2006年マタイの福音書第9講             

自分にしてもらいたいことは、
ほかの人にもそのようにしなさい

御言葉:マタイの福音書7:1?12
要 節:マタイの福音書7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法で
あり預言者です。」

 先週、私たちは「まず、神の国とその義とを求めなさい」という御言葉を学びました。ところが、私はモンゴル宣教師が書いた本を通して再び御言葉の恵みを深く受けました。李ヨンギュ宣教師が書いた本ですが、彼は本の中で牛の代わりに礼拝を選んだひとりの少女の話を紹介しています。2005年春、李宣教師は礼拝をささげていましたが、ボロルという姉妹が汗に塗られたまま教会に入ってきました。彼女は礼拝の何時間かの前にいなくなってしまった牛を探すために走り回っていました。ところが、まだ見つからなかったのに礼拝の時間が近づいていることが分かりました。すると、彼女は牛を探すことをあきらめました。私も子どもの時、牛を飼っている父を手伝っていましたが、牛一頭は大きな財産です。それなのに彼女は、神様に礼拝をささげるために牛を捨て置いて野原を走ってきたのです。そこで、李宣教師は神様に祈りました。彼女が牛よりも神様への礼拝を選んだその信仰の決断が恥ずかしいものにならないようにしてくださるように、そのために牛を見つけることができるように祈りました。神様がどんな方であり、何を願っておられるかをはっきりと知っていたからです。つまり、神の国とその義とをまず第一に求める者には、それに加えて必要なものも満たしてくださる方であることを知っていたからです。それで、李宣教師は人が自分の力に頼っていてできなければ自分の失敗になりますが、神様に頼っていたのに失敗するなら神様の名誉を辱めることになると宣布して一緒に祈ったのです。すると、礼拝が終わるやいなや外から牛の鳴き声が聞こえました。失われた牛が家ではなく、まず礼拝の場所に来たのです。結局、牛ではなく、まず礼拝を選んだ少女は神様と礼拝の喜びも、牛も得ることができたのです。まず、第一に神の国とその義とを求めるというのは、こういうことではないでしょうか。自分の生活の中で実践するのです。神様は素朴な少女の単純な信仰を祝福してくださいました。ところが、私たちの中には牛の代わりに礼拝を選ぶ信仰を持っているでしょうか。・・・。
 今日の御言葉の要節はゴールデン・ルールと呼ばわれています。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」これは山上垂訓の全体の総括的・結論的まとめですが、聖書全体の基本精神、中心思想を教えてくれます。どうか、本文の御言葉を通してクリスチャンとしての対人関係を学び、キリストの義、福音精神を学ぶことができるように祈ります。

?.さばいてはいけません(1?6)
 1節をご一緒に読んでみましょう。「さばいてはいけません。さばかれないためです。人は人をよくさばくと思います。人の言葉や行動が自分に被害を与えなくてもさばきます。自分に理解できないことでもさばきます。ところが、イエス様は「さばいてはいけません。」と言われました。さばいてはいけないのはさばかれないためです。実は人をさばくと、自分がさばかれています。人をさばく人を見ると、実は自分自身が傷つけられています。どんなに正しいことを言っても人をさばく人は、人をさばくその瞬間、自分の心が傷つけられます。たとえば、心の中で「あの人はほんとうに高慢な人間だ。隣にすわりたくもない。」とさばいていると、さばかれている人は何も分かりません。しかし、そのようにさばいている人の心は複雑です。すでに傷つけられているのです。さばかれている人は自分が相手を無視したことすら気にしていないのに、人をさばいているその人が心苦しく思い、さばきの被害を受けているのです。さばきを神様に委ねているなら、気楽に生きられるのに、自分が裁いているから苦しんでいます。そして、人をさばく状態が続くと悪魔がその人に働きかけるので、憤り、憎しみまでも抱くようになります。人を非難中傷し、罪に定めるさばきは憤り、怒り、憎しみの霊をもたらすのです。ではなぜ人間は人をさばくのでしょうか。それは、ほとんどと言ってよいほど、自分というものさしをもって見るからです。すなわち、自分という基準によって他人の善悪を判断するのです。これは一個人に留まりません。日本人はこうであるのに、中国人はあのようであるので困る。韓国人はあのようであるのだが、日本人はこうであるので困る。」というようなことを言います。自分の基準によって一国の国民の善悪までも判断するのです。それは私たち人間が善悪の知識の木から実を取って食べてしまったアダムとエバの子孫として生きている証拠です。人間が善悪の知識の木から実を取って食べた理由は神様の基準ではなく、自分の基準で生きようとする欲求のためでした。つまり、善悪の木から実を取って食べた行動は神様が善悪を判断する主体ではなく、サタンに騙されて自分が善悪を判断する主体として生きようとしたことなのです。人間の不幸はそこから始まっています。
