新年修養会第1講 メッセージ:朴エズラ
06東京UBF新年修養会第1講

私は主に尊ばれる者

御言葉:イザヤ49:1?7
要 節:イザヤ49:5b「私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。・・」

本文には、「私」という存在が出ます。この「私」は、メシヤ(イエスキリスト)、あるいはイスラエルとも言われていますが、一般的に本文に出ているイスラエルの代表者としてのイザヤを指すと言われています。イザヤは、南ユダのウジヤ王からヒゼキヤ王の時までおよそ60年間(BC740?680)、神様の御言葉を伝えた神様の僕です。イザヤはどのように神様に召され、どのように神様の御言葉を伝えるようになったのでしょうか。また、神様の御前で自分をどのような存在として自覚していたのでしょうか。この時間、私たち一人一人が、神様にとって尊ばれる存在としての自分を新しく再発見できるように祈ります。何よりも、暗闇の中にあるこの世に、光を照らす存在と用いられるように切に祈ります。

?。母の胎内から呼ばれたイザヤ(1-4)
1節をご覧ください。“島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。”
イザヤは、ウジヤ王が死んだ年に、高くあげられた王座に座しておられる神様を見ました(イザヤ6:1)。そして、彼は「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる神様の御声を聞き、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と決断しました(6:8)。その時、神様はイザヤに厳しい方向を与えてくださいました。それは、イザヤ6:11,12のように、「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで」神様の御言葉を伝えるようにと言われたのです。
神様の御言葉を伝える時、人々の暮らしが良くなれば、福音を伝える人としても負担が少なく済みます。しかし、福音を伝えれば伝えるほど、経済の景気が悪くなり、失業者が増えたりすると、伝道者にとっての立場も段々厳しくなります。日本は景気が悪く、生活が厳しいといっても、外国に侵略され、捕虜となる心配はありません。ところが、イザヤが神様の御言葉を伝えなければならなかった、当時のイスラエルの状況は、偶像崇拝し、神様の裁きのメッセージが伝えられる時代でした。
このような厳しい環境にもかかわらず、イザヤは、決断したとおり、神様の方向に従って一生懸命に伝えました。しかし、誰一人彼の御言葉を受け入れる人はいませんでした。目に見える実がない現実を考えると、無駄に苦労ばかりしたようにみえました。そこで、イザヤはそういった現実と自分を考えると、預言者としての資質もないのに、「私を遣わしてください。」と決断してしまい、仕方なく苦労していると思ったかもしれません。彼は、60年間神様の僕として仕えながら、そのうち3年間は裸とはだしで御言葉を伝えました(イザヤ20:2)。けれども、自分の罪を悔い改め、神様に戻り、教会に来ようとする人は殆どいませんでした。そういった現状の中でイザヤは神様の御言葉を聞きました。1節をもう一度読んでみましょう。“島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。”イザヤは自分が青年の時、神様の預言者となる決断をしたのではなく、「生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」と宣言しています。私たちは、召されに対して誤解をする時がしばしばあります。自分がイエス様を信じる決断をした時から、神様に召されたと思いがちです。その結果、事がうまく進まないとか、長年の信仰生活の中であまり実がない時、「あの宣教師に会わなかったなら、あの人と結婚しなかったなら、他の教会を選択したなら、こんな羽目に逢わなかったのに」と考える時があるかもしれません。ある人は、いくら伝道しても羊が与えられないから、また、聖書勉強は結ばれても離れてしまう羊のため、自分は大学生を弟子養成するUBF教会とは合わないと思い込み、教会を去って行く人もいます。
