2006年マタイの福音書第19講                   
あなたのみこころのように、なさってください

御言葉:マタイの福音書26:31-75
要 節:マタイの福音書26:39 「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」」

 皆さん、今年マタイの福音書の学びを始めたのがいつだったかを覚えているでしょうか。ちょうど新学年度が始まる4月でした。ところが、今日は新学年度も一学期が終わり、マタイの福音書の最後のメッセージを伝える日になりました。時の流れは速いものですね。これから秋を迎えますが、秋は実りの季節であり、祈りの季節です。私はこの秋に私と教会の皆が精神的にも、霊的にもさらに成熟し、豊かな実を結ぶことができるように祈っております。不思議にも、こんな私たちに神様はイエス様のゲツセマネでの祈りを学ぶように導いておられます。この祈りは、聖書の中に記されたどの祈りよりも成熟している祈りです。この祈りほど成熟した祈りはありません。イエス様はこの祈りを通して神様の御胸に従うようになられました。この祈りによって人類の救いの実を結ぶようになりました。
創世記を見ると、ヤコブも祈りました。彼の祈りは格闘のようでした。サムエル記を見ると、ハンナも祈りました。彼女の祈りはあたかも酔っていると思われるほどに切実な祈りでした。そしてイエス様もあのゲツセマネの園で汗を血のしずくのようにしたたらせながら祈られました。それらの祈りはいずれも真剣なものでした。ただ、ヤコブ、ハンナの祈りの中身とイエス様の祈りの中身とは本質が違っていました。イエス様はひたすら人々の救いのみわざが成就するために祈られたのに対し、ヤコブやハンナはひたすら自分の必要のために祈ったからです。もちろん、自分の必要のために祈ってもいいでしょう。神様に向かって「卵がほしい。魚をください。」と願うのは決して間違っていません。ヤコブのように「祝福してください」と祈っても、ハンナのように「子どもをください。」と祈ってもいいでしょう。私自身も祝福を求めて祝福され、子どもを求めて子どもたちが与えられました。何よりもそういう祈りを通して神様に出会い、祈りの力を体験することができました。
しかし、イエス様のゲツセマネの祈りは、自分の救いのための祈りではありませんでした。イエス様は私たち全人類を救うためにあれほどに苦しまれたのです。イエス様は、汗を血のしずくのように大地にしたたらせながら祈られました。そのイエス様の祈りは「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と言うことでした。この時間、このゲツセマネの祈りを通して本当に成熟した祈りを学ぶことができるように祈ります。

 26章の前半部を見ると、イエス様はベタニヤで、らい病人シモンの家におられました。すると、ひとりの女がたいへん高価な香油をイエス様の頭に注ぎました。それに対してイエス様は「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」と言われました。そして、イエス様は弟子たちとともに過越の食事をしました。そこで、地上での最後の晩餐会を行ない、罪を赦すために多くの人のために流される契約の血について教えてくださいました。イエス様は死なれてから埋葬される日が間近になった時、私たちの罪を赦すために、多くの人のために十字架にかかって御血を流されると言われたのです。そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行きました。その時、イエス様は弟子たちにどんなことを言われましたか。

31、32節をご覧ください。「その時、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」とあります。イエス様は旧約聖書のゼカリヤ書に書いてあることを言われました。ここで「わたし」とは父なる神様であり、「羊飼い」はイエス様です。そして散り散りになる「羊の群れ」は弟子たちのことです。彼らがイエス様のゆえにつまずくのは、すでに預言されていました。しかしペテロはどんなことを言いましたか。
33節をご覧ください。「すると、ペテロがイエス様に答えて言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」とあります。ペテロは自分がつまずくことはあり得ないと思っていました。彼は「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても・・・」と言っていますが、それを他の弟子たちはどうだったでしょうか。「ペテロ!お前だけじゃないよ。俺だってイエス様を裏切るとは考えたこともない。」と言いたかったのでしょう。彼らは自分自身の弱さをよく知りませんでした。自分の忠誠心を威張っているペテロも自分のことをよく知りませんでした。しかし、イエス様はペテロをよく知っておられました。
