2005年ヨハネの黙示録第1講  

イエス・キリストの黙示

御言葉:黙示録1:1?8
要 節:黙示録1:1「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」

 生きておられる神様が私たちに「ヨハネの黙示録」を学ぶようにしてくださり感謝します。この『ヨハネの黙示録』には色々なことが象徴で表わされ、また比喩的に書かれていますから、その解釈は非常に難しいといわれています。奥山実牧師先生は『世の終わりが来る』という本の中でこう言っています。「私は、牧師になってから黙示録を四十年来も調べて来ましたが、黙示録ほど難しい書はありません。ある箇所の解釈には、十年以上もかかったところもあります。」また、聖書講解のキングと言われる宗教改革者のカルビンも手をつけなかった書物です。ですから、私にとってはほんとうに信仰と勇気がなければチャレンジできません。
正直に言って、私は「ヨハネの黙示録の学び」が薦められた時は、戸惑い、ためらいました。私には無理なことではないかと思っていたからです。しかし、祈りながら、今こそ「ヨハネの黙示録の学び」が必要であると感じました。考えてみると、最近、世界中に起こっているさまざまな事件は私たちに終末の序曲を感じさせています。どの国も異常気象を体験しています。日本でも記録的な大雪のために死者がすでに80人を越えています。そして、生物化学兵器はアメリカが生産したものだけでも、1500回以上全人類を殺戮できる量が、ユタ州の地下貯蔵庫に隠されているそうです。旧ソ連も同じくらい生産したと見られますが、それらの一部を科学者たちが生活の糧を得るために横流ししているらしいです。つまり、テログループに流されていていつでも生物兵器を使うことができる状態になっているのです。イエス様は「この天地は滅び去る(マタイ24:35)」と言われましたが、そのとおりになる日が間近になっているのです。ですから、私たちは世の終わりを備えなければなりません。時が近づいて来たからです。では、私たちはどうすればよいのでしょうか。黙示録には「世の終わり」について詳しく啓示されています。それで、「ヨハネの黙示録」から学んでいただきたいと思います。
黙示録が書かれたのは、AD70年のあとです。「パトモス島にはAD95年に啓示を受けたと明記されている」そうです。当時、ローマ帝国は、皇帝礼拝を強要しました。クリスチャンは、絶対に皇帝礼拝はできません。そのために激しく迫害されました。ヨハネ自身も迫害のため、パトモス島に島流しされていました。80歳を超えているにもかかわらず、強制労働に強いられていました。そういう厳しい状況の中でも、ヨハネは迫害を受けている聖徒たちを慰め、励ますために、また、迫害を恐れて信仰から離れたり、異教徒と妥協としたりしないで純粋な信仰を守り通すように勧めるために、この書を書きました。
ヨハネの黙示録を通して終末に生きている私たちが慰められ、励まされて純粋な信仰を守り通すことができるように祈ります。
1章から3章まではヨハネの黙示録の序論です。本文の1章1節?8節には、ヨハネがどのようにしてイエス・キリストの黙示を見たのか、どのようにしてそれを証しするようになったのか、そしてヨハネの挨拶が記されてあります。ここで、私たちはどんな人が幸いであるか、私たちはキリストの血によってどんな者になっているのかを学ぶことができます。

?。この預言のことばを心に留める人々は幸いである(1?3)
1節をご覧ください。「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」とあります。ここで、私たちは「ヨハネの黙示録」がヨハネによる黙示ではなく、「イエス・キリストの黙示」であることが分かります。もちろん、ヨハネが書き記したという意味ではヨハネの黙示録です。しかし、正確に言うなら、「ヨハネの黙示録」は「イエス・キリストの黙示」なのです。
「黙示」という言葉は「新明解国語辞典」で調べてみると二つの意味がありました。一番目は「暗黙のうちに意志を伝えること」です。二番目目は「キリスト教で神意・真理を神が人に示すこと」です。一般的に、私たちは「黙示」という言葉を一番目の意味、つまり「暗黙のうちに意志を伝えること」として理解していると思います。それで、「ヨハネの黙示録」について言う時は「黙示文学」とか「黙示文学と表象」、あるいは「黙示文学解釈」などを言います。つまり、「黙示録は黙示文学であり、その意味が、あえて分からないように暗号のように書かれている」ということです。しかし、それは誤解していることです。黙示というのは原語のギリシャ語で、「アポカリュプシス」ですが、その意味を調べてみると「アポ」とは、あげる、あるいは、取り除くという意味で、「カリュプシス」とは、覆いという意味です。「アポカリュプシス」とは、「覆いを取り除く。」という意味になります。除幕式に参加したとか、映画やテレビを通して除幕式を見た方はよく分かると思いますが、除幕式の時に彫刻や銅像を覆っていた幕を取り除くと隠れていた彫刻や銅像の全容が、はっきりと現われ、明らかにされます。これが、「アポカリュプシス」の意味なのです。つまり、ヨハネの黙示録は、神様が隠されていたことをキリストに与え、キリストが御使いを通してヨハネに明らかにされたという書なのです。したがって、「イエス・キリストの黙示」というのは、イエス・キリストの全容が明らかにされる、イエス・キリストが現われる、という意味になります。 