私自身、信仰初期の時、たまにそういった思いをしたことがありました。私が、UBF教会に来るようになったのは、大学1年生の時、同じクラスの友人に会いに来た牧者に、聖書勉強にあまり関心のない友人が、自分の代わりに私を薦めたことでUBFに来てしまったと思いました。そこで、私は信仰生活がうまく進まなかった時、「あの時、友人の代わりに、電話番号を残さなかったなら」と自分の弱い心を責める時もありました。しかし、神様は私が母の胎内にいる時から、私を日本宣教師として召されたのです。イザヤも、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる神様の御声を聞いてから決断したので預言者になったわけではありません。すでに、神様がイザヤを母の胎内にいる時から、彼を呼ばれたのです。イザヤは、この御言葉を通して、新たに神様の絶対的で不変な召されを悟ることが出来たのです。このように神様の召されとは、私たちの想像を超える、すばらしいものです。この確信は、イザヤだけではありません。エレミヤも、新約時代のパウロも同じく告白しています(エレミヤ1:5、ガラテヤ1:15)。
2節をご覧ください。“主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。”
神様は、召されを受け入れたイザヤの口を、鋭い剣のようにし、とぎすました矢として、隠して置きました。「鋭い剣と研ぎ澄ました矢を造る」ためには、強度を高めるためにたくさん叩かれるそうです。大阪大学で金属博士学位を終えて、現在も金属関係の仕事をやっているトマス宣教師によれば、鍛冶屋でものづくりをする時、二つのやり方があるそうです。鋳鉄(ちゅうてつ)は湯を流して物を造るが、鍛造(たんぞう)はハンマーで叩いて物を造るそうです。湯を流して刀を造ると、中に不純物が入って「巣(す:空間)」ができてしまいますが、鋭い剣を造るためには、鍛造をして、たくさん叩きます。その後、叩いた刀を水の中に入れると、鉄の中の元素の強度がさらに上がります。つまり、「鋭い剣、研ぎ澄ました矢」を造るためには、たくさん鍛えられるのです。日本は、世界でも様々な分野で先に立っていますが、ものづくり分野は、世界でも1位です。そのため、高いものづくり技術によって造られ、強度の高い日本の刀は、昔から有名です。
神様も同様に、イザヤを母の胎内にいる時から呼ばれましたが、すばらしい御言葉の僕にされるため、イザヤを鍛えられたのです。特に、いくら宣べ伝えても聞き入れないイスラエルの人々を考える時、いつまでも耐えられる忍耐と、鈍い人々のたましいと霊、関節と骨髄の分かれ目を、いっぱつで刺し通すほどの鋭さを持つ剣にすべきだったのです(ヘブル4:12)。
イザヤを鍛えられた神様を考える時、私たちの信仰生活も同じだと思います。私たちは神様の一方的な召されによって、現在この場におりますが、鍛えられない時は、未熟であり、人々を癒すどころか、人々を傷つけるしかない存在になりかねません。いくら良い材料だとしても鍛えられないと、あまり価値がありません。宝石も原石のままでは価値があまりありませんが、それを加工した際に、はじめてその価値が発揮されるのです。イザヤが5節で“自分が神様に尊ばれる存在となった”と告白できたのも、このように鍛えられたから可能だったと思います。エステルMが口癖のように言っているように、“訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか”(へブル12:7)という御言葉のように、神様は私たちを愛する子供だから鍛えるのです。また、神様が私たちを鍛える(懲らしめる)目的は、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして私たちを鍛え、その結果平安な義の実を結ばせるようにするためです(ヘブル12:10-11)。神様は私たちに、素晴らしい内面的な実・外面的な実を結ばせるために、人の杖と人の子のむちをもって私たちを懲らしめるかもしれません(?サムエル7:14)。あるいは、繰り返して犯す罪や欲望のために懲らしめる場合もあります。時には、いくら努力しても満足できない結果によって、時には、一人の命を生かすために要する長い間の忍耐によっておとずれるかもしれません。しかし、私たちが鍛えられる時、諦めてはいけません。また、絶望してもいけません。何故なら、刀造りには、さらに面白い事実があるからです。すなわち、良い刀を造るために用いる材料は、(日本の一番有名な製鉄会社の日鉄で造る)良い鉄では駄目で、むしろたくさん叩かれても耐えられ、自由に曲げることの出来る一番悪い材料を使って、良い刀を造るからです。仮に、私たち自身の材料が悪くて到底神様の弟子としての能力が全くないとしても、神様ご自身が、私たちを神様の尊い存在となるまで、鍛えてくださるからです。ただ私たちは、鋭い剣になるまで叩かれる時、諦めず、忍耐していればいいのです(ローマ5:4)。すると、必ず神様の時に、神様の必要とされる僕となります。使徒パウロも(ローマ5:4で)このように述べています。「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:25)。私たちには、それを信じる信仰と忍耐が必要だけなのです。この時間、その事実を心から受け入れ、信じることができるように祈ります。
