2006年ヨハネの黙示録第2講

ヨハネに現れたイエス様

御言葉:ヨハネの黙示録1:9?20
要 節:ヨハネの黙示録1:17,18「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」

 先週、私たちは「イエス・キリストの黙示」について学びました。「イエス・キリストの黙示」とは、キリストにかかっている覆いを取り除くことです。イエス・キリストの真の姿を過去、現在、未来を貫いてこの世に明らかに示すことなのです。ヨハネが書いた書物は五つありますが、「ヨハネの福音書」はイエス・キリストの過去の姿についてです。「ヨハネの第一の手紙」「ヨハネの第二の手紙」「ヨハネの第三の手紙」はイエス様の現在の姿です。そして「ヨハネの黙示録」とはイエス様の未来に関する記録です。黙示録は全体として「この後に起こること」になり、全体的に預言書になります。
 今日の御言葉はヨハネがどのような状況の中でイエス様の御姿を見たのか、彼に現われたイエス様の姿はどうだったのかを教えてくださいます。ここで、私たちはヨハネの信仰を学び、イエス様の御姿について学ぶことができます。ヨハネは、主の日に御霊に感じ、イエス様の御姿を見ました。どうか、主の日に礼拝を守っている私たちも、ヨハネのように御霊に満たされてイエス様の御声を聞くことができるように祈ります。イエス様のほんとうの姿を知り、正しい信仰を持って生きることができるように祈ります。

9節をご覧ください。「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」とあります。ここで、私たちはヨハネの愛と信仰を学ぶことができます。
第一に謙遜な愛です。ヨハネは自分のことを、「あなたがたの兄弟であり」と言っています。彼は12使徒の一人です。当時、使徒たちにはものすごい権威が与えられていました。今日も大きな教会の牧師とか、ローマカトリックの法王のような方には、ものすごい権威が与えられていて一般の信徒が近づくことはなかなか難しいでしょう。初代教会においてイエス様の12使徒に与えられた権威は大きいものでした。偽者の使徒たちが現われるほどです。しかも、ヨハネは80歳を超えていて教会の長老であり、最高指導者でした。それなのに彼は、一般の聖徒たちに自分のことを「あなたがたの兄弟」であると言っています。ヨハネにとって聖徒たちは、指導者に従うべき教会のメンバーではありませんでした。父なる神様が同じ親である兄弟でした。ヨハネは聖徒たちを自分の兄弟として親しく思い、愛していたのです。
私には6人兄弟がいましたが、今は5人です。一人が亡くなった時、残された5人兄弟はどんなに泣いたのか、どんなに心を痛めたのか、言葉で言い表すことができません。兄弟はほんとうに大切な存在であり、兄弟愛はほんとうに深いものです。ヨハネにとってすべての聖徒たちは、自分と同じく主に尊ばれる兄弟でした。ヨハネは自身が尊ばれる者であったのと、まったく同じように、他の人々も神様に尊ばれている兄弟であると思っていたのです。
 皆さんは私にとって兄弟です。ヨシュア宣教師、ヨハネ宣教師は兄貴です。李リベカ宣教師、李ビョンオク、○○、李スンオク奥様たちは姉さんです。他の方たちは体の年によると、弟、妹になるでしょう。私は皆さんに弟として、兄として愛されていることを感謝しています。私に対する皆さんの兄弟愛を心から感謝します。ところが、皆さんに対する私の愛はどうでしょうか。私は言葉では「愛する兄弟姉妹!」と言っています。しかし、実際には霊的な兄弟に対する愛が肉の兄弟に対する愛に衰えていることを悟ります。ヨハネは当時の聖徒たちとともに迫害と苦難を受けました。聖徒たちの苦しみ、悲しみ、痛みもヨハネも身をもって経験していたのです。その中から「あなたがたの兄弟である」と言っているのです。私たちも喜びも、苦しみも、痛みもともに分かち合う兄弟であるように祈ります。特に、私がこの世に限らず、永遠の兄弟になった霊的な兄弟姉妹たちをもっと親しく、もっと深く愛することができるように祈ります。
 第二に、イエスにある苦難にあずかっている信仰です。ヨハネはイエス様の血によって結ばれた兄弟として当時の生徒たちとともにイエス様にある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者でした。当時は激しい迫害の時代でした。生まれたばかりのキリスト教はユダヤ教からの迫害だけではなく、当時の世界を支配していたローマの迫害を受けていました。特に、皇帝ネロの時は大迫害のために数多い聖徒たちが殉教しましたが、パウロとペテロも殉教しました。十二弟子の中でヨハネだけが残りました。そして、ヨハネは80歳を超えていました。聖徒たちはこのヨハネが自分の部屋で過ごすようにしました。しかし、皇帝ドミティアヌスの時にも、クリスチャンに対する第二回目の大迫害がありました。もう老人になっているヨハネにも流刑をくだされました。ヨハネはパトモスという島に流刑されました。結局、ヨハネは神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島に島流しにあったのです。老人になったヨハネにとって本当に耐え難い苦難が続いていたのです。こうなると、何もかもあきらめたくなるでしょう。しかし、ヨハネは、そういう大迫害の中でも続けてイエス・キリストにある苦難にあずかっていました。最後まで忍耐を持ってイエス様にある苦難に参加していたのです。このように、最後までキリストの苦難に参加する人は幸いです。