イエス・キリストによってすぐに起こるはずのことをはっきりと見ることができるのです。「すぐに起こるはずの事」とは、ヨハネがこれから書き記すことです。これまで明らかにされていなかった、終わりの時が明らかにされ、何よりも、私たちが愛する主イエス・キリストの姿を、はっきりと見ることができます。ヨハネはこの黙示録を、すぐに起こりえる、差し迫ったこととして書き記しています。黙示録の終わりにも、主ご自身が、「見よ、わたしはすぐに来る。(22:12)」「しかり。わたしはすぐに来る。(22:20)」と言われています。私たちが黙示録を学ぶときに、学んでいる事柄が差し迫っていることとして学ぶことが必要です。足りない私でも黙示録の講解を始めているのは、世の終わりが差し迫っていると感じられているからです。自分に告げられた御言葉とイエス・キリストを体験し、証しする必要があります。ヨハネは激しい迫害の中でも、御使いを通して自分に告げられたすべてのことを証ししました。
2節をご覧ください。「ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。」とあります。ヨハネは若い時にキリストの弟子になって命がけでイエス・キリストを証ししてきました。彼も迫害の時代に生きていたので、パウロのように多くの苦しみを経験したはずです。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともあったでしょう(?コリント11:26、27)。それほど主のために一生懸命に働いたのです。老年になった今は楽に過ごしてもいいと思います。実際に体も弱くなっていたでしょう。しかし、ヨハネがキリストを証しすることは弱くなりませんでした。島流しにされてもイエス・キリストを証しし続けました。それだけではありません。彼は重労働を強いられている生活の中でも神様に祈り、神様との交わりを保っていたのです。もし、彼が島流しになっている自分の状況をつぶやいていたなら神様の啓示を受けることができなかったはずです。彼が心も、体も疲れていてもキリストとの交わりを保ち続けたからこそ、キリストが示されることを見ることができたし、自分が見たすべての事を証しすることができました。神様から自分に示されたことがあったからこそ、イエス・キリストの証人としての使命を果たすことができたのです。
今日、神様は私たちにもキリストの証人としての使命を与えてくださいました。使徒1:8節を見ると「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。神様は私たちを愛し、信頼してキリストの証人として立てられました。これは私たちにとって大きな祝福です。それほど信頼されているからです。ですから、私たちがキリストとの深い交わりを保つことができるなら、ヨハネのようにキリストの示しを受けることができるはずです。私たちが夜明けに起きて祈り、御言葉を黙想するなら主は朝ごとに私たちに示してくださいます。私たちもヨハネのように神様から示される御言葉を自分が体験し、それを証しすることができるように祈ります。
イエス様は私たちにも告げられると思います。「わたしがあなたの罪の代価として死んだことを信じますか。」「ハイ、信じます。」「私が死者の中からよみがえられたことを信じますか」「ハイ、私はキリストの十字架と復活によって義と認められていることを信じます。」「わたしが再臨して救いを完成させることも信じますか。」「ハイ、私は信じます」では「あなたは出て行ってイエス・キリストを証ししなさい。」と告げられるのです。私たちもヨハネのようにイエス・キリストを証ししましょう。
ここでヨハネは自分に告げられたことを紙に書きました。それがヨハネの黙示録です。私たちがキリストを証しする方法の一つは手紙や本などを書くことです。二つ目は言葉で証しすることができます。文章力がない人でも言葉で伝道ができます。私は子どもの時、文字を読めなくても一生懸命に伝道するおばあさんを見ました。三つ目は生活を通してキリストを証しすることができます。たとえば、ある夫婦がよく喧嘩していましたが、東京UBFに通い始めてからは喧嘩するどころか、毎日楽しく幸せな生活をするようになりました。いつも喧嘩する声が聞こえていた隣の家に幸せな賛美の歌声が聞こえるようになりました。すると、その家の旦那さんは奥さんに「あなたもあの教会に行ってみたら」と勧めるようになるでしょう。こうなると、あの夫婦は生活を通してキリストを証しすることになります。神様は私たちに自分の見たすべてのことを明かしする証人として生きることを命じておられます。どうか、時が良くても悪くてもしっかりとイエス・キリストを証しすることができるようにお祈りします。
3節を御一緒に読んでみましょう。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」ここで、私たちは幸いな者の生き方を学ぶことができます。
第一に、御言葉を朗読する者は幸いであると記されています。聖書を飾り物にしてイエス様を信じる者は幸いではありません。聖書を開いて読む人、朗読する者が幸いです。聖書は私たちがどのようにして神様を信じるべきか、正しい生き方を教えてくれるからです。