3節をご覧ください。“そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。”神様は鍛えられたイザヤに、神様の栄光を現わすと約束してくださいます。つまり、神様がいつも共にしてくださると約束されたのです。神様は、鍛えられた僕に必ずご自分の栄光を表わしてくださるのです。
4A節をご覧ください。“しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。”イザヤは、一生懸命神様の御言葉を伝えました。しかし、イスラエルの人々は悔い改めず、かえって迫害するばかりでした。当時の人々はとても頑固で手に負えない人々だったので、イザヤは彼らを「かたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だ」(48:4)と、表現しています。(イスラエルの人々の額は、鈍い剣では、むしろおれてしまうほどの硬い青銅だったようです)このように我が強く、うなじがこわい民たちに、福音を伝えることはとても辛いことでした。それでイザヤは、「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。」と告白してしまいました。
世界で最も伝道が出来ない国として知られている日本に、宣教師であり牧者として呼ばれた私たちも、当時のイザヤのように、時には「むだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした」と思う時があります。私も、東京大学に12弟子が立てられるように祈って来ましたが、一人のAb候補者も立ってられていないことで「力を失い、やる気を失った」時もありました。しかし、昨年暮れ、日本のキリスト教歴史をまとめながら、根強い反キリスト教的な日本の土壌と政治社会的なシステムを考える時、1%ほどのクリスチャンが日本にいること、さらに私たちの教会の中に牧者たちと兄弟姉妹たちが立てられたことに気付かされ、神様に感謝するようになりました。
神様にものすごく鍛えられたイザヤさえも、反キリスト教的な社会、反信仰的な雰囲気では一人の弟子さえも立てることができませんでした。だから、私たちは決して諦める必要がないのです。私たちの中にすでに牧者たちが立てられており、続けて聖書勉強に来ている兄弟姉妹たちがいるからです。
4Bをご覧ください。“それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。”イザヤはこれまでの外見上の実を結べなかった現実から、神様に目を向けました。時には、私たちが一生懸命伝道し、この世の人々に仕えても実う結ぶどころか、私たちの生活は厳しく、ひいては健康を損なう時もあるかもしれません。外見上は無駄に、いたずらのように見えるかもしれませんが、神様ご自身が私たちの報酬になってくださいます。一生涯、伝道するために、全世界を走り回ったBilly Graham牧師が、パーキンソン病気と他の病気で苦しむことを見た、まわりの誰かが「一生涯、忠実に神様に仕えたのに、祝福はおろか、治らない病気を与える神様は、不公平だ」と言ったそうです。しかし、Billy Graham牧師は、彼にこのように答えたそうです。「私はそう思わない。痛み(苦痛:Suffering)は、弱い体を持っている人には誰でも来る。重要なことは、私たちがそれにどのように対応するかが大切である。怒りと苦い思いで神様から去っていくか、信頼と確信の中で神様により近づくかをよく考えるべきです」と言いました。
神様は正しい人々の訴えを聞いてくださり、その人の報酬は神様にあります。それゆえ、私たちは絶望する必要も、落胆する必要もないのです。ただ、Billy Graham牧師のように、信仰の目を開いて、神様を仰ぎ見るべきです。そうすると、神様は必ずご自分の時に、私たちを大いに祝福してくださいます。

?。わたしは主に尊ばれるもの(5-7)
5節をご覧ください。5節をご一緒に読んでみたいと思います。“今、主は仰せられる。主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。”