34節をご覧ください。イエス様はペテロに言われました。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」イエス様はペテロが三度もご自分の否認してしまうことを教えられました。すると、ペテロは「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」他の弟子達もみなそう言いました。彼らにとって「イエス様を知らない」ということは、到底考えることができなかったでしょう。本当に彼らはイエス様を愛していたし、簡単に自分の先生を見捨ててしまうような悪い人でもありませんでした。ただ、彼らは自分がどれほど弱い者であるかを知りませんでした。また、背後に働いているサタンの力がどれほど強いかも知りませんでした。それで彼らは自分の意志や自分の力に頼るだけであって神様に頼るために祈ることはしませんでした。
私たちはメッセージや所感を聞いたり、自分で聖書を読んだりしながら恵みを受けると、御言葉のとおりに行ないたい、イエス様のようになりたいと思います。私たちは夏修養会の間に多くの方が恵みを受けて新しい出発を決断した所感を聞きました。私たち自身も御言葉に従って求め続けること、心を尽くし、力を尽くして神様を愛し、人の足を洗う実践的な愛によって隣人を愛することを決断したでしょう。決して嘘つきの所感を書いたとは到底考えることができません。私たち皆は本当にそう思って新しい決断をしたと思います。私たちの決断は偽りではないのです。ただ、私たちの問題は、自分の決意を行なう力がないことです。また、私たちの背後に働いているサタンの力がどれほど強いかもよく知っていないことです。何よりも自分がどれほど弱い存在であるかを認めないことです。ですから、私たちは「このことだけは守ります。もう二度とこんなことをしません。」と決意しても、自分の決意を守り切れず、再び同じ事を繰り返してしまいます。ペテロと同じ事をしてしまうのです。しかし、ペテロや私たちとは対照的にイエス様はどうなさいましたか。
36節をご一緒に読んでみましょう。「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」イエス様は「わたしがあそこに行って祈っている間」と言っておられます。イエス様はご自分が決意された十字架の道を歩むために祈ることにしておられたのです。イエス様は今まで三度も弟子たちに予告してきた十字架のためにゲツセマネという所で祈ることになさったのです。ゲツセマネには多くのオリーブの木が茂っていたのでオリーブ山とも呼ばれていました。ここはイエス様がいつも祈っておられる場所でした(ルカ22:39)。イエス様はここで迫って来る重い十字架を目前にして神様に祈ろうとされたのです。イエス様はご自分の決意を守り通すために神様の御前で祈ろうとされました。イエス様はご自分の肉の弱さを認めて完全に神様に頼るためです。また、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている悪魔との戦いに勝つために祈ろうとされたのです。ご自分が祈ることだけではなく、弟子たちも祈りに協力してほしいと願われました。
それから、イエス様はペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれました。この三人は、イエス様が変貌山で栄光の姿に変えられた時にも一緒でした。イエス様は彼らに悲しみもだえる姿も見届けしたかったようです。また、彼らが栄光の時だけではなく、悲しみの時にも一緒にいてほしいと願われたのでしょう。イエス様は私たちが栄光の時だけではなく、悲しみのあまり死ぬほどであってもイエス様と一緒にいることを願われます。イエス様は弟子たちに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」イエス様は悲しみのあまり死ぬほどであるご自分の姿を弟子たちに見届けしようとされたことが分かります。イエス様は人類のすべての罪をひとりで背負って神様の呪いを受けるようになります。それを考えるとき、悲しみのあまり死ぬほどでした。ではそのような時、イエス様はどんな姿勢で祈られましたか。
39節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」イエス様は最初に「わが父よ」と祈られました。イエス様はただひとりで、父なる神様との交わりを求めたのです。もともと、父なる神様とイエス様は一つです。ところが、「この杯」とは、父なる神との断絶を味わうことです。イエス様がこの杯を飲むということは十字架の上で神様との断絶を味わうことなのです。それがイエス様にとって死ぬほどの悲しみでした。実際にイエス様は、大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。永遠の昔から持っていた、父とひとつになっていた、その交わりを切り離される経験をなさるのです。ですから、イエス様は、文字通り死ぬほどに悲しむ中で「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのです。しかし、イエス様は、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られています。イエス様は、父のみこころが成し遂げられることを、ご自分の願いよりも優先されました。これが私たちのあるべき祈りの姿勢であり、信仰の姿です。