今も自分というものさしを持ってさばく人はアダムの不幸から解放されていないからです。まだ救われていないアダムの子孫たちはさばきによる被害を自分が受けて心苦しい生活を続けるしかありません。救われたクリスチャンでも人をさばいているなら、その瞬間からサタンの働きに協力してしまう結果をもたらします。それだけではありません。私たちは私たちがさばくとおりに、私たちもさばかれ、私たちが量るとおりに、私たちも量られることも覚えていなければなりません。人をさばいているその時に、自分がさばかれ、人を量るとおりに、自分も量られているのです。
 ですから、私たちは絶対に人をさばいてはいけません。自分がさばかれないためです。私は宣教師として活動しながら人をさばく罪を犯してしまうときがよくありました。恥ずかしいことですが、日本宣教のために一緒に働いている宣教同労者さえも裁いていました。日本宣教に対する自分なりのものさしを持って人々をさばいていたのです。そうすると、私がさばいている彼らよりも私の心が苦しくなっていました。心の中でさばいているから彼らから何も言われなくても自分自身が憤りと憎しみの奴隷になっていたのです。しかし、神様の恵みによって日本宣教は、宣教師や牧者の頑張りによってできるのではなく、神様の働きによってできるということを悟った時、すべてを神様に委ねるようになりました。その後、私の心は楽になり、自由になりました。今も、人をさばいたことで悔い改める時がしばしばありますが、善悪の判断は神様にあることを深く悟ってからは心に傷つけられるようなことはありません。私たちは自分の基準で人をさばくことをやめて善悪の判断、さばきを神様に委ねると、本当に平安に生きることができます。では、さばきを神様に委ねてから私たち自身が励むことは何でしょうか。
 3?5節をご覧ください。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」とあります。私たちは人をさばき、人の目の中のちりを取り除こうとします。しかし、ほとんどの場合、自分が重大な問題をかかえています。もちろん、人の目の中のちりを取り除いてあげることは良いことでしょう。しかし、自分の目の中の梁には気づかずに、人のものばかり見ていてはいけないのです。それより自分の目の中のちりを取り除くために励むべきです。ところが、ほとんどの人は他人には厳しく、自分には甘いものです。そこでイエス様は言われました。「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」まず、私たちは自分に厳しくならなければなりません。私たちは人をさばく前に、まず、自分の梁を取り除かなければならないのです。つまり、自分を吟味し、悔い改める生活をしなければなりません。パウロは「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれる事はありません。(1コリント11:312)」と言いました。ですから、人に対する善し悪しは神様に委ね、まず自分自身に対する正しい評価のために自分を顧みる生活に励むのです。所感を書くことはそのために有益になるものです。私は所感を通して自分の目の中にあるちりを発見する時が数多くあります。
人を助けようとする人は自分に対して厳しくしなければなりません。自分はのんびりしていて子どもだけに優等生になれというなら子どもがどう思うでしょうか。兄弟姉妹たちに教える牧者や宣教師も同じです。自分は人をさばいていながら、兄弟姉妹たちに向かって「人をさばいてはいけません。」と教えてもその言葉には力と権威がないでしょう。ですから、私たちはまず自分の目から梁を取り除かなければならないのです。それから、霊的な分別力を持って人を助ける必要があります。
6節を読んでみましょう。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」ここで、私たちは人をさばいてはいけませんが、聖なるものに対する正しい判断、正しい価値観を持っていなければならないことを学ぶことができます。つまり、正しい霊的な分別力を持つことが求められているのです。
聖なるものとは神様の言葉、福音です。福音は、父なる神様の大きな犠牲がかかったものです。貴いイエス・キリストの命が注がれた永遠的価値のあるものです。真珠のように貴重なものです。この大切な福音を軽々しく扱ってはなりません。イエス様は、「聖なるもの」を犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。」と言われました。「犬」「豚」と呼ばれている人々は福音に対して、キリストの信仰に対して教会に対して攻撃的な人です。福音の価値を認めようとしない人、認める気などない人のことです。当時では、パリサイ人や律法学者たちなどが犬や豚に当たります。イエス様は彼らを兄弟ではなく、「犬」「豚」と呼んでおられます。確かにこの言い方は犬・豚・畜生と言われている人々にとっては失礼な言い方です。今日では実際にペット業者や養豚業者が怒るような言い方であるかも知れません。確かに、当時の人々にとっても失礼な言い方でした。犬や豚は嫌われている動物であったからです。ですから、福音に対して敵対的な人々は、犬・豚・畜生と言われたことが分かったらものすごく怒ったに違いありません。