イザヤは、母の胎内にいる時、神様が自分を造られた目的は、イスラエルを集めるためだと告白しています。すでに神様のご計画の中で自分が造られたので、自分は神様に尊ばれる存在であり、神様が自分の力になると宣言しています。人間は時々、世間から認められない自分のゆえ、また自分が、何故生きているかという存在意味が見出せなかったりして、落ち込んだり、生きる力を失い、心を病んだりしています。マザーテレサは、人間にとって、もっとも悲しいことは、ただ物質的に貧しいことではなく、いてもいなくてもよい、人間と見なされ、みんなから見捨てられていると感じることだと言いました。
クリスチャンであっても、人と自分を比較して、神様から預かった財産を地に埋めてしまう人のように、自分の尊さに未だに気づいてない信者もいます。私たちが神様の前で、自分の存在意味を発見しないと、いくら外見上は成功して豊かになっても、魂は力がなく、喜びと平安もない、寂しい人生を過ごすしかありません。イザヤも、イスラエルの人々の前ではなく、神様の前で自分の存在意味を発見したとき、「私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。」と大胆に告白することが出来たのです。“わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ(イザヤ43:4)”。
私たちは、神様の前ではかけがえのない尊い存在です。真のクリスチャンは、自分が神様から尊ばれた存在であるという自覚が必要です。ある牧師は、各自、尊ばれる存在としての自覚のない構成員が、教会に集まると、お互いを傷つけ、共にいるのが、重荷になると言いました。この時間、東京UBF教会の一人一人が、神様の前で、尊ばれた存在として自分を再認識する時間となるように祈ります。
6節をご一緒に読んでみたいと思います。“主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」”
ここで、神様はイザヤにさらに素晴らしいビジョンを示してくださいました。それは、イスラエルをバビロン捕囚から帰らせるだけではなく、イザヤを諸国の民の光と、地の果てにまで神様の救いをもたらす者とする、ということでした。聖書についても神様についても知っている同族さえも、神様の御言葉に耳を傾けない現実なのに、“世界の人々の光となる”というビジョンは、一見とんでもない幻想のように見えます。しかし、イザヤに与えてくださったビジョンは、具体的に700年後イエスキリストと、その弟子たちによって成就されました。神様のビジョンは、自分の時代に成し遂げられないかもしれません。しかし、それを信じ切ると、必ず神様はご自分の時にビジョンを成し遂げてくださいます。私たちは、ただ諸国の民の光として光ることが大切です。太陽の光、灯台の光は、人がいても、いなくても光ります。イエス様も、イエス様の弟子たちが世の光になるべきだといわれました。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。(マタイ5:14)」
私は、このメッセージを準備しながら、昼も夜も海を照らす灯台について調べてみました。一見、船は自由気ままに好きな所を走っているように見えますが、海には浅瀬や暗礁などの危険な所があり、どこでも走れるわけではありません。そこで、必ずそれを知らせる灯台が必要です。灯台は、?今居る位置を測定するため、?航路を示すため、?危険な場所であることを示すために航路の道印の役割をします。普段あまり船が通らない海を考えると、灯台がなくても良いのではないかと思いますが、灯台が故障になって、船が破船した事故もあります。私たちの賛美歌523番は、実際にアメリカで灯台の故障で舟が破船した事故に関するメッセージを聞いて、Blissさんが作曲したメッセージだそうです。
イザヤは、60年間一生懸命神様の御言葉を伝えても、一人の弟子を立てることが出来なかったかもしれません。しかし、彼が、神様の光として、人々の暗闇を照らす灯台になったのです。私たちが日本のキャンパスを考える時、今年も、来年もあまり実がないかもしれません。もし、そうだとしても、神様の御言葉をこの日本社会に運ぶ、灯台の役割が必要になります。この時間、私たちを日本社会の光として召してくださった、神様の大いなるビジョンを仰ぎ見ることが出来るように祈ります。東京UBFの同労者一人一人が、今年一年間、いや一生涯、この世を照らす光として、自分を自覚することができるように祈ります。