第二に、御言葉を聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いです。ここで「心に留める」ということは守ることです(新共同訳)。御言葉を聞くことはとても大切です。ローマ10:17を見ると「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。実際に私たちは伝道者の言葉を聞いて、教会の説教を聞いて信仰を持つようになったでしょう。そして、御言葉を聞いたり、信仰の人々の証を聞いたりしながら更なる信仰を持つようになりました。ですから、礼拝に来て御言葉を聞いている人は幸いです。時が近づいているからです。ここで書かれている「時」とは、特定の時、すなわち終わりの時のことです。御言葉を聞いている時にイエス・キリストの再臨があるなら、ほんとうに幸いなことでしょう。礼拝に来ても御言葉を聞かないで居眠りしているなら幸いではありません。もし、その時にイエス様が再臨して来られるならどうなるでしょう。居眠りをさせた私も、居眠りをしている方も恥ずかしくなるでしょう。しかし、礼拝に来て御言葉を聞いてから家に帰ると、礼拝の御言葉を覚えて守る人は幸いです。「時が近づいているから」です。
ルカ17:26、27節を見ると「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」とあります。終末の時が近づいているのにもかかわらず御言葉を聞いて守ることをせず、食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだりしているだけなら裁き主として来られるキリストが彼らを滅ぼしてしまうのです。ですから、終末の前兆が感じさせられている今こそ時が近づいていることを自覚して御言葉を朗読し、それを聞いて守る生活に励むべきです。すると、その人は今の生活においても、神様の祝福を受けるようになります。先週学んだように、その人は何をしても繁栄し、栄えます。そして、私たちがキリストの証人として御言葉とイエス・キリストを証しすることは人々を幸せにすることです。伝道は幸せの運びなのです。私たちが宣べ伝える聖書の御言葉を聞いて守るなら、その人も繁栄し、栄えるからです。どうか、聖書の御言葉を朗読し、それを聞いて守ることに励むことができるように祈ります。また、繁栄し、栄えて祝福された人生を証することによって神様の祝福を分かち合うことができるように祈ります。

?.ご自分の血によって私たちを「王国」とし、「祭司」としてくださったイエス様(4?8)
4a節をご覧ください。「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。」とあります。これは当時一般の手紙の書き方です。今ではメールの書き方だと言えるでしょう。そして、11節を見ると、七つの教会とはエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ教会です。ヨハネからこれらの教会にメールが送られたのです。でも、このメールは、ただ七つの教会に限られているのではありません。2:7節によると「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とあります。この手紙は、個々の七つの教会に宛てられた手紙でありながら、諸教会全体に対して語られたものなのです。「七つの教会」といわれるときに、これはすべての時代の、すべての教会を指していると考えることができます。この手紙を読んでいる教会の人々、すなわち私たち自身に宛てられているのです。神様から私たちに送られたメールです。去年、衆議院選挙の時、杉村議員は小泉総理大臣からのメールが届いたことに驚いたと言いました。私たちには一国の総理大臣ではなく天の神様からのメールが届いているのです。それが聖書です。ヨハネは、これを朗読することを勧めました。迷惑メールとして処分しないで丁寧に朗読し、それを守ることを勧めたのです。
4b?7節をごらんください。「常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
 ここで、「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」は、父なる神です。「七つの御霊」は、聖霊です。そして、イエス・キリストです。「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」というのは、神様が永遠に生きておられる絶対者であり、永遠に変わらないお方であることを意味しています。そして「七つの御霊」というのは、七つの教会に対して七つの御霊がおられるということで、御霊がどの教会にもあまねく働いておられることを意味するのでしょう。イエス様については、初めに、「忠実な証人」と紹介されています。イエス様のご生涯は、父なる神様に対していつも忠実であられ、神様の忠実な証人でした。イエス様は、十字架につけられる直前に、ピリポから、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。(ヨハネ14:8)」と頼まれました。イエス様は答えられました。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。』(ヨハネ14:8?9)」イエス様を見れば父なる神様を見る、というぐらい、イエス様は、父なる神様を忠実に、真実にあかしされていたのです。