イエス様のたとえの中でタラントのたとえがあります(マタイ25章)。ある金持ちがしもべたちを呼んで自分の財産を預け、旅に出かけたことに関する内容です。主人は、しもべたちに、おのおの能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけました。すると、五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をしました。主人が帰ってくるまで、忍耐を持って主人からあずけられたもので働いたのです。すると、主人が帰ってきて清算してみると、彼は元金よりもさらに五タラントも儲けていました。そこで、主人は彼に『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』と言ってくれました。最後まで主人の仕事に忠実だった彼には主人からの賞賛と報いが与えられたのです。主人に見られなくても最後まで忠実に働くことはやさしくありません。体が疲れたり仕事がつらくなったりすると、やめたい時もあったでしょう。私たちは彼が昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない日もあったことを覚えなければなりません。私たちは成功し、祝福された人を見ると、うらやましく思いますが、彼が成功し、祝福された人生に至るまでの苦労も覚える必要があるのです。これは霊的に祝福された人に対しても言えることです。彼らにもキリストのために苦難を受けた時も、経済的には損した時もあったはずです。疲れたり、風邪を引いたりして何もかもやめたい時もあったでしょう。しかし、最後まで忍耐してイエス様にある苦難を受けながらキリストのみわざに参加する人は、私たちの想像を超えた栄光と祝福も受けるようになるのです。
一タラント預かっていたしもべは、主人が帰ってくるまで何の働きもしませんでした。預かっていたタラントを使わずに地の中に隠しておきました。結局、主人が帰って来た時は、預かっていたタラントさえ取り上げられてしまいました。それだけではありません。彼は暗い外に追い出されました。そこで泣いて歯ぎしりするようになってしまいました。彼が得られたのは失敗であり、滅亡しかなかったのです。彼が一タラントを地の中に隠しておいときは労働がいりません。何もしなくてもいいでしょう。楽な生活ができたはずです。商売のためにさまざまな人々とぶつかって悩まされることもなかったでしょう。休みも、遊びも多い生活は楽しかったでしょう。しかし、その結果は厳しい審判と滅亡だったのです。だれでも主人の働きに参加せずに、ただ休み、遊んでいるなら痛ましい結果が待っています。結局は一タラント預かっていた人のようになります。しかし、主人の働きにあずかっている者は幸いです。彼は必ず祝福されるからです。使徒ヨハネのことを考えれば分かります。
ヨハネはイエス様にある苦難にあずかっている者でした。もう一度9節を見ると「「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」とあります。ヨハネは、当時、激しい迫害を受けている兄弟たちとともにイエス様にある苦難にあずかっていたのです。「イエスにある苦難」とはイエス様に対する信仰を守るために受ける苦難を意味します。ヨハネは今でも「イエス様を信じない」と言うなら迫害を受ける必要がありません。流刑の地、パトモスから帰って友達とともに楽しくて楽な生活をすることができました。骨折りの労苦をして育てた弟子たちに囲まれて平安な老後生活ができます。しかし、彼はイエス様に対する信仰を守るために最後までイエス様にある苦難に参加しました。御国のために働き続けました。主と神の国ためなら、初めから最後まで忠実に働きました。楽しくて平安な時だけではなく、苦しい時も、寂しい時も忍耐しながら神様の御言葉とイエス様のあかしのために働いたのです。このような彼にどんな祝福がありましたか。

第一に、聖霊に満たされ、主の御声を聞く祝福を受けました。
10,11節をご覧ください。「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」とあります。ヨハネは主の日に御霊に感じ、ラッパの音のような大きな声で聞こえる主の御声を聞くことができました。ここで「御霊に感じ」というのは聖霊に満たされたことを意味します。新共同訳の聖書によると、ここの10節は「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」と訳されています。ヨハネは大迫害のために島流しにあった時も「主の日」を守っていると、聖霊に満たされたのです。