私たちは自分の願いのために祈る必要があります。人生の中で何が一番もったいないでしょうか。それは祈りの深みを知らないことです。祈りの深みを知らないほどもったいないことはありません。祈りによる素晴らしい人生の変革を体験することができるはずなのに、その力を眠らせているからです。ところが、この祈りだけは学校で教えてもらっても力になりません。祈りのテキストを数多く買って読んでも、祈りの人になるとは限りません。祈りについて山ほど知識を蓄え、論文を書いたとしてもその人が祈りの人になるとは限りません。もちろん、祈りに関する本を読み、学ぶことは大切です。ただ、それだけでは祈りの深みを知ることができないということです。イエス様のように祈って見なければならないのです。まず自分の願いを求めて祈ってみる必要があります。五分でも十分でも祈ってみるのです。イエス様のようにひれ伏して祈ることもいいでしょう。イエス様はゲツセマネで祈る時、ただ一時間だけではなく、2時間も、3時間も祈られました。私たちがこのように祈ると、神様が私たちの願いをかなえてくださいます。ハンナは祈りによって子どもを得ました。寺崎アブラハム牧者も七年間祈って神様からマリヤちゃんを得ました。ヤコブは祈りの格闘をしているうちに自分が砕かれ性格が変わりました。ヤコブが神様に執拗にすがり、祈り求めた時、イスラエルという名前が与えられて本当に祝福された人生になりました。ですから、私たちは自分の願いのためにハンナのように、ヤコブのようにもひたむきに向かって祈って祈りの深みを体験する必要があるのです。しかし、その祈りにとどまらず、イエス様の祈りに成長しなければなりません。自分の願いではなく、神様の願いを受け入れることが信仰です。イエス様は、私たちに模範を残されました。自分の願うことではなく、神様のみこころがなされることを願う祈りです。これこそ私たちのあるべき祈りです。私たちは自分に必要なものを求めてもいいですが、まず第一に神の国とその義を求めて祈る必要があるのです。実は、イエス様が悲しみのあまり死ぬほどの苦しみを経験しながらも神様の御心を求めたからこそ人類の救いのみわざが成し遂げられました。私たちは自分の願いより神様の御心を求めることによってこの日本と人類の救いのみわざに用いられるようになります。ではイエス様が祈っている間に弟子たちは何をしていましたか。
40節をご覧ください。イエス様は祈り終えてから弟子達のところに戻って来られました。ところが、弟子達は眠っていました。イエス様はペテロに言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」
ある方は一時間も祈ることはたいへんだと言います。実際に一時間も祈り続けることはやさしくないでしょう。私自身もそうです。しかし、イエス様は弟子たちに「一時間でも、わたしといっしょに目を覚ましていることができなかったのか。」と叱られました。というのは弟子たる者なら一時間くらいは簡単に祈れる者にならなければならいことを教えてくれます。私たちが一時間でもイエス様と一緒に祈ることができるように祈ります。ではなぜ弟子たちは目を覚まして祈らなければなりませんか。
第一に、サタンの誘惑があるからです。41節をご覧ください。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」私たちが祈り続けるのは、誘惑に陥らないためです。2000年前も今もサタンは力強く働いています。今日もさまざまなことを通して私たちを誘惑しています。特に私たちクリスチャンが祈れないように誘惑します。「忙しいからしようがない」と思わせます。ところが「忙しい」という言葉は、「心を亡ぼす」と書きます。なぜ心を亡ぼすかというと、第一のものとそうでないものと順序を逆さまになるからです。目の前のことにすっかり心を奪われてしまい、より大切なことを忘れてしまうからなのです。反対に、そのような目先のことから目を離し、主のみこころを求めて真剣に祈りに心を注ぐなら、一番大切なものは何かが心のどこかで見えてきます。つまり祈りこそが的はずれにならない人生を送る秘訣なのです。だから私たちに「忙しい、忙しい」と思わせるのはサタンが私たちに的はずれた人生を送るように誘惑していることなのです。ですから、私たちはそういう誘惑に陥らないように祈らなければなりません。祈りこそ誘惑に陥らないで的はずれにならないように人生を送る秘訣です。