 私たちは、「イエス・キリストの証人」として立たせられています。人々から「あなたを見るとキリストが思い出される」と言われるなら何と幸いなことでしょうか。もし、そのように言われているなら、その方はほんとうに忠実なキリストの証人です。キリストの証人とは、言葉においても行ないにおいてもキリストの香りを放ち、イエス・キリストを思い出させる人です。私はたまに、「あなたは仏様のようでね。」と言われます。でも、気持ちよくありません。私たちクリスチャンはイエス・キリストを思い出させるキリストの証人として生きたいでしょう。もちろん、私たちがキリストの御姿にまで変えられることはなかなか無理なことです。しかし、聖霊の助けによっては可能なことです。
 そしてイエス様は、「死者の中から最初によみがえられた方」と紹介されています。「最初に」というのは、単に順番を指しているのではありません。「すべてのものにまさって」と言う意味です。イエス様は、決して朽ちることのない姿でよみがえられました。そしていつかまた死ぬのではなく、いつまでも生きている形でよみがえられました。「わたしはいのちです。よみがえりです。」と主は言われましたが、主を信じている者、キリストのうちにいる者たちも、同じように、復活にあずかります。
 それから、イエス・キリストは、「地上の王たちの支配者」と言われています。この御言葉は当時のクリスチャンが地上の王であるネロの迫害を受けていますが、やがて絶対的主権者であられるイエス様によって迫害者たちはさばかれるということを教えてくれます。この御言葉は当時のクリスチャンだけではなく、キリスト教の歴史上、迫害を受けて殉教するすべてのクリスチャンに大きな慰めと勇気を与えたはずです。それで、ヨハネはこのイエス様から、恵みと平安が、あなたがたにあるようにと挨拶の言葉を書きました。
もう一度5b、6節をご覧ください。「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」とあります。この御言葉は福音の核心です。すべての人々は一人も例外なく罪人として地獄の刑罰を免れることができない存在でした。ところが、イエス・キリストはご自分のいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださいました。イエス様は私たちを罪から解き放つために、血を流してくださったのです。それで、私たちはキリストの血によって良心がきよめられ、罪意識から解放されます。イエス様はご自分の血によって私たちを贖ってくださることだけではなく、私たちを「王国」とし、「祭司」としてくださいました。
ここで「王国」としたということは私たちを王として立ててくださったことです。イエス様は、地上に戻ってこられてから神様の国を立てられますが、その時に私たちを共同の統治者としてくださいます。私たちは主とともに世界を治めます。私たちにはキリストとともに世界を管理するというビジョンが与えられているのです。私たちは、この世界をも支配するのです。また、私たちを「祭司」としてくださいました。「祭司」とは神様と人間の間の仲介者の役割を果たす人です。旧約を見ると、一般の民は神様に近づくことができませんでした。祭司を通して神様の御言葉を聞き、祭司を通して罪を贖っていただくことができました。ところが、イエス様はご自分の血によって私たちが直接に神様と交わる祭司にしてくださったのです。それで、ペテロはキリストの血によって贖われた聖徒たちを指して「王である祭司」だと言いました。私たちは地上の王たちを支配し、管理する王であり、すべての人々を神様に導きいれる聖なる祭司であるからです。初代教会の聖徒たちは激しい迫害のために寄留者としてホームレスのような生活をしても顔は輝いていました。王である祭司としてのプライドがあったからです。私たちも王である祭司としてはっきりした信仰を持つと、いかなる世の勢力や権力に対しても、高らかに勝ち誇ることができます。国家権力によって命が取られても、堅く立っていることができます。私たちが王である祭司として身分を忘れて心細く生きることがないように気をつけましょう。これからはキリストの血によって王である祭司としてくださった神様を賛美しながら王としてのRoyal Kingshipと、聖なる祭司の広い心、深い愛情を持って生きることができるように祈ります。
最後に7,8節を読んでみましょう。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
 キリストが「雲に乗ってこられる」のは、ダニエル書(7:13)に預言されていますし、また主ご自身も証言されました(マタイ24:30)。そして、「すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」とあります。これは、イエス様を十字架に釘つけ、剣で刺した者たちが見るだけではなく、歴史上キリスト教を迫害したすべての者たちがキリストの再臨の時、キリストを見ながら嘆くようになります。「あの時、UBF牧者と1:1をしていたら良かったのに。ああ、どうしよう。」と嘆きます。でも、もう遅いです。しかし、謙遜にイエス・キリストを受け入れ、信じた人々には、キリストの再臨の日が救いの日となります。その後、救われた人々は常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者であられる主とともに語り合いながら永遠に生きることができます。

結論的に、この世の中で迫害があっても、ヨハネのように年取っていて体の気力が弱くなっても聖書の御言葉を朗読し、聞いて守る生活に励むことができるように祈ります。また、ご自分の貴い血によって私たちを王である祭司としてくださった主の恵みを感謝し、王である祭司としてのアイデンティティを持って生きるように祈ります。