それでも、イエス様は福音の価値を認めようとしない者たちを犬や豚にたとえられました。そして彼らに聖なるものを与えてはないと言われました。ですから、聖なるものを、そういう人たちに与えてはなりません。福音を馬鹿にする人がいますが、そういう人に聖なるもの、最も大切な福音を与える価値がないのです。クリスチャンは人をさばいてはいけませんが、福音に対して攻撃的な人々を見分けて大切な福音が侮辱されるようなことがないようにしなければなりません。もしそうしなければ、聖なるものが犬や豚のような人たちによって冒涜され、踏みにじられるでしょう。ですから、私たちは非難中傷・断罪・不確かな根拠での攻撃などを意味するさばきをしてはいけませんが正しく評価し、分析する霊的な分別力を持たなければなりません。ではどうやってこのような分別力、正しい知恵を持つことができるでしょうか。

?.求めなさい。そうすれば与えられます(7?12)
 7,8節をご一緒に読んでみましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」ここで、イエス様は積極的に祈るべきであることを教えておられます。ところが、この御言葉の原理はこの世の世活にも適用されます。この世はすべてこの原理によって動き、また立っています。熱心に求め、骨身を惜しまずに仕事に励む者は、その報いを与えられます。
本文の御言葉をパウロチームで学ぶ時、宣教師たちは「愛ちゃん」と呼ばれている卓球の福原愛さん、ボクシングの家族として有名な亀田三兄弟のことを話しました。彼らがクリスチャンであるかどうかは分かりませんが、幼いときから目標を目指して根気よく、忍耐を持って励んでいる生活態度は素晴らしいと思います。
「卓球の天才少女」と呼ばれている愛ちゃんの物語はまだ3歳九ヶ月の時に始まりました。その時、母の千代さんは三つの約束をさせました。一つ目、厳しい練習をする。二つ目毎日練習をする。三つ目『やめたい』と言ったら、即刻やめる。ということです。そして、愛ちゃんはあきらめることなくそれを守りました。ちょうど甘え盛りだった子どもにとっては厳しかったと思いますが、彼女は高熱があっても座薬で熱を下げてラケットを握ったそうです。やがて愛は十歳でプロ選手となり、十五歳で五輪への段階を駆け上がって行きました。そして、母は成長した娘にまぶしく輝く光を見ています。
おもろいわ?、亀田三兄弟。「関西が送り込んだ最終兵器」と呼ばれていますが、何から何までもおもしろい兄弟です。ちなみに亀田三兄弟とは長男亀田興毅(こうき)、次男大毅(だいき)、そして三男和毅(ともき)で三人ともボクサーです。長男興毅は17歳にプロデビューしましたが、1ラウンド44秒でのKO勝利でした。その後、次男大毅は兄の44秒を上回って見せると試合前から自信満々でした。そして彼のプロデビューは1ラウンド23秒でKO勝ちでした。この三兄弟の一日を調べてみると、朝6時半から始まっています。5kmのランニング、100mダッシュを10本、砂の上でのトレーニングなどの2時間練習してから家に帰ると母がいないために4歳の妹を保育園に送り、家事全般も3人が分担して忙しい父をアシストします。そして午後4時父が仕事から帰ってくると自宅内で再びトレーニングしているそうです。彼らは世界チャンピオンという名のゴールに辿り着くまで彼らは全力で走り続けています。このように熱心に骨身を惜しまずに励む者は、その報いを与えられるのです。
人々をさばき、ただ自分の権利のみを主張している人は、祝福されません。自分の義務を果たすことより人をさばき、人の陰口ばかり言っているような人が祝福されないのが当然です。信仰においてもこの原理は全く変わりません。祈りもせず、聖書も読まず、学ぶこともしないで信仰の成長を望めるでしょうか。私たちクリスチャンは世の人々に負けないほどに根気よく、忍耐を持って祈ることから積極的に求め、捜し、たたくことをしなければなりません。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と言われました。ここで繰り返されている言葉は「そうすれば」です。「そうすれば与えられます。そうすれば、見つかります。そうすれば開かれます。」そうしなければ何もないということもできるでしょう。求めないのに与えられるはずがありません。捜す努力もしないのに偶然に見つかることもできません。たたくこともしないのにドアが開かれることもないでしょう。もちろん自動ドアは触らなくても開かれますが、それも人が近づかなければ開かれません。最低ドアに近づくほどの努力をしなければなりません。私は宣教師修養会の時、多くの宣教師たちが求め続けること、捜し続けること、たたき続けることによって本当に偉大な体験していることを知りました。羊を求めること、羊の心が開かれることのためにも祈り続けることはもちろんのこと、ビザを求めること、就職のために会社を捜すことも、ビジネスのために社長や消費者の心をたたくことも粘り強くやっていました。そして彼らは求め、捜し、たたくことによって本当に素晴らしい神様の恵みを体験していました。本当に現実の状況を見ながらためらい、あきらめている時は何もできません。しかし、全能の神様に頼って祈り求め、信仰によって捜してチャレンジする人たちは自分の想像を超えた神様の祝福を経験することができます。私たちがつねに神様に偉大なことを期待して求め続けましょう。また、捜し続け、たたき続けましょう。そうすれば私たちが霊的な分別力を持つことはもちろん、霊的な面においても、生活においても豊かに与えてくださる神様を体験することができます。イエス様は「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」と約束してくださいました。