第二に、肉体が弱いからです。「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」ペテロ達は祈ろうとしましたが、どうしても祈れず眠ってしまいました。彼らは本当に体が弱かったからでしょうか。オリーブ山への山登りのために疲れていたでしょうか。もちろん、そのようなことがあったと思います。しかし、本当に祈りが身についている人はそのような時こそ祈ります。しかし、祈りの力、祈りの大切さを知らない人は丈夫な体を持っていても霊的な戦いである祈りを捧げることができません。後にペテロはこの祈りの力と大切さを学び、聖徒たちに次のように言いました。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」(?ペテロ4:7)。肉体が弱いからこそ、祈りのためには心を整えることが大切です。私たちが本当に霊的に緊張して心を整えるなら疲れを感じないで祈ることができます。本当に神様に頼らざるを得ない心になると、肉体の弱さにかかわらず祈ることができます。どうか、自分の弱さと祈りの力、祈りの大切さを知り、いつも祈り続ける者になることができるように祈ります。
42節をご覧ください。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」この祈りは最初の祈りと内容が少し違います。最初の祈りでイエス様はできるならその杯を過ぎ去らせてくださるように祈りました。しかし今度はその杯を飲むことが避けられないことであることを受け入れられました。それで「どうぞみこころのとおりをなさってください。」と祈られました。イエス様が二度目の祈りをして戻って来て、ご覧になると、弟子達はまたも眠っていました。目をあけていることが出来なかったのです。イエス様は、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じ事を繰り返して三度目の祈りをされました。一時間、二時間、三時間と祈り続けられたことが分かります。イエス様の祈りは形だけの祈りではありませんでした。真剣勝負でした。切なる祈りでした。イエス様は孤独な戦いをなさいました。
ではこのように祈りを続けられた後、イエス様の姿はどのように変わりましたか。45、46節をご覧ください。それから、イエス様は弟子達のところに来て言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエス様は、激しい祈りの格闘のすえ、勝利の確信を得られました。神様と断絶される杯を飲むことだけが神様が計画された人類の救いは実現すると確信しました。ですから、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばざるを得ない苦しみ、悲しみの十字架での死を覚悟されました。イエス様は祈りによってすでに十字架への道を邪魔するサタンに打ち勝たれたのです。もはや苦い苦しみの杯、十字架への恐れはなくなりました。ですから、「見なさい。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。」と言っておられます。イエス様は祈りによって確信と力を得られたことが分かります。本当に祈りには力があります。ですから私たちも真実に、真剣に祈ると、霊的な戦いで勝利することができます。私は夏修養会の時、今までなかった霊的な戦いを感じました。それで、修養会の間にも、メッセンジャーたちと一緒にひれ伏して協力の祈りをしました。三日目の夜は支部長たちの集まりが終わると夜明けの2時になっていましたが、その後も、ひとりの姉妹のためにひざまずいて何度も協力の祈りをささげました。このように祈ると、神様は私たちに勝利を与えてくださいました。あの姉妹は修養会の後、毎週1:1聖書勉強するようになったという知らせもいただきました。神様は祈る人の味方です。祈る人は、どんな十字架の前でも確信を持って立ち向かうことができます。私たちが祈りによって霊的な戦いで勝利し、自分の十字架を負うことができるように祈ります。何よりも祈りによって神様のみこころに従うことができるように祈ります。

結論的に、イエス様は押し迫って来る苦しみと試練を前にして祈るためにゲツセマネに行かれました。そして、神様の御前でひれ伏して切実に祈られました。 『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』イエス様はこの祈りによって激しい葛藤と悲しみを乗り越え、積極的に十字架を負って行かれる力を得られました。ゲツセマネでの祈りによって神様のみこころに従われたのです。私たちも自分の願いだけではなく、イエス様のように祈ることによって神様のみこころに従い、神様に喜ばれる人生を送ることができるように祈ります。