。彼は少しも偶像崇拝と妥協しませんでした。当時先進国の世俗主義と妥協することもありませんでした。ひたすらイエス様に忠実でありました。それで、アンテパスという人は殺されてしまいました。伝説では、彼は金属で作った牛の中に入れられて徐々に焼き殺されていったそうです。忠実な証人アンテパスが金属で作った牛の中に入れられ、徐々に焼かれていく時、その苦しみはどんなに大きかったでしょうか。また、イエス様に対する信仰を捨てなければ、あなたがたもこのように焼き殺されると脅かされるとき、聖徒たちはどんなに怖かったでしょうか。しかし、彼らは最後まで自分のいのちをかけて信仰を守りとおしました。死に至るまで忠実でありました。ですから、復活の主キリストは「しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」と彼らを賞賛されたのです。

?.イエス様の叱責
 ペルガモ教会は、大多数の聖徒たちが信仰の中心を守り、死に至るまで忠実でありましたが、ある聖徒たちの中には世俗主義へと妥協していく人たちが現われていました。彼らの中にバラムの教え、ニコライ派の教えを堅く握っている者たちがいたのです。そこで、復活の主、イエス様は彼らが悔い改めるように助けておられます。
 14,15節をご覧ください。「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」とあります。では、バラムの教え、ニコライ派の教えとは何でしょうか。
この間、エペソ教会は「ニコライ派の行ないを憎んでいる」ということを学ぶ時にも触れましたが、バラムの教えとニコライ派の教えは同じものと考えられます。バラムという言葉はヘブル語です。そして、ニコライと言う言葉はギリシャ語です。ともに「民を征服する」という意味を持っています。その教えは何でしょうか。
聖書でバラムのことを調べてみると、彼は妥協主義者の預言者でした。民数記22?25章を見ると、バラムのことについて知ることができます。イスラエル人がヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営した時です。モアブの王バラクはイスラエルがエモリ人のすべての民を打ち殺し、ひとりの生存者も残さなかったことを知り、イスラエルを非常に恐れました。そこで、彼はイスラエルを呪ってもらうために預言者バラムを招きますが、バラムは神様にうかがい、バラクの所に行こうともしませんでした。その最初の信仰を守ったら良かったのですが、バラクが何度もつかさたちを遣わして誘うと、彼はバラクの所に行きました。そして、バラクに手厚くもてなされると、バラムの心は揺れ動き、妥協してイスラエルを呪おうとしました。しかし、神様は彼の口に言葉を置かれたので、彼はイスラエルを祝福しました。イスラエルを呪うところか、「お!神様!イスラエルを祝福してください。」と言ったのです。彼は正しいことを行ったのです。しかし、最初の決断を守らず、ここまで来てしまうと、霊的には無気力な者になってしまいました。彼がバラクと妥協し、仲良くなってしまった時、イスラエルの民はモアブの娘たちと妥協し、仲良くなりました。そして、彼らとみだらなことをし始めました。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝みました。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がりました。
それで、ユダヤ人の間では、バラムの教えが妥協主義、人々を不品行と偶像礼拝の罪に誘い込む悪い影響を意味するものになっていました。ところが、ペルガモ教会の中にはそういうバラムの教えが悪影響を及ぼしていたのです。もちろん、大多数の人々は聖なる国民としてアイデンティティを持っていました。キリストの忠実な証人アンテパスのように信仰の純潔を守り通しました。ところが、一部の人々はノンクリスチャンの生き方に影響を受けていたのです。当時、一般の人々は誰でも偶像に供えた肉を食べ、お酒を飲んでいました。また、純潔を守るという考えは全然なくなっていました。不倫することや結婚の前にセックスすることに対しても恥ずかしいことだとも、悪いことだとも考えていませんでした。むしろ、そういう人たちが能力ある人、持てる人として評価される社会でした。