 9?11節をご覧ください。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」とあります。「パパ。パンをください。」という子どもに、「この石を食べなさい。」という父はいないでしょう。「ママ!魚をください。」という子どもに「蛇を与える母もいないでしょう」。皆さんが知っているとおりに、この間、私は韓国に行ってきたのですが、海辺に住んでいる両親は、冷凍室に保管していたウナギとワカメをくださいました。山間地方に住んでいる義理の母は新鮮な野菜をくださいました。外国からこういう生ものを持ってくるのは法律違反です。でも、何とかして自分たちができる限りを尽くして子どもに上げようとしている親の心のために私は全部持って来ました。このように、この世の父と母でも子どもには良い物を与えようとするのです。とすれば、なおのこと、天におられる私たちの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょうか。天の父なる神様が私たちを養ってくださいます。何よりも山上の垂訓で教えられたことを守り行なうことができるように助けてくださいます。私たちの本性は人を愛することより自分のものさしで人をさばくことしかできませんが、神様に祈り求め続けると、人を愛する心も、人を助ける知恵も与えてくださいます。特に本文の御言葉で良い物とは聖霊を指しています。ルカの福音書における同じ記述には、こう書かれています。「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。(11:13)」神様は私たち人間を救うためにご自分のひとり子イエス・キリストを与えてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪と咎を担い、十字架にかかって死なれました。イエス様は私たちを救うためにご自分のいのちまでもお与えになったのです。そして、イエス様は死者の中からよみがえられましたが、天に昇られる前にこう言われました。「聖霊があなたがたに臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)」神様は助け主である聖霊が私たちに臨まれると約束してくださいました。そして、私たちに聖霊が臨まれると私たちは力を受けて力強く生きることができます。イエス様のような働きができに、イエス様のように生きることもできるようになります。積極的に求めることも、自分の意志や決断ではなく、聖霊によってできます。聖霊によって怠ける生活、肉の欲望、快楽を捨てて真理を求め、最も積極的に、肯定的に、生産的に生きることができます。ですから、パウロは、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。(ガラテヤ5:16)」と言いました。ですから、私たちはつねに聖霊を求める必要があります。起きると、聖霊様!おはようございます。寝る前は聖霊様!今日の一日の導きをありがとうございますと告白できるほど聖霊とともに歩むのです。
ところが、みなさんは、天の父に聖霊を与えてくださるように求めたことがあるでしょうか。もしなかったら、今から求めてください。神様は必ず聖霊を与えてくださいます。私たちが求め続けると、聖霊充満の生活ができるようにしてくださいます。そして、私たちは父なる神様の愛、死者の中からよみがえられたキリストの力、聖霊の助けによって生きることができます。

結論的に12節をご一緒に読んでみましょう。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」この御言葉は今まで勉強してきた山上垂訓の結論であるといえます。イエス様は、律法全体と預言者が、神様を愛し、自分のように隣人を愛する律法にかかっていると説明されました。「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」というのは、他人を愛することの別の言い方です。パウロも、「愛は、隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:10)」と言いました。「愛する」ということは「自分にしてもらいたいことを、ほかの人にもそのようにする」ことです。人々から認められたい方はいないでしょうか。人々を認めてください。小さなことも決してさばかれたくないと思っている方はいないでしょう。決して人をさばくことがないようにしてください。奥さんから、あるいは旦那さんからやってもらいことがありますか。今日家に帰ったら自分の方からそれをやってあげてください。それが律法であり、預言者です。