当時は、公に教会で礼拝を守ることができませんでした。特に、ヨハネは強制労働を強いられていました。毎日疲れている生活が続くという状況であったのです。それでもヨハネはイエス様にある苦難に参加し、主の日を守りました。主日礼拝を守っていたのです。もちろん、「主の日」については二つの解釈があります。一つ目は「終わりの日」を意味するということです。聖書では、「主の日」という言葉は、終わりのときに起こる、大患難のことを指しています。テサロニケ人への手紙でも言われるように、旧約聖書において、主の復讐の日、怒りの日、恐ろしい日として描かれていました。新約聖書にも、同じ意味で使われています。ですから、ヨハネは、終わりの日に起こることを御霊によって感じて、そこで、終わりの日に聞くようなラッパの音を聞いたということです。二つ目は、これが日曜日であるという解釈です。というのは、教会は早くから、日曜日を礼拝の日に定めていたからです。イエス様は、安息日が終わった明け方によみがえられました。教会は、日曜日に行なわれる五旬節のときに誕生しました。使徒の働きでも、週の始めにパン裂きをしていたという記事があります。そこでキリスト教は日曜日を「主の日、主日」と守っています。ですから、ヨハネは現在の日曜日である主の日に御霊に感じたということです。私はヨハネが黙示録を書いた時期は「主日」が今の日曜日に守られていたのだからヨハネはが主日に聖霊に満たされたと思います。主日に、聖霊に満たされて終わりの日に起こることを見たということです。つまり、ヨハネが迫害を恐れず、苦難の中でも主日礼拝を守っている時に聖霊に満たされたのです。そして、ラッパのように響く大声を聞きました。私たちも苦難があっても「主日」をよく守ると、聖霊に満たされ、主の御声を聞く祝福を受けるようになります。
第二に、ヨハネは自分に現われた栄光に輝くイエス様を見る祝福を受けました。
12-16節を御一緒に読んでみましょう。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」ここで、金の燭台は、幕屋の中にあったものです。ミノラーとも呼ばれます。今、この燭台が、教会を表しているものとされています。燭台に光がともされていたかのように、教会にも聖霊による火と光がともされています。そして、人の子のような方とはイエス・キリストです。ダニエル書において、メシヤのことが「人の子」と呼ばれています。ダニエル書10章を見ると、ダニエルもイエス様の御姿を見ました。「私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。」とあります(5,6)。ダニエルは天におけるイエス様の栄光の御姿を見たのです。ところが、ヨハネもあの素晴らしいイエス様の御姿を見ました。ヨハネは栄光に輝いておられるイエス様の御姿を拝見しました。燃える炎のような目、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのような足、強く照り輝く太陽のような顔を見たのです。神様はイエス・キリストを証ししたゆえに、島流しにあるヨハネに栄光の姿を見せてくださいました。
私たちは福音書において、イエス様の地上の姿を見ることができます。人々に仕えるしもべとしての姿です。かつてイザヤは預言して言いました。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。イエス様はさげすまれ、人々からのけ者にされている人々、悲しい人々、病んでいる人々に仕えるためにこの地上では彼らのような姿をしておられたのです。しかし、黙示録では、天で起こっていることが、詳しく描かれています。つまり、もう死んだが生きかえって、今も生きておられるところのイエス様の御姿です。この御姿は栄光に輝いておられます。やがて私たちも新しい天、新しい地の天国で拝見できます。ダニエル、ヨハネ、パウロのような方は神様の特別な恵みによってこの地上に生きているうちにイエス様の栄光ある姿を見ることができました。パウロは第三の天にまで引き上げられました。パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできない言葉を聞きました。
まだ、見ていない私にとっては、ほんとうにうらやましいことです。日本に来て肉体的にはとても苦しかったある日、夢の中では見たことがあります。皆さんにとってはどうでしょうか。ヨハネのように、パウロのように深い霊的な世界を体験してみたくありませんか。私は夢でも、幻でもそのような体験をして見たいと思います。でも、考えてみれば、栄光の世界を経験するためにはダニエル、パウロ、ヨハネのようにイエス・キリストにある苦難も覚悟しなければならないでしょう。
では、ヨハネは自分に現われたイエス様の姿を見たとき、どのようになりましたか。