それで、クリスチャンの中でも、自分だけが特別に変わった人間として生きているのではないか、自分だけが保守的な教会のメンバーとして古い考え方をしているのではないかと迷う人が増えていきました。特に頭の回転が速い人々の中では聖書の教えに従うことだけでは貧しくなるばかりで金持ちにならないと思う人が増えました。献身的で純粋なクリスチャンより、かっこういいクリスチャン、賢いクリスチャンになろうとしました。彼らはできるだけギリシャ・ローマの社会の中で妥協しながらクリスチャンとして生きようとしていたのです。そして、そのような人々に対してぺルガモの教会のリーダーたちは厳しい態度を取らず、彼らを放置していました。リーダーたちも、先進国の首都であるペルガモで生活をしながら世俗主義の影響を受けていたからです。教会の純粋性よりも数字的な成長、信者たちの福音的な生活よりもこの世での成功を求めていました。また、聖徒の罪を指摘し、悔い改めを促した時に聖徒たちから言われることを怖がっていました。バラク王の要求が神様の御心ではないことを知っていながらも、彼に何も厳しいことを言えなかったバラムのように適当に神様の御言葉を伝えていました。神様の御言葉を伝えることはしていますが、人の罪を指摘して悔い改めるように促すことはできない状態であったのです。そこで、イエス様はペルガモの教会に「あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人がいる。」と叱責しました。また、主は彼らに「それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」と叱られました。では、そんな彼らに与えられたイエス様の方向は何でしょうか。

?.イエス様の方向
 16節をご一緒に読んでみましょう。「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」主は「だから、悔い改めなさい」と言われました。私たちは祭司の王国、聖なる国民として生きることを望んでいます。また、この世と調子を合わせてはいけないと教えられています。私たちは、知らず知らずのうちにこの世の教え、この世の価値観などの影響を受けて、いつのまにかそれに合わせて生きていないでしょうか。
 私は今回、息子の受験を通して自分がこの世の価値観で生きていることを深く悟りました。子どもに入試の3ヶ月前受験勉強をさせましたが、その間、私の心は神様のみわざより子どもの成績によって揺り動かされました。それに心が奪われてしまう時が多くありました。学校の内申書の成績が思ったより良くなかった時はさびしくなり、塾での模擬試験の結果が良かった時はすでに合格したかのように思ったりしました。たてまえは「日本宣教のために、息子を日本の学校に入れてください」と言っていましたが、ほんねは「日本の学校ではなく、日本で一番いい学校に入れてほしい」ということにありました。自分の息子が合格し、成功することこそが日本宣教のためにも、神様のみわざのためにも益になると思い込んでいました。子どもに神様の御言葉を伝えてはいましたが、彼が悔い改め、主の御言葉に従うように助けることは怠けていました。まずは受験戦争で勝利してほしいと願っていたからです。宣教師でありながらもこの世の価値観に染まっていたのです。まるで、バラムのようになっていました。こんな私に神様は「悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣を持ってあなたと戦おうと」と言われました。それで私は世の価値観に染まっていて、バラムの教え、ニコライ派の教えを奉じていたことを悟って悔い改めました。それから子どもに「これからは夜明けにパパといっしょに教会に行って祈ることを忠実に行なおう」と言いました。私が悔い改めにふさわしい実を結ぶように祈ります。もし、私たちの中でひとりでもバラムやニコライ派の教えの影響、世俗主義の影響を受けているなら、それを悔い改めて信仰の純粋性を守りましょう。ペルガモ教会のアンテパスのように殉教されてもイエス・キリストへの信仰を守り通す忠実なクリスチャンとして生きることができるように祈ります。
 イエス様は世俗的なクリスチャンが悔い改めなければ、直接に訓練されます。神様の訓練は恐ろしいものです。イスラエル人はエジプトからカナンまで、ただ40日間で行ける距離だったのに、主のしもべモーセにつぶやき、不平不満を言い出した不信仰のために40年間も訓練を受けました。しかも信仰の人ヨシュアとカレブ以外にはカナンに入ることもできず、荒野で死んでしまいました。また、約束の地、カナンで彼らの子孫が神様の御前で高慢な者になり、不従順の罪を犯していながらも悔い改めなかった時は、70年間もバビロンの捕虜として苦しみを受けるようにされました。もし、私たちが信仰告白してクリスチャンとして生きていてもこの世と調子を合わせて生きていながらも、世俗的な生活を悔い改めないなら、どうなるでしょうか。イエス様が直接に私たちを訓練されるはずです。神様が訓練される時、一番目の道具は鋭い剣のような神様の御言葉です。主日礼拝の御言葉、日ごとの糧の御言葉などを通して私たちの心に悟りを与えてくださいます。二番目の道具は聖霊です。聖霊は私たちの生活の中で起こる出来事を通して、良心の声を通して罪について、義について悟らせてくださいます。三番目の道具は神様のしもべたちです。主のしもべを通して言われます。そして最後の道具は一番恐ろしい環境です。これは個人的にも、国家的にも、世界的にも言えることです。事実、地球温暖化のために地球の環境が破壊され、世の終わりが近づいていることを感じさせています。また、先週は、富士山が300年ぶりに噴火するだろうという記事を読んだのですが、神様が環境を通して私たちを訓練される時は本当に恐いことが起こるのです。イエス様は私たちの罪のために私の環境を通して訓練することもできます。ですから、私たちは御言葉を通して示されたときに悔い改めなければなりません。聖霊から示される時、主のしもべから言われる時に悔い改めるのです。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。教会には、私たちのたましいが赦されて元気に祝福された人生を生きるように導く使命が与えられています。ですから、教会でも、厳しいことばが言われます。いつも、いつも居心地の良いことだけが言われるのではありません。罪に対して、妥協する生き方に対してははっきりとしたメッセージが伝えられる時もあるのです。そういう祝福のことばより、悔い改めのメッセージを伝えることはやさしくありません。しかし、教会で言いづらくても悔い改めを迫るのは、そのままで生き続けると、結局そのたましいが滅んでしまうからです。神様は一人の罪人でさえも 滅びないようにと願っておられます。ですから、神様が悔い改めを迫るのは、悔い改める者にたくさんの祝福が与えられるからです。ではどんな祝福でしょうか。

結論的に17節をご一緒に読んでみましょう。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」 ここでイエス様は、神様の言葉に聞き従う者にふたつのものを約束しておられます。隠れたマナと新しい名が書かれた白い石です。マナというのはエジプトから脱出したイスラエルの民が荒野を旅していた時に神様が与えてくださった食べ物でした。イスラエルの民は、毎日そのマナを食べて生きることができました。でもそのマナを食べて永遠に生きることはできませんでした。ところが、イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません(ヨハネ6:35)。ここで「隠れたマナと」は、主イエスご自身のことであることが分かります。ペルガモの教会は、この世に妥協した結果、主イエス様を見失っていました。イエス様を見失って聖徒たちは、教会に通っていても生命力を失っていました。しかし、主イエス様を信じる者にはいのちのパンであるイエス様からいのちを得ることができます。イエス様はご自身が私たちに必要な助けを与えてくださいます。エペソ人への手紙の1章1-3節を見ると、主イエス・キリストは私たちに天にあるすべての霊的な祝福をもって私たちを祝福すると約束しておられます。不思議なことに日本語の「愛」と言う漢字は「マナ」とも読みます。愛する弟子を「愛弟子」と言いますね。イエス様は私たちに対する神様の愛です。神様は私たちを選び出して傷のない者にし、ご自分の子どもとするために、ひとり子さえも惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛してくださいます。そして、その愛によって神様から注がれる祝福は、私たちが直面する状況に関係なく注がれます。決して消えることがありません。キリストにあって、わたしたちはそのように消えることのない神様の愛と祝福、しかも天にある全ての祝福を得ることができるのです。
 もう一つ白い石とは何を意味するのでしょうか。いろいろな解釈がありますが、一番知られている解釈によると、「石」は、これをもらう人のことを言いますが、それはまるでイスラエルの12部族が大祭司の胸当ての中にはめこんだ宝石によって表されたことと同じです(出エジプト28:15?21)。この石は白いです。この白さはきよさ、美しさ、栄光(黙示録3:4)を表わします。そして、石自体は長く残れると言うことで不滅を象徴します。ですから、白い石とは罪からの自由と、あらゆる罪を洗い清められたこと、きよめられた状態で永遠に生きられる存在を指します。石に書かれる新しい名前とは、新しく生まれ変わり、新しくされた名前のことです。私たちはまだ知りませんが、天国にあるいのちの書には新しくされた名前、天国にふさわしい名前が記されているのです。ですから、悔い改めてイエス様を信じ、イエス様をいのちのマナとして生きる者はこの地上での生涯も、死んだ後も永遠に安全に守られているのです。

 この時間、私たちの前には二つの道が開かれています。どちらを選ぶかとは私たちの自由です。選択を迫られています。悔い改めて神様が与えてくださる永遠の祝福を受け取るのか、それとも、今のままの生き方を続けて神様のさばきを受け取るのかということです。2000年前のペルガモの教会だけではなく、私たちも同じチャレンジを受けているのです。皆さんはどちらの道を選んで行きたいでしょうか。どうか、悔い改めて神様が与えてくださる永遠の祝福を受け取ることができるように祈ります。