17,18節を読んでみましょう。「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」
ヨハネはイエス様の御姿を見たとき、その輝かしさに圧倒されたでしょうか。彼は倒れて死人のようになってしまいました。ダニエルもそうでした。ダニエル書を見ると「私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。(10:8,9)」とあります。 神様の本当の姿に出会った人は、このように神様の前には立てなくなるほど、へりくだされます。ヨハネのような体験がなかったとしても神様の本当の姿を知れば知るほど人はへりくだされて謙遜になります。自分を誇り、高ぶっている人は、まだ神様の御姿を知らないからでしょう。人は人に出会って高慢になってしまう場合が多くあります。子どもの時は謙遜だった人がこの世でさまざまな人に出会いながら高慢になります。しかし、神様に出会うと、本当の自分の姿を発見して謙遜になるのです。そして、神様は謙遜になったその人とともにおられ、最初から最後まで導いてくださいます。ですから、イエス様はイエス様の御姿を見て倒れているヨハネの上に右手を置いてこう言われました。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」そうです。イエス様は最初であり、最後であり、生きておられるお方です。イエス様は一度死なれましたが、死者の中からよみがえられ、いつまでも生きておられる方です。私たちは今、イエス様を肉眼で見ることができません。それで、主がともにおられて、真ん中におられることを忘れてしまいがちです。あまり、生活の中で神様のご臨在を意識せずに生きているのです。あたかも主が死んでしまっているかのように思って、悪い行ないをしてしまう場合があるのです。しかし、今も主は、全教会の主です。イエス様が力強く働いておられ、私たちを見ておられます。そして、「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。」と語りかけておられます。また、主は死とハデスとのかぎを持っておられます。イエス様は、十字架で死なれた後に、ハデスにいる旧約の聖徒たちを解き放ち、天にまで連れて行かれました(エペソ書4章8節)。イエス様がハデスの門を開く鍵を持っておられ、また死の門のかぎを持っておられます。終わりの時に、白い大きなさばきの御座にて、死とハデスが開かれて、死者がよみがえり、神様の前でさばきを受けます。その時、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にあります。これが第二の死です(黙示録21:8)。しかし、その時、神様の御前でへりくだってイエス様を受け入れた人々は完全な永遠の救いがある輝かしい天国に入ります。パウロが経験し、ヨハネが見てから書き記した新しい天と新しい地、パラダイスに入るようになるのです。そこでヨハネに現われたイエス様はヨハネに命じられました。
19、20節をご覧ください。「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」 イエス様はここでもイエス・キリストに関する過去、現在、未来を明らかにするように命じておられます。ヨハネイエス様の十二弟子のひとりとしてイエス様のみ姿も、イエス様のご活動も見ました。そして、新たに流刑の地パトモスでイエス様を経験しています。それが「今ある事」です。そして「この後に起こる事」未来のことは4章1節から始まります。1節を見ると「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」とあります。つまり、未来のことは黙示録4章以降に書かれているということです。

 結論的に、ヨハネに現われたイエス様は今も教会の真ん中におられます。全時代の全教会の真ん中に、主がおられるのです。そして、イエス様は再び地上に戻って来られることによって、キリストであるご自分を明らかにしてくださいます。私たちは、この方を今はぼんやり見ております。しかし、ヨハネのようにイエス様にある苦難にあずかっている者は、ヨハネのような恵みの世界を経験します。私たちがイエス様にある苦難に参加することはやさしくないでしょう。しかし、イエス様のために忍耐しながら最後まで信仰を守るなら栄光と勝利、祝福が与えられます。聖霊に満たされて素晴らしい霊的な世界を経験するようになります。聖霊の助けによって信仰を守り通すことができます。自分に一タラントしかないと思っている方でも聖霊に感動されると、大きな働きができるようになります。イエス様が命じられた世界宣教の使命を担うこともできます。私たちの上に聖霊が臨まれると力を受けるからです。それでこの地上では力ある勝利の生活ができるし、イエス様が再び来られるその時には、私たちもイエス様を完全に知ることになります。どうか、その日を待ち望みながら今週も主の働きに参加し、聖霊に満たされた生活ができるように祈ります。